22話:しあわせの紅茶




 ここに面倒な男が一人いる。



 本音を言えば、適当なところで諦めて貰えればいい、と思っていた。

 塚原ヒフミはそういう青年である。

 導由峻しるべ・ゆしゅんの好きなようにさせる、という意味では譲歩する気だったとはいえ、

 少女の恋情に応えるだとか、距離を詰めるだとか、そういうデリケートな部分に関しては、これっぽっちも乗り気ではない。

 ゆえに。



――天狗の面をつけて樹上に待機していた。



 控えめに言って狂人の行いだが、それにはこんな理由があった。

 導由峻しるべ・ゆしゅんが待ち合わせ場所に着く五分前、通信で交わされた会話である。


「百年の恋も冷めるでしょう、これなら」

『トラウマものだろ。なんで無駄に相手を挑発してるんだ……』

「思いやりですよ」

『今から核戦争に備えておく』


 補佐官の高辻馳馬が、思わず天を仰いだのは言うまでもない。

 事実上の指揮官であり、このオペレーションの責任者であるヒフミの判断は尊重される。

 しかし、いくら何でも非常識だという指摘があったのは、UHMAの名誉のため明言しなければなるまい。



 そして現在。



 結局、彼はこのふざけた仮装を早々にやめた。

 少女の熱意に根負けした、とも言えるし、始めからこうするつもりだった、とも言える。

 真面目に由峻の事情を尋ねるつもりなら、そもそも取るべきでない言動なのだが――とどのつまり青年は、この期に及んで照れていたのかもしれない。

 たとえその感情が、必要とあらば初恋の人の心臓をえぐり出す覚悟と表裏一体のものだったとしても。

 冷たい使命と背中合わせの好意なら、人にあらざる超人の心にもあった。


 さくさくと柔らかな雪を踏みしめ、少女の方へ歩み寄った。


 呼気と共に、懐のケースから丸眼鏡を取り出す。いつもなら伊達だが、今回は拡張現実オーグメンテッド・リアリティ用の網膜投影デバイスだった。

 おびただしい量の情報が飛び交う昨今、サイボーグ化はおろか、軽いインプラントも出来ない超常種にはありがたい品だ。

 眼鏡越しに、この事件の当事者を見据える。


 あまりに韜晦したヒフミの物言いに、やや不機嫌そうに眉根を潜めた少女がいた。

 いつもは帽子で隠されていた、三日月型の山羊角――曲線を描く大きな二本角に、彼女が亜人であることを強く意識させられた。

 鴉の濡れ羽色の長髪から、ふわりと香る甘い体臭はまるで天女の薫香くんこうだ。

 超常種として鍛え上げた身体能力と、訓練で会得した観察技術による自然体――いつもと気色の違う装いに、ヒフミの心は乱れる。


 特に、足がいけなかった。

 ショートパンツとロングブーツの間、黒いストッキング越しに視神経へ飛び込む、引き締まった太股の肉感。

 すらりと伸びた美脚をさりげなく眺めつつ、ただ、何の邪念もなくこう思った。



――女の子は足だな。



 富士山の山頂から眺める初日の出の風情。

 塚原ヒフミは特殊な超常種であり、変異脳の代償として昆虫並みの周期でしか性欲を感じない男である。

 ストイックな生き方に見えるが、内面において女の子に興味がないわけではない。


 可愛いと思ったりはするのだが、それが肉欲と結びつかない人種なのである。

 畢竟ひっきょう、本人に自覚はないが駄目なむっつりだった。

 思わず軽口の一つも叩こうというものだ。


しるべさん、今日は一段と可愛いですね。ええ、その、かなり素敵だと思います」


 果たしてヒフミの内心を見抜いたのかどうか。

 導由峻しるべ・ゆしゅんは、いつもよりも緩んだ微笑を浮かべ、彼と目を合わせた。

 何もかも見透かすような、琥珀色の双眸にどきりとした。

 積もったばかりの新雪にも劣らぬ白皙はくせきの上、切れ長の目と赤い唇に感じたのは色香。

 塚原ヒフミが忘れかけている、生臭い情動へ通ずる欲だったが――そんな青年の揺らぎさえもお見通しの眼差し。


「言及するのが遅すぎます。減点ものです」


 そう言いつつ、どこか嬉しそうに口の端を緩める由峻。

 一歩、二歩、三歩。ロングブーツで危なげなく雪を踏みしめ、彼女の体温が近寄ってくる。

