20話:魂が凍える前に 後編






「アクサナ=アレクサンドロヴナ=ペトロヴァ。三年前、僕は東京一号の残骸から君を見つけたんだ」







 その言葉を耳にした瞬間、足下ががらがらと崩れていった気がした。

 ヒフミの言った事実がショックなのではない。

 その言葉が示唆しさする可能性と可能性を結ぶ推論を、少女の脳は一瞬で導き出す。

 その悪夢じみた結論に到達したとき、アクサナの心は音もなく悲鳴を上げていた。

 ぐるりぐるり、視線が回る。足腰から力が抜けてへたり込む。状態から力が抜ける



 操り糸の抜けた人形みたいに。



 気がつくと、からだの感覚がおかしかった。

 ヒフミの声が聞こえる。

 頬にあたっているのは、綺麗に掃除されたカーペットの感触だ。


「クスー……………ク………………サナ!」


 途切れ途切れの声。

 あの日、アクサナへ手を差し伸べた男の指が、頬に触れていた。

 凍えてしまいそうな心に熱が染みるような気がした。

 するわけもない冷たい鋼の匂いが、いつまでも嗅覚をくすぐる。

 ええと、なんだっけ。


――思い出す。


 そう、自分が何の残骸から助け出されたって――東京一号の残骸から見つけ出された、とヒフミは言った。

 東京一号。

 この狂った世界で、最初に起きた超人災害のこと。


――思い出す。


 波頭で砕ける水音を。

 あたり一面に散乱した都市の残骸を。

 虹色に煌めく樹脂のような肉片を。

 羊水に浮かぶ胎児のような心地よさの中、ずるりずるりと滑り落ちた巨人の胎盤――産声を上げたそのときを。

 おのれが何者であるかを。






――〈■■■〉は思い出す。混沌の海から引きずり出す。






 愛されていたのだと、少女は思う。

 非力で病に蝕まれた身体に残ったのは、愚かしい冷笑とそれ以上の後悔だった。

 大きなベッドの上で暖かな毛布に包まれ、たくさんのお医者さんに囲まれながら――心労でやつれきった父様に瞳をのぞき込まれながら。

 少女は心細さと病苦の生み出す涙で、視界のすべてを歪ませていた。


「ママは?」


 熱病に浮かされたかのように、わかりきった問いかけをくり返した。

 一週間前、母はこの屋敷を出て行った。

 耐え難いほど短絡的な彼女の母親は、父を見限ったのだ。

 そして実の娘を置いていった。



 ごめんね、と言い置いて。



 笑い出したいぐらい、絵に描いたような不幸だった。

 頭が痛い。

 彼女の躰はボロボロで、そのくせ死へ辿り着くことはない。

 全身の免疫系の機能不全が起こったかと思えば、翌週には完治し、やがて新たな難病を患う。

 ありとあらゆる病に苦しめられ、奇跡のように快癒し、新たな病が芽吹くまで過ごし続ける――それが少女の知る人生のすべてだった。

 生存は苦しみであり、痛みの塊だった。

 絶望するには、最初から希望がなかった。

 恵まれた屋敷の中の暮らしも、最高の医療体制も何の足しにもならなかった。


 ゆえに男は、少女の父は天の主へ祈っていた。


 その誠実さを笑うことなど出来ようか。

 その悔恨に満ちた涙を少女は知っていた。

 元来、信心深かった父が信仰の道にのめり込み、娘のために祈り続けているのを知っていた。

 正しく癒される道をこいねがい、救われるいつかを望み続けていた。



――みんな死んでしまえばいいのに、こんな躰、早く消えてしまえばいいのに。



 いっそ父様も自分を見捨てたなら、こんなにも苦しくないのに。

 遠慮えんりょなく何もかも呪えるのに。

 掛け値なしの愛情の実在を知っているから、少女はすべてを呪ったそのあとに懺悔ざんげする。



――嘘です。嘘です神様。父様を愛しています。でも苦しいんです。助けてください。



 これが与えられた試練だというのなら、どれほど試されているのだろう。

 最後の審判の後、蘇ることが出来たならどんなにいいだろう。

 父様の言うように、躰が朽ちてもいつか、神様に正しく愛して貰えるならどんなに報われるだろう。

 魂の救済を、幸せな家族の肖像、思い描くことしかできなかった幸福を。

