第3話 ぜったい、放さない

 両親が揃って海外で仕事をしているという、ラブコメ漫画のお約束みたいな家庭――それが織戸家だ。

 昨年の春まではどちらか片方は家にいたのだが、俺が高校生になり、兄妹だけでも暮らしていけると判断したのだろう。それから今日まで、我が家はずっと二人暮らしだ。

 親子仲が悪いわけではないから、霞は内心寂しがっていることだろう。


「ねぇねぇゆーにぃ、霞、ゆーにぃと腕組みたいなっ」

「いいぞ、ほら」

「やったぁ、ゆーにぃ大好き!」


 一緒に家を出て数分。まだ微妙に照れは感じるが、“昔の霞モード”にもだいぶ慣れたみたいだ。人通りが少ないのをいいことに、思いきり腕に抱きついてくる。


「すりすり、すりすり。ぎゅ〜〜っ、ぎゅぅぅ〜っ」

「はいはい。よしよし」


 頭を撫でながら、学校への道を歩く。

 腕を組むのはもちろんのこと、こうして二人で家を出るのも、今までにはなかったことだ。俺は特に意識してなかったが、今思えば霞が俺を避けていたんだろうな。


 そうして歩き続けること、さらに数分。校門が見えてきた。同じく登校中の生徒たちから、そこはかとない好奇の視線を感じる。


「離れなくていいのか?」


 依然として執拗に密着してくる霞に訊く。

 俺はこのままでも困らないが、霞が恥ずかしいんじゃないか?


「いいんです! なぜなら霞は〜、ゆーにぃが大好きだからっ」


 だいぶ吹っ切れてるな。頭のネジまで飛んでなきゃいいが。


「ね、ゆーにぃ。霞たち、ちゃんとカップルだと思われてるかな?」

「ないだろ、それは。俺も霞も学校じゃそれなりに有名なんだろ? 俺たちが兄妹だってことも含めて」

「うん、そうだった……」

「今さらなんだが、おまえのブラコンっぷりが白日の下に晒されることに関しては、本当にいいのか?」

「平気。だって霞、自分がブラコンだって公言してるから」

「そうだったのか。初耳だ」


 クールに振る舞っていたのは俺の前でだけだったか。

 もっとも、高校生になってからの霞は、だいぶ人の温もりを取り戻していたが。少なくとも、俺の愚痴に付き合ってくれる程度には。

 中学時代なんて思春期の面倒くささも相まって、本当にひどかったからな。


「……今思えば、そうやって公言することで、『わたしはブラコンなんだ』って、自分に言い聞かせようとしてたのかも」


 素の口調に戻って、そう小さくつぶやいた。


「今はもう、ただのブラコンじゃない。霞は胸を張って、俺のことが好きだと言っていいんだ」

「……うん。ありがとう、ゆーにぃ」

「もし俺とのことでからかわれるようなことがあったら、すぐに言えよ? 一瞬で駆けつけて成敗してやるからな」

「ふふっ。そんなことしたら、今度はゆーにぃがシスコン呼ばわりされるね」

「上等だ。学校一のシスコン野郎として名を馳せてやる」


 俺たちは誰の目も気にせず、腕を組んで笑いあいながら、校門をくぐった。



 昼休みになり、俺は中庭に向かった。先に来ていた霞が、噴水前のベンチで小さく手招きしている。まさか学校で、妹と二人で昼食を食べる日が来るとはな。

 二学期が始まってひと月以上が過ぎ、だんだんと過ごしやすい気温になってきたこともあってか、中庭には俺たち以外にもちらほらと人の姿がある。中には当然、カップルと思わしき男女も。


「俺たちもあんなふうに、“あーん”でもするか?」


 イチャつくカップルに目をやりながら、霞のすぐ隣に腰を下ろす。さすがに距離が近すぎたか……? と自分で座っておきながら思う俺だったが、霞には物足りなかったのか、腰を浮かせてさらに距離を詰めてきた。肩から脚まで、ピッタリと密着する。


「ううん、それも魅力的だけど……今日はやめとく。その代わり、もっとゆーにぃと“昔みたいなこと”がしたいな、って……」

「昔みたいなこと、か」


 霞だけじゃなくて、俺も童心に返ったほうがいいのだろうか。それも面白そうだ。


「はいこれっ、ゆーにぃのぶん!」

「おう、サンキュ」


 霞の膝の上に置かれた二つの弁当箱の、片方を受け取る。

 二人暮らしが始まった当初は、霞がまだ中学生だったこともあり、料理全般は俺が担当していた。が、最近では霞も、時々ではあるがこうして俺のぶんまで作ってくれるようになった。その腕前はというと…………まぁ、少しずつ上達していけばいいんだよ。うん。


