焦り
井堀出奇
第1話
朝六時頃に起きて、すぐにスマホを手に取り、SNSを開く。そのまましばらくは布団にくるまりながら、タイムラインに流れてくるおよそ自分の人生とは関わりのないニュースの羅列や、知り合いの呟きをひたすら眺め続けていく。
Instagramに始まり、Twitter、Facebookの順に、自分が眠りについていた間に投稿された書き込みの数々を確認していく。気になった記事に一通り目を通し、画面の一番上までスクロールし終わったところでようやくベッドから立ち上がって、洗面所へと向かった。顔を洗って歯を磨いた後、冷蔵庫からヨーグルトを取り出し、パッケージに“食物繊維・鉄分たっぷり”と書かれたシリアルを上にかけてから食べる。朝は大体いつもこの組み合わせだ。
低糖質とかコラーゲンたっぷりとか、ビタミン配合だとか、とにかく健康や美を連想させるような単語の書かれた加工食品ばかりを手に取って買ってしまうのは、一人暮らしで偏った食生活に陥ってしまうのではないかという自分自身への不信感に対する小さな抵抗だった。だけど今のところ、自分が考えていた以上に自炊生活はスムーズに行えているし、栄養バランスの取れた食事を心掛けているつもりだった。実家に居る間にそれなりの女子力は身に付けてきた。私は大丈夫、うまくやれている。そう自分に言い聞かせながら、食べ終わったヨーグルトのお皿を台所へと運んでゆく。
隣の住人が部屋を出ていく音が聞こえてくる。時計を見ると、時刻は既に七時を過ぎていた。私も急がなければ。引っ越しの挨拶の時以来一度も顔を合わせていないが、今では彼が部屋のドアに鍵をかける時の音が、私の通勤時間が迫ってきていることを知らせるひとつのシグナルとなっていた。
半年ほど前に隣に越してきたその隣人はベトナム人の若い青年だった。何の仕事をしているのかはわからないが、私より早くに家を出て、私よりも遅くに帰宅する。時々隣の部屋から壁越しに誰かと話しているような声が聞こえるが、聞こえてくるのは決まって彼の声だけだった。誰かと同棲している様子はない。日本語ではないのでどんな内容の話をしているのかまではわからないが、楽しそうに話すその声を聞いていれば、彼が電話で祖国の家族や友人か、あるいは恋人と話をしているということが容易に想像できた。
そういえば、何日か前に三つ隣の空き部屋に新しい人が越してきたんだっけ。物騒な人じゃなければいいんだけど。そんなことを考えながら、二十分ほど掛けてメイクをして、身支度を済ませる。寝る前に充電しておいたコードレスのイヤホンを耳に挿し、靴を履いて玄関の戸を開ける。外に出ると、冷たい外気が頬をかすめていく。皮膚に無数の針を刺すような鋭い痛みを感じる。もう本格的に冬の到来だなと思った。アパートの階段を降りて、最寄りの駅へと向かって歩き出した。それが私の普段のルーティーンだった。いつも通りの、代わり映えのしない毎日。
大学を卒業して、都内にある小さな会社で、営業社員として働き始めた。営業といっても、既存の取引先への対応がほとんどなため、新規開拓は少なく、形ばかりのノルマがそれっぽく存在するだけで、余程のことがない限りは上司からあれこれ言われることもない。勿論残業はあるが、それでも平均的な方だと思う。これといって会社に対して大きな不満はなかった。その会社を選んだのは、転勤がないということと、土日休みを希望してのことだった。会社から電車で片道四十分程のところに、1Kの部屋を借りて住んでいる。駅からは少し遠いが、その分家賃を抑えることが出来た。こんなご時世だ。可能な時に、貯められるだけお金貯めておかなければという危機感が、いつも頭の片隅にあった。
従業員の数も、そう多くはない。そのうえ年の近い社員は三つ上の先輩と、同い年の男の子がもう一人いるだけだった。加えてその先輩はつい最近子供が産まれたばかりで、同い年の彼も交際相手がいる手前、例えそんなつもりでなくとも、二人きりでご飯に行くということも少しためらわれた。そんなわけで、最近では上司から誘いがある以外で会社の人とご飯に行くという機会は滅多に無く、会社終わりに揃って飲み歩くということは、月に一度か二度、あるかないかという程度であった。