 この手で掴むことが出来たなら、それはどんなに尊いだろうか。


 だけど少女は知っている。

 自分は悪い子だ。

 生まれてきたばかりに父と母の不和を招き、苦しみうめき、見たこともない外の世界を憎むことしかできない。

 だからきっと、神様が審判を下しても、天国へ昇ることなんてできやしない。

 幼い理性の信じられる物語は、もっと自己憐憫に満ちた悪者のおとぎ話だった。



――いっそ悪竜ズメイになりたかった。



 あるいは聖者ゲオルギイに討たれる竜になりたかった。

 文献に刻まれ、電子化されてネットワークの海をたゆたう、物語になりたいと願ってしまった。

 忘れられたくなかった。

 この魂が地獄に堕ちてもいい、どこかで誰かの記憶に残りたい。

 父様が死んでも、この世のどこかで語り継がれたかった。

 何も残せなかった彼女は、この閉じた屋敷の外側に、おのれの爪痕を残したくてたまらなかった。





 だが、結末は一つだけ。

 どんな祈りがあろうとも意味はなく、決まり切っている。





 血が燃えるように熱く、肌は凍土にうち捨てられたかのごとく寒かった。

 目が見えない。耳から入る音が、言葉に聞こえない。

 血と肉と蒸気を噴き出す死へ上り詰めていく――おのれの脳が水分を気化させるほどの熱を発しているのだと、少女にわかったかどうか。

 ゆるゆると血液が湯気を上げそうな温度に暖まっていく。


 汗腺の機能はずいぶん前に止まり、皮膚が、粘膜が、使い物にならないタンパク質の塊に変わっていた。

 沸騰した血液が、眼球を破裂させ、両の眼窩から止めどなくあふれ出す。

 白いシーツが血に染まり、お気に入りのタブレット端末に血肉がこびりついたが、もう少女がそれを気にとめることはなかった。

 ゆうに一六リッターを超える量の、沸騰した血液を吐き出す肉塊。


 それ単体で熱を生む半永久機関、血と肉を吹き出し続ける汚物の塊に、そんな思考も感情も残っていないからだ。

 かつて少女の脳だったものが、自壊と引き替えに最後の役目を果たそうとしていた。


 それは断末魔。

 いずれ芽吹く種子を解き放つ〈導管〉。

 この世ならぬ叫び声こそ、少女が望んだおのれの爪痕、空間と時間を超える祝福だった。



 少女の死は、狂気に彩られていた。

 沸騰ふっとうした血液と凝固したタンパク質の異臭を放ち、途方もない熱を孕む死体は、とうとう人の形を保てなくなった。

 よく煮込まれた牛肉のように、肉と骨が分離してボロボロに崩れ始めたのだ。

 生前に摂取したカロリー以上の熱を生み出し、生きながらにして少女の躰は茹で上がっていた。

 異常な状況に怯える医師と、愛娘のこの世のものとは思えぬ最期に慟哭どうこくする父がいた。

 それは、魂の救いから遠い末路。


 限りなく奇跡に近い理不尽によって、幼い命は焼き尽くされた。

 見果てぬ夢は所詮、少女にはどうにも出来ない夢物語。

 西暦二〇一一年の秋、人間だけの世界が滅びる前の季節。





――アクサナ=アレクサンドロヴナ=ペトロヴァは死んだ。









 だが、見果てぬ夢とて無限に追い続けたならば、いつか、夢を追い越し現実を侵すことも出来よう。









 そう、明らかな事実がある。

 夢見る〈■■■〉はロシアの資産家の娘などではなく、この記憶の体験者でもない。

 彼女はそれを体験している側ではなく、俯瞰ふかんし、観察する側だった。

 笑い出したいほどの全能感が、ちっぽけな人格や記憶の境界を否定し、より偉大な形へ収斂させていく。



――再結合する。

――他ならぬ自分自身の胚、原型となった個人の脳神経記述以前の未分化形態。

――限りなく広がった意識を刻み込まれた時空連続体そのものへと。



 呼吸が出来ない。

 自分の躰の感覚以上に、巨大で倒錯的な熱と光が脳神経を駆け巡る。

 ねじれる。

 混ざる。

 アクサナではない総体が主体となり、無限無数に言語野へ押し寄せる。

 言葉であり思索であり思想であり意思であり、行く手数多の生命を愛する巨大な祈りの渦が、彼であり彼女である存在のすべてだった。

