第82話 スズメバチの主

 翌日、久しぶりに研究室へ向かう。

 俺がいない間のことは基本的にソラルに任せていたが、なにしろ生き物が複数いる。この目でちゃんと推移を把握しておきたい。


「行ってらっしゃいなのじゃよー」

「ああ、行ってきます」


 久しぶりの行ってきますのキスをして、家を出た。ケデロシオではできないので、これだけで多幸感がある。この特権は誰にもやらない。


 そこに、当然のようにチハルとソラルがついてくる。これも久しぶりだな。いつもの日常という感じで妙に嬉しい。


「お父がいない間のことは、ばっちりやってたですよ!」

「それはボクも保障するよ! ソラ、がんばってたもん!」

「そうか……そいつはご褒美をはずまないとなぁ」


 などと、じゃれついてくる二人と会話を交わしつつ。


 研究室に辿り着くと、ソラルが早速とばかりに複数の粘土板を出してきた。


「これがウサギ、これがスズメバチ、これがカイコの記録です」

「おう、いつもありがとうな」

「ここ数日の分はまだ乾燥してるですから……」

「ああ、いつも通りこっちで回収しておくよ」


 ちらりと見れば、不在の間任せておいた観察記録が、ちゃんと整頓された状態でなされている。文章にも問題はない。優秀な娘で鼻が高いよ。


「ご褒美は何がいい?」

「あとで空飛ぶ実験を手伝ってほしいです!」

「そうか、わかった。今日の記録が終わったらでいいか?」

「はいです!」


 大きくこくんと頷くソラル。


 うむ……いつもなら一緒の入浴とかキスをねだられるのだが、そう来たか。

 空を飛びたいというのは、ソラルにとって夢だからかな。


「じゃあ、ソラは実験の準備してくるです!」

「夢中になって根を詰めすぎるなよ?」

「はいです!」


 返事は立派だったが、猛然と家に帰っていく背中を見ていると、とても話を聞いていたようには見えない。


「ソラ、大丈夫かな……」

「いいんじゃないか。どうせ今日は気嚢作りのために革を選定したり、縫い合わせたりが中心だろう。メメたちの目の届く範囲でやるだろうし、心配せずともメメたちがなんとかしてくれるさ」

