インターミッション

どきどきはぁとふるこねくしょん 前編

 鵜ノ澤家にはそこそこ広大な庭がある。

 そこに植えられた松の木にとまっていたセミが、ジージーと暑い夏を演出する響きをがなり立てる中、縁側の日陰でアイスをかじってた吾音を見つけた次郎が声をかけた。


 「姉貴ー、三郎太は?」

 「未来理ちゃんとどっか行くって言ってたわよ」

 「…んだよ、アイツも最近付き合いわりーなー」

 「未来理ちゃんがかわいくてしかたないんでしょ。悪くない傾向じゃないの」

 「まあそうなんだろうけどさあ…」


 夏休みが始まり、鵜ノ澤家の三人姉弟はなんとなくこれまでとは違う生活サイクルになっていた。

 吾音はもともと暑いのが好きな方ではないために、自宅で過ごすか友人と図書館にでも籠もっていることが多く、これは例年通りと言える。

 一番変わったのが三郎太で、中等部一年の神納未来理となんとも微笑ましいというか絵的にヤバくない?と一部が心配するような付き合いを始めていて、まあ家族としてはちょっとホッとしたというかなんというか。

 なお、この件に関してひと悶着あったのだが、少年少女のそれなりの付き合いにおいて、男の子の家族にとっては微笑ましくても、女の子の側の家族にとってはなんとも複雑なものがあるらしい、という一般世間においては割とありがちでそれだけに鵜ノ澤家の面々があまり思い至らなかった問題の存在だ。

 つまるところ、未来理の家族が三郎太の評判についていささか危機感を覚えていた、ということなのだが。


 「ほら、じーちゃんのお陰であんまり難しいこと考えなくてもよくなったんだから、三郎太も羽伸ばせるんでしょ」


 その点については嘉木之原学園の理事でもある、祖父の東悟が珍しく口を出すことで、一応の解決を見ていたのだった。


 「ずっけーなぁ…三太夫の時ばっか学校のバックアップあるみてーなもんじゃん。俺なんかなーんもねーってのに」

 「次郎?それは家族の応援が無くて寂しいってこと?それとも伊緒里に会えなくて寂しいってこと?」

 「なんでそうなんだよ!俺は別に…なあ?」


 口の上手い次郎にして、気の利いた切り返しの一つも出来ないのだから、お察し下さい、というものだろう。吾音も弄り甲斐のあるネタが出来て、ニヤけ顔の一つもするのだろう、と誰しもが考えそうな場面だった。 

 アイスを棒だけにした吾音は、名残惜しくそれを咥えたまま、ごみ箱を探して立ち上がる。そして、通り道を開けようと体をずらした次郎の前に吾音は立ち止まると、吾音は弟の顔を見上げながらこんなことを言ったのだ。


 「そ。まあ伊緒里も忙しいもんね。自治会活動の帰りにデート誘うくらいしてあげたら?」


 と、親切心の発露であることを誰も疑いそうにないような顔でそんなことを言うものだから、次郎は口調も深刻そうにこう聞くしか無いのだ。


 「……どしたん姉貴?もしかして今にも死にそうなくらいの高熱でうわごとしか出てこないいでぇっ?!」


 無拍子で次郎の足を踏んづけていた。吾音が。しかも、踵で足の甲の一番薄いところをグリグリ抉る、一番えげつないやつを。


 「こーなるの分かっててそーいう口利くんだから、次郎のマゾ芸も堂に入ったもんよねー。Sの伊緒里とよーくお似合いってもんだわ」

 「い、いやアイツ実はそう見えて結構……じゃなくて!…ってーな、ケガしたらどーすんだよ」

 「ケガしないように痛いだけの場所突いてあげたでしょ。優しいおねーさまに感謝してもいいくらいじゃない」

 「…更に追い撃ちかけながら言うことかよ、ソレ」


 出力の上がったグリグリに耐えつつ文句を言うと、その反応に興が冷めたのか、吾音は何事も無かったように次郎の側から離れ、揺れるしっぽを見せつけつつ縁側の日差しのあたっているところを避けつつ、台所の方に向かっていった。夏場のこととてショートパンツに素足であるから、日の当たる場所だと足の裏が熱くてたまらないのだろう。

 普段隙の少ない姉にしては珍しい格好だ、と想像の中にしかない誰かさんの素足と比べながら、そんなことを思う次郎だった。




 そんな風に煽られたからではないが、次郎は自治会の業務が終わる頃を見計らって学校に来てみた。

 夏休み中であっても登校時には制服着用が当然なのだが、校門の中に入るわけじゃねーし、と言い訳して、ダメージジーンズにダボダボのTシャツ、その上に迷彩柄の長袖のシャツを羽織るように着込んで、伊緒里が出てくるのを待っている。


