第72話 ケデロシオ村

 後ろ髪を引かれる思いでルィルバンプを出発して、北東に向かうことおよそ五日。そこにアルブス第二の村、ケデロシオはある。

 場所としては、初めてカスピ海に至ったときに着いた場所(第二十三、二十四話参照)と考えてもらえれば、大体間違っていない。つまりカスピ海の湖畔に建設された村だ。


 なぜそんなところに村を作ったかと言えばその理由はいくつかあるが、最大の理由はやはり塩である。

 より具体的に言えば、塩の採取ではなく製塩だ。発見から何年も経ったことで、湖畔で自然に獲得できる塩はほとんどなくなってしまったからである。

 おかげで安直に「塩を作るケデロシオ」と名付けられたが、かといって神語(つまり日本語)で何か名づけろと言われても名案はなかった。

 まあ、名前なんて妙に凝るものでもないし、こんなところでいいんじゃないかなぁと。


「うーわー!! すっごーい!!」

「あれがカスピ海……すごく……おっきいです……!」


 初めてカスピ海を見たチハルとソラルが、歓声を上げる。


「す、すごいな……見渡す限り全部水だ……」

「本当だ……なんていうか……よくわからないけど、すごいとしか……」


 それに続いて、バンパ兄貴とダイチの親子が絶句とばかりに立ち尽くす。

 ケデロシオの視察に来た他の部族の人間も、大体似たような反応だ。今まで見たこともない雄大な自然の景色を目の当たりにしたら、人間という生き物はみんなこういう反応をするのだろうなぁ。


「うひゃぁぁー、あの水全部が塩辛いっテ、本当ニ!? 信じられないヨ! 飲んでみたイ!」

「ちょ待てよ!」

「ヤバいって! マジヤバいって!」

「最悪死ぬから! ガチで!」


 ただ一人、アダムだけが飛び出そうとしたところで、三人組に止められていた。

 少し不満そうなアダムだったが、三人組の剣幕を見てさすがに自重することにしたようだ。


 三人組は最初ここに来たとき、実際に塩水を飲んで痛い目に遭っているからなぁ。そりゃあ止めもするだろう。

 経験者はその後もあれこれ語るが……。


「ますます飲んでみたくなったネ!」

「「「ズコー!」」」


 アダムの好奇心を刺激しただけだった。


 ……そこまで言うなら、実際に痛い目に遭ってもらったほうがいいかもしれない。俺は別に止めない。


「はいはい、ボクも飲んでみたい!」

「ソラも……」

「……少しだけだぞ」

「「やったー!」」


 子供たちもだった。

 まあ、この二人は俺の遺伝で超健康体だし、少しくらいはいいか。どのみち禁止したところで、子供の好奇心を抑えられるはずもないだろうし。


「はあ……まあいいか。じゃあ皆っさーん、とりま皆さんに使ってもらう家に案内するスよー!」


 三人組も諦めたようだ。


 その後、彼らの案内で俺たちは部族ごとに分けられて、宿に案内される。


「あ、ギーロさんたちはいつもんとこでお願いできるスかね?」

「ああ、いいよ。場所はわかるし、俺たちは自分で行くよ」

「あざーす!」


 ただし、俺だけは様々な理由でここには定期的に来ているので、ほとんど俺専用と化している家がある。そこへ向かうことになった。


 道中で目に飛び込んでくる光景は、基本的にルィルバンプと同じだ。しかし上から見れば、円状に拡大しているルィルバンプと違い、カスピ海の湖畔を面として扇状に展開していることがわかるだろう。


 ただ、当たり前だが村の規模はルィルバンプに比べればかなり小さい。


「村はあんまり大きくないんだね」


 きょろきょろと周りを見渡しながら、チハルが言う。


「ルィルバンプの人口は百七十人だけど、ここは六十人ちょっとだからな。それも当然だ」

「半分ないですか?」

「五十人から始まったことを考えれば、大きくなってはいるんだけどな」


 そう、この村は最初、五十人から始まった。ルィルバンプに比べるとかなり少ないように思えるかもしれないが、あの村もこれくらいの人数から始まったことを考えると、決して少なくはない。

