2話:人の末裔



 塚原ヒフミが知る限り、かれこれ一二〇年ほど前に起こった異変以降、人類の未来が明るくなったことは一度もない。

 西暦二〇一二年、突然、それは出現した。

 天体望遠鏡による宇宙観測や、レーダー監視網をすり抜けて、都市の一区画を押し潰す『塔』が東アジアの大地に突き刺さった。

 まず落下の際に発生した衝撃波が、近辺の住居を根こそぎ吹き飛ばし、数万人の死者が発生。救援と事実確認のため派遣された軍の頭上に、『塔』の第二陣が降り注ぎ、混乱は収拾がつかぬまま拡大の一途を辿った。

 この時点で、地表に突き刺さった超弩級建造物――高度四〇〇〇メートルにまで届くそれに、知性があると判断できたものは皆無であり、それが周知されたときには手遅れだった。

 厳密には生命と定義していいのかすらわからない結晶生物。



――〈異形体〉。



 彼らはその降臨から一週間で七億の人命を失わせ、やがて混乱する人類を試すかのごとく亜人を生み出した。

 半人半獣、人の知性と兵器の屈強さを備えた魔獣の群れ。

 それがとどめになった。

 最早、結晶構造体に国土を占領され自国民を主要都市ごと失った被害者が、核兵器を使用するのに時間は要らない。

 すべて、使えば自他を滅ぼす抑止力のはずだった。

 人間世界の保身と理性など、当の昔に砕け散っていたのだ。

 一種の狂気だった。

 負ければ何も残らない未知の恐怖に蝕まれ、当事国は速やかな決断に走り、かくしておのが領土の放棄と棄民も辞さない、核攻撃が実行されたのである。

 結論から言えば、人類はどうにもならない絶望的な差を学んだだけだった。


 核爆発のもたらす破壊的熱線、地表を薙ぎ払う爆風、放射性降下物による土壌汚染。

 期待された殲滅も、予想された汚染も起こらなかった。


 何も起こらなかったのだ。

 一瞬もれた閃光を覆い尽くすように、〈異形体〉が活性化したことを除いて。

 これ以降、何もかもが無為であった。

 あとに残った景色――朽ちた摩天楼に代わり、林立する結晶の塔。

 報復と言わんばかりに亜人の侵略は加速し、いくつもの国が名を変え、異種の傀儡と化していった。

 生き残った人々に残された道は、諸外国の支援を受けて戦い続けるか、獰猛な亜人の所有物になるかの二択のみ。


 日本列島に、世界最大の〈異形体〉が落下したのは、ユーラシアの惨劇から二年後のことである。

 やはり突如として現れた共生派の首魁――三本足の〈異形体〉の意思をどうして拒めよう。

 たかがキロメートル級の群体に過ぎなかったユーラシアの落下物に、数多の国々が食い潰されたのである。

 ましてや相手は規格外、北日本にかかった足一つで二四〇〇キロもの巨体を誇る来訪者だ。

 『彼』がその気になれば、北半球の人類を抹殺することすら容易いのではないか――極東、太平洋、赤道の島々に根を張る『彼』の提案を呑む以外、当事者たちが生き残る道はなかった。





