第37話・それはきっと優しさから
初等部の頃から通っているのだから、当然中等部の校舎など見知ってはいる。
けれど現在の今の住人に見知った顔が無いというだけで、そこは異なる世界のようにも思える、というのも珍しくない話なのだが、吾音はそんな感慨など明後日の方角にうっちゃって自分の家のように中等部の校舎の廊下を闊歩する。
時折すれ違う生徒に訝しげな視線を向けられると、「こんにちわー」などとにっこり笑って手を振り、曖昧に「こ、こんにちは…」という声に見送られたりする段に至っては、余裕すら感じられるのだった。
「一年三組かあ。そういえば阿美がこのクラスだったっけ。あいつも今どこで何してんだか」
そして、当時次郎と何やかんやアレな仲になりかけその後外部の高校に進学した女子のことを思い出しながら、教室の前に立つ。
もしかして未来理とすれ違うかな、と思ったくらいだから、まだ放課直後の賑わいは教室に残っており、目的の塩原渚がいればいいな、と思いつつ吾音を追い越して教室に入ろうとしていた男子生徒を呼び止めた。
「あ、ちょっとごめんね。塩原渚って子いる?わたしは高等部二年の鵜ノ澤ね」
「え?…塩原なら…えーと」
自分よりまだ背の低い男子生徒は、ついこの間まで小学生だったらしきあどけなさで吾音を和ませると、教室の中をきょろきょろと見回し、最前列の席にいた一人の女子生徒を指さし吾音に告げた。
「あそこ。お下げのだっせーやつ」
高等部の先輩からの頼まれ事を果たしたせいか、少し偉ぶっている風だ。
吾音はそんな背伸びっぷりに苦笑を覚えないでもなかったが、そこは胸の内に抑え込んでしっかり被った猫の笑顔で「ありがとね」とだけ応えて、効果覿面という風に顔を真っ赤にしてる男子の横を抜けて、示された少女のもとへ向かう。
特に禁止されているわけでもないし、何せ未来理の送り迎えに次郎が頻繁に顔を出しているのだ。今さら高等部の生徒がやってくることで教室がざわつくこともあるまいが、堂々と、あるいは図々しく机の間を縫ってやってくる女子生徒の姿に教室の視線は集中する。
そんな中を吾音は、黒髪のお下げを肩の下まで下ろし、黒縁の太い眼鏡をかけた女生徒の前にやってきて今日一番の笑顔を見せて言った。
「塩原渚ちゃん?はじめまして。高等部の鵜ノ澤吾音、っていうの。ちょっとお話しても、いいかな?」
次郎が「この人誑しめ」と顔をしかめる吾音の笑顔に、塩原渚とその友人らしき二人の生徒は、目を白黒させていた。
「ごめんね、お友だちと帰るところだった?」
「う、ううん!大丈夫ですっ」
教室でするような話でもないからと、吾音は渚を連れ出し中等部校舎の中庭にあるベンチに腰掛けていた。
隣に座る渚は何用で上級生に呼び出されたのかと警戒しているのか、ベンチの真ん中やや右にこしかけた吾音から最大限離れた位置にいる。
下からあからさまに覗き込むようにしている吾音の顔を見ることもせず、ただ身を固くして俯いているばかりの渚を、吾音は無垢を装ってしかもそれを察せさせないよう、どうしたの?と言わんばかりに首を傾げて微笑を浮かべた。
「うん、いい子だね。今日はねちょっとお願いがあって来たの。話だけでも聞いてくれると嬉しいな」
「はっはいぃ!」
緊張する気持ちは分からないでもないけど、そこまで堅くなる必要あんのかしら、と思いながら、体を起こしてやっぱりガチガチになっている渚の横顔を見つめる。
さっきの男子は「だせーやつ」などと言ってはいたが、こうして見ると細面で整った、なかなか可愛らしい少女だ。
闊達というよりは図書館で単行本を開いているのがよく似合いそうで、何となく伊緒里を連想させなくもない。
「…えっとね、同じクラスの神納未来理ちゃん。知ってるよね?」
そんな感想が素直に面に出ていたのかもしれない。自分を見上げるように体を折り曲げていた吾音とようやく目を合わせた塩原渚は「あ…」と小さく呟いて吾音に魅入ったように身の動きを止めてじっとしていた。
「ん、えっとね?わたしは未来理ちゃんの友だちなの。で、ね。よく高等部に遊びに来てくれるから、今度は未来理ちゃんのところに行ってみたいな、って思って遊びに来たのよね」
自分に抱かれた印象を崩さないよう、吾音はゆっくりと体を起こし、柔らかく笑む。
半分は演技みたいなものだが、下級生を威嚇してコトを都合良く進めようとするような思考回路は吾音には無い。だから優しくゆっくりと語りかけると、その甲斐あってか固い表情を崩さなかった少女はようやく、吾音に緊張を解いた笑顔らしきものを見せてくれた。
「そうですか……ええと、わたしは塩原渚ですっ」
「うん。わたしは鵜ノ澤吾音よ」
「あ、知ってます。鵜ノ澤…せんぱいは有名ですから」
「あはは、どんな噂になってるのかな、ってちょっと心配だけどね」
「そんなことないですっ。鵜ノ澤せんぱいはとってもかわいいけどすごく強いってみんな言ってますからっ」
「そう?ありがとね」
