11.瞬間

「あれは確か、コンクールに出す絵の構想を練ってた時だったかな」


「いつも通り朝早くに教室でラフを描いてたらさ、まだ7時ちょっと過ぎっていうのにもう一人登校してきた子がいてさ」


「ふうん、京華さんのほかにも早起き習慣の人がいたんだね」


その人が美咲さんだということは明々白々だけれども、あえて名前は出さなかった。


「そうなのそうなの。それで何を話すでもなく息苦しい時間が続いちゃったの」


普段から気まずい空気になる前に先手を打って声をかける性格の京華さんが、なかなか声をかけられないほどのオーラを放つ美咲さんと対峙する瞬間は一見の価値ありだろうけど、当時はきっと相当精神をすり減らしていたのだろう。

下手に茶々を入れると怒られかねない。


「そしたら突然、その子がワタシに話しかけてきたの。あれはビックリしたよお」


「美咲さんの方から他人に話しかけるなんて珍しいね」


「その時はまだ名前も正確に覚えてなくてさ。要くんには初対面のときから下の名前で読んでたけど、それと同じように接したらやばいって思ったんだよ。本能だよ、本能」


今でこそ隣にいる京華さんの足取りは軽く、表情も明るい。

でも彼女にも彼女なりの苦労があったと思うと、やっぱり出来た人間である。


「それで、なんて話しかけられたかわかる?」


嬉々とした表情で問を投げかけられた。

京華さんにとって美咲さんとの初めての会話が今ではいい思い出になった証拠だ。


「どんな絵を描いていたのか気になったんじゃないの。これまでの話からそれくらいしか考えられないし」


「正解。だけどワタシとしてはもっとペーソスを効かせてほしかったんだけどなぁ」


「実話に基づく客観的事実だよ」


わかりやすく頬をふくらませて文句を垂れる京華さんに、自分から話の続きを促す。

一度文句を言うと人一倍長引く彼女には、こちらから転換点を与えなければいけない。


「そのあとはどうなったの?」


「そのあとは……まあ、意気投合して今に至る、かな」


詳しいことはあまり覚えてないんだよね、と苦笑する表情に一瞬の翳りが見えたと思ったが僕の考えすぎかもしれない。


あの美咲さんとの出会いだ。誰しも、ほかの同級生とは一味違う印象を抱くに違いない。

それが良い印象か悪い印象かは、考えるだけ時間の無駄だ。


「要くんは美咲ちゃんとどういう場面で知り合ったの?」


唐突に話題を振られ、瞬間的に脳内フォルダを漁る。けれど、僕くらいの薄っぺらな人間は掘り返すほどの思い出は持ち合わせていない。

いとも簡単に目当ての昔話を見つけられる。

ただ一言、便利だ。


「僕が初めて美咲さんに会ったのは……部活の見学会のときだね」








―この高校に入学して間もない頃、何かしらの部に所属していないと高校生とは呼べないと、今考えたら馬鹿げた固定観念に支配されていた僕は興味のある部にとにかく首を突っ込んでいた。