 「…いや、別に待ってるわけじゃねーし」


 誰にとも無く弁解すると、「休み中だからって何て格好して学校に来てるのよ」と文句を言うだろう伊緒里の顔が思い浮かび、ため息が出た。


 「休み中なのに学校に何か用?あともうちょっとキリッとした格好出来ないのかしら、次郎くんは」

 「正解したのに全然嬉しくないのはどうしたもんかねえ…」

 「なにが?」


 校舎に背を向けていたら、後ろからかけられた声にため息二倍。

 もっとも、伊緒里としては次郎をたしなめるつもりでそう言ったのではなく、もうすこしちゃんとした格好をして欲しい、というニュアンスだったのだがそれが通じるほどでもない二人ではある。


 「なんでもねーよ。それより用事終わった?時間あるならちょっと遊びにでもいかね?」

 「め、珍しいこともあるわね、次郎くんの方から誘ってくるなんて」

 「そうだっけ。何度か一緒に出歩いたことあった気もするけど」

 「それ次郎くんの方が私に話のある時で、遊びにいく時は全部私の方が誘ったんじゃない。まあでもいいわ。制服のままだけど、いい?」

 「俺が私服だと下手なナンパに引っかかった世間知らずのお嬢さんみたいだなあ」


 自分で言う?それ、と呆れつつも笑いながら、次郎の誘いには素直に乗るのだった。ちょうど一年前を思うとまた隔世の感がある、と次郎はヘラッと笑い、そこに自嘲でも見てとったか伊緒里は顔をしかめたのだが、それはそれとして日の傾くまでにはまだ間がある時間、二人は街にでも繰り出そうかと並び歩き始めていった。




 「そういえば三郎太くんは未来理ちゃんと仲良くやってるみたいね」


 バスを待つ間、伊緒里は話題といえばこれしかない、みたいな勢いで次郎に問う。

 実際、校内の一部では噂に敏感な層の他に吾音たち学監管理部を遠巻きに眺めていた生徒たちの話題の俎上にもよく上り、次郎などはその件で何度も会話したことのない男子に声をかけられたものだ。ちなみに高等部で次郎が会話したことのない女子生徒はほぼ存在しないため、声をかけられることに不思議は無かったりするが。


 「仲良くっつーかなあ。さっきも姉貴とちょっと話になったんだけど、三太夫ばっかりずっけーなー、って思ってさ」

 「ずるい?なんでまた」

 「だってアイツ、未来理ちゃんの家が心配するかも、ってんでうちのじーさんの全面的バックアップ受けてやがんだぜ?じーさん、自分で未来理ちゃん家まで行って頭下げて来たってんだから、差別も酷くね?って不遇な長男としては思うワケ。わかる?この気持ち」

 「わかるわかるぅ、三郎太くんばっかりヒイキして次郎くんは放置されてるだなんて、そんなのヒドイわよねぇ~………………とかって私が言うと思うの?」

 「いや、全然」


 珍しいものというより気持ち悪いものを見た、みたいな目になりかけた次郎だったが、あまり上品とは言い方笑い方から一転して眼鏡の奥に冷たい光を宿した瞳で次郎を睨む。

 剣呑、と言ってさえいいその視線に次郎は、久々に伊緒里の眼光に怯む思いで愛想笑い。それに応じるのが伊緒里のため息、というのも二人にとっては慣れたやり取りだった。


 「…はあ。まあ次郎くんもかわいいところあるわね、とだけ言っておくわ」

 「うい。さんきゅーな」

 「分かっているなら私にそんな情けない泣き言言わないで。この意味くらい分かるでしょう?」

 「まあ、な」


 肩が触れるくらいの距離だったものが、どちらからかは分からないが拳半分くらい離れる。

 近寄れば怯み、離れればもの寂しくなる。そんな関係が長く続く間に当たり前になった距離感。


 (それが良いこととも思わないけど、意外に悪い気分じゃないんだよなあ)


 明け透けに言ってしまえば、次郎は伊緒里を好いている。女の子として、だ。そして伊緒里の方も同じように思っているだろうとは確信しているし、周囲もそれを期待しているのだと思う。

 それでいながら関係を進めたり変えたりしようと踏み出したりしないのは、次郎にとっては今の状況がそこそこに心地よいものだからだ。


 「けどいつまでもこうしていられる、ってわけじゃないんだよなぁ」

 「…そうね。私もそう思う」


 思わず口にした慨嘆に、やっぱり嘆き含みの同意の声。

 隣の伊緒里を見ると、次郎の好きな、理知的でありながらどこか感傷のこもった眼差しで前を見つめる顔があった。

 きっとその脳裏では次郎が我知らず漏らした本音の意味を正しく誤解なく読み取って、そして思うところを打算なく述べたのだろう。


 (好き、って口にして、そんで何もかも上手いこといくってわけにゃいかんもんなあ…)