 生温かい気持ちが胸の内に広がっていくのを感じながら、俺は弁当箱のフタを開けた。


「おおっ…………んん!?」


 あまりにも予想外なものが入っていたので、驚いて弁当箱を落としそうになった。

 いびつな形状の玉子焼きも、異様に黒い肉団子(?)も、存在感こそ凄まじいが、予想の範囲内ではある。問題はそこじゃない。

 この弁当箱には、あろうことか――プチトマトが入っていたのだ。


「こっち、霞のだぞ」

「ううん、ゆーにぃので合ってる」

「おいおい…………冗談、だろ?」


 俺は大のトマト嫌いだ。もし「トマトを食べなきゃ妹を殺すぞ」と脅されたら、俺は霞を見殺しにすることになるだろう。

 それを霞が知らないはずはないのに、なぜこんなものを入れたんだ?


「まさか……これを俺に食べろって言うのか!? 霞!?」

「落ち着いて、ゆーにぃ。ほら、霞のお弁当も見て?」

「……ん?」


 覗きこんだその中身は、俺のものとほとんど変わらなかった(彩りは極めて悪い)が、一点だけ明確に違う箇所があった。

 俺の弁当箱では忌まわしき赤い悪魔が入っていたところに、豆腐ハンバーグらしき物体が収まっている。

 豆腐ハンバーグは、数ある霞が嫌いな食べ物のうちの一つだ。


「霞がこの贋作がんさくのこと嫌いなの、ゆーにぃも知ってるよね? もしこの贋作を食べなきゃ兄を殺すって脅されたら、霞、ゆーにぃを見殺しにしたあと、自責の念に駆られてすぐに後を追うと思う」

「見殺しにするのは確定なのかよ。あと誰に脅されるんだよ。あとこの贋作って言うな」

「だから昔みたいに、“あれ”しよっ?」

「あ〜、そういうことか」


 なんのことはない――霞がやりたがっているのは、ただのおかず交換だ。

 昔はよく親に隠れて、兄妹で嫌いな食べ物の交換をしていた。そしてそのお礼として、相手の好きなおかずを一つ差し出す。いつのまにかそんなルールができていた。兄妹揃って好き嫌いが多いからこそ成立する、まさに一石二鳥のやり取りだった。


 あれは今にして思えば、親には内緒という背徳感も手伝って、案外楽しかったような気がする。

 そしてそんなことばかりしていたから、俺も霞も未だに好き嫌いが直らないんだろうな。


「思いつきだったけど、ちょうどこの贋作の材料も揃ってたから、久しぶりにしたいなって思ったの!」


 そのためだけにわざわざ、比較的手間のかかる豆腐ハンバーグまで作ったのか。

 ……まぁ確かに、兄妹だけで暮らすようになってからは、あえて二人が嫌いなものを作ることも、食べることもなくなった。そう考えると、こんな些細なことでも意外と新鮮に感じられる。


「それじゃ俺は、このプチトマトを霞に食べてもらうことにしよう」

「うんっ! じゃあ代わりに、霞はこの贋作をゆーにぃにあげる!」


 あぁ、この贋作って言い回しが気になる。


「はい、交換完了! ゆーにぃ、お礼に好きなおかず一つ取っていいよ!」

「そうだな……」


 いちばん問題が少なそうなやつは……


「よし、このきんぴらごぼうにしよう」

「あれ、そんなのでいいの? ゆーにぃは絶対肉団子だと思ったのに」

「これがいいんだよ」


 やはり、お弁当のおかずは冷凍食品に限る。


「霞は? どれにする?」

「えっと、じゃあ……これ!」


 そう言って、霞が俺の弁当箱から取ったのは――――きんぴらごぼうだった。


「おい」

「だって、おいしいんだもん、冷凍食品……」

「これからは少しずつ、料理の勉強もしていこうな?」

「善処します……」


 自覚はあるようでなによりだ。


 それからも、俺たちは日々進化し続ける冷凍食品の素晴らしさを語りあったりしながら、楽しい昼食の時間を過ごした。

 懐かしい兄妹の思い出をたどるのも、たまには悪くない。



 また二人、腕を組んでの帰り道。

 ちょっと寄り道したいところがあると言う霞についていくと……


「懐かしいな、この場所も」

「でしょ!」


 どこの町にもあるような、近所の寂れた公園だ。特にこれといった思い出はない気がするが、それでも、公園と言われて真っ先に思い描くのはこの場所だろう。

 俺たち以外に人はいない。辺りにはベンチに水道、トイレ、あとは滑り台やブランコといったお馴染みの遊具が、ぜんぶで五つほど。まるでこの空間だけ時間の流れから取り残されたみたいに、しんと静まり返っていた。


