3章:怒れる蛇はかく語りき
21話:すべて天狗が悪い
「雪、ですか」
待ち合わせの場所で、
呼気に含まれる水分が、冷えた外気に晒されて白く色づいている。
すっかり肌寒さが目立つ季節、ホワイトクリスマスを目前にした気温としては妥当なところだろう。
ちらちらと雪を降らせる雲の下。
前を開けたトレンチコートから覗く、白いブラウスの胸元が何度か浅く上下した。
一方、白い雪を踏みしめるロングブーツの上には、デニム生地のショートパンツから伸びた長い足。
黒のストッキングがしなやかに引き締まった太股へ張り付き、柔らかな脚線美を際だたせている。
決して豊満な肢体の持ち主ではないものの、女性らしい曲線を描く少女の躰を浮かび上がらせるような装いであった。
こうしていると、由峻がUHMAにマークされている人物だと思う人物はいないだろう。
待ち合わせ場所が城跡というのは、いささか奇妙だが、どこにでもいる亜人の若者のように見えるはずだ。
ヒフミとの待ち合わせ場所に指定したのは、ずっと昔、二人が出会った史跡だ。
真っ白な雪化粧のせいか、石垣の印象はすっかり違っている。UHMAによる封鎖のせいか、人影は由峻以外に見あたらない。
事実上の貸し切りというわけだが――損失分の補填は行わねばなるまい、と心に誓う。
こんな無茶をしているのに、妙なところで責任感が強い自分の思考がおかしかった。
由峻は気分転換に、賢角人のハイヴ・ネットワークにアクセス。
そのうちこの近辺で公開されている視覚情報へ没入――ここから見えない街角の景色を観察する。
クリスマスを控え、浮き足だったメインストリート。
同じ種族同士のグループもいれば、異種族が混合した集団もいた。仲むつまじいカップルも見かける。
見た目ではわからないが、超常種もいるかもしれない。
その程度にこの都市の営みは多種多様で、互いの棲み分けが出来ている。
この街、あるいは人類連合が理想とする幸福のかたち。
しばらくその形を眺めた後、自分の目で頭上を仰いだ。
鈍色の雲と、その合間から顔を覗かせる青空のコントラストが鮮やかだった。
だがそこにあるのは、目に見えない天蓋なのである。
〈空ヶ島〉――全部で七つの人工島からなる超高層プラント群。
高々度に作られた施設群は、同時に、人から大きく逸脱した超人たちの領土だ。
北日本居住区が事実上、亜人種によって管理された文明圏であることの象徴である。
その隔たりすぎた距離に対し、由峻は溜息を吐いた。
あの空中島が意味するのは、人類への不信だった。
その歪さを補うかのように、水晶の世界樹がこの楽園を守護している。
かの〈異形体〉の能力は、亜人の目から見ても常軌を逸していた。まず人の営みが守られていること自体、あり得ないことなのだ。
実際には、長辺一〇〇キロの空中島が覆い被さり、日光は遮られ、雪が積もるはずもない不毛の地。
それが北日本居住区の本来の姿である。
その風景が現実のものとなっていない理由こそ、〈異形体〉の能力なのだ。
時空間への究極的征服行為――環境改変能力という奇跡の上に、辛うじて成り立った営為だ。
その有り様を痛ましいと見るべきなのか、賞賛すべきなのか、まだ二十歳にも達していない少女には答えが出せない。
いや、五年、一〇年、五〇年と月日を重ねられたとしても、断言できるものかどうか。
そんな思考をつらつらと重ねつつ、由峻はおのれの角を撫でた。
一種の事件である。
彼女がその角――種族の平均と比して長大な山羊角――を晒すのは、今まであまりなかったことだ。
白く滑らかな角表面を、つうっと人差し指でなぞる。側頭部から映えた綺麗な三日月型が、後頭部へ向けて伸びていた。
その手触りは研磨された宝石のそれに近く、カルシウムや硬化した皮膚に由来する動物の角とは大きく異なる。
高純度構造体の結晶細胞だけで構築された長い角。
地球外知性体の体細胞に最も近く、魔法の杖と呼ぶに相応しいそれを、衆目に晒すのは恥ずかしい。
おそらく由峻の育った環境が特殊で、普通の第二世代亜人種はそんな感じ方はしないのだけれど。
