再会と口づけ
せっかくお礼の手紙を書いたのに、ヴィーからは何の音沙汰もなく三日が経過した。リゼルティアーナは迎賓棟でお妃教育を受ける日々。
午後の散歩の時間に合わせて女官らが着替えのドレスを持ってきてくれた。いつもはあまり華美ではないドレスなのに、今日はレエスと宝石のついた薄青のドレス。髪の毛も丁寧に結い上げられている。椅子に座り、鏡の向こう側の少女をじっと見つめる。
「今日はいつもより入念ね」
小さくつぶやくと、髪の毛にリボンをつけてくれている女官が「今日は王太子殿下と非公式ですがお会いすることができるかもしれません」と答えてた。
「え、殿下と?」
リゼルティアーナは思わず振り仰いだ。
「はい。午後空き時間があるそうで。お散歩中に偶然を、装ってリゼルティアーナ様をお連れするようフェリクス様から言い使っております」
「まあ、そういうことなのね」
「はい」
女官はにこりと笑った。
宮廷ではしばし、こういうやり方が取られる。すべて段取りをしているのに、さも偶然のように演出するのだ。
(実際自分の身に起こるのは初めてだわ)
外出の支度が整ったリゼルティアーナはラーラを伴って庭園へと向かった。迎賓棟の周辺の散策ではなく、本宮殿へと続く小道を歩いていく。初めて歩く区画に入るとリゼルティアーナは物珍し気に周囲を見渡した。
それから、鼓動も早くなっていく。
これから王太子に会えるのかしら。
一応書類上ではすでに夫ということになっているのだけれど、まだ対面もしていないから実感がわかない。結婚式だってまだなのだし。
リゼルティアーナはゆっくりと歩を進める。いつのまにか側に控えていた女官らが姿を消していた。
リゼルティアーナの横にはラーラが我が物顔で歩いている。彼女も初めての場所で緊張しているのかもしれない。ときおり立ち止まっては鼻をひくひくと動かしている。
周りの低木や花を愛でていると、黒い髪の青年が近づいてきた。
「ヴィー」
「……よう」
今日は騎士姿ではなく、刺繍の入った上着に首元にはクラヴァット。
背の高いヴィーを遠目に見つけたリゼルティアーナは胸がとくんと大きく鳴ったのを自覚する。
だって今日の彼はいつもとは全く違うから。
騎士装束でもないし、前髪を後ろになでつけている。普段は長めな前髪が瞳にかかっていて、少し鬱陶しそうにしていたのに。
(前髪を上げただけでずいぶんと印象が変わるのね。ヴィーってばこんな顔をしていたのね)
リゼルティアーナはまじまじとヴィーを見つめた。切れ長の薄青の瞳にすっと通った鼻筋。一見すると冷ややかな印象だが、口を開けば意地悪な言葉ばかり出てくる。
(あ、でも。あれで案外わたしのことを気にかけてくれていたりするのよね。そうだ、お礼言っておかないと)
「ヴィー、手紙にも書いたけれど、あなたのおかげで殿下からお手紙が貰えたのよ。ありがとう。あれからあなたちっとも姿を現してくれないんだもの」
リゼルティアーナは少しだけむくれた。
変化に乏しい迎賓棟での日々で、彼とのやり取りは楽しかったのだ。
「え、ああ悪い。色々と忙しかったからな。こっちも。手紙も読んだ。別に、礼とかよかったのに」
ヴィーの言葉には日ごろのような覇気が無かった。
「あなた、元気ないわね。どうしたの? 熱でもあるの? というか、着慣れない衣装を着て緊張しているとか?」
「相変わらず失礼な言い方だな」
ヴィーが間髪入れずに返してきた。
リゼルティアーナはホッとした。
彼との会話はこうでなくちゃ。
「だって、今日のあなた別人のようなんだもの。あなたも宮廷服着たりするのね」
「ああ……まあな」
「そういえば、あなたはどうしてここに? あ、そうか。王太子殿下の側近だものね。殿下はお元気? そろそろこちらを通られるのかしら?」
リゼルティアーナは思案気に話す。
一方のヴィーは先ほどからどこか上の空だ。
ちゃんとこちらの話を聞いているのかいないのか。リゼルティアーナはむむっと眉を寄せて、ずいっと彼に近づいた。