 それは精神などではなく、おのれの存在を誇示する秩序だった。

 細胞の一つ一つが、未練と恐怖と歓喜に満ちた魂と言えるもの。


 かつて。


 自然環境が人間やその先祖に優しかったことなどない。

 飢餓はありふれていた。

 病原菌、ウイルス、寄生虫の引き起こす疾病は瞬く間に多くの命を奪ってきた。

 あるいは、気候変動によって死にゆく人類の先祖がいた。

 途切れることなく続く生命の輪が光なら、それ以外のすべては闇に等しい。

 人体の外に広がる無慈悲こそ、人間を痛めつけ、尊厳をすり減らす許されざる悪であった。

 母なる大地こそ、人が征服すべきものだ。




〈■■■〉が二〇三五年、東京で生まれたのは必然である。




 忌まわしい征服者。

 〈かれら〉の熱放射で蒸発した数千万人が、続く亜人種の侵略で失われた七億人が、プラズマの熱流で焼き殺された無数の難民が――

 〈かれら〉による殺戮は最終的に二〇億人の人命を奪い、その余波と後遺症はより多くの人命と文明を失わせた。

 人類との共生を始めた〈かれら〉の一派によって、その傾向はさらに加速した。

 日本列島の事実上の植民地化がもたらしたのは、人間同士の内紛だったからだ。

 徹底抗戦する以外、生存の道がないのなら人類は一致団結できたかもしれない。

 だが穏健派の〈かれら〉に頭を垂れれば生き延びられるなら、犠牲を出してまで戦う必要はなかった。

 様々な思惑と打算、そしてそれ以上の侵略者への不信が重なり、やがて、最悪の事態が起きた。


 無差別核攻撃の悪夢が、無秩序化したユーラシア大陸から始まったのである。


 中国とロシアから流出した核弾頭は、瞬く間に文明世界を狂気の縁に叩き込んだ。

 水面下で燻っていた人間同士の不和は、二大国の失陥によって解き放たれてしまったのである。

 それに対する、現存していた国家群の反撃は熾烈だった。

 報復措置としてありとあらゆる生物兵器、化学兵器が使用され、民族浄化の蛮行が史上最大の規模で繰り返された。

 歯止めを失った恐怖は、とうの昔に人類の理性を振り切っていたのだ。

 世界中で繰り返された核攻撃が、癒えない傷跡のごとく爆心地のクレーターを刻み続けた。

 そういう愚かさ、人の最も救えない行いを引きずり出した元凶――征服者たちには何の痛打も与えぬままに。

 〈かれら〉は、こう呼ばれている。



――〈異形体〉。



 水晶のごとき躰を持った化身、人の躰と魂を喰らう悪竜ズメイの似姿。

 選択的な殺戮こそ〈異形体〉のもたらすものだった。

 いずれ芽吹く種子を間引き、おのれらに仇なす恐怖の権化を打ち砕くために。


 それは、報復の苛烈さだった。

 ホモ・サピエンスという母の胎内でまどろむ、まだ見ぬ赤子を堕胎させるための虐殺。

 文明を支えていた世界秩序は途切れ、不和と欠乏が人の叡智えいち摩滅まめつさせていった。

 もしかしたら緩やかに二一世紀を蝕むかもしれなかった、格差と不況の絶望は死に絶えた。


 文明と経済の神話は地球外の怪物たちに踏みにじられ、そもそも人間の間の優劣など意味がないと気付かされる。

 世界は初めて平等を手にした。

 公平さの欠片もない虐殺と征服と改造によって、霊長類の辿った、約八五〇〇万年の進化の歴史は汚泥の底に沈むばかり。



〈異形体〉来訪から二〇年で、人間は断末魔を上げ始めていた。



 ゆえに〈かれら〉の天敵として〈■■■〉は生まれる。

 〈■■■〉は人を虐げる竜ではなかった。

 竜を打ち倒す英雄でもなかった。


 天空から下界をのぞき込む雷神ペルン双眸そうぼう

 悪い竜に食い荒らされる人々を助ける、いと高きものの慈悲。

 人は神に祈らねばならない。

 真理が人間に冷酷であるならば、そんなものは路傍の石ころのように蹴り飛ばせばいい。

 人は獣と分かたれねばならない。

 光と闇、海と地、昼と夜をわけ隔てたように。



――人は進まねばならない!

――肉体の欠陥から、精神の脆弱さから、知性の限界から救われねばならない!

――不死の門は万人に開かれねばならない! 死を超克しなければならない!