朝起きて仕事に行き、帰って寝て、また仕事に出るという生活を繰り返していると、一体何の為に働いているのか、わからなくなる時がある。生きるために働いているのか、働くために生きているのか。どちらにせよ、働かないことには生きてはいけないし、生きていなければ働いてお金を稼ぐこともできない。来週には友人の結婚式を控えている。お金はどうしたって必要だった。少なくとも働いてさえいれば、何も考えなくとも、お金は自動的に入ってくる。どうせ朝になればそんな疑問も消え去って、また仕事に繰り出すのだ。眠っている間は余計なことを考えなくて済む。夜は気分が沈みやすいので、早めに就寝した方がいいとこの前読んだ本に書いてあった。あまり考えすぎるのも良くない。
歯を磨いて、明かりを消して眠りにつく準備をする。スマホのアラームを6時にセットする。明日も朝早くに起きなきゃ。帰ったらご飯を食べて、Netflixで映画でも観て、その後寝よう。
ふと、学生時代を思い出す。そこそこやりたいことができて、時間だけは有り余っていた時代。今とはまるで逆の生活。あの頃はいつもお金が足りなくてバイトばかりしていたなあ。当時は実家暮らしで生活費に困ることはなかったが、大学生になってお洒落に気を遣うようになり、部活漬けだった高校時代とは打って変わって遊び方も異なって、何をするにもお金が必要だった。大学の勉強もそこそこに、アルバイトに精を出す毎日。友達と海外旅行に行きたくて、必死でお金を貯めたっけ。平凡なことが嫌いで、色々なことに手を付けたけど、何一つ長続きせず、それがまた自分の平凡さを際立たせていた。どこにでもいるような大学生だったと思う。それでも、学生生活は楽しかった。当時の私にとってのすべてだった。
終わってみてようやくわかったのだが、あれは紛れもなく青春だった。だからこそ今のこの現状が不安になる。今のこの瞬間は果たして、私の人生の中で意味のある時間になりえるのだろうか。その不安を煽る要因が、他にもあった。
このところ、自分の周りでは結婚ラッシュだった。来週のものも入れれば、もう今年だけで三度の結婚式に出席していることになる。気が付けば私も、自分や自分の友人が結婚していても、何ら可笑しくない年齢になっていた。友人の数名が立て続けに結婚して、幸せいっぱいといった知人の様子をここ数年あまりで何度も見てきた。彼女たちの結婚式に出席するたびに、自分の中に焦りのようなものが小さく込み上げてくるのを感じる。
一体いつになったら、私の番が回ってくるのだろうか。
交際相手は、いる。長く付き合っている恋人が、私にはいるのだ。二十歳の時に出逢ってから今に至るまで、およそ7年もの時間をこの人と共に過ごしている。お互いがお互い、これが初めての交際だった。
付き合った当初の胸が高鳴るようなドキドキとした高揚感は、今はもうほとんどない。一緒にいる時の安心感こそが、今の関係を続ける一番の支えだった。恋人というよりは、むしろ家族や友人に近い、そんな関係。それは果たして正しい恋愛の形なのだろうか。そう疑問に感じる時がある。しかし、いや、正しいはずだと、自分自身に言い聞かせる。情熱と呼べるものはないが、深い愛情に支えられた関係。愛に勝るものはない。お互いがお互いを大事に思い、尊重している。それは確かだ。でもならば何故、夫婦という新たな関係へと繋がるあと一歩を、彼は踏み出そうとしてくれないのか。その疑念が、今のこの関係に対する不信感と、湧き上がってくる焦りの原因となっていた。
その疑問が頭の中を占領してからというもの、気持ちは、時間を“共有する”から、“費やす”という感情に変わりつつある。二人きりになると、途端に普段口にしないようにしている言葉が不意を突いて出てきそうになる。
――ねぇ、あなたはいつになったら、”私に”決めてくれるの?