 さて、そういう物騒な出来事の末に生まれた「人類連合」に属する手前、ヒフミという男は色恋にとんと縁がない。

 それ以前の問題が山積みのまま、十代後半からずっと、人間狩りを是とする営みを続けてきたのだ。

 彼自身、人並みに暮らす環境を維持するだけで手一杯だったのもあるが――その奇矯かつ信頼できない言動に因るところが大きく、異性に手厳しい言葉を貰うのに慣れていた。

 一種の駄目人間である。

 ダークブルーのコート――UHMAの制服を着た青年の容姿は、短い髪と丸眼鏡によって、清潔感の代わりに胡散臭さを発散している。

 つまり今の彼は胡散臭いだけの若者であった。開き直った作り笑顔のまま、反省も思慮も感じられない声を放つ姿は、まるで道化の類。


「ははあ、手厳しいですね……中々、悪癖というのは直りにくいものなんですよ。導由峻さんですね?」


 しかし今回ばかりはそういかない。

 長い黒髪を風に靡かせた、山羊角の少女。

 その涼やかな微笑みに強い既視感を覚え、ヒフミは動揺していた。


 美しい娘だった。

 街を歩いたとき、人混みに見かける類の美人とは趣の異なる造形である。

 春夢に見るまぼろしにも似た、現実感の伴わないかそけき麗人。

 その儚い影の中、琥珀色の瞳だけが強烈な意思の光を宿し、煌々と輝いている。

 おそらく一七〇センチ前後の背丈ながら、一度、顔を付き合わせてみると印象が大きく変わる娘だ。


 髪は女の命、とはよく言ったものだ。

 艶やかなロングヘアを照らす陽光が、絹糸のような頭髪を際立たせ、それが、すらりと伸びた長い手足によく似合っていた。

 男物に近い仕立てのスーツすら、艶めかしい腰つきを強調する役目を果たしている。

 それは一〇以上も前、一人の少年が出会った娘の面影。

 長じればこんな姿になったであろうと、記憶の美化を進めていた塚原ヒフミも認めざるを得ない。


「わたしが導由峻で間違いありませんが、他に何か用件があるのでしょうか」


 思わずまじまじと見つめてしまい、不審に思った娘の微笑みに影が差した。

 由峻が気にしていたのは、後頭部へ流れるような二本の角。

 彼女の印象に不釣り合いな、賢角人の象徴を目にしてヒフミは確信した。

 なるほど、どうやら運命的な出来事というのは実在するらしい。


「いえ、失礼。あまりに見目麗しい方だったもので、ついつい不躾な真似を。平にご容赦を――」


 この男、慇懃無礼を絵に描いたような態度である。倒れ伏した女――安藤霧子へ目を向け、ぺこりと頭を下げた。

 どこかいぶかしげに首肯する亜人娘を尻目に、青年の注意は跳ね飛ばした着ぐるみに向けられた。


「あの不審者は僕が何とかしますので。救急車、呼んでおいてください」


 胸から取り出した端末を手渡され、彼女の微笑みが曇る。

 これから起きる衝突を察したのだろう。

 塚原ヒフミは何も言わず、拳銃を右腰から引き抜き安全装置を解除。

 複列弾倉にはたっぷり銃弾が詰まっている。二十世紀初頭に生まれた自動拳銃の機構は変わらず、二一三四年現在も第一線で活躍する武器だ。

 銃弾を電磁力で加速させるタイプの銃器もあるが、動作性や稼働時間の問題もあり携行火器の主流たり得ないのが現状である。

 ちょうど自動車が盾になるよう、前に歩き続ける。

 人間を超越したという自負ゆえに、強力な亜人ほどプライドが高い。

 不意打ちで介入した以上、ヒフミが前に出れば出るほど、二人の女性は安全なのである。

 ぴくりとも動かない着ぐるみを見ていると、もう死んでいるのではないかと勘ぐりたくなるが、超常種としての感覚器は敵の生存を知らせていた。


「死んだふり、意味ないですよ」


 自動車から二〇メートルほど離れたところで、ゆっくりと銃口を着ぐるみへ向けた。

 つまり、亜人との戦いでは至近距離と言っていい。

 巨大な魚類の頭部を模した着ぐるみは、〈異形体〉来訪以前、地方自治体が地域振興のため採用したマスコット・キャラである。

 古き良き時代を偲ぶ、文化再興運動の一環で製造されたものなのだろう。


 盗品である。

 元の持ち主には悪いが、先ほどヒフミが行った衝突事故でボロボロになっている。

 引き金を引く刹那、着ぐるみが内側から爆ぜた。

 瞬時に細切れになって四散する繊維を腕の一振りで吹き飛ばし、大柄な人型が歩き出す。


「やってくれるではないか、UHMAのクズどもめ」


 これで盗難元に謝る必要はなくなったな、と感慨深げなヒフミへ荒々しい怒声。

 声の持ち主は、まるでギリシャ彫刻のように均整の取れた肉体美の男だった。

 痩せすぎということもなく、筋肉太りもしていない素肌に、薄手のインナーを着ただけの逞しい体つき。

 どうやら服を着るぐらいの分別はあるらしい。

 一八〇センチ超の背丈を無理やり着ぐるみに収めていたらしく、煌びやかな金髪が籠もった湿気に濡れていた。

 胴体から肘、膝の関節までは人間的な造形だが、末端へ下るにしたがって人間的な印象は薄れていき、頭部に至っては肉食獣そのものだ。

 分厚く骨張った指には鉈のような爪が格納され、牙を剥いてヒフミを睨む顔はライオンじみている。


「……脱ぎ捨てるなら、最初から着る必要ないですよね?」


 塚原ヒフミは惚けた表情でぬけぬけと言ってのけた。

 修羅場慣れしているのもあるが、もう半分は素である。

 古く残酷な亜人と同じく、超人に分類される人類――超常種ならではの感性だった。


「ほざけ」


 ヒフミの突っ込みは一蹴された。

 特に反論されなかったため余計に居心地悪かった。

 これだから第一世代は、と思う。