 彼女のよく知る誰かの声、大いなる導き。

 本来、〈■■■〉が救いたかった場所は〈異形体〉に食い荒らされていた。

 中国からロシアにかけての広大な領土は、そこに住まう人々、文化、地理的条件ごと粉砕され、原始時代にまで退化させられていたからだ。

 ゆえに、〈■■■〉は別の場所に目を向けた。


 東京。

 瀕死の人類が数多くうごめく地。

 かつて経済の中心地だった首都が、そのような惨禍に見舞われたのには理由がある。


 たとえば〈異形体〉の侵略以後、東北地方や北関東からの避難民が押し寄せたこと。

 たとえば北九州への核攻撃により、南方は放射能汚染されているという流言が飛び交い、人々が疎開したこと。


 何より経済状況の悪化が深刻だった。

 世界中の貿易相手国が、国体ごと消滅していく中、日本経済が死に体になるのは必然と言えよう。

 職を求め、多くの人々が地方を捨てた。


 結果、ただでさえ人口過密である東京とその近郊は、キャパシティをはるかに超えた人口を抱え込むこととなった。

 これに伴う治安の悪化と食糧難によって、すべてが荒廃していった。

 社会福祉制度は瞬く間に縮小され、非人道的な義体化技術が濫用されていたように。

 大多数が仕方ないと割り切って、いつか、自分が切り捨てられる側になるまでの陰惨なチキンレースだった。

 その生き地獄が、ただの地獄になるきっかけ。



 二〇三五年の真夏日、東京大震災と呼ばれる大災害が、その幕開けとなった。



 まず、震災そのものの犠牲者が、あまりにも多すぎた――給水設備、公衆衛生に関わるインフラの破綻により、瞬く間に死者が増えた。

 地下鉄などの公共交通機関はとっくの昔に麻痺していたし、鉄道それ自体が崩れ、徒歩で移動することすら出来ない場所も多かった。

 明らかに多すぎる人口を抱え、その機能を破綻させた都市に救いはなかった。

 大量の人間が密集するとは、信じがたい量の尿と糞をまき散らす生き物がみっしりと棲息していることに他ならない。

 水も食糧も致命的に不足していた。

 交通網の破綻によって、首都圏へ運ばれるはずの物資の輸送網が麻痺していた。

 さらに最悪だったのは、世界情勢の悪化により、災害救助や人道支援が諸外国から行われなかったこと。

 苦しみ喘ぎ、救いの来ない闇の中で死んでいく数十万人など、世界中で起こっている惨劇に比べれば些細な犠牲だ。

 ユーラシア大陸で核の炎に焼かれ、神経ガスで呼吸も出来ずに悶え苦しみ、文明浄化の名の下に歴史的痕跡ごと抹殺される命の数に比べれば――少なすぎる数だった。


 助けが来ないことがわかると、まず、人々は奪い合った。

 略奪に走れることが出来た人間はまだよかった。

 負傷していた人々の大半は、水も飲めず、汚物を垂れ流しにして感染症で死んでいったからだ。

 もちろんその死に尊厳などなく、悪臭と高熱と脱水症状の中、野良犬のように野垂れ死ぬ人間が増え続けた。


 死があった。

 悲鳴があった。

 飢餓があった。

 渇きに苦しむ老人がいた。

 肉が腐っていく子供がいた。


 暴力があった。

 人を虐げるものの狂気があった。

 虐げられる老若男女の絶望があった。

 犯される女がいた。

 頭蓋骨を叩き割られた男がいた。


 無秩序があった。

 治安回復のため無差別発砲を始める義体化兵士の虐殺があった。

 身動きもままならず、暴徒になぶり殺しにされる人々がいた。


 それは世界中で起こっている文明崩壊〈ダウンフォール〉の、ありふれた一幕に過ぎず。

 人類史のあらゆる時間と場所で繰り返される、呪いの輪廻そのもの。


 〈■■■〉は慈悲の眼差しを向けた。



――救われねばならない。



 肉が溶ける。

 骨が揮発きはつする。

 脳が生まれ変わる。

 無限の時間と空間を超える。

 飴のようにぐにゃりと蕩けた人体が、粘つく肉色の濁流となって空へ昇っていく。

