タバコの煙と天使

篠岡遼佳

タバコの煙と天使

 試験というものは、何であれ、独特の緊張感が漂うものだ。

 特にこんな、人生を決めてしまうような試験では。


 古びた大学の大講堂、その4段目の端が私の座席だ。

 私はここを学び舎に選び、いままさに大学入試試験を受けているところだ。


 午前中の科目はうまくいった。ある程度手応えがあったし、噛みついていけたと思う。

 しかし、我慢はきかない。タバコが吸いたくて、私は喫煙所に出ていく。

 もちろん、ちゃんと二十歳を超えている。

 そう、私は多浪生なのだ。


 試験はけっこう、両手で足りないくらいは受けてきたと思う。

 おかげで、底冷えする教室の方が多いことや、甘いものが必ず必要になることを学んだ。

 チョコレートと、膝掛け、クッションは必需品である。


 この大学の喫煙所は、建物の端、一本だけ木の立った、木漏れ日の射す場所だった。

 今日は二月の割に、穏やかな青空で、吹く風もゆるい。

 一本吸い終わったタイミングで、スマホを取り出して、一応なにかメッセージがないか、電源を入れて(試験中は切るのがマナーだ)確認してみた。


 彼にメッセージを送ったのは、昨日の夜だ。

 「明日は大学入試」と、送ってみた。

 返事は、……ない。


 わかっているのだ。

 同じ学年だった愛しい人には、とっくに追い越されてしまって、最近は電話もない。大学が忙しい、なんていいわけを聞かなくても、そう言うものだと思う。自然消滅というもの。ずっとずっと好きで、彼と一緒にいたいから目指した大学もあったというのに、世の中なんてこんなふうにできているんだ。

 わかってる。


 ――あー、だめだ、いま泣いたら集中力が切れる。でもだめだ、目頭が痛い。がまん、がまん、がまん……。


「あのう、すみません」


 俯いていると、頭の上の方から声がかかった。

 なんだ、邪魔だっただろうか。そちらに目をやると。


 なんだか、ひらひらした服を着た、金髪で小柄な女の子が、木に引っかかっていた。


 ……――んーーーー。

 幻覚かな……?