「あなた、今日は覇気がないわね」
「そうか? そんなこともないけど。ああ、そうだ。あっちに行かないか。座れる場所があるんだ」
と、ヴィーはリゼルティアーナから向かって左側の小道を指さした。
「ええ。いいわよ」
もしかしたらそこに王太子がいるのかもしれない。
二人は連れ立って小道を歩く。その間も彼は沈黙したまま。やっぱり今日は元気がない。
小道の先に現れたのは小さな東屋。
中には長椅子と小さなテーブルが設えており、テーブルの上には飲み物の入った瓶が用意されていた。
布張りの長椅子に連れ立って腰を落とす。
「今日は、ずいぶんとめかしこんでいるんだな」
「女官たちが張り切ったみたいなの」
「……可愛いな」
突然のことにリゼルティアーナはぽかんとした。ついヴィーの顔を凝視してしまう。
「……なんだよ」
「あ、あなたが素直に褒めるからびっくりしたの。明日は……雨かしら」
「失礼な奴だな。俺だって、可愛いと思えば素直に褒める」
「本当にそう思っている?」
つい念を押してしまう。
「……ああ」
ヴィーは少しだけ視線をそらした。
リゼルティアーナはくすくすと笑みをこぼした。なんだか胸の奥がこそばゆい。
「飲むか?」
ヴィーは瓶の中に入った液体を銀の杯に注いでくれた。
「なあに?」
「レモン水」
「わあ。嬉しい」
リゼルティアーナはごくごくとレモン水を飲む。ヴィーは皿の上に水を注いで下に置いた。ラーラがぴちゃぴちゃと皿を舐める。
「ラーラの分もありがとう」
リゼルティアーナはラーラの代わりにお礼を言う。
「どういたしまして。……王太子殿下からの伝言、いや。彼が言うには、手紙嬉しかったって。喜んでいるよ。おまえの手紙、可愛くて」
「やだ、もう。可愛いって言われると照れちゃうわ」
リゼルティアーナは両手で頬を包み込んだ。しかもヴィーの低い声で言われると効果倍増。
「わたしもね、殿下にお会いしたらお礼が言いたいわ。菫の砂糖漬けも甘くておいしかったし、ラーラのおもちゃもありがとうって」
「喜んでくれて嬉しい」
「あら、どうしてあなたがお礼を言うの?」
リゼルティアーナはきょとんとする。
「リゼル……俺は……いや、俺が……」
リゼル、と低い声が耳朶をくすぐってリゼルティアーナの肩がびくんと跳ねる。
「リゼルは、今でも俺が……嫌な奴だと思うか?」
今度はそんなことを聞いてくる。
心なしか、彼との距離が先よりも近い気がする。
「あなたのこと?」
リゼルティアーナは繰り返した。
彼は少し苦しそうな、切羽詰まったような顔でじっとリゼルティアーナを見つめる。それは告解前の人間のようにも見えて、リゼルティアーナはごくりと息を呑みこんだ。
いったい彼は何を考えているのだろう。
「あなたは、最初はそりゃあ、かちんってきたけれど。でも、いまはあなたとこうして話をするのも楽しいって思うわ。あなた、遠慮がないじゃない。でも……それも悪くないなって思うの」
リゼルティアーナは正直に答えた。
「それに、あなたのおかげで殿下から手紙が届くようになったもの。それも嬉しかった」
「……そうか」
「そうそう、ダンスも楽しかったわね。あなたも上手じゃない。びっくりしちゃったわ」
「俺とのダンスは嫌じゃなかったのか?」
「んんー、とくには。あなたダンス上手だったもの。楽しかったわ」
「俺も楽しかった」
と、そこで彼が張り詰めていた空気を破るように笑みをこぼした。
リゼルティアーナは彼から目を逸らすことができなくなる。
「リゼル」
ヴィーはやにわに腕を伸ばす。
伸ばされた腕が、指先がリゼルティアーナの頬をかすめる。
「んっ……」
くすぐったくてリゼルティアーナは瞳を細めた。
「俺に触れられるのは、嫌じゃないか?」
「……わからないわ」
リゼルティアーナは正直に答えた。今こうしているときも、別にその手を振りほどきたいとは思わない。彼の手のひらがリゼルティアーナの耳の後ろを、首筋にやさしく触れる。心の奥をふわりと撫でられたような気分になる。
