第17話・甘酸っぱいから甘いを抜いたらただ酸っぱいだけ
「会長それ好きだよなー」
「うん?」
話が一段落したタイミングで注文品が到着した。客の様子を見て調理を調整する辺り、気の利いた店だという印象だが、それを客に気付かせないのが更に行き届いている…なんて会話を少ししたくらいで、あとは気もそぞろ、という感じで伊緒里は次郎からすれば甘ったるくてとても食べられそうにない甘味のグラスを一心不乱に口にしていた。
食器が空になったところで次郎の差し挟んだそんな一言に、伊緒里はみっともないところを見られてしまった、という風に紙ナプキンで口元を拭う。
「…そういえば元々の話に戻しましょうか」
「そうだな…って、元々の話ってなんだっけ」
「あのね」
取り繕うように伊緒里の持ち出した話題は、次郎にとって亡失の彼方に行ってしまっていたらしく、本気で分からない顔をしている次郎は伊緒里の眇めた視線で睨まれるのだった。
「最初はあなたの方から持ってきた話だったでしょうが。吾音と会ってた男子が誰だったかって」
「………あーあー、そうだったそうだった。で、どうなのさ?」
「帰っていいかしら?」
「ちょ、悪かったって!なんかいい雰囲気になってしまったから忘れてただけだって」
「良い雰囲気ってあなたね………まあいいわ。確かにちょっと良い話聞かせてもらったのだし」
伊緒里にしてみれば吾音にまつわるちょっと気持ちのいい話、といったところだったから素直に話をする気になったのに、肝心の次郎がこうでは台無しもいいところなのだろう。
「それで聞く気あるの?」
「あるある。まあ俺たちのだい~じな姉であり妹である姉貴の?そりゃ~もしかしたらピンチなわけだし?」
「バカ」
「………くう」
とはいっても伊緒里の顔は、ここしばらく次郎に見せたことのない穏やかな笑い顔だったのだから、言葉ほどに悪く取ってることもない。
「それで…まあ私も全校生徒の顔知ってるわけじゃないし、はっきりとは言えないんだけど…確か三年五組の、井上って先輩だったと思う」
「…そんだけ分かれば十分なんじゃね?」
伊緒里は謙遜していたが、「全校生徒の顔は把握してない」だけであり、ほぼ全員は把握しているのだから情報収集の実践屋を持って任じる次郎からしても舌を巻く程ではある。
本人に言わせれば「自治会長としては当然でしょ?」と事も無げに宣うのだが。そんな真似が出来る自治会長がこの学校の歴史で何人いたのだろうか。
「十分とは言えないでしょ。私に分かるのはクラスと名前だけなのだし。それ以上は流石にちょっとね…」
「あ、いや、そんだけ分かりゃ十分だよ。あとは俺が調べられる」
「それもそうね。どう、お役に立てたかしら?」
「まあ俺ら姉弟の秘密を明かしたことを後悔しない程度には」
「それは良かった」
何の拘りも含んでいなさそうな笑顔に、次郎の心臓がどくりと跳ね上がる。
(ずっけーなぁ…今さら俺にそんな顔見せんなよ…)
「…どうかした?」
「あ、いやー…はは、やっぱ会長って可愛いな、と思ってさー…はは」
「またそういうことを言う…お世辞なんか要りません。お礼がしたいならここの支払いでも持ってちょうだい」
「それはマジ勘弁」
「甲斐性無し」
「男女平等主義者なもんで」
「バカ」
くっくっく、と、ふふふ、という腹に一物持った笑いが交錯した。
けれど、そんなやり取りがなんとも次郎には気持ち良かった。
「そろそろ出る?」
「先に行っていいわよ。なんだか落ち着くし、私はもう少し本でも読んでく」
「そか」
伝票を手に立ち上がろうとしていた次郎は、伊緒里の返事を聞いて座り直す。
「…帰るんじゃないの?」
「会長がいるんならもう少しこうしているさ。お邪魔?」
「別に。お好きなようにどうぞ」
素っ気ない返事。けれどそれが自分を拒むものではないことを次郎は知っていた。
まあそれでも文庫本を取り出す辺り、伊緒里のマイペースっぷりを再確認することになるのだが。
「…話していーか?」