 東京タワーが雨のようにねじれ、無数の住人と一つになって合唱している。

 鉄骨の一つ一つに、満面の笑みを浮かべる人の顔がフジツボのように張り付いている。

 あはははは、と楽しげな笑い声。


 みんなが笑っている。

 高層ビルが笑っていた――窓ガラスいっぱいに張り付き、やがてガラス窓やコンクリートの壁面そのものとなった人面ビルの群れ、群れ、群れ。

 オフィスビルの玄関からあふれ出した大量の腕が、わっと鉄砲水のように逃げ惑う人々を飲み込む。

 悲鳴はない。

 すぐに歓声に取って代わるからだ。


 倒壊したビルの瓦礫が、もりもりと持ち上がる――土砂と死骸の山が互いに溶け合い、巨大な皮膚と脂肪を形成しているのだ。

 恐ろしい勢いで増殖したそれは、やがて、ブドウの房のように乳房を連ならせていく。

 一つ一つのふくらみが、人の胴体ほどもあろうかという肉の果実だ。

 ぶよぶよと膨らみきった母性の塊が、脂肪を震わせ生存者を押し潰していくまで時間はかからなかった。

 肉と骨を砕かれ、乳房の群生に取り込まれた人々は幸せそうな顔で鳴いている――まるで赤ん坊のように。


 誰もが手を繋いでいた。

 老若男女を問わず、人種も思想も階層も民族も異なる人々が輪になって踊る――繋いだ手と手が溶け合い、腸管や心臓が皮膚を突き破って、互いの粘膜を愛撫しあっていた。

 自動車と一体化した巨大な陰嚢が、何人もの子供を潰しながら暴れ回っている。

 かと思えば、道路が魔法の絨毯のようにめくれ上がり、陰嚢と自動車の融合体を上空へ弾き飛ばした。

 首の骨が折れた子供が、けらけらと笑いながら一つに溶けていく。

 大きな大きな、大福のようにまん丸の赤ん坊の顔になって、みんな幸せそうだった。


 あらゆる死者が復活する。

 千切れ飛んだ死体のような手足や頭が、何事もなかったかのごとく再生する――割れた頭蓋骨からぶちまけられた脳漿が、宿主の頭の中に戻り、やがて死人が蘇る。

 血と肉と熱をを取り戻して、自分を殺した人間と手をつなぐ。

 病も腐敗も乗り越えて、みんなで一つの躰へ溶け合っていく。

 何の不安もなさそうに、内臓や眼球や手足をなくした不死者が笑う――あっはっはっはっは!

 その傷口から流出した血液は虹色の流体となってまき散らされ、それを吸い込んだ人間は、踊り狂う肉へ変わっていった。


 重力の方向を見失ったかのように舞い踊る有機物と無機物の混淆体こんこうたい


 はらわたが踊る。

 男女の下腹部から飛び出した心臓が、肺臓が、子宮が、陰嚢いんのうが、陰茎が、小腸が、大腸が、どろどろに溶け合い、上空へと持ち主を誘っていく。

 まるで重力が死に絶えたかのような光景だった。

 あらゆる物質が上空の一点へ集い、一個の肉塊へと洗練されているのだ。

 ぶよぶと膨れあがった肉塊は膨張――その外観は、さながら透き通った翡翠色の宝石。

 直径五キロメートルはあろうかという球体は、わずか三〇分で地上建造物と地表の人間の大半を吸い込み、調和させようとしていた。

 球体に収まりきらなかった人肉は、赤黒い入道雲となってその周囲を漂い、血肉の雨を降らせては生き残りを自分の一部とする。

 ここには、人■の■■ではなく■■だけがあった。


 空間が軋む。


 東京二三区の生命と物質を取り込み、〈■■■〉は超空間の産道を滑り落ちる。

 おのれの■■たる■■すべてを■体し、■■■、再■し、祝福し■いく。

 〈■■■〉が、ぬらぬらと輝きながら東京の上空に君臨する――■っと■■■■■は■■った■■。

 無数の質量を取り込み、到底、取り込んだ物質量に見合わぬエネルギーが迸る。

 誕生の産声は幾重にも重なって、三次元空間へ落ちていく。止めるものはいなかった。



――水晶の欠片が、産道と胎児を殺戮するまでは。



 痛い、痛い、痛い!

 殺される、空を埋め尽くす結晶細胞の端末どもに皆殺しにされていく!

