第25話 とある歴史の裏舞台:ヒノカミ・ソラルの消失
彼女は、それを「救いの手」と信じる。
遺された記録、伝説、神話。そうしたものを総括した上で、である。この世でただ一人、なおも生存している当事者であるがゆえに。
その真実を知れば、「そんなことが」と言う者もいるだろう。あるいは、「あり得ない」「信じがたい」、場合によっては「神が謙遜している」などと口さがなく言う者もいるかもしれない。
けれども彼女は、当事者ではない連中のそんな感想など一蹴するだろう。
お前たちには関係ないです、と。
いや、そもそもこのことを他人に語ることがありえない話だ。なんといってもそれと直接言葉を交わし、その真意を教えられてしまったのは彼女だけなのだから。本当の意味でそれを知っているのは、この世界では彼女しかいないのだ。
それの真意は、思惑は、それだけただの人の手には余るものであって、外野はどうこう言わないほうが身のためである。脅すのではなく、事実として。
それが普通ではない相手に師事し、願いを叶えてもらい、そして悠久の時を生き続けてきた彼女の感想だった。
であるがゆえに。
繰り返すが、内容の是非はともかく、それが救いの手であることは間違いない、と彼女は思っている。自分だけではなく、この世界にとっても。
言ってしまえば、ただ魔術が少しばかり得意な小娘でしかなかった彼女が伝説の存在となった、悠久のときを超えるだけの力を手に入れた。そして未来が変わった。しかも全世界規模で。
それほどの話なのだから。
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立て続けに両親を失ったとき、女の胸に去来したのはたとえようもないほど膨大な悲しみと、喪失感だった。一晩中泣き明かしたし、その夜のことは7万年経った今でも明瞭に思い出せるほどである。
それほどの絶望に中にあって女が死を選ばなかったのは、ひとえに姉の存在があったからこそだ。
女よりほんの少しだけ早く生まれ、女より気持ちの切り替えがうまかった姉は、号泣し続ける妹を懸命に励まし、隣に居続けてくれた。
そんな姉の献身は骨身にしみていたし、いくら感謝してもしきれないほどだ。この想いも、7万年が経っても消えることはない。
やがて女はなんとか立ち直り、別の道を選ぶことになる。その決意を粘土板に記したりもした。
だがそれは、茨どころか修羅の道であった。
当たり前だ。死んだ人間を生き返らせるなどということは、不可能なのだから。
それでも女は諦めなかった。永遠に失われた存在を再びこの世に呼び戻すことが叶わないなら、父が折に触れては口にしていた生まれ変わりに賭けることにしたのだ。
そう、父は言っていた。魂は不滅だと。死んだ魂はいずれ他の存在へと生まれ変わり、何度でもこの世に現れるのだと。
ならば、その魂を見分ける方法を作ろう。そして、いずれ父がもう一度この世に現れるまで、生き延びよう。
それが女の至った結論であった。
だが、新しいことをするときはいつも参考になった父の書物に、魂や不老不死に関する記述など伝承程度にしか記されておらず、ほとんどゼロから調べていく必要があった。
ヒントどころか一切の手がかりがない暗闇の中で足掻き続け、その過程でいくつかの画期的な魔術が生まれたりもしたが、女にとってそれはただの失敗作でしかなかった。
やがて生活すらも犠牲にして研究に没頭するようになったが、それでも女が求めるものにたどり着く目処は立たず、ある日彼女は遂に限界を迎えた。
無理という二文字に心が潰され、もう何もかもわからなくなった女は半狂乱となり、暴発した魔術によって集落から吹き飛んでしまったのだ。
その勢いは凄まじく、事態に気づいた姉がすぐに周囲を探したが、まったく気配すら感じられないくらい遠くまで彼女は吹き飛んでしまっていた。
「もう、ダメです……もうどうにもならないです……」
そしてまったく知らない場所に来てしまった女は、しかしそれすら気にする余裕もなく、ただただ広野をさまよっていた。
かすれた声でうわ言をぼそぼそとつぶやきながら、焦点の定まらない目で夜空を見つめる。こけた頰と乱れた髪も相まって、その姿はまるで山姥か何かのようであった。
父の血を継ぎ、あらゆる身体の不具合を寄せ付けない体質の女にとって、それはあり得ない状態だ。しかし十年以上にわたる不摂生で、わずかではあるがその力は翳りを見せていた。何より、この体質でもカバーできない魂の磨耗が、肉体にも悪影響を与えていたが……女がそれを知ることはない。
暗い夜空の向こうに、愛しい人の姿を求めてさまよい歩く。だが、そこに父が現れることは絶対にない。だから女は、いつまで経ってもさまよい続けた。