「構わないけど。お相手出来るかは保証しかねるわね」
早速開いた文庫本から目も上げずに伊緒里は返事をする。
「答えられないんなら無視してくれていいさ。あのさ、会長とうちの姉貴って、何であんなに仲悪いん?」
「………」
これが答えられないからなのか、答えを探して黙しているのか。
眼鏡の向こうの視線を探ると、本の文字を追っているようには見えなかったから後者なのだろう。
そのまま両者とも黙ったままだったが、やがて伊緒里は栞を文庫本に挟み、まだ思案中、といった手つきでテーブルの上に本を置く。
それから眼鏡を外すと、手に持ったまま弦の端を口元に当て、またしばらく考え込んでから口を開いた。
「…別に仲が悪い、とは私は思ってないのだけど。そりゃあまあ、迷惑かけられてるとは思ってるし、もう少し落ち着きを持って欲しいとも思ってる。でも、ね…」
そんな仕草がいちいち絵になるよなあ、このコは、と次郎が何度か思ったように、次郎から視線を外して眼鏡をかけ直す。
「あの子は別にあれでいいんじゃないかな、って。私には出来ないことを平気な顔でやってのける吾音に、最初は結構嫉妬含みで突っかかってたけど、今は見てて楽しいもの。嫌いではないわね」
「…んー、じゃあさ。もー少し、なんつーかそのー…仲良くっつーか…」
「それは無理ね」
「バッサリだな、おい」
「だってそんなこと、私も吾音も望んでないもの。私達はこんな感じでいいのよ。しがらみがあったり無かったり、そんなの関係無く私達は顔を合わせれば文句言って反論して、その場で全部わだかまり無くして、お終い。私と吾音はずっとそんな関係だったって、あなたも知っているでしょう?」
「まあそりゃーそうなんだけど…」
言うことは全部言ったとばかりに、伊緒里は読書に戻った。
今度はちゃんと視線が上下動を繰り返し、本に入り込んでいるのだろうと分かる。
本人に結論が出ているのだから、外野がこれ以上あーだこーだ言うても仕方が無い、とは分かっていても。
「俺はどっちも好きだから、いがみ合ってるところなんか見たくねーんだよう…」
やはり愚痴の一つも洩れ出ようというものだった。
ぴくり。
ただ、次郎がそう言った途端、擬音がしそうな勢いで伊緒里の動きが止まった。
腐りながらも席を立つことも出来ず、店内をぼーっと見回している次郎の横顔をじっと見る。
「…………」
「ん?会長何か言った?」
こんな時ばっかり、この男は。
そんな思いが視線に乗ることは無かったけれど、伊緒里は努めて冷徹な瞳を向けようとして。
「…次郎くんは優しいのね」
…失敗した。
「………」
自分が何を言ったのか気づき、そのまま固まる。
そういうことを言いたかったわけじゃない、と弁解しようとするが、じゃあ実は何を言いたかったのかと自問して答えを見つけられず、結局黙ったままこちらを向いた次郎と目を合わせ続ける。
「…あ、あはは……よせやい、照れるぜ」
けれど圧に耐えきれなかったのは次郎の方で、いつものように道化て空気を誤魔化すのも微妙に失敗し、クスリともしなかった伊緒里の対応で場は文字通り、
「…悪い、スベった」
のだった。
「いいけど。でも、ごめんなさい、聞かなかったことにして」
「あー、うん…いや、何が?」
文庫本を顔の前に掲げ、顔を隠す伊緒里。
耳の先まで真っ赤になっているという自覚はあって、さてそれを隠せているのかどうか。
聞いてみたいとも思ったし、聞いたら終わりだとも思ったし。
逆に次郎がどんな顔をしているのか、そっと本を下ろして見てはみたものの、顔こそ逸らしてはいたがそこにあったのは、いつものポーカーフェイス。
「……いてっ?!」
伊緒里は、テーブルの下にあったスネを、蹴り飛ばした。
~~~~~
それで顔も見たくなくなった、のではなかったが、落ち着いた空気を振り払って飛び出すように店を出た。
払いは千円札を一枚置いてきたから足りないということはないだろうけれど、後できっちりお釣りは取り立てておこうと、財布の中のお札の残り枚数を頭で勘定しながら憤然とした足取りで歩く。
