17.予定調和
僕たちが発する音がすべて吸収されている。四方八方を囲む木々の葉が生暖かい風に撫でられ、かさかさと音を立てた。
「なんか神秘的だな」
思わず独りごちた言葉も誰かに届いているかはわからない。目の前にそびえる灰色の建物は異様な貫録を放っている。
「はあ、はあ……。ふたりとも、よく疲れないね。こんな長い階段を上ったの初めてだよ」
「僕は小さいころに運動してたからスタミナには自信あるんだ」
後ろを振り返ると瀟洒な浴衣姿をしていながら、肩で息をしてうなだれている京華さんがいた。
それもそのはず。花火の会場から逆方向に向かった僕らの前に現れたのは人の手が入っているとは思えない木深い森と、百段ほどもある無骨な階段だった。
「美咲ちゃんなんか顔色一つ変わってないし、ほんとうに人間なの?ガソリンタンクとかじゃない?」
「私は小さいころによく来てた場所だから慣れてるのよ」
わざと僕のセリフに似せた美咲さんも僕と同じくらいのペースで淡々と階段を上っていた。というよりも、測ったらきっと僕よりも速かったはずだ。
息を整え、三百六十度ぐるりとあたりを見回した京華さんが近くにあった苔むした像に近寄った。
もう何年も放置されているのか、森に同化するように緑色に包まれたそれは利口な犬のようにじっと佇んでいる。
「ここって、お寺?」
「違うでしょ。狛犬は神社に置くものだし」
どこかで聞きかじった情報をひけらかすように答える。自慢げに鼻を鳴らしたのもつかの間、美咲さんから「要くん、本当に日本史の勉強してるの?」と横やりを入れられた。一体何を言っているのかさっぱりわからない僕は目線で美咲さんに説明を求める。
「ここは歴とした寺院なの。その狛犬は明治時代に神仏分離令が発令される以前、神仏習合の習慣の名残よ。だから狛犬は神社にしかいないっていうのは間違い。この奥に神社の本殿があるらしいけど、そっちは私も行ったことがないわ」
教科書で見たことのある単語が次々と襲い掛かり、僕は逃げるように視線をその建物に向けた。
人の気配も、仏の気配も、ましてや神様の気配も感じない境内で生を全うしているのは僕ら三人だけ。その現実が不思議と怖く感じて鼓動が早まる。それを気にすると、より一層胸の高鳴りが僕を苦しめる。
空は徐々に藍色に染まり、時間を確かめようと腕時計を見ても文字盤ごと深い藍色に変わっていく。
仕方なくカバンの奥底からスマートフォンを取り出し電源をつけると鋭い電光が目に刺さった。
「もうそろそろ打ち上げの時間じゃないかな」
先ほどから僕と美咲さんはのぼってきた階段の最上段に座り、夏休みに何があったとか、これが初めてのデートだとか、苦くも甘酸っぱいトークで鼻の下を伸ばしていたが、その一方で京華さんはひとりで寺の建物を疑い深く観察しては、時折低いうなり声をあげていた。
京華さんってそんな寺社仏閣に興味がある人だったのかと、あることないこと考えては「あまりジロジロ見ないで!」と怒られる。
まあ、陰で御朱印集めしてても不思議じゃない人だよなあ。
「さっきからなにを調べてたの?」
「特にこれといって理由があるわけじゃないんだけど、ただ単に威厳がある風格だなあって」
そう言って京華さんは僕らと同じく段差に腰を下ろした。
真ん中に美咲さんを挟むようにして団子のように固まる。
長い階段のラインだけは樹木が生い茂ることなく、切れ込みのような直線の向こうには大きな川が見える。視線の遠い先には小さな光が点々としていた。きっと会場に開かれた屋台の明かりだろう。
ここって穴場だね、と言いかけた瞬間だった。
すべての色を吸い込んだ黒い空は、鮮やかに光る華を咲かせた。白く燃える光の玉は尾を伸ばし、そして黒に飲まれていく。血しぶきのような赤い火花も目に焼き付いたかと思えば、何事もなかったかのように消えた。
輝いては消え、また輝いて、消える。その繰り返しに目を奪われるのはやっぱり人間の性なのだろう。途切れることなく次から次へと降り注ぐ火花は、まるで嵐のような大雨を思い出させた。
「きれいだねえ」
間延びした声で京華さんがぽつりと呟く。花火の光でほのかに照らされる均整の取れた横顔に少しだけ見とれていたら、どこからか僕の名前を呼ぶ声がした。
「要くん」
隣に座る美咲さんが耳元でささやく。ともすればいとも簡単にかき消されてしまいそうなほど小さな声だった。
全身に鳥肌が立つのを感じた。突然耳を刺激されたせいなのか、冷たい色気をおぼえたからなのかはわからない。
「今日までありがとう。要くんのおかげで満足いく作品が完成しそうよ」
大事な彼女の突然の言葉に、頭のなかの糸がぐちゃぐちゃに絡まる。真意を探れば探るほど深みにはまっていく。まあ初めてのデートだから、そういう意味深なセリフの一つや二つはあるだろう。しかもワケありの関係なのだから。
少しの沈黙のあと、スターマインが夜空に色を塗りたくる。筆のタッチだとかそんな表現であらわせるものではなく、バケツに入った色水をところかまわず一面にぶちまけたような、そんな印象だった。
ピントをぼかすようにただ漠然と眺めていると美咲さんが僕の肩をとんとんと叩いた。どうかしたの、と我に返って振り向く。
椿のような甘い香りが、鼻孔と唇をくすぐった。
ゼロ距離で感じる美咲さんの唇は氷のように冷たい。
唐突という言葉はこの瞬間のために生まれたのだろう。遠くで輝く花火が音もなく消えていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます