キャンバスの上の君は歌う

背里沢 遊

プロローグ 

「私のことは美咲みさきって呼んで。自然体で、あまり馴れ馴れしくない程度に」


「さん付けでも構わないわ」と言った彼女を前に、極度の緊張状態に陥った僕はただ呆然とするだけだった。


「鏑木さん、なに言ってるの?」

 

部室棟の三階にある文芸部の部室は数分前のざわつきを忘れ、二人の男女をプリンターの機械音で包み込んだ。薄汚れたホワイトボードはキャンバスのように、彼女を絵画に仕立て上げる。


 窓の外は赤く染まり、校庭は野球部とサッカー部のグラウンド整備の真っ最中だった。四月でも日が傾くのが早い。

 

彼女の後ろのホワイトボードには『新部長・鏑木美咲かぶらきみさき』と青のペンで丁寧に書かれていた。その横には同じように『副部長・須藤要すどうかなめ』とある。


「突然そんなこと言われたって……」


「男子にまとわりつかれるといいアイデアが浮かばないの。私だって四六時中シンデレラストーリーを考えてる訳じゃないんだから」


「でも彼氏のふりをしろって、それこそ本の読みすぎじゃない?」


 僕は思わず眉をひそめた。

 こんな台詞、まさか現実で言うことになるとは思いもしなかったからだ。


「生半可な気持ちで文芸部に入ったつもりはないわ。それに学校でも創作活動できる環境が欲しいし、それを邪魔されたくもない」


「事情も分からなくもないけど、本当に自分なんかでいいの?そんな大事な役を任せちゃってさ」


「須藤くんも副部長になったんだし、そこらへんは融通が利くはずでしょ」


 カーテン越しの夕日が風に揺れた。

 彼女の顔がほんのり赤くなっているのは夕日のせいか、それとも……。


「とにかく、私も不特定多数の男子に言い寄られるのは物語を考える時間が削られて迷惑だから、須藤くんには私の彼氏役になってほしいの」


「さいきんいいネタを思いついてね。恋愛成分が多めの……」と、言葉尻が小声になっていく。

 

事実は小説よりも奇なり。

幾度となく見てきた言葉だけど、今日はその意味が痛いほど身に染みる。

 

僕も彼女がどれだけ本気になって小説を書いているのかは理解しているつもりでいたし、そうそう頼みを無下にはできない。


「……わかった」


 体の内側からじわじわと体温が上昇していくのを感じた。声にもならないくらい小さく「美咲さん」と呟いてみる。


それと同時に、部活動終了時刻を告げるチャイムが部室に響き渡った。


「期待してるよ、


スマートフォンのバイブレーションが左ももに伝わる。誰かからの電話だろうか。この時だけは出ることができなかった。

 


小説だけど、小説じゃない。

そんなことを僕が思うよりも早く、美咲さんは思っているのだろう。

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