ただ、そんな勢いも長くは続かなかった。
我ながら何をやっているのか…といじけた気分になる。言わなくてもいいことを言ってしまい、気にするなと言ったのは自分なのに、いざ実際にそうされると腹が立つ。
そして、足取りが常に戻ると別れ際に言われたことを思い出した。
『会長、俺の番号またアドレスに入れといてくれねーかな』
何を言っているのか、彼は。
店のシールドから逃れてアンテナが元に戻った自分のスマホを取り出し、連絡先の一覧を見た。
鵜ノ澤 次郎。しっかり名前はある。昨日の夜の履歴も残っている。
それを見て、自分が昨夜次郎に何と言ったかを思い出した。
(ああ、私の変な意地っ張りを、今日まで引きずっていたのか…)
そう気がついて、なんと酷いことをしたのかという後悔以上に、次郎が自分の一言でそれだけ思い煩っていた、という事実に顔が赤くなる。
悶々とした煩悩は自覚すると制御出来なくなりそうだ。この厄介なものを晴らすのなら…吾音にケンカでも売るのが一番か。
…などと、当の本人が聞いたら「わたしをストレス解消の道具にするんじゃない!」とでも言いそうなことを思いながら、一先ず家路に急ぐ伊緒里だった。
~~~~~
「あー…失敗したー…」
「そうですか?私は面白いものを見られて満足していますが」
「見てたんかい。趣味わりーよ、
伊緒里に去られて一人で黄昏れてた次郎のテーブルを、注文を取りに来ていたウェイトレスとは別の女性が片付けている。
「ていうか店長兼パティシエールが直々に接客とか珍しいね」
「今日は人手が足りないんですよ。よろしかったら少し働いていきません?」
「遠慮しとく。姉貴振り切って来たから、多分さっさと帰らないと怒りに火を注ぎそーで」
「相変わらずのシスコンですね、次郎君は」
「ほっとけって」
クス、と嫌味のない笑いを向けられるとかえって素直にもなれない。
嘉木之原学園のOGでもあり、いまでも学内の、特に上の世代とは繋がりがあって、祖父の鵜ノ澤東吾とはまた別の角度からの話を仕入れることの出来る、次郎独自の人脈だった。
「…それで今のが噂の自治会長さん?お似合いだと思いますけれど」
「そういうんじゃねーって。とっくにフラれてるよ」
あら、と葵心は意外なものを見たように目を見張る。
「…仕事はいーのかよ」
「今日の分はもう全部作ってしまいましたしね。可愛い次郎君のお話を聞くくらいなら、いくらでも」
「勘弁してくれよう…」
ならさっさと出て行けばいいものを、なんだかんだ言いながら腰に根がはったように動く気配はない次郎。
そんな姿を見て葵心は、ふとため息をついて言うのだった。
「…老婆心から忠告しておきますけれど。さっさと追いかければ良かったと思うんですけどね。私から見ても脈無しというわけでもなさそうですし」
「……他人にゃあそう見えても本人同士の間にはそんな空気はないの。大体、一度フラれてんだから脈を測る意味なんか無いでしょ。あと葵心さん老婆心なんて口にするよーな歳でもないでしょうが。まだ若いんだし」
「去年三十越してますよ。キミから見ればもう十分におばさんです」
「そんなことねーと思うんだけどなあ…」
「自分がなってみれば分かりますよ。若い子がとても眩しくて、でも世の中に胸はって口を利けるほど大人でもなくて。そんな複雑な年頃なんです」
そんなもんかね、と全く実感の沸かない風の次郎を置いて、葵心は片付けた食器を持って去って行った。
その後ろ姿を見送りながら、次郎は思う。
ああは言ったけれど、自分の胸中にあるなんとも形容のし難いモヤッとしたものは、次郎を時折苛む。
それが伊緒里に向けたものだと自他共に認めていられたのは、つい数ヶ月前までのこと。
「なんなんでしょーねえ、この甘酸っぱいものは~」
今はこうして、自分に向けて道化を演じることしか出来ない。
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