 少女のあどけない振る舞い。たったそれだけのことに、理由のない安らぎを感じた。

 そして自分のとんでもない思い違いに気付いた。

 今の今まで、自惚れるなと思考の中心に据えなかった可能性。



――導由峻しるべ・ゆしゅんの言う『お茶会』とは、塚原ヒフミのために開かれるものなのではないか。



 そう思うと、まるで一〇代の少年みたいに気恥ずかしくなりもする。

 改めて由峻の装いを見たときの印象だって、変わって当然だ。

 中性的なトレンチコートのアウターと、その内側でしなやかな肢体を感じさせるブラウス、脚線美を強調するボトムス。

 はっきり言えばヒフミの好みだった。

 的確な分析だな、と感心しそうなぐらいである。


「今日の導さんはいつもにも増して、綺麗ですよ。これ、お世辞じゃありませんから」

「……急に、押しが強くなりましたね」


 少し、絵を逸らしながらそう答える少女の仕草に、どきりとした。

 いつもの焦り――主に強大な武力に対するそれ――とは異なる、正体不明の感情が生まれようとしていた。

 少年時代、おのれの手で人を殺めるまで、彼が大切にしていたものと同じ揺らぎ。

 こんな当たり前の感覚を、自分はまだ残していたらしい。


 もし自惚れでなければ。


 彼女を突飛な行動に走らせた理由が、少し、わかる気がした。

 導由峻しるべ・ゆしゅんは誇り高く、責任感が強すぎる人物だが、無意味に暴走するほど周りが見えていない娘ではなかった。

 静かに燃える、青い炎のような情熱家が憤っているのは、ヒフミの守る世界の仕組みだ。



 ここは決して万人の理想世界ユートピアではない。



 だが、神話主義者や超人災害のような例外に出会わない限り、この社会は幸せに満ちている。

 前世紀に吹き荒れた殺戮の後、再建された異種ありきの文明圏は、その実、ただの人間を幸福に生かし続けるための箱庭である。

 超常種による汚染のきっかけが、極度のストレスや肉体の衰弱による急激な覚醒だからだ。

 これに対抗すべく、あらゆる意味で豊かな暮らしを供与する枠組みが作られた。

 大多数の人々は、満ち足りた営為の中で不平不満と危機感を鈍麻させられていく。

 強い野心を持たなければ、当たり前のように人並み――おそらく人類史全体を俯瞰すれば高水準――の暮らしを送れるのだ。


 その平和と安穏が、塚原ヒフミは好きだった。

 たとえ自分がその恩恵を受ける側ではなく、負債を処理する側だとしても、身近な人々の営みを守れるだけでよかった。

 どんな痛みも苦しみも悲しみも、内分泌系の最適化によってすぐに割り切れる。

 そういう超常種サイキックだったから、今日まで歩き続けることが出来た。先の見えない閉塞感を抱えていても、あの狂気の風景から逃れた人がいるだけで安堵できた。

 自分自身の『幸福のかたち』がないことなど、どうでもよかった。


 きっとアクサナがそれを知ったら、本気で怒っただろう。

 懸命に自分の幸せを掴もうと足掻いている子供にとって、その姿勢自体が侮辱と映るからだ。




 互いを手を繋ぎはしなかったが、ヒフミはいつもより歩調を抑えて歩いた。

 由峻はそんな彼の心遣いを知ってか、肩と肩がふれあいそうな距離にまで横幅を詰めてくる。

 端から見れば、年若い恋人同士にしか見えないぐらいには距離が近い。そして、現実にそうなっていないのはヒフミの言動のせいだ。

 お昼時が近いためだろう。

 似たような若者たちが、連れだって歩く姿が見受けられた。


 単純にスタイルのいい異性や、見目麗しい男女などこの世界では珍しくもない。

 第一世代亜人種の長老、イオナ=イノウエが人類に解放した亜人利権――結晶細胞を応用した遺伝子レベルでの美形化、抗老化処置アンチエイジング――の恩恵だ。

 二二世紀以前に生まれた世代、三五歳以上の年齢層には敬遠されているが、それ以下の年齢層にとっては常識に等しい異種起源テクノロジーである。

 今時の亜人種なら、生まれつき持っているような身体機能。

 ホモ・サピエンスにも利用できる道具として、それらを人間社会に還元したのがヒフミの恩人だった。


 とうの昔に、かつて塚原ヒフミが憧れた人間だけの世界などなくなっている。

