第4話 冷静ではいられない

 今日の反省。


 昔みたいに、じゃだめなんだ。

 いくら子どもみたいにベタベタくっついたところで、ゆーにぃは振り向いてくれないだろう。


「だったら……?」


 ――押してだめなら、引いてみろ。

 そんな言葉が、ふっと脳裏をよぎった。


 思い浮かぶのは、少し前までの自分だ。

 ゆーにぃを想う気持ちを強引に抑えつけた結果、クールに振る舞うことしかできなくなってしまった、中学時代のわたし。

 今度は、あのころのわたしになりきれば……


 ……ううん、それじゃ結局、昔と同じになるだけ。ゆーにぃは優しかったけど、振り向いてはくれなかった。

 だから、プラスアルファのなにかがないと。


「……やっぱり」


 自然と、自らの身体に目が向いた。

 ――クールに、なおかつ、何気なく“女の子”をアピールすることができれば。


「これしか、ない……?」



     ☆ ☆ ☆



 いつもどおりの時間に起床し、俺はリビングに顔を出した。


「おはよう、霞」

「……ん」

「? やけに素っ気ないな」


 霞はなぜかまだパジャマ姿で、なにをするでもなくじっと椅子に座っている。

 かと思えばおもむろに立ちあがり、


「さ、さてとっ。そろそろ着替えないと」


 そんな大きな声の独り言をつぶやいて、パジャマのボタンに手をかけた。

 ゆっくりとした動作で、上から順にひとつずつ外していく――ちらちらと、俺のほうを窺いながら。


「…………」


 ストレートに色仕掛けってところか?

 詳しくはまだわからないが、おそらくこれは、霞の次なる作戦の一環だろう。ならば、俺も極力、霞に合わせることにしよう。


 俺は霞のそばに寄ると、正面からじっと着替えを注視した。


「〜〜〜っ! 〜〜〜っっ!」


 目に見えて動揺する霞だが、それでもボタンを外す手は止めなかった。

 そしてついに……最後のボタンが外れた。

 パジャマの内側から、胸の膨らみの輪郭が覗く。ブラはしていない。


 ……が、それだけだった。

 うつむいたまま微動だにしなくなった霞に、声をかける。


「脱ぐんじゃないのか?」


 ピクリと肩を震わせて、霞は顔をあげた。

 視線がかち合い、数秒間、見つめあう。

 ついに覚悟を決めたのか、やがて霞は、そっとパジャマに手を伸ばし――


 ……そして、ボタンを留めた。

 下から順に、ビデオの逆回しのように、けれどさっきの三倍のスピードで。


 いちばん上まで留め終わると、霞はくるりと身を翻し、


「へっ、へへへ、部屋で着替えてくるっ!」


 うわずった声で言って、駆け出した。

 ややあって、部屋の扉が閉まる音が聞こえた。


 ……道のりは、まだまだ遠そうだ。



 制服姿で戻ってきた霞と一緒に朝食を済ませ、出かける支度をする。

 戻ってきてからも霞はずっと口数が少ないままで、話しかけても素っ気ない反応しか返ってこなかった。まるで少し前の霞に戻ったみたいだ。


 だが、当然これは、演技なわけで。だから綻びも徐々に見え始めていた。


「……霞? どうした?」


 玄関扉のノブに手をかけながら、振り返る。

 霞は靴を履く素振りもなく、静かに立ち尽くしている。


「行かないのか?」

「…………きょ、兄妹で一緒に登校なんて、恥ずかしいしっ」


 ぼそぼそと小さな声で言った霞の表情は、それはもう不安げで。「本気で受け取られるんじゃないか」、「本当に置いていかれるんじゃないか」といった心の内が、手に取るようにわかった。まるで“役”になりきれてない。


「……!」


 なにやら視線で訴えかけてくる霞。気づかないふりをして置いていってみようかとも思ったが、かわいそうなのでやめておく。

 まぁ、ここは食い下がれってことだろう。


「そう言わずに、兄妹仲良く行こうぜ」

「……ま、ゆーにぃがどうしてもって言うなら? 一緒に行ってあげないこともないけど?」


 言葉とは裏腹に、すがるような目をして言う。……ちょっと泣きそうになってないか?