少しばかり複雑な気分ではあったが、吾音は無邪気な後輩が素直に自分を称賛する時間を過ごす。主に自分が中等部でどう見られているのか、が話題で、時折三郎太のことなどにも話が及び、ただ吾音の思うところ、そういった話が流布される流れに、何か誰かの意図が嗅ぎ取れてしまったのだがそれはこの場では封印しておく。
「…それでね、未来理ちゃんのことなんだけど」
「は、はい」
そんな感じで会話は大分弾んだと言えたのだが、吾音にとっては本題の未来理のことになると、渚はまた身を固くする、警戒心を顕わにした姿勢に戻ってしまった。
「そんなに固くならないでいいわ。あのね、未来理ちゃん、うちによく遊びにきてくれて、それはわたしたちも大歓迎なんだけど、なんだかとっても勿体ないなあ、って思って」
「もったいない?どういうことです?」
「うん。あのね」
と、一拍置く。話の肝要はここからだ、と。
「未来理ちゃん、とってもいい子だもの。お話してると楽しいし、あの子が喜んでいたり笑っていたりするところ見ると、ああいいなあ、って思うの。わたしだけじゃなくって、弟二人もね。特にね、さっき話してた三郎太なんかもう、未来理ちゃんに困らせられてたりして、でも楽しそうなんだ」
「……」
「あ、ごめんね。三郎太がどうのこうのってことはなくってね?でも、さっき渚ちゃんがお話してくれた、おっかない先輩だって未来理ちゃんと遊んでいると嬉しそうにしてるんだから、未来理ちゃんはきっと、一緒にいるひとを楽しくさせてくれる、そんな子だと思うの。だから、そんな未来理ちゃんをわたしたちだけで独占するのは勿体ないなあ、って。そういうこと」
「…ごめんなさい」
聡い子だな、と思った。
今未来理が自分のクラスでどういう扱われ方をしているのか知って、そして吾音がどういうつもりでやってきたのか、誤解無く察してそんなことを思える。
やりにくい、と感じたのはそれで吾音の良心のようなものがチクリと軋んだからだ。
でも、と吾音は僅かに湧き起こった自分の昏い思いを抑え込んで続ける。
「どうして謝るの?」
「え、えっと……か、神納さん、クラスで男子たちに、あんまり…好かれてなくって、わたしも……かわいそうだな、って思ってたのに……」
「……」
まったく。きっとこの子は罪悪感から逃れられないでいるのだろう、って分かってて自分はこういう真似をする。やり方を知っているのと、それを実行するのでは意味が全然違うだろうに、と嫌気がさす。
吾音は、それが未来理のためになることだから、などとお為ごかしに自分の言動を正当化することもせず、今は内心で懺悔をするに留めた。二人が当たり前に言葉を重ねることが出来るようになれば、こんな仕打ちをしたことを詫びる機会もきっと訪れるだろうと思う。
「ぐすっ……」
鼻をぐずらせてしまった下級生の肩に手を乗せる。
なんだか宗教の勧誘でもしてるみたいでイヤだなあ、というのは素直な実感なのだが、ここまできて止めるわけにもいかない。
「泣かないで。ね?わたしは別に塩原さんを責めに来たんじゃないんだから」
「はい…」
「わたしたちはね、未来理ちゃんが本当にいい子だと思ってるから、そんないい子が辛い目に遭っているのならなんとかしてあげたいなあ、って思ってるの。誰かを悪者にしたいんじゃないから。だからね、塩原さんが申し訳なく思っているのなら、未来理ちゃんに言葉をかけてあげて欲しいな、って、それだけなの」
ここから先に言うことだけは本当のことで、誓ってもいいから、と心中で付け加え、渚の泣いている横顔に顔を寄せて、優しくささやく。
「それで困ったことになったら、わたしたちが力になるから。だからお願いね。未来理ちゃんに声をかけてあげて」
そして、困らせちゃったのならごめんね、と付け加えて、吾音は立ち上がった。
渚は、というと赤くした目で吾音を見上げる体勢のまま、微かにだったけれど頷いていた。
「高等部の校舎は来たことある?旧校舎側にある、学監管理部室。誰かに聞けば教えてくれるから、もしよかったら塩原さんも遊びに来てね。歓迎するわ」
本当に誰かに聞いたらきっと行くのを止められるだろーなー、とここは口に出さずに苦笑に留め、吾音は「じゃあ、お願いね」ともう一度言葉を掛けて、静かに立ち去った。その際、渚が手を振っていたのが見えて安堵する。
彼女の視界から姿を消すまで何度か振り返ってみると、しばらくの間は吾音を見送っていたようだが、やがてしっかりした足取りで自分の教室に戻っていたようだったから、彼女なりに確と決めたことはあったのだろう。
それが未来理と彼女自身にとって良い結果をもたらすよう、あとはフォローしていかなければなるまい。
「そのためにも、ね。さて、もう一箇所回っておくか」
中等部校舎は、一般教室が収まる建物と、特殊教室や教務室の集中する建物に分かれている。今し方出てきた一方の校舎を横に見つつ、吾音はもう一方の建物の、きっと中等部の生徒ではいくらか気後れするだろう場所に向かって、歩を確かにしていった。
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