1.日差しのなかで

 隣に座っている女子高生二人組は、なぜかコンセントとプラグの話題で盛り上がっていた。そういえば中学生のころ、コンセントにシャープペンシルの芯を突っ込んでショートさせたヤツがいたなあ。

 

 僕は右耳につけていたイヤホンをさりげなく外して女子高生のコンセント談話を盗み聞きしながら目線を車窓に向けた。

この電車に乗っているとよくわかる。この沿線にはやけに雀荘が多い。

ボロボロになった看板が陽にさらされて、次から次へと車窓の外を流れていく。

六月下旬、そろそろ夏も近い。

 

 街に溢れかえった言葉は、どうしてこんなにも無機質なんだ?

 そんなことを考えながら左耳につけているイヤホンから流れる音楽に集中した。終着駅への到着を知らせるアナウンスは車内のノイズでいとも簡単にかき消される。


スマートフォンに受信した『須藤すどうかなめ様へ:今春のおすすめセール品』という件名の迷惑メールを削除し、電車を降りた。ターミナル駅でバスに乗り換えるために急ぎ足で改札を抜け、いつもの見慣れたバス停へと歩みを進める。駅の周りは人で賑わっていて、落ち着かない様相だ。足を止めている人は一人もいない。

 

 スマートフォンとにらめっこしながら歩くなんて器用だなと毎日のように思う。視界の隅にとらえた『歩きスマホはやめましょう』と書かれた看板はまるで、誰からも見向きもされないマッチ売りの少女のように、ぽつりと佇んでいた。そんな誰も目を向けることの無い言葉に、僕だけは見ているよと念を送っても案の定反応は無い。やっぱり、言葉って無機質だ。

 

 人の波をかき分け、バスを待つ列に並び欠伸あくびをしながら音楽を味わう。僕の前に並んでいる女の子は中学生だろうか。熱心に英単語帳を赤いセロハンシートで隠しながらページを捲っていた。

少しだけ覗き見してみると、ちょうど『favorite』という単語が赤いシートで隠されていた。たしか『お気に入りの』だったっけ。あまり自信はなかったが自分のスマートフォンで調べてみると、どうやら合っていたらしい。


 高校三年生になったいまも英語は苦手だし嫌いだ。過去にテストの基準点未満、いわゆる赤点をとって以来、苦手意識が払拭できなくなってしまった。嫌なことを思い出してしまったと後悔していると、後方から重たいエンジン音が聞こえてきた。

 

 やっとの思いでバスに乗り込むと、もう座席は埋まっていた。でも仕方がない。僕がこのバスの硬い座席に座ることなんて一ヶ月に一度あるかないか、それくらい朝のバスは混んでいることが当たり前なのだ。ICカード読取り機にPASMOをかざして、目の前のスペースを確保した。すぐに重低音をかき鳴らしながらバスが動き出し、次の停車駅を知らせる車内放送が響く。


 僕は音楽を聴きながらポケットに突っ込んだ右手で軽くリズムを取り、右から左へと流れる風景を眺めた。頭の中で曲の歌詞を転がしていると、大勢の乗客でごった返したバスの息苦しさも多少は軽減できる。あくまでも僕の主観的な考え方だ。


ガタゴトと揺れる車内はサラリーマンと、自分と同じ制服を着た高校生で満杯だった。朝の七時過ぎ。この通勤ラッシュにも二年と二ヶ月にしてようやく慣れた気がする。高校一年生だったときに、「これも社会勉強の一環なんだ」と自分に暗示をかけたのが功を奏した。

 

ふと何の気なしにスマートフォンの画面を見てみると、そこには【文芸部】(新着メッセージ2件)と表示されていた。


鏑木かぶらき:来週の部活は予定を変更して去年の学期末に書いた部誌のディベートをします。返信不要です』


『鏑木:あと先週部費を忘れた人は明後日までに泊洦舎ささなみのやセンセイに出してください。1000円です』

 

発信者は自分が所属している文芸部の部長、そしてクラスメートである鏑木かぶらき美咲みさきだった。

 

 鏑木美咲。肩まで伸ばした黒髪は穢れを知らない絹のようになめらかで、切れ長の目が長いまつげにかげる。芸術作品のような眼を囲う細淵の黒いメガネが額縁代わりとなり鋭い目線を遮る姿はいつかに読んだ本のヒロインそのものだった。そんな美咲さんは絵にかいたような文学女子で成績もよければ同級生や後輩からの信頼も厚い。

 

僕の周りでも結構な人数が彼女に狂信的な好意を寄せていると聞いたことがある。そんな美咲さんからのメッセージは絵文字や顔文字の類は一切ない、シンプルを超えて冷徹ささえ感じるものだった。


 そうか、今年も文芸部の全部員が書いた小説短編集のディベート大会が始まるのか。おととしに僕が書いたミステリーものを当時の先輩たちにこれ以上ないほど批判された苦い思い出が甦る。


「素人にミステリーは100年はやい」

「学校の屋上からプールに突き落して完全犯罪成立って、読み手をバカにしてるのか」

 