「だといいんだけど」


 チハルが大げさに腕を組んで眉をひそめている。

 まあ、気持ちはわからなくはないが……ソラルも母親、特にメメには逆らえないし、大丈夫だろう。


「……で? チハルは珍しくこっちにいるが、今日は狩りはいいのか?」

「うん。父さんがこっちに戻ってる間は休んでいいって、バンパ伯父さんが。だからできるだけ父さんと一緒にいるんだ」

「……お前もソラルほどじゃないが、大概だよな」

「? 何が?」

「別に。じゃ、俺はしばらくいなかった間の記録を読むから、それが終わるまでは待機で」

「はーい」


 ぴっと手を上げて返事をすると、チハルは本棚へと向かった。技術白書が置かれている本棚だ。

 その中から……位置から察するに、生物学に関する粘土板を手に取った。


 おお、遂にチハルも勉強する気になったのか……と思いつつも、すぐに投げ出したりしないか不安を覚える。

 元々じっとしていることが苦手な子だ。どれだけ続くだろうか……と考えながらも、何はともあれ記録を確認していく。


 その間、珍しくチハルは音を上げずに読書していた。明日は地震でも起こるかと思ったが、口にはしない。


「チハル、外に行くぞ」

「はーい!」


 呼びかければ跳び上がらんほどに勢いよく立ち上がり、最速で粘土板をしまって隣に来た。やはり退屈はしていたようだ。


「珍しく読書していたな」

「うん、生き物のことは結構好きなんだ」

「なるほど」


 それで生物学か。


「だから動物実験もね、実はちょっと興味あったんだ」

「そうか。わかった、何か疑問があったら聞くといい。わかる範囲で答えるから」

「うん!」


 というわけで、いつも通りの観察を始める。


 まあ、ウサギは特に変化なしだ。ソラルの記録でもそうなっていたし、今日も特筆するようなことはなかった。むしろチハルに説明する時間のほうが多かったほどだ。

 ウサギを飼い始めた動機は血の効能検証だったが、その研究もだいぶめどが立ってきている。今さら何か目立った変化は、起こらないと思う。


 ウサギを一通り観察したあとは、小脇に壺を抱えてスズメバチの下へ向かう。


「おー、今年はまた結構増えたな」


 村の外れの研究所の、さらに外れ。スズメバチはそこで飼っている。

 この時期になれば冬眠はとっくに終わっていて、活発に活動している。無数のスズメバチがせわしなく飛び回っていた。


「今年は蜂蜜いっぱい取れそうだね!」

「そうだな。いや、そっちは本来の目的とは違うんだが」


 スズメバチを飼い始めた最大の理由は、俺の血を飲ませた生物を捕食した生物がどうなるかを調べるためだ。蜂蜜は断じてメインではない。

 ただ、捕まえたスズメバチが偶然ミツバチに近い習性も持っていたおかげで、多少取れるというだけで。


「相変わらずこの子たちはお利口さんだね」

「利口というのも少し違うんだけどな……」


 という会話をするのは、巣に近づいた俺たちを前に、スズメバチたちが道を作るようにして空中に並んだからだ。

 攻撃は来ない。真社会性生物らしい完全な統率で、ただ羽音を響かせるのみだ。


「来い」


 俺は指示と共に、目の前に人差し指をかざす。するとそこに、一匹のスズメバチがとまった。三センチくらいだろうか。


 一見するとその姿形は、前世で日本人がスズメバチと呼んでいた生物によく似ている。生物学的に細かく特徴や性質を分類すれば、色々異なる点もあるだろうが……おおむねスズメバチである。

 いかつく恐ろしげな顔に、頑丈そうな外骨格、鋭利な毒針を持つ姿は、威圧的だ。主に森に生息していたからか、色合いは全体的に黒っぽい。


 とはいえこいつも、見た目はスズメバチみたいでも実際は違う可能性は十分ある。ただそこまで細かく調べようがないので、他の生物と同じように俺の知識で一番こいつに近い生物……つまりスズメバチと呼んでいるに過ぎない。

  二十一世紀で見たことがない種なのは、まあ、そういうことなのだろう。俺たちアルブスやチョコレートの木と同じく、二十一世紀まで生き残らなかった絶滅種というわけだ。


 そんなスズメバチの身体には一点、他の近縁種とは明確に異なる特徴がある。

 それは腹部。そこに走る、一本の線だ。線というには太いが、ミツバチなどにある縞模様みたいなイメージを持ってくれればいい。


 しかしその縞模様……光っているのだ。うっすらとだが確かに、青く。

 他のスズメバチもそれは同じだ。個体によって青か赤かの違いはあるが、間違いなく彼らの腹部は光を放っている。


「綺麗だねー」

「……そうか? 俺は少し不気味に思うが……」


 特に夜にこいつらと遭遇すると、人魂みたいなんだよ。

 心を落ち着けてみれば、これらの光はチハルとソラルの瞳と同じ色だということがわかるのだが……不意に来られるとどうもな。


「チハル」

「うん。さーこっちおいでー」


 俺が指にとまっていたスズメバチをチハルに向けると、彼女は動じることなく指を差出し、スズメバチを招いた。

 招かれたスズメバチも、躊躇なく俺から離れてチハルの指にとまる。


 その瞬間、そいつの腹部の光がじわりと青から赤へ変わった。


「……うーん、やっぱりボクに近づくと赤くなっちゃうね。父さんやソラの近くにいると青いのに」

「光の色は人によって変わるんだろうな」


 ちえー、とチハルが唇を尖らせる。が、こればかりは持って生まれたものだろうから、仕方あるまい。


 この光。何がそうさせるのかと言えば、俺はチハルとソラルが魔術のもとと呼んでいるものが原因だと睨んでいる。俺と俺の子供たちにしかこうした反応を見せないから、その確度は高いと思われる。


 恐らくだが、このスズメバチたちは俺たちから魔術のもとを吸収している。そしてその魔術のもとを、エネルギーに変換しているのだと思われる。発光はそのときの変換ロスか、あるいは余剰分を発散することで起こっているのだろう。

 発光に関しては推測に過ぎないが、エネルギーに変換云々についてはほぼ間違いない。何せ彼らは、身体が光っている間は一切食事をしないのだから。


 しかし、餌を集める習性自体は残っている。このスズメバチは幼虫時代は働きバチが捕獲した他の昆虫などを食べ、成虫になると花の蜜を主食かつ保存食にするのだが、食べる必要がなくても幼虫の餌狩りのついでに蜜を集めてくる。

