2章エピローグ:無明
どこにでもある田舎町で、少年は人並みの恋をした。
ドラマチックな出会いも、劇的なきっかけもなかった。
ただ少年はほんの少し変わっていて、少しだけ他人よりも目を引いた。
どこにでもいるような少女は、少しだけ
相手は、ただの人間の女の子。
絶世の美人というわけではなかったが、はにかむような笑顔が可愛い娘だった。
年上だからという理由で、よく彼を連れ回しては笑わせようとするような、茶目っ気のある少女だ。
それだけのことが積み重なって、二人は、やや早熟な恋をした。
初めて、異性として手を繋いだ相手だった。
初めて、キスをした相手だった。
そして二人は恋する少年少女で、いろいろなものが目覚める時期の子供だった。
そういうわけで行為はエスカレートし、共に過ごす時間が長くなる中、とうとうやってしまった。
当然のことながら。
愛を交わしたとき、少年も少女も、お互いに『初めて』だった。
それから間もなく少女は超人災害の核となり、自らの故郷をこの世の地獄に変えた。
住人の大半は人の形を失い、次々と隣人を汚染していった。
繰り返される拡大に人の尊厳などなかった。
ゆえに、少年は決断した。
少女だったものを『支配』するのに、派手な道具は要らなかった。
少年が生まれつきもっていた力、他人の躰を操る異能は元人間にも有効だったからだ。
司令塔だった少女の変異脳を掌握し、下部構造に指令を出したのである。
――殺し合い、皆滅ぶがいい、と。
不死の肉塊たちは、自己を成り立たせるエネルギーと質量のすべてを暴走させられた。
他者を汚染する機能は残らず破壊され、夢見心地で溶け合ったあらゆる自我は砕け散り、失った機能を補い合おうと一つの塊に収束していった。
ただ生命を維持するだけの無害な肉に変えてやった。
核を破壊した瞬間、その意味するところを思い出した。
最初、そいつは熱を失って冷えていく死骸だった。
辛うじて、生前の面影のある骸。
しかし少年が変異脳を完全に自壊させた瞬間、跡形もなく溶け崩れてしまった。
盛り上がった粘土のような彫像が、とろとろと液化して崩れ落ちる。
皮膚も筋肉も粘膜も内臓も骨格も、何一つ区別できない翡翠色の液体。
それが、少年の殺めた少女の末路だった。
なのに、髪の毛が一本抜けた程度の喪失感しかなかった。
どの面を下げて、おのれが人間らしく生きられると思ったのか。
少年は乾いた笑いをもらし、泣きはらして真っ赤になった目で周囲を見回した。
田舎町には不釣り合いな高層建築が、雲にかかる梯子のようにどこまでも伸びている。
その頂上に、少年と彼が殺した生き物の亡骸が横たわっていた。
あたり一面に広がった、エメラルドグリーンのぶよぶよした粘土細工。
今もなお、生きている血肉がゲル状に凝った群体生物。
かつて、少年が住んでいた街の人々だったもの。
天高く伸びる塔は、外界から受ける重力や風圧をものともしなかった。
それどころか正常な物理法則を侵しながら、自信の影響圏にいた人肉を取り込み続けた。
脳や内臓が変質し、虹色の光を放って溶け崩れた隣人の姿が目に焼き付いている。
ここは、人の血肉と生命と尊厳を足蹴にして打ち立てられたバベルの塔だ。
それが超人災害と呼ばれる現象なのだ、と少年は知っている。
知識では、二〇三五年に東京を滅ぼした災厄なのだと理解していた。
けれど自分がその当事者になって、暴走を止める羽目になるとは思わなかった。
「ごめん……ぼくは」
続けるべき言葉が見つからなかった。
人の躰を操る異能〈結線〉――その応用によって、ようやく彼は涙を流せていた。
悲しみを司る脳の部位を刺激し、必死に彼女のために泣いている。
到底、あり得ない能力を持った怪物は、その全能力を駆使して人間らしく振る舞おうと足掻いていた。
泣き疲れて顔を上げたとき、遠方に、場違いな異物を目にした。
最初、少年はそれを飛行船だと思った。
それほどまでに場違いで、使い道のわからない構造物が空を浮かんでいる。
街の中心付近、少年から見て三キロ先で球体は停止。
地面へ向けて足のようなものを下ろし始めた。
球体下部から伸びた三本の足は、その長さに比べれば頼りない印象を与えているものの、本体の大きさを考えれば恐ろしく太いはずである。
直径だけで数十メートルはあろうかという球体が、長い足に支えられて接地。
三キロ先からでも視認できる巨体は、安っぽい玩具のような見た目だった。
それはかつて、人類から空を奪った殺戮機械の一つ。
この星の外からやってきた、水晶の躰を持った巨人たちの召使い。
ウェルズ型無人機と呼ばれる
焼却処理。
とっくの昔に停止したとも知らずに、この肉塊どもを焼き尽くしにやってきたのだろう。
状況を把握するため、少年はまだ生きている犠牲者の視界を乗っ取った。
道ばたに倒れ伏している肉塊の目線だ。