 この五十人はもちろんルィルバンプから出ているのだが、実はこれこそが、塩と並ぶ最大の目的だったりする。

 入植を始めた三年前、ルィルバンプの人口は遂に二百人に達した。これだけの人数になると、さすがに管理に少し手間取るようになってな。その対策のために入植を開始したというわけだ。


 そういうわけなので、実のところ塩は最初から目当てだったわけではない。ただ、どうせ新しく村を作るなら、のちのち安定して塩が採れるようにしたいということで後から決まっただけだ。

 なのだが……今となっては、ケデロシオが供給する塩はなくてはならないものだ。目的はいずれも達成されていると見ていいだろう。


 ちなみにこの村、立地の関係上周辺には木が少ない。なので、ここで使われている木材の多くはルィルバンプから運ばれている。塩との交換と言う体裁を取っているので、原始的ながら経済活動と言えるだろうか。


 ……と、そうこうしているうちに俺の家……別荘? に到着。場所としては、村の中でも湖に比較的近いところだ。


「よし、着いたぞ。ケデロシオにいる間はここで生活するからな」

「……いつもとあんまり変わんないね」

「です」

「そこは仕方ないだろ……。竪穴式住居にバリエーションをつける方法なんて知らないし……」


 ペンキでもあれば、多少は違った雰囲気を出せるのだろうけども。そんなハイカラなものはない。

 内部構造もそう代わり映えしないので、中にいると本当に違う村に来たと言う感覚が薄くなる。


 とりあえず荷物を一通り置いて、と。


「ねぇねぇ、ゴウはどこに寝かせればいいかな?」

「え? あー、そういえばその問題があったか。どうするかな」


 狼はもうルィルバンプでは馴染みなので、所定の位置というものがあるのだが。言われてみれば確かに、この村にそういうものはなかったな。


「じゃあさ、ゴウはボクと同じところで一緒に寝てもいい?」

「え? いいけど……お前それで大丈夫か?」

「大丈夫だよ、ゴウはいい子だもん。ねー?」

《おう!》

「……まあ、確かにゴウくらい人懐こいなら大丈夫か。それでも一応気をつけるんだぞ」

「はーい!」


 その後はそれぞれの寝床を決めて……案の定ソラルが俺と一緒に寝たがったので、しょうがないなと承諾しつつ。


 一通りやることが終わったあとは、兄貴たちがどこに寝泊まりすることになったのかを知りたかったので、二人と一匹を連れて村の中を歩き回ることにした。


「お、あれはアダムと……エッズ!」

「ん……? おお、ギーロか。後ろの二人はチハルとソラルだな? 大きくなったな」

「こんにちはー! 久しぶりー!」

「どもです」

「ああ、久しぶりだ。よく来たな」


 彼は俺に気づくと、軽く手を振って応じてくれた。そして娘二人のあいさつに、頬を緩めて頭を撫でてやる。


 ケデロシオに移住する前は、彼も二人とはそれなりに親交があった。子供がいないからか二人には甘くて、ちょくちょく二人のための毛皮を優先してくれていたっけか。

 今もそれは変わらないらしく……というか久しぶりに会ったからか、かなり嬉しそうに二人と話し始めた。あまり甘やかさないでほしいが……まあ、三年ぶりだ。たまにはいいか。