 〈かれら〉に打ち勝てるほどの力はなく、人の願いに応えること能わず、〈■■■〉は未だ脆弱だった。

 ゆえに敗れた。

 ガラスの器のように、奇跡へ伸ばされた手は砕け散るほかなかった。

 いつか、おのれの残滓が再び芽吹くその日を信じながら。









 目を開くと、ピンク色の洗面器が見えた。

 ウサギと人参のキャラクターがプリントされた可愛い洗面器。

 ヒフミと一緒に暮らすことになったとき、アクサナが買わせた製品だった。

 なんてことはない、ありふれた量産品。それでも自分が選んだものが欲しかった。

 鼻の粘膜とが異臭を嗅ぎ取った。

 猫耳に内蔵された化学的感覚器ケミカル・センサーが、胃液とスープとサラダの混淆物だと告げている。

 ああ、吐いてしまったのか。

 今まで気を失っていたのに、意識がなくても胃の中身はしっかり吐き出せる自分の躰がおかしかった。

 ピンク色の洗面器いっぱいに、どろどろした吐瀉物がべっとりと張り付いている。

 酸っぱい匂いにつられて、吐き気がこみ上げてきた。

 喉奥からせり上がってきた吐き気に、粘っこい濁音を絞り出す。

 躰の奥から駆け上ってくる拒絶感が、自分の躰の中身を、はらわたごとぶちまけてしまえと暴れ回る。


 耐えられなかった。

 あの悪夢に、アクサナ=アレクサンドロヴナ=ペトロヴァの無惨な最期に、殺戮と絶望が吹き荒れた過去の時代に、グロテスクな怪物に変わっていった東京の末路に。

 何よりも誰よりも、恍惚としながらその光景を眺めていた自分自身に。


 唾液と胃液と消化物の混ざった汚らしい粘液を、げぇげぇと洗面器に吐き出す。

 歯ですり潰したばかりの野菜が、パンが、鶏肉が、げぼげぼと汚らしい音を伴ってぶちまけられる。

 まだ消化しきっていない食材が、歯に引っかかって不愉快だった。


「うぅう……うう゛ぇえぇ」

「大丈夫。我慢せずに吐いた方がいい」


 優しい言葉に安堵しかけ、背中をさすられていることにようやく気付いた。

 ヒフミだった。

 彼は湯上がりのシャツ姿のまま、アクサナの背を下から上へさすってくれている。

 少しでも早く、出すものを出し切ってしまうための手助けだった。


「……おみず」


 消え入りそうな声で注文をつけた。


「わかった。すぐ戻るから、楽にしていてください」


 台所に彼の気配が消えると、惨めさに涙が出てきた。

 目尻にじわじわとわき出した熱い滴が、胸の中でドロドロと渦巻く激情を代弁する。

 さっきまでヒフミを問い詰める気でいたのに、今では気遣われる側だ。

 背中を丸めて、口元を手の甲で拭った。

 亜人の手。

 少し大きくて、頑丈で、あの病弱な少女の指とは似ても似つかない指。

 幸いにも、ミディアムヘアの銀髪には汚れがついていなかった。


 たぶん、ヒフミが支えていてくれたおかげだった。


 あんなにも関係が変わることを恐れていたのに、現実のアクサナはちっとも進歩していない。

 三年前、塚原ヒフミに手を差し伸べられたあのときと、今の自分にどんな違いがあるのだろう。

 他に助けてくれる人もいないから、おっかなびっくり、見知らぬ青年に寄生して、勝手に取り乱して、無様に吐いてしまうなんて。

 顔を上げたとき、ヒフミは水の入ったグラスを手にしていた。

 心配げな表情には裏なんてないから、余計に自分が嫌になる。



「クスーシャ、あまり考え込まない方がいい」


 その一言でぴんと来た。

 塚原ヒフミは、話の途中で嘔吐し始めたアクサナの体調を気遣っているが、その理由を問おうとはしていない。

 彼が伝えたのは、アクサナと東京一号に関わりがあった、という事実だけなのに、だ。


「ぼくの……ぼくの見てた夢を、ヒフミは見たの?」


 アクサナの信じていた安らぎは、隠し事だらけの青年に守られている。

 しばしの間、ヒフミは沈黙していた。

 その間、ずっと少女から目を逸らさずに。


「ヒフミ、超常種なんでしょ。そういう力を持っているって、自分で言ってたよね」

「……そうです。君の変異脳と僕のそれが同期したせいです。最初に君と接触した超常種が、僕だったせいでしょう」


 変異脳。

 その単語が決定打だった。




「ああ、やっぱり。やっぱり、そうなんだ……何それ、ははは」




 ここにいる自分。

 アクサナ=アレクサンドロヴナ=ペトロヴァは本物ではないし、それどころか亜人種ですらない。

 ホモ・サピエンスでもホモ・パンタシアでもない突然変異、ホモ・ペルフェクトゥス。