小学生の頃に地域のクラブチームでサッカーをしていたこともあり、

サッカー部の見学も行くだけ行ったこともある。


もちろん、思春期の体育会系人間とは馬が合わないと思っていた僕は

一度体験したっきりで終わってしまった。


ほかにも中学生の頃に一年近くだけ所属していた美術部や、助っ人としてコンクールに出場した経験がある合唱部を訪れるなど試行錯誤したのはいい思い出だ。




そんなある日、休み時間に熱心に読書をしていたところに突然背後から声をかけられた。


「それ、最近新人賞を受賞した本よね」


透き通っているような、そんな声だった。

そのクラスメートの女の子を初めて間近で見た印象は、とにかく髪がサラサラ、そんなものだった。



「うん。本屋で平積みされてて、表紙がユニークでつい買っちゃったんだ」


「表紙買いしたのね。確かに、考えてみればそういう魅力もあるもの」


きっとまだお互い名前も知らないはずなのに、本を共通項に出会いが訪れた。

きっかけというものは案外身近にあるものだ。



「男の子なのに読書が好きなの?」


僕にはわかる。この女の子はきっと筋金入りの読書家だ。

多少きな臭い言い回しでも茶番に付き合ってくれるだろう。


「そういう言い方は今の時代、問題視されるよ。男だって読むときは読むんだから」


「ごめんなさいね。私がこれまで出会ってきた同い年の男性で、読書好きなんてひとりもいなかったの。女子も男子も全員運動好きだったから」


「君の初めての人間になれて嬉しいよ。えっと……」


名前は、と尋ねようとして言葉に詰まった瞬間。

まるで僕の戸惑いの真意が分かっていたかのように、その女の子は答えた。


「鏑木美咲よ。よろしくね、須藤くん」


なぜ僕の名前を知ってるのかと不審に思ったが、入学してすでに二週間が過ぎようとしている。もうクラスメートの顔と名前が一致しても特段おかしくはないだろう。


声をかけてくるのとは話は違うが。


「鏑木さんも読書が好きそうな雰囲気だね。なんだか似た香りがするよ」


本の世界ではないのに思わず気取ったことを口走ってしまったが、傍から見ればいまの発言はだれが見たってセクハラ案件だ。

しかし、鏑木さんはそんなことなど気にしていない。


「どちらかというと執筆が趣味よ。読むのは二の次なの」


須藤君と似た香りって紙の香りのことかしら、といたずらに微笑む。

本当のことを言えば似た香りではなく良い香りのことだし、それは紙ではなく髪のほうなのだが、これはさすがに口には出せない。理性がようやく機能した瞬間だった。


鏑木さんはなにか部活動に入ってるのだろうか。

この人なら、なにかいい打開策を知っているかもしれない。


「鏑木さんってもう何部に入るか決めた?」


「文芸部」


ただ一言。

その一言が僕の何かを突き動かした。


「男が読書をするなんて」というのは、僕が自身が一番悩んでいたことだ。

周りの友人たちはみな上下関係に厳しい体育社会に取り込まれ、これまでの僕はそれに囲まれる形で毎日を過ごしていた。


中学生のころ、やりたいことをやろう、と意気込んで入部した美術部では

男は僕ひとりだけだった。


居心地が悪かったわけではないし、むしろ先輩たちにかわいがられたりして部活動の時間が待ち遠しかったのは事実だ。

ただ、男子部員が僕一人という状況をからかう人がいたのがすべての元凶だった。

一言で簡単に言うなら、羞恥心だろう。


その心の重圧に耐えられなかった僕は、逃げるように退部届を提出した。

まだ入部して一年も経っていない、まだまだ冷える二月のことだった。

それ以来、絵を描くことからも距離を置いている。


やりたいことをやるためなら周りの目なんか気にならない、なんて気持ちが強い僕ではない。ほかの人から見たら僕は異端者だったのだ。

その見なしがたまらなく怖かった。


でも、いま僕の目の前には、そんな羞恥心をものともしない人がいる。

絶対にそうとは言えないが、きっと鏑木さんは強い人間だ。


僕が本を読むように、好きな曲をヘビーローテーションするように、

彼女から何かを読み取れないだろうか。

鏑木さんの意味を、僕に還元できないだろうか。


「須藤くんはまだ決めてないの?」


「うん。いろいろ迷うところがあってね」


嘘だ。

いまこの瞬間にも、迷いは消えた。


ただ、あの時の羞恥心が底から沸き立つようにあらわれた。


が潰されてしまう。

点きはじめた灯は、少しの風で消えてしまう。


僕ではない誰かの存在が必要だったのだ。

誰かの協力を、僕を求める声を。


「じゃあ、一緒に文芸部に入らない?」



その一言を、僕はずっと待っていた。







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