第33話・ケーキ屋の珈琲は甘くない
「…まさかあなたが来るとは思っていませんでした」
「え、まさか次郎のこと待ってたんです?それはちょっと趣味が悪いんじゃないかと…」
「そうですか?私から見てもいい男になる素質は充分だと思いますけれどね」
閉店後のコリン・デ・エスポワールにおいて、オーナーパティシエールの椎倉葵心は不意の来客にいくらか面食らいつつも、サーバーに残っていたコーヒーを、制服姿の吾音に供していた。
店内の飲食は六時半までとなっているため、テイクアウトも終了した七時過ぎにはもう喫茶室には誰もおらず、照明がほぼ落とされた中、人気の無いテーブルの一つを間にして、二人は探り合うような空気を醸し出している。
「残り物でごめんなさい。さっき紅茶の道具も仕舞ってしまったところだったので」
「いーえ、もうお店も終わった時にお邪魔してこちらこそすみません、です。で、早速聞きたいんですけど」
とはいえ、吾音の方は普段通りの顔色だ。薄暗い店内でいつものように、好奇心丸出しの目を輝かせながら、身を乗り出すようにして葵心の顔をのぞき込む。
「え、ええ」
当然そんな不躾な姿勢は主の困惑を招くところとなり、若さに押しまくられるように軽く身を仰け反らせている。
「椎倉さんはOGながらウチのガッコの事情に詳しい、と次郎に聞きまして。で、そこを見込んでお願いがあるんです!」
「詳しい、ってほどではないと思いますけど。でも次郎君の紹介なら無下にも出来ませんね。私で力になれることなら協力しますから…その、少し離れてください」
ほぼほぼ化粧っ気のない肌を間近で見られるのは、例え同性が相手でも抵抗がある。ややこしい葛藤をのみ込みつつ、葵心は吾音の勢いは抑えにまわった。
「あ、すみません。でも協力には感謝しますね」
吾音もそこは、三十台に入ったばかりの女性の心理に理解はなくとも気持ちを察することは出来たから、素直に無礼を詫びてもとの席に戻り、まだ熱いコーヒーに辟易して「あちち」と慌てた姿を見せる。
そんなところは無鉄砲・無軌道と聞いても無邪気な歳相応の少女の様相、と葵心は自分の観察結果を咀嚼してみたが、それは次郎に聞いていた人となりが多分に入り込んだ結果だ。
振り回されて困っているようなことを言うくせに、次郎が自分の姉を語る口調にはどこか、慈しみに似た穏やかなものがある。だから、小柄で愛らしいその容姿と相まってつい油断してしまいそうになる…のだが。
(…聞いていた話とは大分違う女の子なんですよね)
特に興味はなくとも聞こえてくる「噂」を重ねて見ると、そんな振る舞いもこちらを油断させるためのもの、にも思えてくるのだ。
葵心が姉弟の活動に手を貸すのはこれが初めてではない。特にデジタル分野での活動については、ツールの提供などは葵心の伝手に頼る場面が少なくない。
ただ、今までのところそれらは全て、次郎の顔で依頼されたものであり、葵心はつい先日に伊緒里を交えた姉弟の集まりに顔を出したのが、吾音との初めての顔合わせだ。
そして一対一での対面となると、これが最初のことになる。吾音の内心はともかく、葵心が身構えてしまうのも、むしろ当然のことなのだった。
「あひひ…うもー、これじゃ折角の味がわかりゃしないっての…」
「ふふ」
もっとも、まだひーはー言ってる吾音の姿を目にして警戒心を解かないでいられるほど、葵心はこの姉弟に感情移入してないわけではない。だから聞き及んでいる事績にそぐわない、けれど年齢と見かけ相応の可愛い所作につい笑みも洩れてしまうというものだ。
「ごめんなさい、もしかして少し濃くなりすぎていたかもしれませんね。売れ残りのケーキでよければ出しましょうか?」
「え、それはとても魅力的な提案……うー、でもまだ晩ご飯食べてないので遠慮しておきます。今度ウチの弟どもを連れて売り上げに貢献しに来ますね」
「ありがとうございます。それじゃ、お話聞きましょうか?」
「あ、そーですね」
寸前の、探り合いのような空気はとっくに霧散し、葵心はすっかり肩の力も抜けたという態で吾音の始めた話に耳を傾ける。そんな心の動きももしかしたら吾音の手練手管の結果かもしれない、と思わないでもないが、不思議とそれが不快ではないのだった。
「……そうですか」
ただそれも、吾音が話を終えてしまうまでの間だった。
聞かされた、神納未来理という少女の現状を思うといくらか気が重くなり、沈痛な面持ちの吾音の顔を見るまでもなく、なんとかしてやりたい、との思いが想起されるのだ。
「で、お願いしたいこと、ってのはですね。わたしたち中等部にあんまりコネが無いんです。椎倉さんの方で何かアテがないかなー、って思うんですけど。どうです?」