 胡散臭い作り笑顔のまま対峙するヒフミの目は、どう見ても笑っていなかった。

 おかげで護衛対象である賢角人に不信感を持たれているなど、このとき、彼は想像もしていない。

 獅子頭の亜人が、にやりと牙を剥いて笑った。

 復讐と侮蔑に染まった表情であった。


「貴様、ただの人間ではないな。超常種サイキック……ホモ・サピエンスの悪足掻きか。随分とよくできた番犬どもだな」


 揶揄するような言葉にも動じず、ヒフミは白々しい作り笑顔のまま一笑に伏した。


「分相応ってのを弁えてますからね。第一世代の亜人も、少しは社会に馴染む努力してくださいよ」


 在来の人間社会に適応した亜人――『第二世代』は今やその一構成員でしかない。

 これに対し、神話で語られるような暴威を振るう怪物こそ『第一世代』である。

 彼らは生まれながらにして人と違いすぎる。人間から乖離した戦闘能力により、精神構造自体が常人とかけ離れてしまうのだ。

 第一世代にとっては人間性など後天的な訓練で習得する技能でしかない。


「貴様らの文化は非効率なのだ、野蛮人ども」

「封建制社会から続く日本の伝統文化がどうかしたんですか。人生を捧げた労働、全体に奉仕するよろこび。そんなのここでは社会常識ですよ」

「な、に?」


 予想だにしなかった迷言が耳に入り、獅子頭は困惑して動きを止めた。

 杓子定規に都合のいい言葉を並べ立てる、善人面したエージェントを叩きのめす、という彼なりの気晴らしが出来なくなったのだ。

 場を引っかき回すべく、ぺらぺらと喋るヒフミの意図は大当たりしていた。


「人生とは労働に付随する夾雑物を含めた概念であり、その中核は労働である。ここ日本では数百年に渡って前時代的ディストピアが築かれ、あらゆる階層が意味もなく死ぬまで盆踊りをしていたんです。まさか、そんなこともご存じないんですか?」


 鬼気迫る表情で熱弁を振るう青年に、亜人男は何も言い返せない。

 この世には不条理が詰まっているのだ。捲し立てるヒフミ自身、これっぽっちも信じていない虚言なのは言うまでもなかった。

 前時代的ディストピア、なる概念は便利である。どんな歴史的経緯も野蛮という扱いになり、相対的に現代はまともになるからだ。

 まさしくディストピア御用達の詭弁であった。


 一方、そのころ――自動車の影で由峻は頭を抱えていた。

 何故か、日本史の捏造が流行らしい。

 導由峻はじっとりと据わった目になり、本日二人目の変人を信じていいのか悩んだ。

 ちょうど病院への連絡をし終え、一息つきたくても角のせいで頭を預ける対象がないジレンマに悩んでいたらこれである。

 この時点で、由峻が塚原ヒフミへ向ける態度の七割は決まったと言っていい。


「なおのこと、貴様らに従うわけにはいかんな!」


 どうやら想像以上に無知だったのか、妄言を真に受けて怒鳴り返す獅子頭の男。

 その両腕はわなわなと打ち震え、今にも強靱な爪が飛び出しそうだ。

 人間社会への不信全開の怪人に対し、嘘八百を並べ立てた張本人の目は冷たい。


「まさか、信じたんですか」

「……何? 貴様、嘘をついたのか」


 短い沈黙の後、獅子頭は指から爪を露出させて怒りを露わにした。

 口ばかり回していた青年は言えば、この間ずっと、拳銃を構えている。

 銃口を向けられていながら、敵の言葉に聞き入るあたり、この亜人男も相当に剛胆――もとい馬鹿丸出しだった。

 おそらくきっとたぶん、銃弾をものともしない肉体へ信を置いているのだろう。


「ええ、そんなことはどうでもいいんですが。むしろ何故、こんな無益なやりとりをしているんでしょうね……」

「貴様が話し始めたんだろうが!」


 敵意を滾らせる獅子頭が会話に乗っているのは、どうにも得体のしれないヒフミを警戒してのことだ。

 実際問題、異能異形を得た亜人にとって、二〇メートルに満たない距離など大した問題にならず、一飛びで首を刎ねられる間合いである。

 拳銃を構えた人間などものの数ではない。

 その実力差を弁えているのなら、眼前のUHMAエージェントの態度は不気味なほど軽薄だった。


 何らかの切り札がある。

 十中八九、それは超常能力の類――ときに質量保存の法則を無視し、物質とエネルギーの形作る秩序に反逆する異能だ。

 銃弾以上の破壊力を想定し、相手の手札を見定めるまで迂闊に動くわけにはいかない。

 そんな葛藤も素知らぬ顔で、やれやれと肩をすくめるヒフミ。


「清く正しい好青年の茶目っ気ぐらい、許す度量を身に付けた方がいいですよ。ユーモアを欠落した知性に待っているのは悲劇的死です」


 常人から逸脱した異能と、その副産物として変質した生理機能により、超常種の世界観は自己完結している。

 彼らの多くは個人主義の傾向が強く、異性愛・同性愛のような他者への執着も薄い。

 結果、社会性の代償に異能を得た人類などと揶揄されがちな存在である。

 その中で塚原ヒフミは真っ当なエージェントだった。

 あくまで程度の問題だ――UHMAの基準では、まともな人間とまともな組織人は一致しない。


「もういい。やはり人間は糞の山だ。貴様らには文化も、品性も、歴史も必要ない。糞のような利害関係で殺し合う野蛮人め」

「寝惚けたことを。亜人にだって原理主義のテロ屋がいるでしょうに」


 獅子頭がにやりと嗤う。

 猫科動物そっくりの作りのくせに、愛嬌皆無の笑みであった。

 猫への風評被害に等しい邪悪なスマイルである。


「問題の本質はそこだ。同胞たちは、貴様らの営みに汚染されてしまった。真の悪は人間ではなく、その文明であり歴史なのだ。積悪は撤去されねば不幸を生む。いずれも人類には必要ない概念だろう」