 自分の葛藤の淵源にあるものが、過去の失敗に根ざしたものであるからこそ、慎重にもなる。一年前にしでかした失敗の結果、そうなった。ならざるを得なかった。


 「…ね、次郎くん」

 「お、バスきたな。どこ行くかはバスん中で決めようぜ、阿方」

 「あのねぇ…」


 ぬるま湯に浸かってるみたいな関係だけれど、それはそれで悪いものじゃない。なら、せめてもう少しくらい、二人ともそれに倦むまでの間くらいは浸かっていてもいいじゃないか。

 逃げている自覚はある。それを双方とも望んでいないことも分かっている。

 けれど、こういう今の在り方だってそこそこ好きなんだから仕方ねーじゃん。

 開き直りみたいなことを思い、伊緒里が何か言いたげであることに気づかないフリをし、次郎はバスの整理券を意識して雑な手つきで引き抜くと、ステップを一段飛ばしでバスに乗り込んでいた。

 後に続く伊緒里がどんな顔をしていたのか。振り返って確かめる気には到底なれなかった。



   ・・・・・



 「しかし、吾音よ。お前さん、もう少し背中を押すというか引っ掻き回すと思っておったのだがの。どういう心算こころづもりじゃい」


 弟の方がせーしゅん真っ只中、みたいな感じに脳内で悶絶してる頃、吾音は祖父の東悟と差し向かいで将棋を指していた。

 ゲームと名のつくものなら何にでも首を突っ込む三郎太と異なり、吾音はこの手の非電源ゲームに自分から手を出すことはそうそう無いが、東悟の将棋は下手の横好きに過ぎず、ド初心者の吾音でも会話の切っ掛けにするには割と適しているのだった。


 「心算も何も、もともとわたしはあの二人ならいー加減とっととくっつけばいーのに、って思ってただけだってば…じーちゃんそれ二歩」

 「とと、考え事をしながらするのに将棋は向いておらんのう」


 お手つきをしれっとやり直す祖父だったが、吾音は鷹揚にやり直しを認め、指し直した手の結果、吾音の桂馬を奪っていった祖父の飛車をじーっと見つめた。

 その様子は勝負毎に負けることが嫌いな吾音らしくもなく、孫の気質をよぉく知っている東悟としては常にない様子に家長として心配にならなくもない。


 「どうした。儂の負けにしておくか?」

 「縁台将棋で勝ち負けに拘るわけないし。別にいーわよ、そんなん」

 「…そんなん、と来たか。勝負と名のつくものならどんなものにも全力を振るうお前さんらしくもない」

 「じーちゃんまで次郎みたいなこと言うしぃ…じゃなくて、次郎がじーちゃんに似てきたのか」


 胡座の膝を叩いて愉快そうに笑う東悟。孫が自分に似ている、などと言われて快哉を叫ばずに居れない爺いなどそうそういるものでもなかろうが、その点に限れば異端の教育法人で理事を務める変わり者とてただのヒトに過ぎないのだろう。


 「笑いごとじゃないって。あ、いや次郎が逞しくなるってんならわたしとしては文句はないけど、わたしが言いたいのはそーいうことじゃなくてね。この将棋の駒っていろんな役割っていうか性格あるんだけど、わたしたちに擬えるとどうなのかな、って考えてみただけ」

 「それは次郎や三郎太やお前さんが、将棋の駒に例えればどれにあたるのか、ということかの」

 「まあね。あ、それいただき」


 話しながらも先を考えていたのか、自分の桂馬を奪っていったにっくき飛車を、吾音は自分の香車で取り返した。飛車の仇をとったというところか。


 「む、なかなかやるのう。それではこれではどうかの」


 それくらいは織り込み済みというところか。香車が前進したことで吾音の玉の前方にやや隙が生まれ、そこを窺う位置に東悟は自陣の角を移動させる。


 「それで、どういう感想になったのかの。まあ次郎に三郎太が飛車角というのは分かる話じゃが、他に何を考えとる」

 「そりゃまあ誰が見たってそーなるだろーけどさ。問題はわたしのことなのよね。真っ当に考えれば総大将たるわたしが玉なのは誰もが認めるところだろうけどさ」


 自分で言うところが図々しい、とは東悟は思わない。実際、飛車の次郎に角行の三郎太、という見立ては当たり前すぎて面白みに欠ける。

 しかし吾音はその先に、自分をどう見立てるのか、すぐに答えを見出せていない。なら、祖父としては可愛い孫娘が自分をどのように捉えているのか。興味が湧くというものだ。


 「駒の役割と性格は別のものだと思うのよねー。トリッキーな動きで相手の意表をつくというなら桂馬だし、猪突猛進、一気に駆け込んで盤上を一変させる、というなら香車が似合うし。どう思う?じーちゃん」

