2.小宇宙
時間は八時ちょっと前。
かすかな眠気を纏って教室のドアに手をかける。
教室の中でひとりの女の子がゴミ箱の前で鉛筆を削っていた。
栗色のショートボブヘアーが窓から差し込む朝陽に照らされ、触れたら折れてしまいそうな細い腕がサイズの大きいスクールシャツから伸びている。
肘が出るまで袖を何回も折り返し捲くっているのが特徴的だった。
「あっ、要くん、おはよう」
まるで猫のように真ん丸な目が僕に向けられる。僕は軽く手を振って答えた。
「
「うーん、あとちょっとってところかなあ。一応アイデアは書き尽くしてみたんだけど、イマイチまとまらないっていうか……」
僕は自分の机に鞄を投げるようにして置いてから、京華さんの机に近づいた。机の上にはA4サイズのケント紙が二枚。
手にとって見ると片方の紙は何度も鉛筆で描いて消して、を繰り返したのだろうか、一面が黒く汚れている。そのなかにかろうじて本を読んでいる男性の姿が乱雑に描かれているのがわかった。もう片方の紙には同じ男性の絵が一筆書きで描いたかのように簡素に描かれている。絵の中の男性の背後には白いカーテンがなびいていた。
「ラフは見なくていいから!恥ずかしいし!」
鉛筆を削り終えた京華さんが戻ってきて僕の手から二枚のケント紙を奪った。彼女の手をよく見てみると右手の小指のラインが真っ黒になっている。
「結局『読書をする男』の方にしたの? 『魚群の中で泳ぐ女』じゃなくて?」
「正直まだ迷ってるんだよね。どっちもリアリティがないっていうか、描いていて『これでいいのかな?』って考えちゃうから自分でもあまり納得ができてないの。あと『魚群』のほうの下書きは部室にあるよ、昨日ようやく描き終わったの」
京華さんはそそくさと絵の下書きをファイルに仕舞い込んで鞄に押し込んだ。
「もうちょっとゆっくり見せてくれてもいいじゃん」
「だめ!完成してからのお楽しみ!」
そういって教室の後ろにある個人ロッカーから英語の教科書と単語帳を取ってきて席に着いた京華さんは電子辞書を片手に一時間目の授業の予習を始めた。どこか肩透かしを食らったような気分になった僕は、自分の机に放り投げた鞄から本を一冊取り出した。
本のタイトルは〈リユニオン〉というもので、その意味を僕は知らない。おととい美咲さんから「読んでみてほしい」と半ば無理やり鞄にねじ込まれた本だ。表紙を眺めながら、ふと斜め前に座る京華さんの背中に視線を移す。
京華さんとは有馬と同じく中学時代からの付き合いで、初対面のときからぐいぐい話しかけられたのを鮮明に覚えている。二年生のクラス替えで同じクラスになり、有馬を介して交流が始まった。
明るく社交的な京華さんは「わたしのことは下の名前で呼んでいいから、きみも名前で呼んでいい?」と、出会って五分もしないうちに(半ば無理やりだけど)僕との距離を縮めていった。気恥ずかしさはあるが、いまも要望どおり名前で呼んでいる。ただ、彼女がいないところではたまに苗字で呼ぶこともある。
その彼女の絵の能力は中学二年生の六月に知った。席替えでとなり同士になったとき、授業中に熱心にノート一面に絵を描いている姿がいまも印象に残っている。そのときはアニメ風のイラストが得意で、休み時間になるといつも京華さんの周りには人だかりができていた。
絵のうまさは中学時代から群を抜いていたことに間違いはない。
そんな彼女はいまでこそ、この高校の美術部が誇る部長兼絶対的エースだが、意外なことに中学生のころは放送部の一員だった。父親がテレビ局員、姉が地方局のニュースキャスターをしている家庭で育った京華さんは放送業界に強い憧れを持っていたらしい。しかし、実の姉がとあるプロ野球選手と結婚して家を出て行ったのを境に放送部の籍を自ら排除したのだとか。僕にはその背景がいまいち理解できていない。きっと京華さんなりの理由があったのだろう。僕が詮索する必要性はどこにもない。
その京華さんはとにかく登校時間が早い。聞くところによると遅くとも七時には学校に到着し、決まって教室で絵の構想を練っている。「家が近いから」と話す京華さんの自宅がどこにあるかは知らないが、というか、同じ中学校出身なら僕の家とそう遠くはないはずだが七時といったら僕はまだ電車に揺られている時間帯だ。
「要くん、なに読んでるの?」
僕からの背中越しの視線に気づいたのか、京華さんは僕のほうを振り返って聞いてきた。
「れ・ん・あ・い・しょ・う・せ・つ」
「ぷっ、要くんが恋愛小説? 恋愛なんかにまったく縁がなさそうなあの要くんが?」
「意外だなあ」とにやにやしながら僕の席に歩み寄る京華さんを視界の隅に捕らえ、焦点を本に移す。いくら中学以来の付き合いといえども面と向かって恋愛に縁がなさそう、と言われるとなんだか複雑な心境だ。
「何を読もうが僕の勝手だろ」
「それはそうだけど、本棚見ればその人の性格がわかるって言うじゃん。まさかよりによって色恋沙汰の本とは・・・・・・」
京華さんは少しかがんで僕が読んでいる本の表紙を覗き込んだ。すると、