少女はその羞恥を、おのれのパーソナリティとして受け入れようと努力していた。
いつもより〇・三度高い体温を考えると、とても平常心を保っているとは言い難い――ままなりませんね、と溜息。
反比例するように異形から遠い、とも。
ギリシャ神話の怪物サテュロスか、牧神パーンかという第一世代の長老達はいざ知らず、人口の大半を占める第二世代は、そのほとんどが目見麗しい人型種族だった。
ホモ・サピエンスとの外見上の相違点と言えば、頭部から生えた角ぐらいのものである。
他の亜人種は違う。
たとえば肉食哺乳類めいた
しかしその程度の差異が何だというのだろう。
たとえ知能や身体機能を強化された亜人種であろうと、自分自身の強い望みは捨てられない。
由峻は思う。
もし自分が使命だけに殉じる人間だったなら、決してこんな不合理な行動は取るまい、と。
いささか気まぐれに、倫理励起基準――第二世代亜人種固有の種族的良心と呼ぶべきもの――にアクセスし、自分自身を客観的に評価する。
診断の結果は、わかりやすすぎるものだった。
塚原ヒフミの前でだけ、少女はおのれの中に息づく感情と欲望の優先度を上げている。
ふっと間の抜けた吐息をもらす。
肌を撫で上げる寒風に対し、代謝が上がって熱の通った頬が心地よい。
生理機能の制御をかけていないせいか、少し、掌が汗ばんでいた。外気はこんなにも冷えているのに、由峻の心臓はとくんとくんと脈打っている。
どうしようもなく、少女は恋という事件の只中にいた。
――そして、そんなことはどうでもいいと言わんばかりに不条理はやってくる。
「んっ」
山羊角を地面へ向けるように、小首を傾げた。
ここから見て、右斜め前方、頭上五メートルほどの街路樹の上に熱光学迷彩の痕跡。目視はもちろん、熱探知にも引っかからない代物だ。
だが由峻にとって、この程度の偽装を見破るのは容易い。
彼女の頭骨から隆起し、脳組織と直結した二本角が、微妙な大気の揺らぎを感知。見た目上、何もないはずの空間に風を遮る人間大の物体を捕捉していた。
感覚器と通信デバイスの増設、あらゆる情報の入出力と処理能力の強化――それが彼女の属する種族の特徴だった。
個体ごとの純粋な知的能力の水準そのものを引き上げ、コミュニティ単位で連結し共有、集合知を行使する存在。
尤もその道義的、社会的正しさとは別問題だが。
閑話休題。
「そこにいるのはわかっています。降りてきなさい」
静かに呼びかけると、樹上から何者かが飛び降りてきた。
ほとんど音がしない見事な着地と同時に、熱光学迷彩が解除された。
瞬間、少女は絶句した。
さしもの由峻も予想できない物体だった。
天狗(ハイヴネット引用:日本の民間信仰に登場する超自然的存在。妖怪、堕落した僧侶、山の神などの解釈がある。遭難事故、山彦、失踪者などの災難を天狗の仕業とする俗説も)がいたと思っていただきたい。
朱塗りの天狗面をつけた不審者がいたのである。どこかで見た覚えのあるメーカーの背広を着ている。
ちょうど一月前に、大事な人と再会したときに目にしたようなスーツだ。
腰に通されたベルトに、振動刀のような形状の筒が差し込まれていたり、一〇ミリ自動拳銃のホルスターがあったりするのも気のせいではない。
繰り返そう。
重要な話し合いの場である。
もちろん少女は明らかにルールを逸脱した振る舞いをしたし、自分でもちょっと脅迫めいた演出にしすぎたと反省もした。
だが、それは天狗と因果関係が
意味がわからなかった。
しかもその正体に心当たりがありすぎる。
ひどい現実に現実逃避をしそうになったが、彼女は優れた
「――これが本当の天狗の隠れ蓑(ハイヴネット引用:天狗に関連する逸話。西暦二一三四年現在、熱光学迷彩技術に対するスラングとしても機能する)ですね。おはようございます」
そう、聞き覚えがありすぎる声だった。
このとき
「……
「待った、僕は正気です」
少女は論理的思考を是とする若い亜人種なので、不可解な返答が北日本居住区における公用語だと理解した。