 ヒフミは真顔になった。

 あまりに突飛な思想のせいで、旧来の反体制組織もこういった第一世代とは距離を取っている。

 彼らのいう理想は到底、人間集団が許容できるものではない。文明社会は崩れ去り、あらゆる歴史は破棄され、家畜として生きる以外の道を閉ざされる暗黒世界だ。

 そこには人間の権力者など存在せず、精々あり得るのは、彼らの傀儡として一挙一動を管理された家畜の長であろう。


「畜生のように惨めな姿になるだろうが、案ずることはない。その野蛮さが噴き出す度、我々が根気強く調教してやろう」


 一応、暴言であるという自覚はあったらしい。

 おそらくこの台詞自体、教条的に思想を丸写ししたものに過ぎないのだ。まるで古典的の日本産ファンタジーゲームの敵役だった。

 勇者と魔王、闇の世界を尊ぶ悪の権化。


「……あの、ひょっとして話し相手、いないんですか?」

「……クッ」


 こんな妄言を大真面目に説く輩といえば、神話主義者と呼ばれる亜人の一派だ。

 先祖が人類だったとはいえ、今や超人的な力を手にした自分たちは人類の領袖として振る舞う義務がある――そんな時代錯誤の思想を力ずくで押し通し、かつて創造された数多の神話を現実にしようとする怪物ども。