「あっ」という声が彼女の口から漏れた。
「これ知ってる。確か四年くらい前に映画化されたやつだよね? わたしとお姉ちゃんがこの映画に出てた俳優が好きだから一緒に見に行ったことがあるんだ、正直あんまり面白くなかったけどね」
「面白くなかったって、抽象的なネタバレしないでよ。まだ半分しか読んでないんだから」
といっても、僕もそこまで内容に引き込まれているわけではなかった。とある女子高生とさえない予備校教師が、一対一の個別授業をきっかけに恋心が芽生えるストーリーは、設定こそ凝ったものだがどこか単調で、間延びしているような展開が続く。
けれど、売り上げ部数五万部突破と謳うこの恋愛小説に魅了された読者も当然いるわけで、あまり悪いことは言えない。文芸部の性なんだろうか、素直に物語を楽しめていないような気がした。
これからこの本の評論文を書くわけではないのに、内容ではなく構造ばかりに意識が向いてしまう。
「要くんが自分で選んで読み始めたの?」
「いや、鏑木さんが『これ読んでみろ』って貸してくれたからさ。どういう意図があるのかわからないけど」
「美咲ちゃんから? あの子も気難しそうな顔して乙女チックな女の子らしい本も読むんだね。要くんもそういう本を読んで女子の恋心を勉強しないとね。ただでさえ要くんは学校のマドンナの美咲ちゃんのお気に入りなんだから」
皮肉交じりに僕の顔を見ながらにやにやしている。僕と美咲さんの関係は、公表こそしていないが日に日に「ウワサ」として学年中に知れ渡っている。
仮の恋人関係、表面上の両想いというものがどれだけ大変で気を使うのか、みんなはわかってくれない。
いや、わかってくれと言うつもりは毛頭ない。
僕は美咲さんのやりたいことに邪魔が入らないようにするいわばボディーガードだ。すべては僕がそのボディーガードの仕事を引き受けてしまったことが原因だった。引き受けてしまった以上は仕方がない。僕は美咲さんの望むままに、美咲さんの彼氏として立ち回らなければ。
開き直って僕は美咲さんから借りた本を読み続ける。
「京華さんはこういう本とか読まないの?」
「あんまり読まないかな。わたしは絵を描いているときの世界が何よりも好きだから」
その言葉にすこしだけ興味が出た僕は窓の外を眺めている京華さんの顔を見つめた。心なしか表情がすこし笑っているように見える。
「本とか映画みたいな誰かが創った物語ってあまり自分から進んで見ようと思わないんだよね。わたしなんかはさ、ちいさいころからずっと絵を描いていたんだよ。思ってることをそのまま紙に描くことが楽しくて、出来上がった絵を誰かが褒めてくれるとすごい嬉しかった。現実的かどうかを抜きにして、自分の考える世界を絵で表現できるってすごいことだと思わない? 」
たぶん京華さんは、それこそドラマのワンシーンのように核心を突くような深いことを言おうと意識しているのだろう。僕はそれを察してじっと黙って話を聞いていた。
「でもね、なかにはそれを否定する人がいるのも事実なの。せっかくわたしが考えた世界……描いた絵を否定されるのは悔しく思う。自分で描いた絵は自分の中にとどめておきたいし、周りの雑音でわたしの世界を邪魔されたくない。他人が造った物語に没頭するより自分に酔っていたいからね。だから……自分から本を読んだりとかはしないかな、その時間は自分の絵を描いていたいから」
本を読まないと言っている割には、まるで小説に出てくるキャラクターのようなことを言うなと思ったが口には出さなかった。なによりも、それが京華さんの本心だから。彼女の顔が少し赤くなってるのが確固たる証拠だ。自分でも恥ずかしいことを言ったと思ってるのだろうか。
「なかなかいいこと言うじゃん。想像のななめ上をいく回答だよ」
正直、僕はてっきり「小さい字を読んでいると目が疲れるから」といった答えを想像していたがまさかここまで真剣に考えているとは。
「ああ!恥ずかしいこと言っちゃったなあ!こんなこと親にも言ったことないのに!」
真っ赤になった顔を手で覆いながら地団太を踏む京華さんの姿がなぜだかほほえましい。彼女なりの考え方に触れても悪い気はしない。
むしろ京華さんの本質に片足を踏み込んだ感じがして彼女の新たな一面を知れたことに得も言われぬ感覚を抱いた。
「普段は気楽そうにしてる京華さんでも、まじめに考える時があるんだなあって……」
「やめてって、もう!」
京華さんは褒められることと肯定されることに弱い。それなりに長い付き合いから得た情報を駆使してさらに追撃を加える。
耳をふさぐ素振りをしたとき、彼女の顔があらわになる。予想通り、熟したリンゴのように真っ赤になっていた。
かわいいところもあるじゃないか。改めて見る京華さんの姿は絵になるな、と心の奥底に湧いた思いは、僕が絵を描けないことを上塗りするかのように脳裏をかすめた。
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