「どうしても!」

「……はぁ、しょうがないなぁ、もう」


 本来ならもっと素っ気ない態度で言うべきところなのだろうが、わかりやすく安堵で頬が緩んでしまっている。


 おそらく今回の霞は、昔の霞・中学生編といったところだろう。だが、それじゃ俺がなびかないことは霞も想定しているはず。あともう一押し、なにかがあるのかもしれない。

 ……つまりそれが、さっきの着替えってことか?


 う〜ん……幸先不安だ。


 家を出てからは、なおもクールを貫く霞に倣い、俺も話しかけることはしなかった。昨日は近すぎた二人の距離も、今は人ひとり分ほど空いている。


 校門が見えてきたころ、ふいに霞が声をあげた。


「きゃあっ」


 超・棒読みだった。おまえ普段、きゃあとか言わないだろ。

 ともかく……急に身体をよろめかせて倒れこんできた霞の身体を、俺はしっかりと受け止めた。


「大丈夫か?」


 芝居なのはわかっているが、合わせてやる。

 だが霞からの返事はなく、代わりに、


「……っ」


 ぎゅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ、と抱きついてきた。……なんだこのデジャヴ。


 このままハグをされ続けるのかと思いきや、霞はすぐに腕の力を緩め、そしてまた力強く抱きしめてくる。そんなことを何度も繰り返した。

 これは、抱きつかれているというよりは……執拗に、身体の一部分を押し当てられている、といった感じだ。制服ごしにも、その柔らかい感触が伝わってくる。


 つまりはこれがしたかったってことなんだろうが……公衆の面前でなにをやっているんだ、俺の妹は?

 登校中の一部の生徒たちが足を止め、周囲に軽い人だかりができてしまっている。そろそろ行かないと、人に囲まれて身動きが取れなくなりそうだ。


 俺は霞の耳元で囁いた。


「霞のおっぱいが柔らかいのはわかったから、そろそろ解放してくれ」

「…………」


 霞は無言のまま、どこか名残惜しそうにゆっくりと腕の力を抜くと、身体を離し、至近距離から俺を見あげた。霞の顔は額まで真っ赤に染まっていた。

 すぐに顔をそらし、スッと俺から飛び退く。


「さっ、先行くから! やっぱりゆーにぃと一緒なんて恥ずかしいもん!」


 そう言い残し、霞は駆けていった……。



 昨晩開かれた織戸家の家族会議によって、学校での昼食はしばらくのあいだ購買のパンになった。霞の手作り弁当こそ封印されたものの、昼食じたいはまた中庭で一緒に食べるものだと思っていた。

 ……だが。


『一緒になんて食べないから。一人で勝手に食べてれば』


 パンを買って中庭に向かおうとした俺のもとへ、そんなクールなチャットが飛んできた。

 仕方なく、俺はクラスの友達と机をくっつけて昼食を済ませた。


 ――その後さらに、「帰りも別々で」という旨の連絡も届いた。なかなかの徹底っぷりに、俺は素直に感心していた。頑張れ霞、負けるな霞。俺は返信の代わりに、心の中でエールを送った。