約二マイクロ秒の間、由峻の思考回路を通り過ぎた推察、考察、分析、感情処理、センシング情報との照合は多岐にわたるが、要約すると次の一言で事足りる。
じゃあその仮面外せよ、と。
「それと天狗の仮面の因果関係を、私にもわかるように説明していただけますか?」
「心労で表情筋の制御が危ういので、局の備品を拝借することで君との会話に備えているわけです。二〇世紀まで関西地方(ハイヴネット引用:二一世紀の日本内戦における分裂状態解消後の表記。日本政府の公式見解に基づく)において行われたという企業戦士の土着文化を引用しました」
「息をするように虚構の文化史を作らないでください」
ハイヴ・ネットワークを参照した結果、件の妄言に出所はイオナ=イノウエだと判明した。
少女の後見人であり、この男の師匠筋に当たる人物である。
陰謀と駆け引きが三度の飯よりも好きな長老だが、まさか
さしあたって由峻は、脳内の倫理励起基準にアクセス、イオナに対するセーフティレベルを二段階降格した。
つまり今までより、あの老人に対する良心の咎が減った。
そんな由峻の心情もつゆ知らず、男は肩をすくめた。スーツ姿の天狗が、やれやれと言わんばかりの仕草。
頭痛がしてきた。
「何はともあれ、いきなり灼熱地獄に変わる北日本居住区はなかった。それだけで感無量です」
「わたしは歩く核爆弾ではありませんよ」
冗談めかした物言いに付き合ったが、彼は愛想笑いさえしなかった。
何故か、遠い目をしている青年の顔が目蓋の裏に浮かぶ。
「僕は今の台詞がジョークで住む世界に生まれたかった。それだけなんです」
「……あなたは人のことをなんだと思っているのですか」
「秘密の仕事中にホラー映画みたいな演出で話かけてくる愉快な女の子です、事実誤認はしない主義ですよ」
「ずいぶん、根に持つのですね」
「あれを流せるほど僕は大人じゃない」
青年のとぼけた反応に、内心、由峻は舌を巻いた。天狗の仮装一つでこの場の主導権を握られている。
このやりとりが意図的なのか、それとも天然なのか――後者の可能性を排除しきれないのが彼の厄介なところである――断定は出来ないものの、結果としてペースを崩されているのは少女の側だった。
由峻が彼に抱いている個人的な感情を抜きにしても、やりづらい相手だった。
「その愉快な仮装でわたしを誤魔化そうという魂胆なのですか。塚原さん」
「さあ、どうでしょうね?」
ひどく冷たい声音だった。
「僕は超人災害対策官、塚原ヒフミです。UHMA《ユーマ》超人災害対策部から、あなたの行動意図とその妥当性を評価、適切な対処を行うため派遣されています」
目に見えない線引きが、くっきりと示されていた。
賢角人の角は知覚器官であり、純度の高い結晶細胞の塊でもある。
ヒフミが行っている無線通信は、すぐにわかった。暗号化処理が厄介だが、ある程度、その目的は察せられる。
おそらく背広の下に何らかの通信装置を身につけているのだろう。
無人機や支援AIのデータリンクの起点だ。
警戒レベルこそ低いが、UHMA超人災害対策部が本腰を入れている証。
塚原ヒフミは、由峻を超人災害としてを扱っているのだ。
対策官としての名乗りは、彼なりの意思表示と言ったところか。
「話をしよう、導由峻――君の目的はなんですか? その過程で用いられる手段は、超人として、この社会を脅かしうるものですか」
「節度はわかっているつもりです。その上で、UHMAではなく、塚原ヒフミ対策官にお話があります」
「……現状、君の脅威度はそれどころじゃない段階です。だから今までのようにはなれないかもしれない」
彼の言葉はどこまでも、二人の生きる世界の断絶を表している。
ぎゅっと拳を握りしめ、思わず目線を落とした。
「僕が守るのは、この街に住んでいる人たちの当たり前です。水も電気も食糧も不足せず、我が子が超人災害になる恐怖もなく、今日と変わらない明日がやってくる世界です。導由峻、君の目的と能力がなんであれ――その障害となるならば、排除するのが僕の仕事だ」
「今日と変わらない明日とは、あのマンションの住人のように、どこかで人が消えていく安寧なのですか。わたしは……人を傷つけるためここに立っているのではありません」