見上げるような形で、近づいてくる人影へ焦点を合わせる。
それは、人にあらざる機械仕掛けの人形だった。
人工筋肉と蓄電フレームで構築された人型機械は、日本軍の
人間そのものを主軸としない異世界に染まった軍勢、銃器を手にしたブリキの兵隊どもだ。
超人災害によって人間が立ち入れなくなった街を、機械の
ふと、おかしな現実に気付く。
少年は自分の冷静すぎる状況分析に笑いたくなった。
今まで知りもしなかったミリタリー知識が、すいすい出てくるではないか。
すべて、〈結線〉で繋がった誰かの知識だった。
この数万人が結合した肉塊の中で、夢見るように解けてしまった人間たちの一部を、引きずり出している。
自覚した途端、
思い出す。
人が人ではない偉大な何かへと変わり果て、よろこびの声を上げる瞬間を。
思い出す。
その絶え間ない歓喜の大合唱が、断末魔の連なりに変わっていったことを。
「う゛あ゛」
ぎしぎしと胸が軋んだ。
自分が奪ってしまった命の数を自覚した。
目の前の恋人のみならず、自分は、この街の住人の大半を破壊してしまったのだ。
よろこびが恐怖に変わっていった。
歓声が断末魔に変わっていった。
少年の行為の結果だった。
だが、罪悪感が胸を苛みはしない。
蕩けるような高揚感が、ぬっと顔を突き出してくる。
先ほどまで人間らしく泣こうとしていたのが、馬鹿らしくなるほどの
ばらばらに砕けてしまいそうな精神が、ひどく大きなものに
内なる声のささやきが、何の未練もないだろうと諭してくれた。
この力を自分のために使ってしまえ、と。
――お前を愛したものすべて、お前を疎むものすべて、お前を知らぬものすべて。
この躰の外側すべてを支配してしまえ。
本能と呼ぶには言語化されすぎた衝動は、命令に似ていた。
その誘惑に耐え切れた理由は、意志の強さなどではない。
ちりちりとひりつく脳神経が、無造作に大切な記憶を引っ張り出したおかげだ。
春の桜が咲く季節。
こけむした石垣に囲まれて、大きな角の生えた少女が、別れ際に浮かべた表情。
美しさゆえに、散ってしまいそうな微笑み。
どんなに彼が罪深く、恥知らずで、痛みに満ちていようと――あの眩しい笑顔だけは覚えていた。
ひび割れた紛い物の人間性に、あふれ出しそうな全能感を押し込める。
情けないあえぎ声を漏らして、ぜぇぜぇと息を吸い込む。
自分は今、何になろうとしていたのだろう。
先ほどまで意識を占有していた高揚は、潮が引くように消え失せていた。
こんなとき思い出したのが、名前も知らない亜人の少女だったのが滑稽だった。
ついさっき、おのれの手で殺めた少女との日々では足りないというのか――そう自分を責めてみたものの、理由をすぐに悟る。
少年が自己を保つうえで、恋人だった娘は、あまりにも多くの人を犠牲にしすぎていたからだ。
あの子のせいではないとわかっていた。
望まずして災害の源に変わり、意識を失ってしまったことも知っていた。
だが少年の中で、彼女の存在が
好ましかったはずの思い出も、この冒涜と狂気の風景に組み込まれてしまった。
気付けば。
あんなにも愛おしかったはずなのに、何もかも、色あせた過去に過ぎなくなっていた。
それが自分の異能の働き、人の躰を操る力の作用なのだと理解する。
もう無理に泣く必要はなかった。
別れから一〇分も経っていないのに、もう、割り切ろうと努力する段階に達している。
その無痛が辛かった。
◆
いつから、それが少年を見守っていたのかは定かではない。
ただ、男は静かにその有り様を見つめていた。
哀れみも慈しみも持ち合わせていながら、冷徹な打算の同居する視線だった。
「はじめまして、超常種の少年よ」
こつり、とあえて足音を鳴らす。
他者の存在に気付き、少年は機敏にこちらを振り返った。
警戒の目だ。
その緊張もどこ吹く風、と言わんばかりに白い体毛を揺らし、獣頭人身の亜人が一歩前に進み出る。
「君のしたことは危機管理という意味では間違っていない。あの現象が拡大していれば、我々は北関東全域を焼き払う必要に迫られていたことだろう……君は辛いだろうが、それでも私はこう言うべきなのだろうな」
芝居がかった言い回しには微塵も悪意がなかったものの、挑発の意図は明確であった。
あえて間を取った語り口に、よく通る低い声。
少年が眉根を潜め、こちらの言葉の意味を飲み込んだ頃合いを見計らって、その一言を口にした。
「――ありがとう」
その一言が、少年に人間らしさを取り繕うことを思い出させた。
想起されたのは、怒りの感情。
獣のように素早く身を起こし、喉笛を噛み千切らんばかりの形相で殴りかかってきた。
とはいえ、何の訓練もしていない子供にしては、と但し書きがつく程度の速さである。
人智を越えた第一世代亜人種の前では、文字通りに