 しかし残念なことに、俺の熱い想いは霞には伝わらなかったようだ。


 霞が帰るなら多少時間をズラしたほうがいいだろうと思い、俺は教室でクラスメイトと駄弁ったりして暇を潰していたのだが――


「……ゆーにぃっ!」


 ふいに俺を呼ぶ聞き慣れた声がして、教室の入口へと顔を向けた。

 走ってきたのか、息を切らせた霞が、澄んだ眼差しでまっすぐに俺を見つめている。


「わたしやっぱりっ、ゆーにぃと一緒に帰りたいっ!!」


 教室じゅうに響き渡るような声で、そんな言葉を口にする。

 俺は鞄を手に立ちあがった。


「あのね、一人で帰ろうとしたんだけどっ、やっぱりそんなの無理って思って、戻ってきたの! だから一緒に帰ろっ、ゆーにぃ?」

「それはいいんだが、霞」

「? なぁに、ゆーにぃ?」

「注目の的になってるのは、無理じゃないのか?」

「……………………」


 教室の中を見渡した霞は、居残っている生徒たちの視線を独占していることに気づき、瞬く間に赤面した。

 そして――


「むり――――――――――――ッ!!!」


 今度は学校じゅうに響き渡るような声で叫ぶと、両手で顔を覆い隠し、へなへなとその場にうずくまるのだった……。




「ね、手。繋いでもいい?」


 俺は黙って霞の手を握った。


「クールな霞ちゃんはもういいのか?」

「よくはない、けど……もう、無理だもん」


 二人並んでの帰り道、霞はクールな仮面を脱ぎ捨て、その心の内を静かに語った。


「ゆーにぃに冷たく接するなんて無理。だって、心にはもう、火がついちゃってるから」


 その火をつけたのは、俺だ。望もうが望むまいが、もうあのころには戻れない。


「――今さら、冷静ではいられないの」


 俺の手を握る細い指先に、ぐっと力がこもった。


「つまり、今回も作戦失敗、と」

「……うん」

「そう落ちこむな。ゆーにぃは逃げないぞ」

「うん、ありがと……あのさ、ゆーにぃ。参考までに聞きたいんだけど……」

「ん?」

「昨日の無邪気なわたしと、今日の素っ気ないわたし。ゆーにぃ的には、どっちのほうが好み?」


 好みか……そうだな……


「強いて言うなら、今の霞だな」

「……今?」

「あぁ。ありのままの霞が、俺の好みだ」

「ありのまま……そっか、そうなんだ。ありのまま……」


 霞は考えこむようにつぶやくと、突然足を止めた。


「霞?」

「ね、ゆーにぃ。少し屈んでみてくれる?」

「ん? あぁ」


 よくわからないが、言うとおりにする。新しい作戦でも思いついたのだろうか?


「ゆーにぃ……」


 つま先立ちになった霞が、ゆっくりと顔を近づけてくる。


「霞……」

「ゆーにぃ……っ」


 唇と唇が触れあう直前、俺は霞の肩を掴んで、一歩後ずさった。

 ……雰囲気に流されるままキスできればよかったんだが、兄としての本能がそれを止めてしまった。


「なんで〜!」

「それはこっちの台詞だ。脈絡がなさすぎるだろ」

「だってこれが、ありのままのわたしだからっ」


 そう言うと、霞はタコのように唇を尖らせながら迫ってきた。


「むちゅぅ〜〜〜〜っ! んちゅううう〜〜〜〜〜〜っ!」

「こら、やけになるな霞!」

「やけになんかなってないも〜ん! これがありのままのわたしだも〜〜ん!」


 がっちり肩を掴んでいるため、事故る心配はないが……それにしても、なかなかにひどい絵面だ。

 霞の変顔はレアだし、もうちょっと眺めていたい気もするが。


「むちゅちゅちゅちゅ〜〜〜〜! ゆーにぃときちゅちゅるのぉ〜〜〜〜!」

「いい加減にしろ」

「っ〜〜〜!?」


 デコピンの刑を執行した。


「ごめんなさい……」


 額を押さえてしゅんとする霞に、俺は言った。


「霞、もうキスをしようとするのはやめてくれ」

「はい……」

「いいか、よく聞け? ――はじめてのキスは、俺からだ」

「……え」

「だから、それまで待っててくれないか?」


 俺からキスしてもらうのが夢だったと、霞は言っていた。兄として、恋人として……そのくらいは叶えてやらないとな。

 いつの日か――必ず。


「……うんっ」


 霞は、昔となんら変わらない――ありのままの、無垢な笑顔を俺に向けた。


「うんっ、楽しみに待ってる! だからゆーにぃも、待ってて」

「あぁ、楽しみに待ってる」


 いつか、俺たち兄妹が本当の意味で結ばれる――その日を。

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