 「ふむ」


 今し方まで盤に注がれていた吾音の視線は、既に東悟に向けられていた。

 冗談を言っているようには見えない。真剣そのもの、という眼差しで自分を見つめる孫娘の顔には、生まれた時に無事に育つかすら危ぶまれた頃の、弱々しさは一切見えない。

 で、あるならば、と傍の盆に乗せられた冷めた渋茶で唇を濡らして思うところを述べる。


 「取られたらお終い、というのが王将の存在意義であるからの。お前さんが仮におらんようになっても次郎も三郎太も姉弟であった意味を見失のうてしまうことなどあるまい。その意味では確かに吾音、お前さんは王将なんぞではあるまいて」

 「わたしが言いたいのはそーいうことじゃないんだけど」

 「分かっておるわ、そう急かすな…であるからな、駒の役割で例えるならば、儂の見たところお前さんは、『歩』であるな」

 「……いくらなんでもそれはどーなの」

 「歩の無い将棋は負け将棋、と言うではないか。それにの、歩はいつの間にか敵陣に接近し、一朝事あらば金に成って敵陣の懐を思う存分に掻き乱すのだぞ?まさにお前さんのやり口そのものだと思うのだがの」

 「むーん…」


 思い当たる節がないでもない、みたいな顔で腕組みしつつ考え込む吾音である。なるほど、と金に成った後のことであれば、確かに祖父の言うことも分からないでもない。実際、吾音は次郎や三郎太と違って警戒されることなく相手の内側に入り込み、いつの間にか自分のペースへと巻き込んでしまうのが得意手だ。

 だから吾音が「歩」呼ばわりされて面白くない理由と言うのはそれ以前の段階にある。


 「…でもさ、歩って将棋の盤の上で一番多い駒でしょ。この、世界に冠たる鵜ノ澤吾音が最も多い個性の一つだった、ってのはもー少しなんとかならないのかなぁ」

 「………」


 祖父、無言。

 それはそうだろう。東悟の見たところ、その破天荒な行動は確かに吾音を平々凡々の少年少女の群れから存在を際立たせているが、次郎や三郎太と違って幼少の頃からその資質を示していたわけではない。

 吾音が並び立つ者の多くない地平に立つようになったのは、持って生まれたものに依るのではなく、そう育ってきたからだ。


 「お前さんは自分で思う通りに生きているつもりでも、根本の所では誰か他の人の為、というのがあるからのう。その意味でも『歩』と言うのは間違ってはおらんと思うのだが」

 「意味わかんない」


 分からんでもええよ、と祖父は難しい顔をしている孫の頭にポンと手を乗せ、嫌がるのも構わず雑な手つきで撫で回す。

 吾音も最初のうちはうざったそうに顔をしかめてはいたが、そのうち祖父の相好が滋味に満ちたものだと気づくと、やがて「仕方ないか」みたいな顔になって、されるがままになっていた。

 祖母の勝乃がそんな時に東悟の部屋に入ってきて目を丸くしていた。お茶の代わりを持ってきただけで、吾音が照れ臭そうにそっぽを向くのを微笑ましく見届けると、後は何も言わず去っていった。


 「…あひひ。で、じーちゃんこの将棋はどーすんの?」


 吾音が猫舌であるのは家族周知のことだが、誰もそのことに頓着して吾音に温い飲み物を用意することなどしないから、それと分かって吾音も猫舌なりに熱いものをすすり、話を続ける。


 「別に将棋をしたかったわけではなかろ。お流れで構わんて」

 「うん」


 そうして、まだ考え事を続けている様子で覚束ない手つきで駒を片付ける吾音に、東悟は今思い出したことを、そういえば、と問うた。


 「なに?」

 「いや、次郎の奴はどうしておるのかの、と思うてな」

 「さーねー。わたしのやれることなんか全部やっちゃったんだから、もう後は野となれ山となれ、としか思わないわ」


 そう口にしてはみたものの、たまたま手に取った飛車の駒をなんとはなしに感慨深そうに見つめる吾音の姿には、気がかりで仕方ない、という本心が見て取れて、けれどそれも祖父にとってはなんとも微笑ましく思える姿だった。

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