彼は気付いていないかもしれないけど、余計な精神的負担をかけまいと、今まで結婚の話は極力しないようにしてきた。少なくとも私から、そういった類の話をしたことは一度もない。ないのだけれど、共通の知人に会ったりすると、嫌でもそういった話を振られてしまい、少し居心地が悪くなる時がある。無理もない。7年も交際を続けていれば、周りからしたら結婚という単語が浮かび上がらない方がおかしいだろう。友人にしたって、悪気があって言ってるわけではないのだ。そうした状況を避けたくて、最近では二人でいる時には、例え共通の知り合いからの連絡であっても、遊びの誘いを断ってしまっていた。
社会人になって三年が経った頃、彼も含めた大学の友人数名で食事をした際、同じように結婚の話を振られたことがあった。5年目の交際記念をした翌週のことである。友人の一人からそろそろ結婚は? と訊かれ、やはり居心地が悪くなった。私としては、なんとかして話自体を別の方向へと持っていきたくて必死だったのだが、彼はその質問に一言二言、気の抜けた返事をしただけで、特に気にも留めていないといった様子だった。その姿を見てやきもきした気持ちになったのを今でも覚えている。
私はあなたに余計なプレッシャーを掛けまいと必死なのに、なんなのその釈然としない態度は。
だが実際のところ、彼は彼で、何も考えていないというわけではなかったらしい。後日彼の部屋でデートをした際、この前の飲み会の時の話なんだけど、と前置きがあってから、お互いの仕事が安定するまで結婚は止しておこう、そう切り出されたのだった。面と向かってそんな話をされたもんだから、それ以降私の方から結婚をほのめかす類の会話は一切口にしなくなった。できなくなった。
仕事が終わり、帰宅途中の電車でつり革に捕まりながら外の景色を見ていると、窓に映る自分の姿が視界に入る。気のせいだろうか。この一年あまりでだいぶ老け込んだように思える。それもそうか、私ももうアラサーと呼ばれる年代に突入しているのだ。当然と言えば当然なのかもしれない。メイクももう少し控えめなものに変えた方がいいのかも。
コートのポケットにしまっていたスマートフォンが、小刻みに震えている。取り出して見てみると、恋人からLINEのメッセージが届いていた。文面を見ると、お仕事お疲れ様、今何してる?と書いてある。帰りの電車、youtube観てたと、意味のない小さな嘘を織り交ぜた返信を打つ。本当はただぼうっとしていただけだった。すぐに彼から返信が帰ってくる。
「今度の休み、久しぶりにどこか行こうか。どこがいい?」
車内にアナウンスが響き、次の到着駅を告げた。斜め前の座席に座っていた親子が荷物をまとめ始める。その様子を横目に見ながら、なんと返事を返そうか考えていた。彼の仕事が不定休で、このところ連休が被ることはそう多くはなかった。どこか行きたかったところなかったっけ。そう考えて、ふと頭に浮かんだ場所を打ち込む。
「そうだね。横浜行きたい。そっちは?」
またすぐに返事が返ってくる。
「横浜か、いいね。中華街で食べ歩きでもしよう」
「もう何回も行ってるね、横浜」
付き合いたての頃、横浜にはよく二人で出掛けた。中華街で食べ歩きをして、みなとみらいに行き、とにかく二人で色々なことをして、感情を共有した。思い出の場所だった。それらの記憶が蘇って、頭の中を駆け巡る。
「何回でも行こう。行きたいときに行けばいい」
「そうだね」
「ホテル予約しておくよ。向こうで何したいか考えておいて」
「うん、ありがとう。楽しみにしてるね」
その文字を打ち終わって、もう一度窓に映る自分を見つめた。先ほどと変わらない表情が、そこにある。
思いついたように行動してしまう、彼のその奔放さがたまらなく好きだった。でもそれは、結婚の二文字においては例外だった。安定するまではと言っていたが、一体いつ安定するのだろうか。その日が来るのはあと何年先?いつになれば、彼はその決心がつくのだろう。