あっという間に足を払われ、少年はみっともなくエメラルドグリーンの肉塊の上に倒れる。
「いかんね、未熟な暴力は怪我の元だ」
ふむ、と頷き一つ。
距離が近くなったのをいいことに、全身の感覚器を総動員し、少年の分析を開始。
結晶細胞の同期によってもたらされる
まず、眼下の少年は世界の敵と言っていい怪物だった。
特殊な変異脳による無差別同調能力――人肉はおろか結晶細胞の疑似生体、電脳化したデータ人格でさえ、あの少年の異能からは逃れられない。
言うなれば、人類の系譜すべてを掌中に収める呪縛。
文明が消え失せれば抵抗の余地はなく、文明が発達すればその果実を奪い取る。
かつて彼の盟友が、
そう、これ以上なく素晴らしい逸材ではないか――邪念なく、ただ純粋に山羊頭は善意を以て彼と相対する。
「もう一度言ってみろ、山羊爺! ぼくに、感謝なんか、するなよ!」
「いやだね。そんなことを言ったら、君はますます泣いてしまうだろう?」
少年は半ば
まだ声変わりも済んでいない、甲高い十代の音色だ。
「涙なんか流すもんか、ぼくに感謝なんかするな! ぼくは……ただの人殺しだ!」
「いいや、嫌だね。これは私のこだわりだがね、君。悲しいのなら泣けばいい。おのれの涙を卑しいと断ずる行いは、ただの自己満足にすぎんのだよ」
堂々と言い切る図太さが、この亜人には存在した。
その物言いは、彼が一〇〇年以上に及ぶ生の中で
「いいかね、涙などいくらでも流せばいい。死骸は誰も糾弾しない。死者の霊魂が、実体を持って語りかける世界に我々はいないのだから。殺人者の流す涙が糾弾されるのは、それを断罪する第三者が居るからだ。この超人災害の跡地に、それを行う『人間』がいると思うか、君?」
個人的信念の表明に聞こえるそれは、その実、遠回しに少年の人間らしさを肯定していた。
感情の働きを後押しされ、こみ上げてきた涙を拭う少年。
その無防備な剥き身の心に、そっと男は忍び寄る。
「殺人者が流す涙も、無垢な聖人君子の涙も、その有り様を評定する
語りかける間にも、男の両目は少年の表情と変異脳の機能を分析し続けていた。
彼一人では手に余る高度な分析も、角を通して『繋がる』ことで、群れ全体の知識と
「無垢なる超人よ、君には神にも悪魔にもなる資格がある。君は人を救いたかったのだろう? ならばその思いをおとしめるな。方法を間違ったのであれば、次に正解を選ぶために目を開くのだ。その過程で心が折れるならば、何度でも心を蘇らせたまえ。人が人であるために、君はその力を振るうがいい」
数百万人の人格と経験が、角を通じて送受信され、超空間ネットワークによって連結体となった知性の形。
「我々はその力を、同調型サイキックと呼んでいる。君の存在が必要だ、協力してくれる気はあるかね?」
「……ぼくは、みんなに化け物だと言われたよ。ぼくに、本当に、そんなことが出来るの?」
例外はついさっき、少年自身が抹殺した。
まるで蛇の甘言のごとく、祈りも誇りも失った孤独な魂にささやきかける。
他の如何なる選択肢もお前を救うことはない、その手を血に汚せ、と。
「そう言われる原因はあるのだろうな。しかし君に向けられる悪意や差別が正しいわけではない。力は力、手で握った包丁と同じことだよ。適切な使い方を覚えたまえ。超人を支配する超人、この狂った景色が無秩序に拡大する未来を、唯一、防ぐことが出来る異能の存在。それが君だ」
悪魔の甘言だった。
だが、どうしようもなく悪人でありながら、彼の語り口はむしろ聖者のそれに近い。
山羊頭は何のためらいもなく、人を操る異能の怪物へ手を差し出す。
大きすぎる掌は、厚みだけで少年のそれの二倍以上はあった。
泣きはらした瞳に虚無をたたえた男の子は、幼子のごとく途方に暮れている。
「おのれの決断が間違っていなかったと信ずるのであれば、私の手を取るがいい。私は君に地獄を見せるだろう……都合よく使いもするだろう。だが、眼前の悪に屈服することだけはさせない。人食いと戦う術を教えよう。人ならぬ命を救う道を授けよう。いつか、君が自身を誇る日のために」
雄弁すぎる言葉のすべてに、確信があった。
心の底から自己を信じるもの特有の、瞳の奥で燃え上がる苛烈な炎。
その熱を移さんばかりに目を合わせ、力強く言い切った。
「私は賢角人のイオナ=イノウエ――人類の未来を願う亜人種だ」
結論から言えば、少年はやがて同胞殺しの超人となる。
彼の名は――
「ぼくは……ヒフミ。塚原、ヒフミ」
それが光の見えない暗がりを進む、漂泊の始まりである。
然れど、歩みの先に再会があろう。
試練があろう。
終わりがあろう。
もしも、もしも、手が差し伸べられるならば、彼は救われよう。
――魂が凍える前に。
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