 原始時代まで退行した人間を導くのは、絶対者たる〈異形体〉とその加護を得た亜人種しかいない。

 そんな稚拙な物言いと裏腹に、彼らがもたらした被害は甚大だ。

 ここ数十年、旧中華領及び中央アジア一帯は無数の勢力に分裂、内戦状態にあった。

 このうち、紛争に荷担する過半数が過激派亜人の傀儡と言われている。

 ユーラシア大陸で半世紀以上も続く消耗戦自体、神話主義者の意図したものなのだ。

 ひたすら他者を舐め腐ったUHMAエージェントの物言いに、獅子頭の堪忍袋の緒は切れた。


「もういい。貴様は死ね」


 瞬間、男の躰が膨らんだ。

 展開された鉈のような爪が灼熱を帯び、周囲の空気を熱して陽炎を生じさせた。

 防火繊維で出来たインナーが内側から裂け、皮膚からいくつもの突起が生えて、甲高い音を立て始める。まるでガラスをすり下ろす擦過音。

 ヒフミはそれが、結晶細胞の鳴らす異音だと気づき発砲。

 胴体に二発、首筋に二発。

 しかし、この世の理をねじ曲げ始めた怪物には無意味だ。

 発砲の直前、下から上へ突き上げるように一振りされた左腕が、扇状に広がって銃弾を受け止めたのである。

 超高温の体表に溶かされた鉛が、ドロドロに溶けて道路へ滴り落ちた。

 この獅子頭とて、結晶細胞の高純度構造体が肉身に溶け込んだ第一世代である。

 異常な耐久性と身体能力など、彼らの持つ真の異形性に比べれば取るに足らぬ。

 轟音。

 道路を蹴り砕くような響きと共に獅子頭の姿が掻き消える。

 生身の人間であれば、これで詰みである。



 それでも人の域を超えた暴力を制するのは簡単だ。



――人間をやめてしまえばいい。




 獅子頭が灼熱の鎧を纏ったとき、既に塚原ヒフミの勝利は揺るぎないものとなっていた。無駄話で稼いだ短い時間が、ひどく貴重だった。

 どれほど高速で移動しようと、青年の超常種サイキックとして発達した知覚能力は人体を見逃さない。


 人体掌握の異能〈結線〉。

 それが塚原ヒフミを常人と隔絶させる力だった。

 いわゆる五感に加え、彼の知覚は他者の肉体を敏感に感知し、その身体制御に介入するという異常な能力を備えている。

 人体は本来、外部から侵入しうる制御系ではない。肉体への指令、フィードバックを司る神経回路は、コンピュータの無線装置のように外界に対して開かれていないからだ。

 ゆえに、クラッキングに対する備えもありえなかった。


 そして如何なる人種であれ――人の身体である限り、〈結線〉の対象に例外はない。

 如何なる超人であれ『人間』として定義し、自らの支配下におけるのがヒフミの強みである。

 彼に敵対する超人は皆、破壊的な能力を持てば持つほど、そのコントロールを奪われ自爆せざるを得ないのだ。


 音速に迫る高速移動の負荷は想像を絶する。

 莫大な運動エネルギーをまとった亜人男の躰が姿勢制御を放棄、その足首は減速できない中途半端な接地を試み、脳からの指令とあべこべに動いた。

 結果、地面と接触した指先が砕け散り、アスファルトの破片を撒き散らしながら、亜人の躰が宙に投げ出された。

 だらりと両腕を垂らしたヒフミの、五メートルほど横の道路。

 自身の手足を削り散らした獅子頭が叩きつけられる。


 鈍いうめき声を無視し、青年は淡々と銃を構え直す。

 仰向けになった亜人男の両脚は、もう使い物にならないほど激しく骨折していた。

 ほとんど紅葉おろしの原材料となった脚部の、膝関節へ二発ずつ弾丸をぶち込む。大きな悲鳴。

 続いて高温の余熱を放つ腕を狙う――違和感。

 敵の腕が動こうとした。すぐに躰の命令系統に割り込み、地面に縫い付けるように両手の自由を奪う。

 銃声。

 剥き出しの肘関節に銃弾がめり込むと、ようやく獅子頭は大人しくなった。


 獅子頭を相手に言いはなった理不尽な台詞を思い返し、彼女とのやりとりがどうなるかを想像する。

 何とも憂鬱であった。

 これから起こるであろう事態に頭を悩ませていると、沈黙をどう勘違いしたものか、勝ち誇った亜人男が余計なことを喋る。


「これで勝ったと思うなよ……俺には偉大なる同胞の支援があるのだ!」


 頭が弱そうな捨て台詞だった。

 静かに光学サイト越しに照準。

 間髪入れず、その右足へ銃弾をぶち込んだ。耳をつく二発分の銃声、獅子頭の悲鳴はほぼ同時だった。

 亜人の肉体構造のうち、関節は比較的脆い部分だ。

 強固な皮膚組織と筋肉に覆われた肉体と言えど、半ば強制的に弛緩させられては防御力など望むべくもない。

 拳銃であっても着弾時の衝撃は馬鹿に出来なかった。

 人間なら足の骨ぐらいは折れるところだが、第一世代は頑丈だった。

 脂汗を垂らしつつ、獅子のような鼻面が牙を剥き出しにする。


「貴様ァ!」

「ええと、導さんですよね。救急車は来られそうですか」


 ヒフミはいい加減、懲りる様子がない獅子頭を無視することに決めた。

 弾倉を交換しながら、困ったような笑顔で問うた。

 眼差しを背後に向けると、大きな二本角を生やした少女が、心細い面立ちで携帯端末を握りしめていた。

 導由峻はややうつむき加減のまま、あまり顔色の優れない様子で返答。


「いえ、交通規制が入っているそうです。その、出来れば」

「わかりました。では、今から病院に向かいましょう。うちの権限ならすいすい進めますよ」