 彼は同胞殺しの超常種であり、大切な人は賢角人けんかくじん――異種族の最たるものだった。

 何もかもズレているような気がしてならなかった。

 けれど、大切に思う気持ちが揺らぐわけではなくて。



「わたし以外のことを考えていますね」



 気付くと、目の前に琥珀色の瞳があった。

 不覚だった。物思いにふけっているのがバレたらしい。顔をのぞき込まれていた――吐息の湿り気がわかる程度には近い。

 夢見る宝石のような輝きには、何もかも見透かす魔法がかけられているみたいで、思わず表情が崩れてしまう。


しるべさん、顔が近い。近すぎます」


 二人の身長差は一〇センチもないから、由峻がその気になればいくらでも距離が詰められる。

 我ながら青臭い反応だな、と思う。

 その原因を突き詰めると、根深い苦悩がある気もした。

 だが、そんなものはヒフミの勝手な悩みであり、少女が考慮すべき事象ではない。


「こうすると、塚原さんでも動揺するのですね。いいことを知りました」

「勘弁してください」

「わかりました。ですが、塚原さんのように気もそぞろな方には、わたしがエスコートしないと駄目ですね」


それはそれは楽しそうに、白皙はくせき悪戯いたずらっぽい微笑みが浮かぶ。


「何か、怖いこと考えてません?」

「人を無闇に驚かした悪い人には、罰が必要だと思います」


 そう言って、彼女はくるりと前を向いた。しかしちょうど足場が悪く、姿勢を崩す由峻。

 おそらくロングブーツ自体、履き慣れていないものなのだろう。

 幸い、すぐに少女はバランスを立て直した――ヒフミが手を貸す暇もないほどに。


 ゆえに塚原ヒフミは見た。


 トレンチコートの裾がめくれて、ショートパンツの曲線があらわになる瞬間を。

 デニム生地越しにもわかる、丸みを帯びた臀部でんぶへ目が引き寄せられる。

 女性らしさを感じさせる豊かな尻付き、安産型(実際のところ俗説に過ぎない慣用句である)の骨盤の広がり。

 それでいて形のいい、大きなお尻だった。


「――あぁ」


 このとき、ヒフミの胸中をよぎったのは哀切であり、郷愁の念であった。

 いやらしい気持ちになるよりも先に、流れた月日のことを想う。


 桜吹雪の舞う季節、二人は、この石垣で出会った。

 もう、あれから一〇年以上経ったのである。

 幼い女の子が、妙齢の美しい娘となるための時間。

 あどけない少年が、その手を血で汚すには十分すぎた時間。

 冷え冷えとした実感を得て、いけないなと嘆息する。


「……流石に、はしたないです」


 気付くと、由峻がこちらを振り返っていた。

 やや呆れを孕んだ琥珀色、じっとりと据わった目でヒフミを睨んでいる。


「本当に、申し訳ありません。でも、僕に釈明の時間をください」

「人のお尻を見て溜息をつくことに関して?」


 塚原ヒフミは誠実な男なので、正直に答えることにした。


「身勝手な意見なのを承知で言うけれど。僕の胸にあるのは、淫らな欲望ではなく詩人的ポエットな感情です」


 無言ですねを蹴られるまで、二秒も要らなかった。

 ロングブーツの素材が特殊らしく、いやに重い一撃だった。









 自分が信じて貰えなくてもよかった。



 導由峻しるべ・ゆしゅんは理想家だが、こと自己の生存戦略についてはシビアな人物である。

 ヒフミの疑念――由峻の行為がもたらす被害――についても、決して否定できない面はある。

 それでも伝えねばならない物語が多すぎた。

 ホモ・サピエンスだけの世界が終わる中で、その悲鳴と絶望を聞き続ける彼に、もっと知って貰いたいことがあった。


 きっと、この世界は救いようがない痛みを抱えながら、それ以上のよろこびだって抱えているのだと、信じて貰いたかった。

 だから塚原ヒフミをお茶会に誘った。

 好意以外の打算がありながらも、主体となった理由は混じりっ気なしの感情だった。



 結局のところ彼女は、傍観者でいることに耐えられなかったのだ。



 そんな切実な感情を、素直にさらけ出せたなら、ヒフミからの印象もだいぶ違うのだろう。

