地球は裏返っていました。

解場繭砥

地球は裏返っていました。

 地球は裏返っていた。


「そんなお布団みたいな」

 ミヤコさんは言うのだが、実際に裏返っているのだから仕方がない。

「クラインの壺のようなものですか」タナカさんはもう少し理系寄りのことを訊いてくる。

「そうですね、クラインですと、裏と表をなくしたわけですから、そうではなくて、裏返っていると。それはつまり、裏と表の概念は、依然としてあると」

「裏ねぇ……もっとこう、変な意味でしょうか」ヤシロさんは変なビデオのコレクションを大量にお持ちだとか。そうじゃないんだ。


「大変これを説明するのは難しいのです」

「では、裏と表の定義から始めてはどうでしょう。そうすれば、その裏と表が入れ替わったというわけですから、定義をした時点で説明ができます」

「そうではないのです。そんな簡単な話では……つまり、いったん定義したところで、昨日裏だったものが今日は表になっていたり、表だと思っていたものが裏になっていたり」

「よくわからないですね」

「まさによくわからない世の中になってしまうわけでして」



   ◇



 あるいは、この現象は「善と悪が裏返る」と表現をすれば済んだ話かもしれない。

 しかし、それには、ある一方を善、ある一方を悪と定義しなくてはならない。

 だが、たとえば殺人などという誰が見ても悪であるものは入れ替わることはなかった。


 入れ替わるのは、ある程度意見が分かれる善悪に限られていた。


 たとえ毎日入れ替わるとしても、ある一日の瞬間のある観念を切り取ってこれが善であると、もしくはこれが悪であると定義づけることは、それだけで争いを生んだ。もっともこれは、裏返り始める前からあった普遍的な現象である。


 だから、地上に争いがなかったものが、争いが起こるようになったわけではない。地上に争いが尽きぬことなど誰でも知っていることだった。ただ、その争いのありようが変質していった、というだけに過ぎない。

 この現象は、毎日交代になるわけではない。どちらの様相になるかは、その日になるまでわからなかった。また、ある善悪の入れ替わりが、全く別の善悪の入れ替わりと同期しているわけでもなかった。




 この現象を解明するために、さまざまな仮説が立てられた。

 ニュートリノやら宇宙線、ダークマターなど、遠くからの影響やら全く未知のものによるとする仮説がまず最初に立ったのは、この現象があまりにも全地球規模であったからかもしれない。しかしながら、それには、それが地球の自転周期などという、いわばローカルに過ぎる要素を持っていることで説明がつかなくなった。


 どちらになるかはサイコロでしかなくても、きっかり24時間周期で入れ替わる。原因は、地球の自転周期と何らかの関わりがなくてはならなかった。


 日付の変更とともに切り替わる。切り替わりのタイミングは時差に追随し、世界中どこでもその時刻は午前0時だった。何らかの太陽の影響、と考えるとこれは難しかった。これが午前6時ならまだ説明はついた。太陽が見えると同時に何かが起こる。

 だが、午前0時となると、影響度が最小化された瞬間に切り替わりのスイッチが働く、といった、物理作用というより機構めいた仮説が必要とされた。


 そんなわけで科学的な考察は今でも、要するに何もわかっていない。何もわからないまま、人類はその状況に社会的に適合することを迫られたのである。



   ◇



 会社でミヤコさんと言い争いになった。

 僕の言い方が無礼であったそうだ。僕は「上記の件、ご配慮いただけないでしょうか」とメールに一文書いただけなのだが、それが極めて無礼であるという。

「いえね、私はね、お互いに思いやりをもって仕事をすべきではないですか、と言っているだけなんです。私たちは一緒に仕事をしている仲間であるわけで、そんなカチンと来るような物言いをしていては……お互いいい大人なわけですし」


 僕としては大変に言葉を選んだはずの文面が、大変な被害者意識をもって受け取られて、しかも僕はその言葉に対してカチンと来ようが被害者意識を持っていようが全て呑み込まなくてはならない。ちょっとした理不尽ではあるが、それこそミヤコさんの言葉を借りればいい大人であるのだし、こういうことは適当にいなしておくのが社会人としてのあるべき態度ではないだろうか。


 ところが――というか、割とありがちなことではあるが、翌日のミヤコさんのメールの僕への依頼事項があって、「ご配慮いただきますよう」とあったのでその矛盾を指摘すると、良くないのってそういうところですよ、と一言言い、そしてまた、私たち、ちゃんと協力して調和して仕事をしないといけないんですよ、わかってますか? と言ってきて――。ここまでなら、要するに身勝手なのはあんたのほうでしょう、という言葉を口には出さずに心で納得するという、それもまた、人の世にありがちなことと納得して終わったところだ。