 ある種の職権濫用だが、大馬鹿者を事前に鎮圧したのだ。

 その一助となった構成員を救うのも、『超人災害』なる現象の被害を防ぐという理念に沿ったものだろう。

 少々、屁理屈じみたことを考えるヒフミへ、祈るように真っ直ぐな瞳が突き刺さる。

 太陽光が漆黒の髪を滑り落ち、えも言われぬ美しさを醸し出す。


 あれから何年も経っていた。


 かつて塚原ヒフミに生きる気概を与えてくれた女の子は、驚くほど綺麗になっていた。

 すらりと伸びて上品そうな印象を与える手足、たおやかな女の腰つきと来て、白皙はくせきに穿たれた瞳は不変だった。

 明眸めいぼうと呼ぶに相応しい琥珀の煌めき。

 まだ生きる上で未熟すぎた、少年時代の思い出に重なる色だ。

 小賢しい保身が馬鹿馬鹿しくなり、塚原ヒフミは何も言わずに頷いた。

 このときだけ、青年の顔に張りつく胡散臭い笑顔は掻き消えている。


「ありがとうございます」


 ようやく信頼に足ると思ったらしく、由峻は感謝の言葉を口にしてくれた

 だが、心通じ合う時間はそう長く保たなかった。二人のやりとりに水を差す無粋なコール音。

 由峻の手の中にある携帯端末が音源だった。

 何事もなかったかのようなすまし顔で端末を手渡され、少し、がっかりしながら通話ボタンを押す。

 押さなければよかった、と後悔するまでわずか一秒。



『繋がった――よね。よしよーし、塚原くん。今からそいつ殺すから、早くそこを離れてくれるかな』



 お花畑で夢見るような、脳天気な女の声。

 UHMA本部で顔を合わせる度、耳にした馴れ馴れしい言葉使い。

 UHMAエージェント、進藤茜だった。

 背筋が凍り付く。

 近辺にUHMAの超人災害対策官は存在しておらず、唯一、手が空いている人員も本部にいるはずだ。

 少なくとも関東一帯にいるわけがない人間――否、超常種サイキックだった。

 通話自体は端末さえあれば可能だが、そもそも、まだ獅子頭との交戦は相棒にさえ報告していない。

 こちらの困惑など知りもせず、一方的な殺意だけが電波越しに伝わってきた。


「ここは人口密集地です。それに、他の対策官に手出しは無用のはずでは」

『周りには誰もいないでしょ。直線距離で一九四キロ、こんなのあたしの射程内だよ』


 優しそうな顔立ちの、見目麗しい女の姿を思い浮かべる。

 間の抜けた声で喋る彼女は、成人女性の躰にUHMA最大の火力を宿し、人類連合の管理区域から新東京までの二〇〇キロ近い距離を知覚する怪物だ。

 地球外生命と同じステージに到達した超常種にとって、普通人のスケール感はちっぽけで意味がない。

 人類の身体器官と異なる、ブラックボックス化した脳を持つ新人類には国境などあってなきもの、砂場を取り合う子供の屁理屈に等しかった。


「着弾点、どこになるか分かってますか」

『塚原くんが立ってる道路。出力を絞れば大したことないよ』


 あまりにも人と乖離した怪物の言。

 一応、異能の力を持つ同胞のはずなのに、ヒフミは相手を信じられなかった。

 首都の交通インフラに砲撃を加える行為の意味を、この女は考えているのだろうか。今回の敵は明らかに、そこまでして消滅させる価値のない小物だった。

 案の条というべきか――自分の命が風前の灯火と知り、獅子頭が哀れっぽい声で命乞いを始める。


「や、やめろ! 俺が何をした!」

「黙っててください、切実に」


 着ぐるみをロボット兵器に仕立てて喫茶店を襲撃し、あまつさえ人類連合の職員を負傷させておいてこの言い草はない。

 普通人の法に照らし合わせるなら、器物損壊と傷害罪は確実だった。そして、こんな男でも超人である以上、生殺与奪はヒフミたちが握っているのだ。


『余計なお世話か。おっけー、あと忠告だけどね。今すぐそこから逃げた方いいよ、じゃっ』


 好き勝手に場を荒らすと、傍若無人な怪物は通話を断ち切った。

 後に残されたのは、疲労を覚えた青年と情けない命乞いをした亜人男だけだ。

 どっと湧き出した緊張感から解放された塚原ヒフミの背後で、静かな怒気が発せられている。


 ひどく張り詰めた雰囲気のまま、黒髪の賢角人が一歩、前に踏み出した。

 その潤んだ瞳は、傷つき倒れ伏した友人に何も出来ない苛立ちと、その元凶への憤怒を宿している。

 先ほどの、襲撃者の一言が原因なのは明白だった。

 不味い。

 そう悟った超常種の男が声をかけるより早く、由峻は激情を吐露した。


「淑女を追い回した挙げ句、友人を傷つけているのです。その分、無様に泣いてください」


 思いのほか落ち着いた声音なのに、どこか、怒り以外の昂ぶりが垣間見えた。

 聖母のごとき笑顔のまま、少女の白い頬は赤みを増している。

 ほっとしたいうより、興奮する状況に出会った人間の反応だった。


 うぎぃ、と恐怖の詰まった呻き声を上げる獅子頭。

 じりじりと歩を進める少女の顔は、今や見間違えようもなく、よろこびの微笑みが浮かんでいる。

 路上でSMプレイは相当に業が深い行為だな、と現実逃避まっ盛りのヒフミでさえ残酷な事実に引き戻される。

 焦っても、鼻孔を撫でる薫香くんこうに心惑わされ、青年の舌は上手く回ってくれない。


「人を足蹴に神を名乗る輩が、かくも浅はかで愚かな姿を曝すとは何事ですか。その有様で人間を超越したなど低劣の極み!」