 しかし由峻は誇り高い女であった。


 清楚に見えて強引、そしてプライドも相応にある類の人種である。

 弱みを他人に見せて、駆け引きの武器にするのが大嫌いなのだ。

 つまるところ、こういう局面ではとことんボロが出る。


 ヒフミを先導しながら歩くこと五分、ようやく目当ての店へ辿り着く。

 北日本居住区で評判のいいカフェ――軽食も充実している――であった。

 清潔感のある内装と、ほどよく落ち着く照明。BGMとして、名前も忘れられた二〇世紀の音楽家の曲がかけられていた。


 軽い昼食を取った後、本題に入る腹づもりである。

 北日本居住区に引っ越してから、この店に来るのは初めてのことだった。

 行きつけの店などの場合、事前に調べての待ち伏せが容易になる。

 正体不明の敵に命を狙われながら、好きな相手を誘ってデートをするとは、つまりこういうことである。


――ぶっつけ本番で初めての店に案内する。


 もちろん由峻は賢角人なので、ハイヴネットワークを使って徹底的なリサーチを行っている。

 この店を行きつけにしている他者の経験ログと同期、自身にフィードバック。

 まるで通い慣れた店であるかのような振る舞いを可能としていた。

 すべて由峻の意地である。

 賢角人なら誰にでも出来る行為だったが、彼女ほど念入りにシミュレーションを重ねる例は珍しかった。

 どこか、世間ズレしている。


 それが少女に対する友人一同からの評価だった。


「いい店ですね」

「でしょう? ――わたしも初めてです」

「君って結構、面白い性格してますよね」


 この男にだけは言われたくない台詞だったが、席に座りもしないうちにやり返すのはみっともないので堪えた。

 店員に案内され、一番奥から三番目の席へ。

 窓から見て直線上にない、遮蔽物しゃへいぶつ)と壁に囲まれたテーブルに変えてもらった。

 ここならヒフミも納得するだろう。


 柔らかいソファーにお尻が沈み込んだとき、先ほどのヒフミの目線――敬虔な仏教徒が大仏を拝むような遠い目――を思い出した。

 そんなに目立つのでしょうか、と自分の躰がいやになる。

 もう少し、お尻が小さければいいのに、と密かに嘆息。

 衣装選びも楽ではないし、その方がすっきりした着こなしが出来る。

 そんな乙女の悩みを知ってか知らずか――半分ぐらい察していそうなのが腹立たしい――ヒフミが口を開いた。


「こういう店、好きなんですか?」

「そうですね――実は食べ歩きが好きなのです。甘味も、お茶も、軽食も」

「奇遇ですね。僕も食べ歩きには目がないんですよ」


 ぴくり、と食い気が働く。


「塚原さんが、ですか。意外です」

「無趣味だと思ってましたか、ははっ。僕のは麺料理が中心ですけど、美味しい店ならたくさん知ってます」

「なら今度、塚原さんが案内してくださいますか」


 可愛い女の子と一緒なら大歓迎です、とヒフミ。

 こちらから距離を詰めると逃げ腰の割りに、こういうときは胡散臭いぐらい軽薄に見えるから不思議だった。

 あのポーカーフェイスの笑みと同じで、本心を隠すための言葉なのだろうか、と邪推する。

 しかし彼の行為を信じたい割合の方が大きかった。


 二人の間には、青年自らが作り上げた断絶があった。


 そうまでして虚偽を身につけねば、生きられない道を歩んできた男。

 どうしてこの人を好きになったのだろう、と思う。


 由峻自身が単純なのか、それほどまでに過去の結びつきが強かったのか。

 自分でも整理し切れていない熱情が怖くなった。


 導由峻しるべ・ゆしゅんには、塚原ヒフミを信じることは出来る。

 だが、彼のすべてを理解することは出来ない。


 おそらく、ヒフミは違うのだろう。

 組織人として、由峻の過去などいくらでも調べられる。

 だが、彼女自身の感じた無力感や孤独感を、彼が感じ取れるわけではないように。


――この人がどんな痛みを背負ってきたのか、わたしは知らない。


 不思議と、煮え切らない態度ばかりのヒフミに苛立ちは感じなかった。

 二人が共有しているのは、お互いが出会い、別れるまでの記憶だけだ。