「君がどういうつもりなのかも大事です。だけど、それだけで何もかも信じるわけにはいかない」
それでも由峻は、ヒフミを信じられると確信していた。
本当に自分を抹殺するつもりなら、目と鼻の先で会話すること自体がナンセンスだからだ。
おのれの身体機能のセーフティを任意解除できる今なら、軽く見積もって第一世代亜人種――戦闘に特化した最初期の亜人――程度の武力行使は出来る。
塚原ヒフミの肉体強度は、あくまで人間の
由峻が殺意を持って相対すれば、
にもかかわらず、彼は目を合わせて話すためここに来た。
「それでも、わたしと顔を合わせてくれるのですね」
「話もせずに断定するほど、薄情じゃないつもりです」
思わず口元がほころんだ。結局のところ、塚原ヒフミは優しすぎるのだ。
こんなにも、由峻の力を脅威と断じていながら、話を聞いて妥協させようとしている。
それはすべて、自分の身を案じるがゆえの行いなのだと理解出来た。
これは彼の精一杯の誠意であり、同時に、これ以上譲ることは出来ないという明確な警告でもあった。
ああ、と胸中で溜息。
自分がただ庇護を受けいればいいだけの人間なら、きっと、彼の優しさに甘えるべきなのだろうと思う。
けれど、それでは何も解決しないと知っていた。
彼の声に応えようと目線をあげた。
そこにいたのは、やはり、
――天狗だ。
改めてひどい状況だった。
間違いなく深刻な話題であり、お互いの譲れない一線の話だというのに、塚原ヒフミは天狗のマスクをつけている。
しかもその件に明確な理由が見つからない。
ハイヴネットワークのライブラリを何万通り参照しようと、伝統工芸品の天狗の面に意味などない。
どういうことなのですか、と困惑しながらも、由峻は精一杯の正気を振り絞った。
「あなたの敵になるつもりも、邪魔をするつもりもありません。ですが、わたしの流儀を認めていただくために、わたしはここに立っています」
何故、天狗のマスクなのだろうか。
せめてもっと不気味な仮面や、目や耳を保護する実用的な防具を着けてくれればいいのだが。
殺伐とした雰囲気の割りに、ヒフミが天狗の面をつけているせいで緊張感が不足している。
絶対に笑ってはいけないのに、笑わせに来ている切ない状況だった。
何より、さしもの賢角人も次の展開までは読めなかった。
「これだけ言っても、まだ事情を明かしてはくれませんか……強情ですね、君は」
その一言を合図に、ヒフミはあっさりと天狗の仮面を取ってみせる。
あまりのことに、由峻は絶句した。
ここまで狂っている状況なら、今日一日、天狗と一緒に街を歩くぐらいの覚悟を決めていたからだ。
かくしてトラウマ級の思い出は回避された。
「降参です。君のお茶会に付き合いますよ」
今までの茶番は彼なりの準備期間だったとでも言うのか。
如何にも最初からこうするつもりだったような口ぶりだが。
そもそも何故、ヒフミが天狗の仮面をつけて木の上にいたのかは定かではない。
おそらく、からかわれていたのだ――そう気付いたとき、由峻は形容しがたい感情に襲われた。
約〇・一秒後、
一言でいうと、
だが、少女が仕掛けるよりも早く、ヒフミの追撃がやってきた。
彼はポーカーフェイス同然の胡散臭い笑みを貼り付けて、
「――ところでこれ、ひょっとしてデートだったりします?」
今さら過ぎる物言いだった。
仮にそうだったとして、どうして天狗の仮面をつけて深刻な話題で問い詰めてきたのだろう、この男は。
塚原ヒフミは、彼女が想定しているよりずっといい性格の持ち主だった。
不思議と気負いが消えているのは、間違いなく彼のおかげなのだが
さしもの
「何故でしょうか。今この瞬間、あなたにそう言われると腹立たしい気持ちになりますね」
こういうとき、怒るに怒れない自分は人がよすぎるのではないだろうか、と自省する。
惚れた弱みというのは、きっと、この世で一番厄介な弱点だった。
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