 と、思ったら、ばたばたばた! と羽音が聞こえた。

 どうも、というかどう見ても、その子の背中から生えているようにしか見えない翼で、もがいているらしい。

 ――なんというか、小動物に対するような憐憫の情がわいた。

 私は背が高い。喫煙所のベンチを引っ張ってきて、木の近くに置き、その上に乗っかって、その子が引っかかっている木の葉や枝をどけてやる。

「ふあ、すみませぇん……ありがとうございます~」

「うわ、喋るのか君は」

 思わずひどいことを言ってしまった。

 しかし、彼女は私の言葉を気にせず、ふわふわと羽ばたき、空気のように地面に舞い降りた。

 そして、いきなり地面に座り込んで頭を下げる。

 金髪の上には、まるで天使のようにまあるい光る輪っかが浮いている。

「本当に助かりました、ちょっと『跳躍』がうまくいかなくて、変な座標に出てしまったんですよぅ。あのままだったら変な風に木と一体化しちゃうところでした」

 どうも、すごく感謝しているらしいことは伝わってきた。

 でも、土下座はやめなさい。

 タバコに再び火を付けながら、私は彼女に言う。

「まあ、いいから、他の人が来る前にどこかに行ってしまった方がいいんじゃないか?」

「ああ、すいません、なんかそんなところまでお気を遣わせてしまって……」

「すいませんはいいので、さっさと、ほら」

 手を貸して立ち上がらせると、そりゃまあびっくりするくらいかわいい女の子だった。

 ちょっとべそかいてるが、そこもまた庇護欲をかき立てられる。

 さらっさらの金髪に、空色の瞳。ひらひらした服に、背中の翼に、頭の輪っか。

 もじもじと指を合わせている仕草も、ものすごくかわいい。

 色っぽいとかではなく、なんかこう守ってあげなきゃ! という気持ちがすごい。

 とりあえず、私は聞いてみた。

「えーと……そのー、」

 言おうとすると、かなり恥ずかしい。一回タバコを吸って一拍置き、

「君は……天使ってやつですか」

「はいぃ、そうです。『地球』の極東担当、第百三十八万四千五番といいます……」

「はあ、番号なのね。っていうか、え、極東担当で百万もいるの?」

「天使にもいろいろありまして……何千番台はなに担当、とかあるんです。自然現象を見守るとか、『地球』とのやりとりとか、縁を結ぶ役とか……」

「ふーん……」ちょっと興味をそそられたので聞いてみる。

「君はなにしてるの?」

「私は、百三十八万四千番台ですが、まだ仕事をふられておりません。待機であります」

「そう……、じゃあまあ、そろそろ休憩も終わるから、私は行くよ、じゃあね」

 これ以上非現実と顔をつきあわせていると、次の英語の長文に響く気がしたので、タバコを携帯灰皿に押しつけながら、私は手を上げて、じゃあね、と言った。

 すると、彼女は私の服の裾をひっつかみ、

「まままま、まってくださぁい! あの、私、天使なので、助けられたらお礼をしないといけないんですぅ!」と、止めてきた。

「お礼? どんな?」

 寒いからポケットティッシュほしいな、と思いながら一応聞いてあげる。

「ポケットティッシュじゃないです、『あなたの未来』をひとつ叶えます!」


 未来?


「……どういうこと?」

「つまりですね、あなたにこれから起こることを、ひとつだけ叶えるんです。そうだ、あなたはきっと受験生ですよね、合格する、なんて未来はいかがですか?」


 なんと、合格させてくれるときたもんだ。

 いやいや、天使って時点でおかしいけど、でも、これはひょっとすると……?

 私はしばし間を開けて、

「じゃあ、合格する未来を…………………」


 待て。


 私は本当は何がしたいんだ?

 とにかくこの試験から逃げ出したいのか? もちろん、それはそうだ。

 けれど、その先は? 私が叶えたいことって何だったっけ?


 彼と一緒にいたくて選んだ大学だけれど、それ以外にもここを選んだのは、自分のしたい勉強ができそうだからだ。

 私は脳科学を勉強したい。でも、医学部に入るような脳みそはない。だから、高校の先生を頼ったり、ネットで調べて、やっとこの大学なら入れそうだと思ったのだ。


 私の未来は、どうありたい? 私は一体、なにがしたい?


「――いいよ、これあげる」

「ほぇ? チョコレートですか?」

「いまは思いつかない、他の人を叶えてあげて」

「そういうわけには天使的にいかないんです、助けられたら絶対に恩を返さないと存在に関わるんです! だから、とにかく試験をがんばってください!!!」



 そんなわけで、自席に戻り、過去問の見直しもした。

 午後の試験もまあまあできた方だと思う。

 空気のように彼女がついていてくれるのがわかった。

 彼女は、どういうわけか、私以外には見えないようにしているらしい。


 応援してくれる誰かがいてくれるだけで、安心できるとは知らなかった。


 家では誰も私を応援なんてしてくれない。

 大学に受からなければ私はただの袋だ。そう思っていたのに。


 ――未来をひとつ叶えられたら、私は何がしたいんだろう。


 私は再び喫煙所に行き、今度は缶コーヒーを二本買って、片方を彼女に渡した。

「あのさ、しばらくでいいんだけど、一緒にいてくれない?

 ――私の未来を考えてくれたのは、あなたがはじめてなんだ」

 彼女は、そんなことでいいのか、という顔をして、しかし、微笑んで続けた。

「ええ、わかりました、きっとその未来を叶えます。だから、あなたは大丈夫」

 天使はそう言うと私の頭を撫で、

「あなたに御方の祝福を。私に御方の采配を。未来のために」

 そう唱えて、私の手を取った。


「一緒に行きましょう、あなたのための未来へ」


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タバコの煙と天使 篠岡遼佳 @haruyoshi_shinooka

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