せっかく考えた物語をぼろくそに叩かれて帰り道に部誌をコンビニのゴミ箱に捨てたんだっけ。三年生になった今、この鬱憤を晴らす時がついに来た。

カワイイ後輩たちには悪いが、今年のディベートは嫌味な先輩を演じさせてもらおう。作品の評価は否定的に。これが僕のモットーだ。


 メッセージに返信不要と書かれていたのでホーム画面に戻し、音符のマークが描かれたアイコンをタップする。

 するとチェロを弾く若い女性が写ったCDジャケット写真が画面の真ん中に表れた。僕は数あるミュージシャンのなかでも、この女性アーティストが最も好きだ。チェロを弾きながら歌う技術の高さも感服するが、なによりも影響を受けたのはそのアーティストが書く歌詞だ。ありのままの姿を言葉に表わした歌詞は、当時中学二年生の僕を魅了するには容易いことだった。



                 *



 バスに揺られること20分。校門が近づくにつれスピードが徐々に落ちていく。乗客の半数近くが、いそいそと降車の身支度をしていた。押されるようにバスを降り音楽の再生を止めたのと同時に、誰かに背後から肩を叩かれた。


「須藤!今日の英語の宿題って何ページまでか覚えてるか?」


「あー……覚えてないけど、たしか有馬ありまが当てられる番だろ」

 

開口一番、朝の挨拶もせずに宿題の範囲を聞いてきた有馬友也ありまともやはまるで一世代前の漫画のように「あちゃー」と手で顔を覆った。


「あとで授業始まる前に答え見せてくんね?オレが先々週も課題忘れて高木センセイに怒られたの、見てただろ?」


「わかった、わかったから後でな」


「サンキュー」

 

 中学以来の付き合いに余計な言葉はいらない。というよりも有馬との会話は単純明快で、頭を回転させることはほぼ無い。

 それに、有馬が宿題の答えを見せてくれと頼むようになったのは今に始まったことじゃない。僕がおぼえてる限りでは中学生のころにも数学の答えをせがまれた記憶がある。

 

正直、怒られてもなお課題をやってこないのかはなはだ疑問だが今更咎めたりはしない。いや、僕が有馬を咎める立場にないと言うのが正しいか。

 毎週きちんと課題をこなす僕と、隔週で課題をこなす有馬では校内の成績順位に差がある。一見有馬の方が低いランクに位置すると思われるが、不思議なことに僕の方が成績は低いのだ。

 

科目別でみれば、国語は僕が俄然有利だ。自慢じゃないが国語なら学年でもトップテンに入る実力がある。しかし、英語、日本史、理系の基礎科目は有馬に劣る。というより、僕は国語以外にはめっぽう弱い。


「そういえばさ」

 

 有馬がスマートフォンに視線を落として眉毛にかかる前髪を指でいじる。画面を鏡かわりにしているのだろう。


「有馬は今年の夏休み、どこか旅行とか行くの?」


「ずっと予備校で夏期講習だからなあ……」

 

そうか、世間は夏休みだけど大学受験が控えている僕たちは休めないのか。大変そうだなと他人事のようにつぶやくと少しの間をおいて有馬が問うた。


「お前は結局どうすんの? 進学? それとも就職か?」

 

なかなか返答できずにいた。僕の中で、大学に進んでまで学びたいことが浮かばずにいまも悩んでいる。進学を取れば、有馬やほかの同級生と同じく夏休みに汗水たらして勉強に励むことになる。それが嫌というわけではなかったが、就職するという道も捨てきれずにいた。



 僕の父方の叔父が都内で小さな出版社を経営していることは昔から知っていた。

「本や音楽が好きな要くんになら合うんじゃないか」と社長の叔父から熱烈なアプローチを受けたこともある。現にその出版社は人手不足で悩んでいて、社員十数名でてんてこ舞いになっているらしい。


勉強に悩まされたとき、出版社に就職した僕の将来像を想像することがあるが不思議と悪い気はしなかった。

 

そしてなにより、「出版」と聞くだけで脳裏に熱心に小説を考える美咲さんの姿がちらつく。

もしも美咲さんをバックアップすることができたら……。


「進学か就職かは、まだなんとも言えないかな」

 

とりあえず夏休みの間はみんなと同じように勉強するか、と楽観的に考えていたのが有馬にも伝わったのか、「なんにせよ夏休みは勉強しといたほうがいいんじゃないか?」とまるで親のような言葉をかけられた。人を慮ることができる有馬の存在はとてもありがたい。

 

ただ、できるだけ課題は自分でやってきてほしい。他人の心配より先に自分の宿題を終わらせろ、有馬。


 

―昇降口を抜け、生徒は各々の教室へ散らばっていった。

この高校は一階に職員室と三年生の教室、二階に一年生の教室、三階に二年生の教室が設けられていた。僕が所属する3年C組の教室は階段の真横に位置していて、有馬がいるA組の教室は職員室の真向かいにある。受験を控える三年生のために、すぐ先生に相談できるよう職員室と同じ階に教室を置いたそうだ。

 


 

時間は八時ちょっと前。かすかな眠気を纏って教室のドアに手をかける。

教室の中でひとりの女の子がゴミ箱の前で鉛筆を削っていた。

 

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