「ね、ゆーにぃ! ブランコ乗ろっ!」

「また昔みたいに、か?」


 いや、霞と一緒にブランコに乗った記憶は特にないな。


「ううんっ、ただ、今乗りたいだけ!」

「おまえ、演じてるつもりが本当に幼児退行してるんじゃないのか?」


 なんて言いつつ、俺もほんのちょっとだけわくわくしていた。

 そんなわけで、霞と二人並んでブランコに腰を下ろす。


「ね、ゆーにぃ、覚えてる?」


 ゆらゆらと軽く漕いでいると、霞が静かなトーンで言った。隣を見ると、霞は正面を向いたまま、


「昔ここで、自転車の練習、付き合ってくれたよね」

「あ〜……そんなこともあったな」


 あれは確か、霞が小学校一、二年生くらいのころだったか。

 乗れるようになるまで、けっこうな時間がかかったのを覚えている。


「毎日毎日、日が暮れるまで、付き合ってくれたんだよ。友達に遊びに誘われても断って、絶対に霞のこと、優先してくれたんだよ。それがね、すっごくうれしかった」

「別にそんなの、普通のことじゃないか?」

「……そういうところが、ゆーにぃなんだよ」


 優しげな、けれど熱のこもった言い方だった。


「それにね」


 霞はブランコから降りると、振り返って俺を見た。


「ゆーにぃは絶対に、手、放さなかったんだよ」

「手?」

「自転車から。霞が『絶対に手を放さないで!』って言ったら、ゆーにぃは本当に、最後まで手を放さなかったの。普通は途中で放すよね?」

「へぇ、俺って昔から妹想いなやつだったんだな」

「うん」


 冗談めかして言った俺の言葉に、霞は真面目な顔でうなずいた。


「ていうか、その話聞いて思ったんだが……霞がなかなか自転車に乗れるようにならなかったのって、俺の教え方が下手だったからなんじゃないのか?」

「下手でも不器用でもいいよ。教えてくれたのが、ゆーにぃでよかった」


 言うと霞は、ブランコに座る俺の目の前に立った。


「そんなゆーにぃのことが、大好き。そんなゆーにぃだから、好きになっちゃったの」

「……霞」

「ゆーにぃ……」


 どこか切なげな声で囁いて、霞は腰をかがめた。

 霞の顔が、ゆっくりと近づいてくる。


「だいすき……」


 まぶたを閉じる霞。

 俺も避けることはしなかった。

 必然的に、霞の唇が、


 ――触れた。


「んんっ……」


 キスを、した。


 …………霞が、俺の人さし指の腹に。


「やっぱり、まだだめ?」


 目を開けて状況を把握した霞が、残念そうに顔を離して言った。


「あぁ」

「いい雰囲気だと思ったのに」

「霞の努力はちゃんと伝わってる。でもな……」


 俺は率直な感想を口にした。


「昔のこととか、昔の霞を思い出して……あぁ、霞はやっぱり妹なんだなって。余計にそう思ったよ」

「う……」

「このままだと、どんどん距離が遠ざかっていきそうだ」

「う〜っ」

「どうする? もう諦めて別れるか?」

「別れない」


 即答だった。俺もその答えがわかっていて訊いた。


「今回は失敗だったけど……絶対にゆーにぃのこと、振り向かせてみせるよ」

「霞、今さらなんだが、丸投げしちゃってごめんな」


 どうすれば霞を異性として見ることができるのか。考えてはいるが、妙案が浮かぶ気配はない。


「ううん。わたしのこと頼ってくれて、うれしかった。ゆーにぃにはいつも、助けてもらってばっかりだったから……」


 それに、と。

 まっすぐに俺の目を見て、霞は続ける。


「それにこれは――“お兄ちゃん”に恋をしたわたしが、越えなきゃいけない壁だと思うから」


「……そうか。じゃあ、任せた」

「うん、任された」


 俺たちは顔を見合わせ、わけもなく、くすくすと笑いあった。

 晴れやかな笑みを浮かべ、霞が手を差し出してくる。


「帰ろ、ゆーにぃ」

「行くか」


 俺は手を取ると、立ちあがった。

 霞の温かな手が、力強く握り返してくる。

 まるで、もう絶対に放さない、とでも言わんばかりだ。


 きっともう、あのころとは違う。

 小さくて柔らかいこの手は、けれどもう、妹の手ではないのだ。

 そうだ――きっと、この手は。


 ……女の子の手、なんだろうな。

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