 が、集めても集めても食事をする必要がないため、結果的に彼らが集めた蜜は巣に溜まる。これが以前(第八十話参照)触れた「スズメバチの蜂蜜」の正体だ。


 とはいえその味は、俺の知っているいわゆる蜂蜜とは比べるべくもない。品種改良が進んだ種だから、あるいは人間側の技術が進んでいたから、というのもあるだろうが、やはり根本的にこのスズメバチは蜜集めに特化していないのだろう。

 いくらこのスズメバチたちがミツバチのような習性を持っているとはいっても、結局のところミツバチではないとでも言うべきか。


 それでも、この原始時代に手に入る甘味は限られる。チョコレートの木という規格外の代物を抱えてはいるが、あれは前にも言った通りまだ完全には栽培に成功していない。

 だからこの蜂蜜は、結構群れのみんなに気に入られていたりする。


「え、じゃあこれよりもっと甘い蜜を集めるハチがいるの?」

「いるよ。どこかに、だけどな」


 スズメバチについてチハルに説明していたら、彼女が食いついたのはそこだった。まあ、気持ちはわかる。


「えー、見てみたいよー。もっと甘いなら食べてみたーい!」

「この時代に甘いものが手に入るだけでもありがたいと思いなさい」

「ちぇー、はぁーい」


 一応、二十一世紀にはコーカサス地方原産のミツバチもいたから、用意できないわけではないと思う。けれども、一応それっぽいものが手に入る今、蜂蜜は無理にほしいものではない。


 それに、ハチは俺たち霊長類と違って一世代の寿命が極めて短い。案外、俺が飼っている間に品種改良が自然発生して、根っこからスズメバチっぽいミツバチになる可能性は否定できない。

 そうなったら儲けものだ。宝くじで一等を当てるより低い確率だろうから、ワンチャンだが。


 まあとはいえ、俺がこのスズメバチを飼っている最大の理由はこれではない。さっきも言った通り、蜂蜜は飼育理由のメインではないのだ。


 では何が、と言えば……先ほど俺とチハルが見せた通り、彼らが俺たちの指示に完全に従うこと。それこそが飼育の最大の理由だ。


 それを実現しているものこそ、ずばり魔術のもとである。彼らにとって、魔術のもとはエネルギー源であると同時に、行動を決定づける一種のフェロモンみたいなものなのだ。

 だからこそ、彼らは俺たちからにじみ出る「攻撃するな」の指示に従い、整然と俺たちを迎え入れる。あたかも主に対するそれのように。

 俺と俺の子供たち以外には絶対に従わないから、これは間違いないはずだ。


 これこそ、かつて語った(第六十三話参照)「スズメバチに感じる可能性」である。こんなものを発見してしまったら、可能性を感じずにはいられないだろう?