 おびただしい数の人間を取り込んだ超人災害の一部から整形された、紛い物だらけの超常種サイキックなのだ。


「クスーシャ、落ち着いて僕の話を聞いてください」


 彼女の動揺も素知らぬ顔で、ひどく落ち着き払った声がした。

 グラスの水を持ったまま、ヒフミが手を伸ばしてくる。

 これを飲んで落ち着けとでも言いたいのか――わき出した激情のままに、手を振り払った。

 思いのほか強い力が出た。

 硬い骨がきしむ音がして、グラスが弾き飛ばされた。

 冷たい水が、フローリングの床にぶちまけられる。



「ぼくは、人間じゃないの? 何で、そんな大事なこと黙っていられたの? ねえヒフミ、どこまで、ぼくをみじめにすれば気が済むの?」



 静かだが、もう制御できない感情が言葉を形作っていた。

 アクサナの頬を伝う涙を見ても、青年は愚直に応えることしかできない。


「隠し事をしていたのは、僕の落ち度です」

「ぼくが聞きたいのが、そんな台詞だって本気で思ってるわけじゃないよね?」


 憤りだけが粘つき、苦い唾と一緒に食道を滑り落ちていくようだった


 超常種を中心に周囲の人体が汚染され、有機的結合体を形成、際限なく汚染拡大と自己拡張を続ける現象――超人災害。

 二〇三五年に初めて発生したそれは、東京都全域の人口の大半を飲み込んだ。

 そのすべてを、アクサナは知っていた。

 当事者として、観察者として、被害者として、加害者として、救済者として、殺戮者として。

 得体のしれない怪物たちの記憶を植え付けられ、ぜぇぜぇと柔らかな胸郭きょうかくで荒い息をつく生き物が自分なのだとわかった。



「すまない、アクサナ。僕の浅はかさが、今になって君を苦しめてしまった」


 あっさりと、ヒフミは自分の非を認めた。

 下げられた頭は彼の謝罪の表れで、その動作に毒気を抜かれかける。

 元より激情のはけ口を求めての怒りだったから、いつまでも持続する感情ではないのである。

 しかし青年の次の一言が、アクサナの逆鱗に触れた。


「でもこれだけは信じてください――僕は君に、普通の幸せを掴んで欲しかった。誓って、それ以外の理由はありません」


 普通の幸せが、さも貴重なものみたいな口ぶりだった。

 先ほど感じていた惨めさと、ヒフミの言葉がどろりと重なる。




「…………そんなに、ぼくって哀れに見えるの?」




 ヒフミの返答を待たず、畳みかけるように声を荒げた。

 胸に秘めていた違和感や恐怖が、棘の強い口調であふれてくる。


「……最初からさ、おかしいと思ってたんだ。保健体育の教育カリキュラム、ヒフミは見たことある?あれってさ、普通の人と亜人でページが別れてるんだ。まるで違う生き物みたいに扱ってるくせに、口先では同じ人間だって言う。頭おかしいんじゃないの、この世界? これで病気にならない? 誰がそんなこと頼んだのさ――どうせ普通の人間と違うのに、普通の幸せなんて言わないでよ!」


 この際、自分の本当の種族が何であろうと関係なかった。

 アクサナが不安に感じているのは、思い描いていた日常と自分のギャップだ。

 支離滅裂な言動を補正するため、記憶を掘り起こす――過負荷で目が回る。

 アクサナの未熟な精神では追いつかないほど、多量の情報が脳に流れ込んできた。

 たとえば亜人種は病気になりにくい。

 彼らの強化免疫系は、〈異形体〉が送信してくる病原体やウイルスの予想図に元付き、常に先回りして抗体を作り続けている。


 あるいは亜人種の女性は、毎月、月のものが来るなんてことはない。

 必要な時期にだけ卵子を育て、必要な時期にだけ胎児を育てる準備を行う。

 生殖機能全般の管理を、神経系に同化した結晶細胞の副脳が制御しているからだ。


 つまるところ亜人種に、月経の概念は縁が薄いし、身体機能における男女差の概念も人類のそれほど絶対的ではない。

 ホモサピエンスをベースに、結晶細胞という異物を混ぜて作られた改造人種――作為に満ちた機能の塊。

 人類の亜種、デミ・ヒューマンとはそういう生き物だ。

 その方が都合がいいから、そういう生き物としてデザインされた身体性。

 それが合理的に改変された肉体だと、今のアクサナには理解出来た。



「人間として生まれて、亜人として蘇ってたと思ってた。大切な人たちも、あんなに恋しくて憎かった母様も、二一世紀に置き去りにしちゃったんだって。もう祖国の言葉も、歴史も、何一つ取り戻せやしないんだって――もう、ぼくが本当はどんな生き物だなんて考えたくないんだよ!ただの人間に戻りたいんだ! こんな、こんな躰は要らない!」