「ううん……直接的に中等部の教職と顔見知りなどはいないのですけれど、そうですね、アテと呼べるものも無くはないので、あたってはみましょうか?」
「ぜひ!……あーよかった、手ぶらで帰って次郎にバカにされなくて済みます」
「次郎くんはそんなこと言わないでしょうに。ふふ」
「そーでもないですよ?あいつ、外面はいいくせして身内には容赦ないですし。特にあの姉を姉とも思わない態度ときたら……あー、考えたらムカついてくるっ!明日の弁当はロシアン焼売にしてくれるわっ!」
むきー、とフキダシの擬音が見えてきそうな様子の吾音を見ていると、本当に仲の良い姉弟だということがうかがえる。次郎がことある毎に言うような、「あんのアホ姉にはやってらんない」という言葉に含まれる温かいものと同様な色彩が、吾音の態度にも見えてしまい、我知らずにホクホクとした微笑が浮かんできていた。
だから、というべきかもしれない。
「……あ、ところで椎倉さんのアテってどんなのなんです?」
「ああ、二課の……」
突然真顔に戻った吾音の問いに、迂闊なことを言ってしまったとハッとなってしまったのだ。
「二課の?」
「……え、ええ、事務に同期がいるんです。ちょうどあそこも学校教育に関わりのある研究しているらしいですから、きっと中等部とも何かとやり取りがあるんじゃないかと思いますよ」
「そうですか!それなら心強いですね、ぜひお願いします!」
ぺこりと下げられた頭に隠れ、その時吾音がどんな表情をしていたのかは分からなかった。ただ、再び上げられた顔が帯びていたのは、この場で抱いた印象と違わぬ、何事にも一生懸命に当たるだろう少女の、快活な笑顔だった。
「じゃあ帰ります。あ、お礼代わりに今度はウチの連中だけじゃなくて友だちも連れて来ますから。出来たらサービスしてくださいねっ!」
吾音はとても礼儀正しい所作で丁寧に礼を述べると、そのまま鞄を持って小幅なストライドで「ててて」と出口に向かっていく。そしてまだ鍵のかかっていなかった出入り口の前にたち、振り返ると。
「今日はありがとうございました!」
きっとどんな大人だって褒めそやすだろう、しっかりしたお辞儀をして葵心の反応など気にもとめないかのように、家路へと向かっていった。
「………」
一回り以上年下の少女の、台風みたいな勢いに圧倒されたかのような気分。
いや、どこか納得のいかないもやっとしたものも同じ胸中に収めたまま、椎倉葵心は残されたテーブルの食器をのろのろと片付け始めたのだった。
・・・・・
「うーん……」
コリン・デ・エスポワールを後にした吾音の思案。
今日ここに来たのは、本当に純粋に、聞き及んでいる椎倉葵心のコネというものを利用させてもらおう、という意図からだった。
弟二人が辟易する猫っかぶりだって、あまり面識があるとは言えない大人を籠絡する手段だ。
この愛らしい外見を最大限活用し、警戒されずにこちらの欲しい情報を得、そして相手の親切心を存分に満足させて次への取っかかりにする。次郎や三郎太では到底なし得ないやり口だ。
そのくせ、事が済んでもフォローをきっちりする吾音だったから、相手にとって都合の悪いことを気付かせることもない。当然、吾音の評価も相対した大人たちからは高くなるというものだ。
学監管理部が学園愚連隊だのなんだの陰で呼ばれながらも、表立って吾音たちを引きずり降ろそうという動きが目立たないのも、こういった吾音の世渡りの手腕に依るところが大きい。
「……ちょーっと後味の悪い真似しちゃったかなあ」
はうっ、とため息をついて歩く速度を少し緩める。
吾音だって好き好んで…いや、実際率先してやっているのだからイヤイヤではないのだが、こういう他人を利用する手口をとっているわけではない。
実態として、目的があってやっている、ことを否定はしないものの、出来るならもっと穏やかでシンプルに、自分たちが過ごしていければいいなあ、くらいのことは時折思う。
ただ、そうするためには自分たちの個性が強すぎる。目立つことを避けてコソコソするのは残念ながら三人の性には合わないし、それだったら好き勝手しつつも他人をあざ笑うような真似をせず、自分の目の届く範囲でいいから、皆が仲良く過ごせればそれでいい、ということになる。
そして、目の届く範囲に入ってしまった者の不遇を見過ごせる吾音でもない。
「ま、いっか。それより未来理ちゃんのことよね。あいつら上手いこと情報集めてくれればいーんだけど」
当面の課題と弟二人の手際を一緒に心配しつつ、学監管理部の燃える赤は今日も小馬の尻尾を揺らしながら、我が家へ帰る。
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