彼に引き寄せされ、ヴィーの顔が近づいてくる。
ヴィーは一つ一つ確かめるように、もう片方の手でリゼルティアーナの手を掬い、握りしめる。二人の視線が絡み合う。
ヴィーはそっと身をかがめリゼルティアーナの唇を塞いで、すぐに離れた。
「……嫌だったか?」
鼻の先がくっつく距離で問われる。
「……嫌じゃな……かった」
思わずつぶやいていた。すると再びヴィーによって唇を塞がれた。
触れ合う口づけを何度も交わし合う。お互いの唇の感触を確かめ合うように、何度も何度も交わされたそれはいつしか熱を生み、今度は長い間重ねた。
「ん……」
呼吸をしようと唇を薄く開くと、今度は彼の舌が滑り込んできた。
いつの間にか、彼の腕がリゼルティアーナの頭の後ろに回されていて、しっかりと固定されている。
初めての深い口づけに戸惑ったのは一瞬で、リゼルティアーナはヴィーにされるまま口内の主導権を渡した。
彼の舌がリゼルティアーナの具合を確かめるように慎重に口内を探る。彼に追いかけられるように舌を絡ませるうちに、徐々に体から力が抜けていく。
ヴィーの腕に力がこもり、いつの間にかリゼルティアーナはヴィーに身体を預けていた。
「ん……あぁ……」
呼吸をしたくて、顔を離すのにすぐに彼に抑え込まれる。
夢中になって彼から与えられる口づけを享受しているリゼルティアーナだったが、大切なことを思い出した。
(わたし、たしか……)
誰かを待っていた気がする。
そう、大切な人を。目の前のヴィーではなくて。
(ああぁっ!)
思い出した途端にリゼルティアーナは慌ててヴィーから体を離そうと動いた。
突然力いっぱい胸を押されたヴィーは驚いたようにリゼルティアーナを離した。
「どうした?」
「あ、あなた! ど、どうして、こんなこと……」
リゼルティアーナは気が動転した。
だって、口づけは普通夫とするものだ。なのに、どうしてこんなこと。
リゼルティアーナは頭を掻きむしりたくなる。
「どうしてって。おまえのことが好きだからに決まっているだろう!」
「言ったらだめよ! そんなこと、わたし、わたしは王太子殿下と結婚するためにトルネアに来たのよ!」
なのに、親しくなった殿下の騎士との仲を深めてしまった。許されることではないだろう。
「当たり前だろう」
「なのに、殿下の騎士であるあなたとこんなことをしてしまって。許されることではないわ」
リゼルティアーナの瞳に涙が浮かぶ。
どうして、こんなこと。
立ち上がり、彼から逃げようとするもヴィーが咄嗟にリゼルティアーナの腕を掴む。
「俺だ。俺が、その……王太子なんだ。……すまない。今日はそれを伝えに来たのに……」
色々と手順が逆になって、と彼は覇気がなく答えた。
一方のリゼルティアーナは。
頭の中が混乱していて事態に付いて行けない。一つわかっているのは。
「あなた。いくらなんでもついていい嘘と悪い嘘があるわよ。身分の詐称は冗談では済まされないわ」
「違う! 俺が、ヴィーラウム・ヨハナン・ゲルリンクだ」
「だから、つくならもっとましな嘘をつきなさい。とにかく、離して!」
リゼルティアーナは目の前の男の言うことを全部否定して、どうにか腕を振り払って東屋から飛び出した。
「待て! リゼル。話をちゃんと聞け!」
聞けるわけがない。リゼルティアーナは振り返らずに走り出す。
とにかくここから立ち去らないと。
王太子殿下と鉢合わせることがあってはならない。ヴィーを守るためにもこれは急務だ。
走っていると前方にフェリクスの姿があった。
「あれ、姫君。殿下とは無事にお話しできましたか?」
昼下がりの日向のような穏やかな顔で尋ねてきたから「いいえ。わたし誰とも会っていないわ。用を思い出したから帰るわね」と慌てて言ってまた走り出す。
ヒールの靴が煩わしい。
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