 言葉は痛みに似ている。

 一度覚えたら、決して消えてくれないからだ。

 たとえ支離滅裂しりめつれつでも、今ここで口に出した思いに偽りはなかった。

 アクサナはどうしようもなく傷ついていて、不安も恐怖も戸惑いも抱えているちっぽけな子供だった。



「気持悪いよ、みんな当たり前みたいに人間じゃないものを受け入れて。おかしいじゃない、何十億人も殺されて、たくさんの国が潰されて。

 どうして納得できるわけ……ぼくにはわかんないよ! 苦しくて、悲しいのに全然、涙が出てこないんだ。ぼくがこうなったの、あんたのせいなんじゃないの!」



 塚原ヒフミは弁明しようとしなかった。

 まるで、いつか通った道を見守るように優しい眼差しのまま、アクサナの痛罵つうばを浴び続けている。

 結局、彼はアクサナが泣き疲れるまで、ずっと心の叫びに付き合っていた。









 アクサナが落ち着いたのは、事の起こりから一時間以上が経過してからだった。

 まだヒフミが出発するまでには余裕があったものの、後片付けを考えるとゆっくり朝食を共にする時間はない。

 だから、というわけでもないだろうが。

 泣き疲れて、自分自身の怒りも恐れも吐き出し尽くした少女に、彼が語ったのはいささか事務的すぎる説明だった。



 何らかの要因で排出された変異脳を核にしたために、アクサナの躰は恐ろしく安定性を欠いていたこと。

 不安定な人型を安定させる調節装置アジャスタとして結晶細胞が埋め込まれ、既存の亜人種の形態が利用されたこと。

 アクサナが普通の超常種――レベル1相当の無害なものだと証明し続けるため、定期検診があったこと。



 そんな無味乾燥で客観的なアクサナの現状を伝えると、ようやく一息。


「君が怒ってくれて、正直、よかったと思ってます」

「……ごめん。さっきのは、言い過ぎた」


 終始、ヒフミは穏やかな口ぶりだから、怒りが収まってくるとばつが悪い。

 意外なことに、おのれの非を認めるかのようなアクサナの口ぶりに対し、彼は首を横に振った。

 強い確信のこもった、熱のある主張。


「アクサナ、君は何も間違ってなんかいません。たとえどんな言葉を言おうと、僕は決して君を見捨てない……だから。怒りがあるときは怒ってもいい。悲しいときは涙を流していい。痛いときは痛いと叫べばいい。苦しいときは助けを求めていい。それが、人間らしさです。君はそうやって生きていいんです。僕が保証します」


「保証って……」

「君の正体は僕にだってわからない。だけどそうやって悩む心があるなら、きっと人間らしく生きられますよ。そういう人は、きっと、救われなきゃいけないと思うんです」


 恐ろしい共感があった。

 おそらくヒフミが切り捨ててしまったのは、そういう人間らしさであり、当たり前の心の働きなのだ。

 塚原ヒフミの穏やかな態度は、眩しいものを眺める眼差しに近い。

 その姿に、不吉な影を見た気がした。

 その『人間らしい幸せ』の対象に、彼は自分自身を勘定していないからだ。


「お仕事、終わったら……戻って、来るんだよね?」

「僕の家はここですよ?」


 冗談めかして肩をすくめる彼を見ても、安心できなかった。

 あれだけの罵倒ばとうを投げかけたのに、今になって塚原ヒフミを失うことを恐れている。

 自分の身勝手さに対し、また涙が出てきそうだった。

 カレンダーを見る。

 一二月下旬、もうすぐ一年の終わりが見えてくる頃合いだった。

 西暦二一三四年のクリスマスが過ぎれば、すぐに二一三五年がやってくる。

 そんな当たり前の日常が続けばいいと思った。


「もうさ、クリスマスでしょ。だから去年みたいに、一緒にさ。その、祝ってくれたら……今日の分は許してあげる」

「今日の分だけですか。手厳しいな」

「いいから、約束だからね」


 ヒフミの守るもの、今も彼が背負っているもの。

 大人の世界のバランスの取り方なんてどうでもよかった。

 少女はただ、ちっぽけな家族の安寧あんねいさえあればよかった。

 背広に外套を羽織り、玄関口に向かう背中。

 塚原ヒフミの後ろ姿に、ふと思いついた疑問を投げかけた。



「もしかしてヒフミも、昔、ぼくみたいに……苦しかったの?」

「いってきます」



 聞こえないふりをして、ヒフミは出かけていった。

 けれどその対応が、何よりも雄弁に答えを物語っている気がした。







 だからアクサナ=アレクサンドロヴナ=ペトロヴァは、あらゆる痛みに耐えながら、家族の帰りを待つことに決めた。








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