家について玄関の扉を開ける。帰宅途中、先ほどの疑問がずっと頭から離れなかった。乾いた空気とは裏腹に、外回りでかいた汗のせいで身体がべとつく。早くシャワーを浴びたい気分だが、その前に部屋の暖房をつけておこう。湯冷めして風邪をひいてしまってはまずい。いや、もう面倒くさいから、一旦横になって休むか。そのままコートも脱がずにベッドへ倒れ込む。疲れた。今度のデートは何を着ていこう。
別に私は高望みはしていない。高給取りじゃなくたっていい。必要最低限の生活が出来ればそれで充分。結婚指輪だって、高価なものは望まないし、年に一回程度、少し遠くまで旅行に行ったりして、共通の思い出を作れればそれで構わない。このご時世だ、共働きは承知している。私はただ、お互いの感情を共有できて、安らぎを与え合える存在が隣にいてくれれば、それでいい。私はあなたと一緒に居られればそれでいいのに。それすらも私には分不相応だというのだろうか。何が不満だ。お前は私じゃ物足りないっていうのか。自惚れるのもたいがいにしろ。早く決めろ馬鹿野郎。いっそのことコンドームに穴でも開けて帰省事実でもつくってやろうか。よしそうしよう。それがいい。やってやる。待ってろよ横浜。馬鹿か私は。
私はただ、幸せになりたいだけなのに。
気が付くと枕に顔を埋めて泣いていた。どうしてこんなにも私はもがき苦しんでいるのだろう。そう思って、自分の胸の内に潜む感情を分析していると、幸せの定義が曖昧になってくるのを感じる。結婚、結婚って、まさか自分がこんなに浅ましい人間になるとは想像もしていなかった。何をそんなに焦る必要があるのだ。私はまだ若い。自分がここまで結婚に縋りつく理由は何なのだろう。恋人から夫婦という関係に変わったとして、その先に何を求めているのか。今の自分にとっては、結婚とは男女の在るべき姿のように見えて、その実ゴールでしかない。その契約を結ぶことに、一体何の意味があるのだろう。今のままの関係と、結婚して夫婦になった時とで、一体何がどう変わるというのだろうか。そこまで自分を追い詰める必要が、どこにある。
そこまで考えて、ああ、と溜息をつく。違う。本当は自分でもわかってる。私はただ、こわいのだ。散々泳がされた挙句、三十路まであと一歩手前というところにきて、愛した男に捨てられるのが。だから結婚という契約を結ぶことによって、この関係を確実なものにすることで、ただ安心したいだけなのかもしれない。恋人といういつ終わるかもわからないこの不確かな状態の関係に、二十代の貴重な時間を不安いっぱいな気持ちのままただひたすら費やすということを、恐れている。
心にはいつだってさざ波が立っていて、精神が落ち着かなかった。いつも不安が、付き纏っている。
大人になって、随分と不自由になった。好きという感情ひとつで恋愛ができるなんて、最早幻想にすら感じる。もしこの恋が終わりを迎えたとして、次の相手と結ばれようと努力するだけの気力が、果たして私には残されているだろうか。自信がない。初めての男に七年もの歳月を捧げた私には、恋愛とはどう始まってどう終わるべきものなのか、何ひとつわからなかった。
ひとしきり泣きじゃくった後、ひとりきりの部屋でベッドに横たわりながらTwitterを開いた。スクリーンには2年前に結婚した友人が書き込んだ呟きが流れてくる。内容は旦那の悪口だった。今の私にはそれすらも羨ましいく思えてしまう。あなたはちゃんと選ばれた。私はまた選ばれない。そんなことを考え出す。いよいよ末期だなと思った。鼻から含み笑いが漏れる。あと三ヶ月も経てば、私ももう二十八だ。ひとつ歳を重ねるごとに、不安は加速度的に増していく。今日はもう疲れた。寝よう。寝て、何もかも忘れよう。立ち上がって、電気を消した。
二十七歳。平成最後の夏は私の身には何ひとつ爪痕を残さず何処かへと消え去っていった。気が付くと秋も過ぎ去り、季節は冬に移り変わっている。私はただ、焦って生きている。
焦り 井堀出奇 @ihori4423
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