「こ、小娘、何を」

「お黙りなさい。その虚言のつけを払うときが来たのです。たった今、わたしが、そう決めました」


 鬼気迫る言の葉に、塚原ヒフミは絶句した。その桃色の唇に凄絶な色気を感じ、青年は魅入られそうになる。

 狂おしい激情と滲み出るさが、それを御そうとする理性の入り交じった横顔。

 仮に、この娘がヒフミの思い出が長じた姿だとするなら、何と無粋な執着だろう。

 男の野暮な情念など抜きにして、ただ導由峻は美しかった。

 そして同時に、見てはいけない光景を見てしまった気もする。

 特に、怒りと別種の昂揚が見受けられる頬が妖しい。

 素直に言い表すなら、そう。




――変態サディストだ。




 殺し合ったはずの男二人が、互いに助けを求めるような視線を投げかけた。

 情けない顔をさらす獅子頭を見ていると、おそらく同じくらい間抜け面の自分が嫌になった。

 この世は年若い青年の想像力を超えた出会いに満ちている。


「もう、こいつは無力化しました。落ち着いてください、お願いします」


 とても情けない懇願だった。

 服の下で冷たい汗を掻きながら、年下と思しき女の子と対話する自分がいる。

 はっきり言って、今すぐここから立ち去りたくて堪らなかった。

 この娘、何かがぶっ飛んでいる。

 塚原ヒフミの知己にそういう人物は数多いが、皆わかりやすい変人奇人だった。

 まずその手合いは、清楚で上品そうな少女だったことがない。

 したがって現在の事例の対処法も知らなかった。


「友人を傷つけた人間が、こんなにも恥知らずなのです。怒ってはいけませんか」

「いいえ、自然なことです。だけど感情を制御してくれないと、導さんまで拘束する羽目になります。そんなこと、僕はしたくありません」


 ゆえに、底なしの緊張感を体液に変えだらだらと垂れ流す。

 彼の祈りが通じたのか、ぴたりと由峻が足を止めた。

 彼女は両目をしばたたかせ、空の向こうへ目を向ける。

 長い睫毛まつげが何度も上下し、困ったように眉をひそめて青年を見やった。


「聞こえますか」

「僕の耳にもしっかりと」


 耳鳴り。

 ここに来てヒフミも異常に気付き、自らの第六感を研ぎ澄ます。

 最悪なことにこの判断は正解であった。

 超常種としての機能、人体探知能力が急接近する人の群れを捉えたのである。

 群れは空の上を滑るように移動中だ。

 徐々に強くなる耳鳴りは、今や明確なエンジン音と化していた。


「この音は?」

「回転翼機。多分、ヘリですね」


 急転する状況そのものに似た、凶音は強まる一方だ。

 万が一に備え、ヒフミは由峻に一歩近づき立ち止まる。不安げな少女を守るべく、厳しい眼差しでビルとビルの谷間を睨む。


「大丈夫。そう悪いことにはなりませんよ。なるべく動かないでください」


 根拠のない物言いではない。強い確信を込めた言葉に、小首を傾げてこちらを見る由峻。

 その艶やかな髪の間で、二本の三日月型だけが動じていなかった。


 驚くほど巧妙な低空飛行――耳をつんざく音の出所は、大きな翼を持つ航空機だった。

 ヘリとレシプロの合いの子のような機影。

 民生品では未だシンプルなヘリコプターが好まれているが、こと兵員輸送用となればティルトローター機の需要は大きい。

 つまり歴とした軍用機が、二人の頭上で滞空している。

 その特徴的な回転翼の腹から、滑り落ちるように武装した兵士が降下してきた。

 人影――否、機械仕掛けの巨人である。

 紺青に染まった外殻が、鈍い音を立てて着地。

 人型から逸脱しかねないほど太い脚部がしなり、そこに内蔵された衝撃吸収装置が、落下のショックを和らげる。


 まるで中世日本の当世具足のような装甲だった。

 分厚いボディアーマーと手足のプロテクターを、筋力補助で支える鎧武者たち。

 三メートル近い背丈の持ち主は生身の人間ではないものの、その胴体部分に操縦者を宿している。

 パワードスーツと装甲ヴィークルの中間に位置する軍用エグゾスケルトン――人智を以て怪物を制する偏執的思想の産物、当局が誇る『超人犯罪即応部隊』の正式採用装備だ。

 その数、三つ。

 他に六人の歩兵が随伴しており、彼らが対人戦闘を想定した部隊なのは明白だった。


「僕はUHMA所属、塚原ヒフミ超人災害対策官です。こちらの導由峻さんの身辺警護と、不審者の撃退を行った次第です」


 これに対し、素知らぬ顔で胡散臭い笑みを振りまく青年。まるで手応えがない。

 ちょうど一分隊に達する兵士の群れが、アスファルトの地面を踏み締める。

 人工筋肉で駆動するエグゾスケルトンはその威圧感に反し、とても静音性が高い兵器であり、

 フルフェイスのヘルメットに似た、丸い頭部がヒフミたちをじっと見据えても音一つない。

 そして、何の前触れもなく手元の銃口が二人を捉えた。

 ヒフミは眼光鋭く、包囲をしいた兵士を睨み付けたが、依然、機械仕掛けの甲冑どもは過剰な火力をこちらへ構えたままだ。


「どういう理由で、その銃口を向けているんですか」


 試しに話しかけてみても、応答はない。

 エグゾスケルトン全員が、歩兵の基準では携帯火器と言い難い武器を保持していた。目を引くのは、銃身だけで一八〇センチに達する異様な形状の火砲。