 その間に、俺はそれまでエッズと話し込んでいたアダムに話を振る。


「嬉しそうだな、アダム」

「そりゃあ、久しぶりにセンセーに会えたからネ!」


 アダムが陽気に笑う。

 それを聞いたエッズは、「柄ではないのに」とつぶやきつつ、気恥ずかしげに頭をかいた。


「柄でいいヨ! センセーがいなかったら、俺こんなにすごくなれなかったんだカラ!」


 そう、彼はアダムの先生だ。新しい生活に困惑していたアダムを自分のところに迎え入れ、狩りだけがルィルバンプでの生き方だけではないことを教えた先生なのである。

 それこそ力ではアルブスの男に及ばないアダムが、群れで活躍するほどの職人になったきっかけだ。


 アダムはその後、皮なめし以外にも手を伸ばして職人としての才能を開花させたわけだが……すべての始まりはエッズなのだ。

 だからこそ、アダムは今でもエッズを先生と呼ぶ。彼にとってそう呼べる人間は、エッズ一人というわけだ。


「いやしかし……俺はなめしを教えただけだろう。そこまで言われるのは……」


 まあ、本人は至って謙虚なのだが。

 それでも彼がいなかったら、今の万能の職人アダムはいない。謙遜はしないほうがいいと俺も思うよ。


 何より、アダムがいなかったら、俺が今やれている事業のいくつかは取り掛かれていないだろう。だから俺としても、エッズには感謝している。


「だけとは言えないだろ。モノづくりの面白さ、やりがい、作り手としての心構え……。アダムにそういう大事なことを教えたのはエッズじゃないか」

「それは……」

「そーだヨ! だからセンセーは、いつまでも俺のセンセーネ!」

「お、おう……」


 にこにことアダムに肩を叩かれたエッズは、やはり気恥ずかしげに頭をかいた。


 その顔には、多少しわが増えている。俺や兄貴より少し年上と思われるから、それも仕方ないだろう。

 また狩りには参加せず、皮なめし専門の職人として活動しているので、運動量が他の人間より少ない。だからか、身体つきは少し衰えたようにも見える。

 けれども、サピエンスで言えばまだ三十代半ばから後半程度の見た目。アルブスの種族的な寿命がどれくらいかは不明だが、ディテレバ爺さんや長老と比べたら、エッズはまだまだ働き盛りと言っていいだろう。


 そんなエッズがケデロシオに移住した理由は、皮なめしの技術を新しい村にしっかりと根付かせるためだ。

 開拓をするに当たって移住することになったメンバーは若手が多く、また細かい作業ができる人間が少なかった。指導できるだけの人格と能力を持ち、言い方は悪いが男やもめのエッズは、適任だったというわけだ。


「……お父、お父」

「ん? どうした、ソラル?」


 盛り上がるアダムとエッズの脇で、ソラルに裾を引っ張られた。

 なんだろう。会話を乗っ取ってしまったことに対する抗議かな?


「ソラ、エッズのおんじにお願いしたいことがあるです」

「エッズにお願いしたいこと?」


 思わずおうむ返しに答えた俺に、ソラルがこくんと頷く。


「だから、しばらくここにいるです。いいですか?」

「エッズにということは、革についてかな……。ん、まあ、エッズなら信頼できるし、いいぞ。ただし、迷惑をかけない範囲でな」

「はいです!」

「いい返事だ。……ということで、エッズ、すまんがソラルをしばらく頼めるか?」

「ああ、もちろん。久しぶりに大きい仕事になりそうだ」


 にやりと笑って、エッズは答えた。


 ……なんだ? ソラルのやつ、一体何を頼んだんだ?


「あ、ソレ俺も手伝うヨ! 久しぶりにセンセーと仕事したいネ!」

「そうだな……お前くらいの腕前のやつはまだこの村にはいない。頼めるか?」

「もちろんダヨ!」


 俺の知らないところで、どうも話が大きくなっているようだ。何事もなければいいのだが。


 思わず三人を見やった俺の顔は、不安げだったのだろう。エッズは再びにやりと笑うと、拳を静かに俺の腹に当てた。


「大丈夫だ、任せておけ」


 兄貴のような威圧感はないはずの彼だが、その言葉はものすごく重く、頼もしかった。これが一つの道を極めた男の貫禄というものか。


「……そうだな、任せるよ」

「ああ」


 だから俺は頷いて、この場をエッズに預けることにした。それだけの信頼と実績が、彼にはある。


「あ、でもシショー。塩づくりを見に行くトキは、ちゃんと俺も呼んでネ!」

「あ、ソラも」

「お前ら……わかった、わかったよ」


 現金なアダムとソラルに、思わず身体の力が抜けた。

 それを見たエッズは声を殺して笑い、チハルはあははと声を上げて笑っていた。

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