 だが、僕はその時初めて、まだその時はオカルトなんだか科学なんだかの境界ぐらいのところで囁かれていた情報が、ああ、こういうことだったのか、と理解するようになったのだ。

 だって、ミヤコさんは性格の歪んだ女どころか、ほんの一年くらい前までは実に爽やかで理知的な女性だったからである。


 つまり――人は、善悪が入れ替わったところで、決して「自分の意見が変わった」という現象として認識しない。一方、他人の意見が変わった、ということは、変わった、ではなく、言動の矛盾、として認識される。その指摘に対する反論として、あれはあれ、これはこれ、と何らかの口実をつけて区別する。あるいは、その人の処世の種類によっては、単に「性格悪い」とか「思いやりがない」とかで処理する場合もあるだろう。

 それは一見、今までの地球が体験してきた普通のいつも通りの世界に見える――。 

 しかしそれでも、統計的に人の意見を集合として処理すれば、如実な逆転現象が見てとれるのだ。



  ◇



 この現象が眉唾の領域を脱し始めたのは、総選挙が近づき始めたあたりだった。

「どうも変ですね」

「どうしたんです」

「例の無作為架電による世論調査ですよ。架電日によって、与党支持と野党支持が日によってまったく真逆になっています。日によってランダムですけど」

「日によってデータがぶれるぐらい当たり前じゃないですか?」

「毎回、どっちが上か違うのに、倍近い開きが出るんですよ。ぶれるという範疇を超えています」

「日によって、調査対象に偏りが発生してるとか? ある日はお年寄りばっかりだったとか」

「無作為架電ですよ? 乱数で生成した電話番号に電話をかけるんです。あり得ません」


 マスコミやシンクタンクといった業界を中心に、この事実は公然と共有されていった。いったん社会的に一定の信用のある機関の言うこと、ということで、それはオカルトではない科学者たちにも伝搬していった。もっとも彼らが本当に社会的に信用があるか、という件に関しては、マスコミをマスゴミと呼ぶような過激なネット世論が隆盛を極めたり劣勢になったりして一定しなかった。


 となれば、「選挙当日はどちらの日であるか」ということが一番の問題となる。しかし原理がわからない以上、そのどちらになるのかを知る手段はなかった。

 年配の政治家は、占い師に頼るものもいたものの、もう少し正気を保っていた者は、与党側であれば国家予算を特別にその究明に捻出するための議案検討やら根回しなどを行い、野党側であれば、成果が上がるか何の確証もない難題に予算を注ぎ込むことを批判した。とはいえ、注ぎ込まないなら注ぎ込まないでそれを批判する議員もいたはずなのであるが、注ぎ込む予算額は特定の日の決議に従い、特に日によって逆転しなかったので、仮に注ぎ込まなかったほうの世界であったなら、同じ議員が真逆の主張をしたかについては、確認する手段はなかった。

 注ぎ込む現実は現実として、ひとりの議員の発言が日によって変動することは事実だった。だが、それを批判する側の人間が自らを省みることはまれだった。

「政治家なんてウソつきばかり」というような、自らを棚に上げた言葉が今の時代に始まったわけではなかった。そのため結局、国民が政治家を見る目は特に大きく変わることはなかった。いつの世も政治家は常に失望され批判されるために存在していた。



  ◇



 とはいえ……予算を注ぎ込んだものの、解明は一向に進まなかった。

 科学者の頭を支配したのは、量子力学が勃興したころから現代に至るまで続く、その不確定性そのものを根本原理とすべきであるか否かという、ロマンチック気味な思想になっていった。


「これは量子論ではありません。マクロな領域に対して、量子的な思想を、ただ現象が表面上似ているからという理由で輸入することは危険極まりない考え方です」

「しかしそもそも量子効果が微視的に限られるということ自体が経験則なのではありませんか? 経験則にのみ頼るのは科学的態度とはいえない」

「しかし、ならばここ数年で突然現象が発生した説明がつきませんよ。物理法則がいきなり変わったとでも言うんですか?」

「そもそも物理法則が不変であるというのが経験則なわけでして……」

「物理法則がしょっちゅう変わったら科学なんて概念がそもそも崩壊するでしょうが!」

「であれば、物理法則という概念を記述する、メタ物理法則というものの存在が仮定されるわけでしてね。おそらく、物理法則をプログラマブルにする、あるいは数学ともまた異なるかもしれない何らかの記法が必要なのであって……」