地球上のほぼすべてがいまだ文明に浴していないこの時代に、女が猛獣の類に襲われなかったのは偶然に過ぎない。少しでも飛ばされた場所が違ったら、女はきっと無抵抗に食べられていただろう。そして後の世も、まったく違う世界になったことだろう。
だが、そうはならなかった。
いよいよもって足取りも怪しくなり、女は遂に疲労と飢餓で倒れる。その前に、アースブルーの輝きを伴って、一人の幼女がどこからともなく現れたのだ。
父が作った巫女服に近い体裁の、焔色の衣装に身を包んだ幼女。藤色のリボンで髪を後ろ手にくくり、赤と青の瞳を持ったサピエンスの幼女の姿を、女はもうほとんど認識できないでいたが。
「ようやっと見つけたぞ」
最も慣れ親しんだ神語を聞いて、少しだけ女の目に光が戻った。
だが幼女はそれには構わず、言葉を続ける。
「うむ……どうやらまだニャルラトの介入は受けておらんようじゃな。危ないところであったわい……と、言うても今のお主には伝わらぬか」
そしてやはり女のことには構わず、くるりと人差し指を躍らせた。
「まずは身体を戻そうか。
その言葉が紡がれた直後。女の身体をカキツバタの形をしたエメラルドグリーンの花が包み込んだ。次いで、やはりエメラルドグリーンの光の粒子を煌めかせて、緩やかに花が開く。
わずかののち花が散ってそこに現れたのは、万全な状態にまで戻った女の姿。意識もはっきりと戻り、状況の確認と認識のために脳をフル回転させることができるようになっていた。
「は、え……ええ……!? な、何が、起こったですか……!?」
あり得ないことは他より多く見てきた女だったが、それは今までに経験した中でもとびきりあり得ないことだった。死にかけの人間を瞬きの刹那に完治させる技術が、この世にあるとは思えなかった。
だがそれをもたらした幼女は、当たり前のことと言いたげに軽く鼻を鳴らすと、女の前で腕を組んで見せた。
「うむ、これでよし。……む? お主、その魂の色と形は……もしや、あやつの娘か。なるほど、これも縁かのう」
「あ、あ、あなたは一体……!? まさか、アマテラス様……!?」
「関係がないとは言わんが、あやつとは多少言葉を交わす程度の仲でしかない。そもそもわしは人間じゃし、何よりあんな駄女神と一緒にせんでくれ」
女の言葉に、幼女はしばし眉をひそめて答えた。
その言い方は、本当に一緒にされたくないような不機嫌さがありありと窺えたが、それはそれとして、神に近しい存在だということは否定されなかった。
ということは……。
そこまで思い至って、女は畏まって頭を垂れた。自分よりも遥か高みの存在だと認識したのだ。
幼女のほうもそれを咎めることはなく、自然体でそれを受け流して改めて口を開いた。
「まあわしのことはどうでも良い。それよりもお主、今の今までかなり危険な状態にあったことは理解しておるな?」
「それは、……はいです……。この40年、全然研究が進まなくて……何も、できないままで……」
ずばり指摘されるまでもなく、全快した今なら直前までの己の醜態は理解できる。女は一瞬だけ否定しようと口ごもったが、すぐに認めて力なく頷いた。
焦りで心が押しつぶされそうなプレッシャーは既に不思議と感じなくなっていたが、それでも心を覆う霧のような違和感はなくなっていなかった。
「いや、そんなことはどうでもよくてじゃな」
「は……!?」
だが幼女は、言葉の通りどうでもよさそうに切り捨てた。思わず顔を上げた女に、ふつふつと怒りが湧いてくる。
しかし続けられた幼女の言葉に、女は呆けることになる。
「己を追い込み、肉体と魂が乖離しかかるほどの苦行をするなとは言わんよ。世界が世界なら、それで確かにお主の目的は達せられたじゃろう。しかしじゃな……こと今のこの世界でそれをやられると、先に邪神の介入を招きかねんのじゃよ」
「は、あ……?」
内容が理解できないというより、突拍子もなさすぎて理解が追いつかない。
しかしそんな女に頓着することなく、幼女は言葉を続ける。
「というか、今まさに招きかけたんじゃよ。わしの到着がもう少し遅れていたら、お主邪神に誘惑されておったぞ。お主がそれで死ぬよりも悲惨な目に遭うのは構わんが、それではこの世界を征服されてしまう。それだけは見過ごせんのでな」
そして、そこで一度区切りをつけた幼女は、次にその小さい手を前に差し出し女の額に人差し指を当てた。
何がなんだかわからず思わず振り払おうとした女だったが、身体が動かない。これが金縛りというやつか、と女のどこか冷静な部分が考えた、次の瞬間だった。
「ゆえに、お主のことは保護させてもらう。それとついでに……この世界における目を担ってもらおうか。なあに、たかが死ぬまでの間の話じゃ。それくらいの役得はあってもよいじゃろう?」
――知らないです!