 導由峻しるべ・ゆしゅんにとって、自己犠牲を厭わなかった少年の姿は、あまりにも痛々しかった。

 教え込まれた理想からこぼれ落ちた異種の存在と、その輝きが焼き付いていた。


 ならば、塚原ヒフミにとって自分はどんな存在なのだろう、と思う。

 導由峻しるべ・ゆしゅんはまだ一〇代の乙女である。

 誤解やすれ違いを抱えたまま、楽しく逢瀬おうせを重ねられるほど太い神経を持ってはいない。

 我ながら繊細すぎますね、と嘆息したいぐらいに。

 そんな少女の心情を察したのか、ヒフミが話題を切り替えた。


「さ、何を頼みますか? 僕はコーヒーでも紅茶でも構わない質ですが」

「わたしなら、断然、紅茶をお勧めしますね。このお店の評判を調べた限り、それが最善だと確信しています」


 このような会話自体、人類連合の支配地域ならではのものである。

 全盛期の文明崩壊〈ダウンフォール〉以降、海上交通路シーレーンの破綻によって多くの輸入品の供給が途絶えてきた。

 茶葉やコーヒー豆のような、生存に必須ではない嗜好品は、真っ先に市場から姿を消した品である。

 世界各地に飛来した〈異形体〉と、それに伴い吹き荒れた殺戮の嵐が、産地を無人化させたからだ。

 人類連合による文明再建から七〇年あまりが経過しても、元通りになったわけではない。


「このお店の茶葉は、太平洋エリアの生産プラントで製造されたようですね――お好みの銘柄を選んでは如何でしょう」


 農作物は、土地や自然環境の影響を顕著に受け、その風味や味わいを大きく変える。

 太平洋エリアの人工島では、多種多様な産地を模した嗜好品が生産されており、品質、種類、供給量すべてにおいて満足がいくものが供給されていた。

 そう、質も量も種類も豊富なのである。

 〈異形体〉による人類支配のありように懐疑的とはいえ、由峻はこの種の飲料に目がなかった。

 軟禁時代、自由になった趣味の一つだったからである。



「なるほど、じゃあストレートで」



 そんなことも知らず、塚原ヒフミは無造作に銘柄を選ぶ。

 何の躊躇いもなく電子ペーパーのメニューをタッチ。

 悪くないチョイスだった。

 ストレートで飲んでもいいし、やや濃いめに抽出してミルクティーで飲んでもいい銘柄だ。

 しかしお茶の道は魔界である。

 青年はそういう世間の闇を知らなかったので、迂闊うかつな行動を取ってしまった。

 導由峻しるべ・ゆしゅん、このとき変なスイッチが入る。


「――その茶葉はミルクティーでいただくのが一番なのでは?」

「えっ、ストレートじゃ駄目なんですか、これ」


 二度目の迂闊な発言に、微笑みをたたえたまま口の端をつり上げる。少女の端整な顔立ちに、獰猛どうもうな気配が浮かんだ。

 古今東西、面倒な話題の一つ――飲料を巡る議論である。


「乳脂肪のもたらすまろやかさは、決してストレートティーでは出ないコクと深みをお茶に与えてくれます。試しに、わたしの選んだお茶を飲んでいただけますか」

「構わないけれど……さっきと言ってることが違うような」


 ヒフミの指摘をあえて無視し、店員に注文。もちろんミルクティーを二人分。

 賢角人の倫理励起基準――自己の感情と価値観への良心的抑制を喚起――が、いくら何でも極端すぎる言動だと警告を発する。

 だが、世界には貫かねばならない真理があり、ミルクティーはその一つだった。


 やや困惑しているヒフミに、運ばれてきたお茶を飲むよう促す。

 少女の目はかつてなく真剣だった。



「……これは!」



 目を見開き、感嘆の声を上げるヒフミ。

 その姿に頬をほころばせ、由峻は静かにティーカップに口をつけた。

 繊細でありながら、鼻孔をしっかりと撫で上げるエレガントな香り。

 至福のひとときだった。

 デートだのヒフミに対する苦悩だのをすっぱり忘れて、導由峻しるべ・ゆしゅんは幸せそうに微笑んだ。


「悪くないものでしょう?」


 お茶はいつだって、人を幸せにすると本気で信じていた。

 山羊角にまで、紅茶のにおいが染みつきそうなぐらい、ゆったりと時を過ごした。

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