「そんな考え方を許容したら際限がなくなる。メタ物理法則に対してメタメタ物理法則を仮定して、というのが無限に続くことになります」

「それすらも内包する記法を構築すべきです。つまり法則は無限にその上位概念が連鎖していくことを前提とした……」


 科学者達はロマンチックになり過ぎた。

 しかし、議論が進まないのは、科学者の浪漫主義のせいばかりではなかった。

 科学者たちが、科学的でありすぎた。つまり、論理的に一貫性を持たせようと常人を遥かに超えるレベルで努力した結果、逆相の日の考えもその論理に内包しようとした。それは相対性理論の宇宙項のような、辻褄合わせのための過剰で複雑な論理だった。

 つまりは、科学者が科学者である限り、彼らは目的を達することが原理上できなくなっていたのである。 



  ◇



 そういう意味では、運用によってこの現象との共存を図ろうという試みのほうが、科学者よりもまだ現実的であるといえた。

 

 それは、「人は間違いを犯すもの」という前提で産業の安全基準が作られるのと似ていた。

 人は論理一貫性のない、信用ならないもの、という前提で日々の生活を送ろうというのである。


「女心と秋の空」ということわざがあって、それが女性蔑視的であるという指摘があった。いやいやそもそも、男心と秋の空のほうが古い表現ですよ、という意見と、そんなこと知ってます、それの使われ方に違いがあることが問題なのです、男は浮気当たり前、女は気分屋という扱いに何も感じないのですか。そういう反論になった。


 という議論をする層は、社会学者ではなかった。むしろ、ネットの隆盛と共に、この現象が起こるより前から爆発的に増えていた日曜批評家達であった。

 もとより彼らは無責任だった。そこへ来てこの現象であるから、より責任を負わなくなった。

 何らかの矛盾を指摘する。ところが、それは今や、当然の人類の性質を指摘したに過ぎなかった。


 彼らは、議論の終結よりも、むしろ議論が無限に継続していくことを望んでいた。

 彼らにとって、結論を導くことなどどうでも良かった。

 彼らが目的としていたのは、自分が批判ができるという事実の確認だった。

 批判に対して、それを受け入れない者がいると、それは大変に彼らを喜ばせた。喜ばせていたが、表層は怒りの形態を取った。

 つまり、嬉々として「お前は理解していない」という罵声を浴びせることができるような口実を彼らは求めていた。


 このことわざの件に関しては、そもそも移り気が悪という考え方自体が、進歩する方向であるはずの人類にけちをつけ、唾を吐くような言動ではないか? という疑義が示された。

 あるいは、この両方のことわざが、人類を礼賛するものである、と捉えることはできないのか? という、ポジティブ思考に偽装しながら、その実、ことわざをネガティブに評価する者をさらにネガティブに評価するという、裏の裏は表のような理屈でさらなる反論が積まれた。こうすれば、最終的にはポジティブな結果となりながらも、他人を攻撃する快楽も味わうことができ、縁台将棋のようなノリの縁台ネット論者にとって、この上ない充実した場となった。


 問題の現象によって、毎日主張が入れ替わる事態、というのは、争いを長期化させるのに大変に役立った。

 自分の論理的一貫性を捨てながら、しかし他人が矛盾している場合には、現象の有無を問わず攻撃することを絶対に厭わなかった。

 そういう、ある種不道徳な現象は、人々の道徳をゆっくりと麻痺させていった。


 そう長くない論争を経て、浮気は悪、気分屋は侮辱、という考え方事態が陳腐化していった。


 それは居直りのように見えて、環境への順応だった。

 浮気も気分屋も、男女問わずそれは人間らしい、祝福すべき性質となっていった。



  ◇



 ミヤコさんを襲ってしまった。


 あの現象が起こり始めてからというもの、気分は毎日ころころと変わっていく。

 自分の主義主張がぶれないようにするのは、大変な作業ではあった。


 しかし、僕は幸いに、全てを投げ出して自暴自棄に走るほど粗野な性格ではなかった。


 確かに、その前日の僕であれば、襲ってはいけない、という確固とした考えを持っていたかもしれない。また、彼女に、女性としての魅力を感じるかどうかについても、原則あまり感じない。

 特に性格がふらつき始めてからはそうだ。


 だから、その感じない、というのが、その日たまたま逆転した、というのに過ぎない。


 女性というのは、男性に付き従うのを好むか。戦争が終わってから、ごく最近までそれは否定され続け、少なくとも識者でそれを肯定する者はほとんどいなくなった。ただ、現象が起こってから逆転する日は多く出た。たまたま、その日はその思想も逆相だった。