 何よりこいつらは、今のところ俺と俺の子供たち以外では唯一、魔術に関する反応を見せる生物だ。調べないわけがない。

 おかげで飼い始めた当初の動機ではほとんど研究していないのは、ご愛嬌だ。


「よし。それじゃあ巣箱の点検をするから、一旦退避を」


 俺の指示を受けて、巣箱から一斉にスズメバチたちが飛び出してくる。

 結構な量だ。羽音がやばい。視覚的にも、下手したらトラウマ一直線の光景である。


 だがそこに突っ込んでも、俺たちは攻撃を受けない。それどころかやってくれと言わんばかりに道をあけていく。

 そんな彼らの羽音を聞きながら、巣箱に近づき上蓋を開けた。


 巣箱の構造は、ミツバチの巣箱と大体同じだ。いわゆる重箱式巣箱というやつで、言ってしまえばただの箱である。

 ただし彼らのサイズがサイズなので、巣箱はかなり大型だ。また、木のうろを再現するため、穴は下方ではなく横に空いている。


 ここまでは巣箱そのものの違いだが、中を覗くと種としての違いがはっきりと見て取れる。


 ミツバチの場合、重箱式の巣箱を使うと空間内を巣で敷き詰めるようにして営巣する。しかしこのスズメバチたちはそうしない。

 板……つまりしっかりとした足場のあるところにしか、営巣しないのだ。恐らくだが、彼らの体格ではみっちりと巣箱を埋め尽くすような巣は行動の邪魔になるのだろう。


 甘さだけでなく、量や効率という点でもミツバチに劣るわけだが……何度も言う通り、蜂蜜目当てで彼らを飼っているわけではない。なのでこれはこれで別に問題ないのだ。


「やあ、クイーン。邪魔するぞ」


 その中に一匹、避難する様子を見せない成虫がいた。五センチはあろうかという大きい個体。女王蜂だ。


 彼女は俺の声に応じて浮かび上がると、緩やかに俺の肩の上にとまる。そしてその強靭な顎で、俺の耳たぶを甘噛みしてきた。

 痛くはない。妙にうまく加減された噛み具合だ。


「……いつも思うけどさ。クイーンって、絶対父さんのこと好きだよね?」

「まさか。ハチにそういう感覚があるとは思えないし、そもそもハチの交尾シーズンは秋だ」

「そうかなぁ……」

「そうだよ。大体、女王蜂は毎年違う個体なんだぞ。すべての女王蜂に好かれるとか、ありえないだろう」


 チハルがしきりに首を傾げているが……そうであってほしい。いや、そうであれ。マジで。

 スズメバチに求愛されても困るだけだし、さすがに嫌だ。俺はそんな高度な性癖は持ち合わせていない。


 でも確かに、クイーンの態度がツンケンしたお姫様みたいに思えるときがあるのは事実だ。

 今も俺の肩で、巣に向けて顎をしゃくって見せている。その態度はさながら、「早く仕事なさい、下賤」とでも言っているかのようだ。


 ……違うよな? 違うんだよな?

 まさかとは思うが、ここから昆虫人が発祥する……とか、そんなのはさすがにないよな……? もしそうなったら笑えない。


「父さん?」

「ああいや……なんでもない。それより、壺を構えていてくれ。中に溜まった蜂蜜を移すから」

「おっけー」


 チハルに持ち込んだ壺を渡して、俺は巣箱に備え付けてあった木べらで巣の一部をこそげとる。蜂蜜が溜まっているところだ。


 ミツバチなら蜂蜜の回収にはシーズンがあるが、このスズメバチは本来蜂蜜を貯めこむ生物ではない。巣もそれ用になっていないので、定期的に回収しないととんでもないことになるのだ。


 彼らから得られる蜂蜜が量も甘さに欠けるのは、こういう風に時間をかけられないから、ということも大きい。

 何か専用の空間を巣箱に併設できれば、ミツバチの行動を真似させてより質を上げられるかもしれないので、そこらは一応別口に研究してはいる。あくまで片手間だから、いつになるかはわからないけども。


「……よし、今日はこんなところかな。チハル、蜜を一旦研究室に持って行ってくれ。ついでに新しい巣箱を一つ持ってきてほしい」

「わかった!」


 見た感じ、そろそろ今の巣箱ではスペースが足りそうにない。巣箱を追加しておいたほうがいいだろう。

 重箱式の巣箱は、巣の成長に応じて場所を増やせることが利点だ。ミツバチと違ってこのスズメバチは下から上に巣を作るので、中身が確認しにくくなることもない。


 ついでに言えば、普通なら営巣が済んだ状態では巣箱をばらせなくなるが、彼らは俺の指示に確実に従う。継ぎ目の部分に目印をつけて、そこには営巣させないようにすることで、分割すら可能になっている。


「あとは……取った部分を掃除して、と……」


 巣箱はある程度清潔にしておかなければならない。よくわからないが、そうしておかないと彼らは巣箱を放棄してしまうことがあるのだ。

 原因は不明だが、ミツバチも結構きれい好きで、掃除を怠るとやはり巣箱を放棄する可能性があると聞いたことがある。そういう類の習性なのだろう。


「父さん、持ってきたよ!」

「ありがとう。それじゃあ掃除が終わったら継ぎ足しだ」

「はーい!」


 そうして掃除が終わり、巣箱の拡張を終えるまで、おおよそ一時間くらいか。

 いつもならソラルに頼んで水を出してもらったりして時短しているが、それがないと倍くらい時間がかかるんだな。いい勉強になった。


 なお、クイーンは妙に名残惜しそうに何度もチラ見しながら巣箱に戻っていった。さながら「あなたが寂しいなら、まだ多少は付き合ってあげてもよろしくてよ!?」みたいな感じだった。

 あれも毎回、どの女王蜂もやるんだよなぁ……。


 マジで、そういうアレな事態ではない……よな……?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る