3.ニルアドミラリ

八時を過ぎたころの教室はがやがやと騒がしくなり、空席はほぼなくなっていた。

部活動の朝練習を終えた運動部のクラスメートがなりふり構わず撒き散らした制汗剤の人工的な匂いが混ざり合い、なんとも気分が悪い。


他人に気づかれないように眉間にしわを寄せて、ようやく三分の二を読み終えた〈リユニオン〉のページを閉じた。

それと同時に、僕の右横の席に鞄が置かれる。美咲さんだった。


「そろそろあの本、読み終えた?」


「もう少しかかりそうかな。美咲さんほど早く読めないからちょっとだけ時間かかるんだよね」


「そう、要くんだったらあの本なんか一日足らずで読めると思ったのだけど」


切れ長の目を少しだけ見開いて僕を見つめる。この顔はきっと驚いているのだろう。いかんせんクールに振舞う美咲さんは表情のレパートリーが少ない。何を言わんとしているのか、こちらが推理しなければいけないのだ。


「十八歳の女の子が書いた文章だから文学性には欠けるでしょうけど、きっと何か感じるはずよ」


「この本、十八歳の子が書いたの?」



もう一度〈リユニオン〉の表紙の袖を見る。そこには『著者:かさ玲子れいこ』と書いてあった。新人賞などの受賞歴が羅列されていて、タイトルを総なめにしているのがわかる。出版年と生年月日を照らし合わせると確かに十八歳の子がこの本を書いている。


「正確には五年前に出版されたものだから、いまの作者は二十三歳だけどね」


実際には僕らよりも年上だが、十八歳の時点で作った物語が大量に刷られ、書店に並び、さらに映画化もされているのだ。文芸に携わる人なら一度は夢見たことがある『学生小説家』は、夢のままで終わることが普通であると知っていた僕はこの事実に唖然とするだけだった。



「でもよく見てみると基本の起承転結は目立ってない。題材が恋愛ものなのだから、出会い、恋が芽生えるきっかけ、恋敵の出現、挙げてみればきりがないほどストーリーの材料があるはずなのにふたを開けてみると半分以上がデートシーンなの。しいて言うなら、起承で終わっている。これじゃあ読んでいて飽きるのも無理ないわ。要くんもそれくらいのことは気づいたでしょうけどね」



ふと我に返って美咲さんの言葉に耳を傾ける。確かに僕も読んでいて掴みどころのない間延びした内容だと思っていた。ページをめくる指のスピードが上がらないのも、どこか自分で思うところがあったのが原因だろう。


「厳しい評価だけど、なんでわざわざこの本を僕に読ませたの?」


その理由がいくら考えてもわからなかった。これほどまでに酷評の本を押し付けたのは僕の時間を奪うための単なる嫌がらせだろうか?


「要くんにも小説の勉強をしてもらいたかったのよ。指南書や評価の高い本だけ読んでも技術は身につかないわ。ときには反面教師になってくれる本を見て、どこが問題か見つけられないと自分の作品を推敲するときに苦労するの。文芸部の副部長なんだからある程度の知識は備えておかないと面子が立たないじゃない」


「でも僕は小説を書くというより読むために文芸部に入ったっていうか……」


凛とした美咲さんから繰り出されるこだわりと僕に対する心配を前にただただ圧倒される。このひと、いつから僕のトレーナーになったんだ。


「たとえ要くんが書かなくても、私が書いたものを推敲するのも副部長の役目でしょう?」


当然といわんばかりに発せられた言葉は僕の頭を大きく揺さぶった。いくら副部長といっても、中身はずぶの素人にどれだけ期待をしているんだ。


推敲のような編集作業は作者と同じフィーリングの持ち主でないと作業がうまくいかないというのをどこかで聞いたことがある。いま確かなのはどうやら美咲さんに大きな信頼を置かれていること、そして、僕はどうやら美咲さんと同じフィーリングになるよう訓練される可能性が極めて高いということ。


というよりすでに訓練は始まっていて、その一環としてこの学生小説家が書いた本を読まされていたらしい。


「でも、要くんもそれなりに見る目はあるみたいだし安心したわ」


どういうことかと勘ぐったが、僕がこの本を読むのに苦労していることを美咲さんはわかっていたらしい。話の進行が単調ゆえに読むのが億劫になるのは多々あるらしく、その単調さを理解することも重要なのだとか。


「私の伝えたいことがわかってくれたなら、その本を返しても構わないけどどうする?」


「せっかくだし全部読んでみるよ、今日中に読み終わりそうだし」


「そう、勉強熱心で感心したわ」



あくまで読書は僕の趣味の一環なのだが、どうやら美咲さんは勉強として捉えている。そのことが何を意味するのか、僕はまだ知る由もなかったし、たぶんこれからも理解できることはないだろう。


ただ、美咲さんとの間にある種の契約とも言える恋人関係を築いたのなら、少しは彼女の思いも汲み取らなければ。いくらたくさん人間の内情を描いた本を読んでいたって、所詮は他人の脳内物語である。そこにいくらかの相違はあるだろうし、むしろ相違があることがリアルをベースにした創作の絶対条件だ。創作とドキュメンタリーを一緒くたにしてはいけない。


相手の、さしずめ、美咲さんの気持ちが手に取るようにわかるのは美咲さん自身以外にいるのか。


僕は正答のない問答を繰り返した。答えといえるものが出ないわけではない。むしろ僕の中には確信めいたものがある。ただそれが正しい答えだとは到底思えなかった。



彼女の本心は美咲さん以外に、作者が知っている。

何が言いたいのか僕もこんがらがってしまいそうだ。僕はなるべく細切れに思考を整理する。


鏑木美咲というなかに、もうひとり、『鏑木美咲』という物語を作る作者としての鏑木美咲がいる。こうあらわせば多少はわかりやすいだろうか。


彼女は物語を作るのに没頭しすぎている。まるで生の営みを創作だけに費やしているような。行動に現れるときもあって、思想に現れるときもある。なんというか、我が強いと言えば誤解を生むだろうし、トラブルメーカーと喩えるには齟齬がある。


彼女の人生は神様や仏様が作るわけじゃない。一枚の原稿用紙の上に、彼女のすべてが作られる。ペンを操っているのはもちろん美咲さんで、彼女にとって僕は登場人物の一人に過ぎない。


美咲さんの書くストーリーがどんな結末を迎えようとしているのかは全く予想できないが、僕が渦中に飲まれるのは明白だ。

なんせ、僕はその主人公の彼氏なのだから。


これが推理小説ならホームズとワトソンのように持ちつ持たれつ、ギブアンドテイクの関係になるのだろうか。色恋沙汰に疎い僕としてはそっちのほうが親切だ。


しかし、美咲さんも僕もこれから先事件に巻き込まれるようなことはないだろう。そんなプロットを美咲さんが考えているとは思えない。

サスペンス作家も脳内を覗き込めば立派な連続殺人犯だ。


僕の目の前にいる美咲さんと、ストーリーテラーとして僕を操る美咲さん。その彼女のなかにうごめく「なにか」があるように思えた。


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