 そういう、いくつかの考えが、たまたまある一定の相になって重なった。

 結局、僕の行動は偶然がもたらした必然に過ぎなかった。


 だが、翌日、ミヤコさんは怒っていた。


(怒っているのは、翌日だからだ)


 僕はそう思った。当日は全く問題のない行動だったはずだ。


 そして、今僕は、ミヤコさんを可愛いとは思えなかった。それは、可愛いと思う感覚が逆相というよりは、単にミヤコさんが怒っているからだ。怒っている人にわざわざ愛情を感じるというのは理解しがたい感覚だった。


 僕はたぶん、以前は人の話が一貫していないと自分が怒るような人間だったと思う。だが、一貫しているという奇跡的な状況は、今やあり得なくなった。


 おそらくこの事態を整理するには、ミヤコさんが当日何を考えていたか、僕が当日何を考えていたか、そして今日ミヤコさんが何を考えているか、今日僕が何を考えているか。その四つ全てをきちんと事実関係を明らかにしないことには、何一つ始まらない。

 それらは全く独立した話で、当日と今日が矛盾しているかどうかを確認しても何の意味もない。そこに矛盾があるとしたら、当日のミヤコさんと当日の僕、今日のミヤコさんと今日の僕との間にしかあり得ない。


 少なくとも当日の二人の間には、愛情があったように思える。そして、今日の二人の間には愛情が無いように思える。つまり僕たち二人の気持ちは揃っていて、そこに何の矛盾もない。


 だが、オフィスにその話は広まってしまった。


 そして、今の世の中がそうであるように、あの現象が起きる前の常識よりはるかに激しいレベルで、両陣営に対して糾弾があった。そして、あらゆる議論に共通して、決してそれは解決という方向性を持たなかったのである。



  ◇



 選挙の日はたまたま野党の側にサイコロが振れて政権が逆転した。しかしそもそも、公約ですら守られる保証は全くなかった。守られる保証がない公約というのは、今までも多く見られるものではあった。

 しかし、原理的に守られない公約というのは、単に不誠実や無能力のために守られない、古典的な公約違反とは違っていた。

 決議の日が選挙の日と逆相になっているだけで、いかに周到に準備したところで、新・与党の議員自身が否決してしまうのだ。

 こんなことだから、そもそもの立法組織としての国会は、その機能を為さなくなっていた。


 新与党にせよ新野党にせよ、連立せず相変わらず野党に留まった党にせよ無所属にせよ、立法への意欲自体が失われていった。しかし、議員たちは自らの無気力を自覚することを無意識に避けようとした。つまりは、他人がそう認めるかどうかは別の話として、相変わらず議員というのは正義に燃える気質を備え続けていた。


 そこで国会では、立法の代わりの機能が注目されつつあった。その機能は全く公式のものではなかったが、この現象が起こる前から脚光を、今から思えば浴び始めていたのだった。


 つまり、糾弾をショー化した、エンターテインメント施設である。


 このため、議員の汚職について、今まで以上に徹底的な追求がなされた。汚職のみならず、不倫などの不道徳な行為も激しく追求されるようになった。しかし、道徳の問題となると、汚職と異なり、その依って立つ価値観が揺らいでいる現状では糾弾の難易度は高いと言えた。

 しかし、難易度が高くとも、追求側の価値観も不連続である。国会は通常国会だけでも百五十日間あり、土日祝の休戦があるにしても、日々戦術も論法もその日にならないとわからない変化をしていったために、一貫した主張をする苦労もなく、責め立てられる材料は、個々が矛盾していようと全て活用された。


 エンターテインメントとの認識が広まるにつれ、議員たちの語り口もまた多様性を帯びていった。

 旧来の議員の語り口はある種の型に嵌まっていた。その枷が外れ、お笑い芸人のレベルまで多様性が一気に噴出したのである。

 落語風・講談風・漫才風・宇宙人風・罵倒マシンガン・京都の皮肉おばちゃん・謎の脱力マジシャン風・キレ芸・ものまね・社内吊り広告的オヤジギャグを売りとする者・自称戦闘美少女・悪役議員……。

 修得された、もしくはしようとして失敗した芸風は実に多様であった。

 地球にもたらされた環境が、大進化を発生させたという点では、その進化はさながら、バージェス頁岩動物群のようであった。議員大進化というわけだ。

 その進化は、現象発生前の状況だったとしたら、必ずしも好ましいものとは言えなかった。その頃にこの変化が起こったとしても、逆に叩かれて淘汰されていただろう。これは、この現象に対する正しい適応の結果であって、正しくダーウィニズムに則っていた。

 