そう言おうとしたが、全身が動かない女の口もまた動くことはなく、幼女の手から流れ込んでくる青い光を拒否することは一切不可能だった。
「案ずるな、痛みはない。それに、悪い話ではないぞ。わしの目を代行するために必要な力はくれてやる。その余剰を、何にどう使うかはお主の自由じゃ。そう……たとえば、魂を見極める、とか……不老不死、とか、な……」
にやり、と幼女が笑う。
とてもその見た目のサピエンスがするようなものではなかった。老獪な悪魔のような、底意地の悪い笑み。女にとっては初めて見る、得体の知れない顔だった。
しかし――ああ、しかし、だ。
女にとって、それはもはや問題ではなかった。
「――っは、はあっ、はっ、た、魂を、み、見分ける……なんて、ほ、本当にできるですか……!?」
なんとしてでも問いただしたい。そう強く念じたとき、女の全身を縛っていた力が弾け飛んだ。そのまま幼女にがぶり寄る。
幼女はそれを払うことなく正面から受け止め、なおも女の額に光を注ぎ続ける。
「ほう? だいぶ手加減はしていたが……よもやこの術を破るとは。お主、なかなかやるではないか」
「そ、そんなことはどうだっていいです! で、できるですか!? 人の目に見えない魂を、見分ける方法があるですか!?」
「結論だけを言えば、不可能ではない」
「……! じ、じゃあ!」
「ただし、今のこの世界の水準ではどれほど早く文明が発達したとしても1万年は軽くかかろうな。ちなみに不老不死であれば5万年くらいかのう。発達する方向を間違えた場合、そもそもその域に至ることもできなくなる可能性すらある」
「う……!」
それは事実上、不可能と言っているも同然であった。
確かに女は、集落の他の仲間より長生きだ。およそ100年を生きた父や母とも違い、まだまだ肉体的にも若くこれからも生きることはできるだろうが……いくらなんでも、万単位の時間を何もなしに生き抜けるとは思えなかった。
がくり、と女は膝を折る。全身から力が抜けた。この世のすべてが、色を失ったように感じられた。
それを見た幼女が、困ったようにため息をつく。
「やれやれ……せっかく力を与えても、無気力になられてはどうしようもないではないか、まったく……」
幼女はそこで、女の額に当てていた手を離した。光の奔流は止まり、周囲から明るさが失われる。
「お主に今死なれるのはわしとしても困るのでな。仕方あるまい、道は示してやる。ただし、身に着くかどうかはお主の努力次第じゃ」
「え……?」
再び、信じられない言葉を聞いた。
呆然と視線を上げた女の目に、自信満々に笑う幼女の姿が飛び込んでくる。
そこに映り込んだ幼女は、同じことを再度言う必要はないとばかりに言葉を続けた。
「崇められると困るゆえ名乗らんがな。それでも無理に名乗るならば、これなるは邪神を屠りしもの。神々より”神殺し”と称えられるもの。そして――」
ここで告げられた幼女の言葉を女が忘れることは、永劫が過ぎ去ってもありえないだろう。
かくして女は”神殺し”に師事することとなり、以降のときをただ一度の例外を除いて故郷の姉の下に帰ることはなかった。父がこの世を去って、43年目のことだ。
この日から、地獄よりもなお地獄めいた試練の日々が始まる。それは比喩でも何でもなく、一日に何度も死ぬという邪神もかくやな試練の連続であった。
死にすぎて、はからずもこの世とあの世のあわいで死と魂を司る女神、
父にもう一度会いたかったから。今度こそ、父の隣に立ちたかったから。
その一念のみを支えに、女は立ち上がり続けた。もう、くじけることはなかった。
なぜなら――。
『お主の父に力を与えたもの。信じるか信じぬかは、お主次第ではあるがな。……さて、では問おう
――”神殺し”に差し出された手を、「救いの手」と信じることにしたから。
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