 携帯型電磁投射砲――長大な銃身と独特のストック形状から、〈マスケット〉の俗称で知られるレールガンだ。

 圧倒的な弾速と威力を買われた亜人制圧の切り札。

 電磁誘導によって加速した飛翔体は、超人的反射神経をものともせず、速やかに目標を沈黙させる。

 その砲門が、ヒフミと由峻、そして亜人男へ向けられていた。先頭に立つ鎧武者の口から、無感動な硬い声で警告が飛ぶ。


「動くな。抵抗すれば射殺する」


 滅多に撃たれることはないとわかっていても、ヒフミの首筋を冷たい汗が伝い落ちる。

 足下で、獅子頭がくぐもった声を上げた。

 互いに目視可能な距離――極超音速で迫る砲弾の回避は不可能だ。

 ましてや賢角人の少女が居る手前、迂闊な動きは出来ない。

 何せ、第二世代亜人種のほとんどは戦闘行為に向かないのだ。

 〈異形体〉穏健派が生み出した第二世代は皆、運動神経が優れた人間と同程度の存在である。

 彼らが人間社会へ適応するに当たって、真っ先に削られたのが、先祖の超人的身体能力だった。


 それほどまでに「生身の肉体」の基準値は重要だ。少なくとも普通人にとって、隣人が殴りかかってきても即死しない安心感が得られる。

 ゆえに、凶悪犯罪に手を染めた超人への備えは厳しい。

 〈ダウンフォール〉の最中、日本全土で吹き荒れた内戦の記憶から、治安関係者の武装は重装備になりがちである。

 ロボット兵器全盛の昨今、わざわざ生身の兵士が前線にいるのは、「人間が命懸けで治安を守っている」というアリバイ作りのためだ。


「日本の治安とは一体……?」


 いち早く全面降伏した由峻に続き、ヒフミはうんざりしながら両手を挙げて跪く。


「あまり冗句への嗜みはないのですが、高度な自虐でしょうか」


 もちろん由峻にしてみれば、凶悪さにおいて青年は同じ穴の狢であった。

 何せ、躊躇いもなく着ぐるみの轢殺れきさつを試み、その後、銃撃を行った男だ。

 行為そのものの是非はともかく、白々し過ぎて、冷ややかな突っ込みの一つもしたくなる。

 しかし、塚原ヒフミの面の皮は厚い。

 にこにこと笑顔を浮かべたまま、馬の耳に念仏とばかりに一言。


「僕が物騒なのは否定しませんが……そんなに拘束したいならさっさと済ませてください。それと、けが人の救助ぐらいはしてくださいよ――治安当局の名が泣きます」


 誰かに喧嘩を売らないと死ぬ病気か何かだろうか。

 導由峻は、自分の横にいる青年の正気を疑いたくなった。

 一方、そんな少女の動揺など素知らぬ顔のヒフミは、内心、兵士たちの態度に舌を巻いていた。

 舐めきった態度で挑発されても、武装した男達の動きに陰りはない。

 少しは激昂したり驚いたりしてくれたら、付けいる隙も見つかるのだが。


 流石、プロは一味違うらしいな、と嘆息。

 すると彼らの指揮官と思しき男が前に出てきた。

 他の隊員と同じく、フルフェイスの防護マスクを被っているため、その表情こそ伺えないが不機嫌な声である。


「あまり部下を苛めてくれるな。お嬢さんは我々が責任を持って治療する」


 ちょっと待て、とヒフミの顔が引きつった。

 本当に拘束するつもりか――この風変わりな少女の引き渡しは、日本政府とUHMAの間で前もって合意されたはずである。

 一体、どんな理由で彼女がそこまで重要視されているのか、エージェントである彼さえ知らない。

 こうなってはもう、丸眼鏡の男に口出しできることはなかった。

 二人の後ろに回った隊員が、腰から紐状の部品を取り出し、両手首を包み込む輪のようにして固定。

 結束バンドだ。かさばらないため手錠代わりに使われることが多い。

 だが、それだけだった。

 右腰の自動拳銃などのわかりやすい装備にも指一本触れられない。

 入念なボディチェックと武装の没収を覚悟していたヒフミは、拍子抜けしたように問う。


「僕の武装解除は?」

「何かあればUHMAへ抗議しよう。大人しくしていれば、手荒なことはせんよ」


 そう言われてしまうと抵抗出来ない。

 もとい、当局へ牙を剥く大義名分がないのだ。

 如何に強力な超常種であろうと、社会が機能する限りその排除は簡単だ。

 だからこそ塚原ヒフミは自分の属する組織を裏切れないし、その不利益となる行動も取れなかった。

 彼の異能なら銃口を向けられていようと状況をひっくり返せるが、それで由峻を危険にさらしてしまっては元も子もない。

 なら、配慮すべきは彼女の精神状態だけだ。


「彼らは相応に紳士の集団みたいです。安藤さんのことは大丈夫でしょう」

「……はい」


 さて、どれほど怯えているだろうか。

 そう思って脇に立つ由峻を見やれば、思いのほか落ち着きはらっている。

 困ったようにひそめられた柳眉りゅうび、ややうつむき加減の視線を除けば平常通りと言っていい。

 先ほど、友人を傷つけられ鬼気迫る気配を放っていた娘とは思えないほどだ。

 自らの運命を受け入れる殉教者じみた、達観した面立ちがひどく記憶に残った。

 気に入らないな、と小さく呟いて。


「ああそうそう、昼食は上等なのをお願いしますよ?」


 塚原ヒフミが作為たっぷりの、ふてぶてしい笑顔を浮かべるのに時間は要らなかった。

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