 語り口だけではない。そのいでたちも変化していた。以前ほとんどがスーツで、男性よりも少しはバリエーションのある女性を含めてもフォーマルウェアの域を出なかったものが、カジュアルを通り越してコスプレと呼ぶべき状況になっていた。自称戦闘美少女は、アニメの著作権に触れないギリギリのところを攻めていた。だが、お笑い芸人と違って、全裸議員は現れなかった。既にいったん成立してしまった法というものは、人の意見と異なり、日々の変動を受けなかったので、有名無実化したとはいえいやしくも立法府の人間が法律を破ることはできなかったのだ。ただ、半裸議員なら現れた。これもギリギリのところを攻めている。

 悪役議員は、マスクを被ることにしていた。

 半裸やマスクなどの点では、議場はプロレスリングに似てきた。

 ただし、跳び蹴りやラリアートなどは行われなかった。いやしくも……というわけで暴力行為と看做される行為はできなかった。


 ただ、異論を申し立てるアクションは派手になった。何かを主張する時に、人差し指を立てて上下に振る、程度のオーバーアクションでは誰も目立てなくなっていた。机の上に土足で立つなどのアクションも頻繁に行われた。しかし、ギャグだとしても傲慢さが際立つと票が獲れなくなるため、自分でつけた足跡を焦りつつハンカチで拭くといったオチをつけて笑いを取ると共に、庶民感覚の持ち主であることをアピールした。

 机に拳を叩きつけるだけでは足りなかったので、ハリセンの活用が検討された。しかしながら、相手が本気で追い詰められるところに視聴者の娯楽はあるので、ハリセンの音はあまりに軽すぎた。

 誰も傷つけず、危険はなく、しかし机を叩くとハリセンより遥かにシャープな、迫力ある音を立てる器具が発明され、バトルハリセンと名付けられた。その機構は特許出願中とのことであった。とはいえ特許の出願原稿が完成に至るスピードは従来より鈍化していた。


 国会中継の視聴率が大幅に上昇し、民放各局も放送権を欲しがった。中継権は、オークション式に各局で買われた。また、議員のキャラクターグッズを売り出すとこれもまた売れまくった。グッズは、可愛らしいものよりも、壁に叩きつけられるような憎たらしい表情と耐久性を持つものが人気だった。

 彼らの芸風はまず、何と言っても批判をされることだった。

「彼らもまた芸人なのです。被批判芸人なのです」

 こう言った社会学者はカメラの前でドヤ顔をして、それが「うまいこと言ってやった感」がムカつくということで学者自身が批判を浴びている。もっとも、さらなる反論として、ダジャレの域にすら達しておらず、〝ヒ〟という音が連続したというだけで一見語呂が良く見えただけに過ぎない、というものがあって、それらがいい感じに批判を増幅した。


 そんな感じで、世の中は荒れていた。

 荒れている世界を荒れていると感じない生き方を人類はたくましく身につけていったのである。



  ◇



 どういうわけか僕とミヤコさんは結婚してしまっていた。


 昔の理知的な彼女はどこへやら、大変に感情的な存在になってしまったというのに、なぜこんなことになったのかわからない。


 ただ、感情をぶつけ合うというのは、恋愛の醍醐味である。それは今も昔も変わらない。だから、僕とミヤコさんの夫婦仲は、ある意味でとても良いのだと思う。


 世に、ケンカするほど仲が良い、と言う。そういう意味合いで、とても仲がいい。


 じゃあ、国家間のケンカである戦争はどうなったかというと、これが地球上から消えてしまったのである。それは、そうだろう。戦争とは、日々準備を積み重ねて、最も効果的な戦力をぶつけなければならない。そういう計画をすること自体がとても難しくなってしまった。


 僕たちの生き方は、人類の生き方は、かつて刹那的と呼んで蔑まれた生き方が、最も理想的な生き方になった。

 少なくとも、人類は幸せになった。戦争が人の不幸を測るものさしであれば。


 そして、個人の幸せを測るのは、それよりもさらに、土台とする価値観に左右されていった。


 人類はこのあたり、いままでにないぐらいうまく生きている。


 なぜこんな現象が起こったのか、人々はもう考えるのをやめた。たとえば宇宙人科学者のちょっとした実験だったとか、いろんな可能性は考えられるが、ともかく考えるのをやめた。


 思考停止も、感情爆発も、それしか手がないとなったら、人はそれを良しとしてしまう。人類はそういう存在だとわかったのだ。


 人類は、とてつもなくたくましい。そんな僕たちを、太陽がにこやかに見守っている。

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地球は裏返っていました。 解場繭砥 @kaibamayuto

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