第28話 叶うならば奇跡と呼ばせて
破水までの経過は、言い方は悪いかもしれないが代わり映えがなかった。
陣痛は半ば規則的にやってくるもの。連続するとはいえ、何時間も付き合っていればルーティンワークのように感じられてくるものだ。
おかげで陣痛が治まっている間は、サテラ義姉さんも多少会話をする余裕が出てきて、食事も少しだが摂れたようだ。
この時間を利用して、痛みに耐える時は力いっぱい目を閉じないことや、歯を食いしばりすぎないことなど、二十一世紀でもご近所づきあいや出産の本などで得られる心がけについて一通り教えた。
もちろん痛みの前にはそんな心がけは脆いものなのだが、知っているだけでも違うはずだと思うのだ。
歯については、義姉さんはあまり食いしばっていないようだったのでマウスピース的なものはなくてもよさそうだった。
あとは姿勢を整えると言う意味でぶら下がり紐も用意したかったが、竪穴式住居の天井から紐を垂らす方法がとっさに浮かばなかったので、こちらも断念。仕方がないので、姿勢についてはもうとにかく義姉さんのしたいようにしてもらうことにした。
どのみち産科医のような対応はできないので、無理に「これ!」と固定させるよりいいと判断したのだ。
だが、「本番」が来たらそんな余裕は一切なかった。痛みの度合いが上がり、収まっている時も息を整えたり水を飲んだりするだけでいっぱいいっぱいになったのだ。
始まりは文字にすることが難しい、なんとも形容しがたい悲鳴めいた叫び声。無理に言うなら、濁点のつかない文字に濁点が複数重なっているような。そんな声だった。
「ギーロ、破水したよ!」
婆さんの一人が緊張した面持ちで俺のところにやって来た。
この時俺は小休止のために外で仮眠を取っていたのだが、呼びに来られる前に声で目が覚めた。おかげで即動けたけども。
出産場所に入るまでのごく短い間にもサテラ義姉さんの獣のような声は続いていたので、いよいよ佳境に突入したのだということは否応にも理解できた。
それで中に飛び込んでみれば果たして、そこは完全に修羅場だったわけだ。
羊水が流れ出たままの義姉さんが、顔を苦痛にゆがめ髪を散々にふり乱している。さらには、家の中に広がる羊水のにおいがますます地獄めいた雰囲気を醸成していた。
「サテラ、大丈夫か!? ッ!?」
俺とほぼ同時にバンパ兄貴がかけつけたが、さすがの兄貴もこれには絶句した。
うん……狩りで獲物を殺す時とは違う壮絶さがあるよな、この光景は。
とりあえずフリーズしかけていた兄貴に、義姉さんを励ますように促しておく。
破水して赤ちゃんが出てくる段階まで来ていると、旦那の声に耳を傾ける余裕などないだろうが……ここでもまだ痛みは断絶を挟みながら繰り返す。痛みがない時は、小さくても助けになる……はずだ。
ただ、破水したということは、赤ちゃんを包んでいた羊水が排出されて外と繋がったということ。遂に今から外に出てくるのだが……出来る限りここからは迅速に済ませなければならない。
なぜなら、産道を通る際にタイミングが合わなかったり、何か手違いがあったりしすると、酸素の供給が止まってしまいかねないからだ。
当然その状態で長々と母体に取り残されてしまうと、命に関わる。
二十一世紀なら何かしらやりようはあるのだろうが……ここは原始時代。赤ちゃんが滞りなく出てきてくれることを祈るしかない。
「義姉さん、呼吸できてるか?」
「無理……そんなの考えてられない……」
陣痛が一旦収まったタイミングで声をかけてみたが、弱弱しく首を振られてしまった。
この会話をするのも何度目だろう。
前回言った通り、アルブスとサピエンスの出産時期の違いを認識できていなかった。そのせいで、ラマーズ法を教えたのが陣痛が始まってからになってしまってな……。
陣痛の初期段階に入ってから急きょ教えただけなので、初産のさなかでラマーズ法を万全にこなせるわけがないんだよなぁ……。
これは本当に俺のミスなので、義姉さんには申し訳がない。鼻からスイカを出すような、と比喩されるほどの痛みを少しでも和らげたかったのだが……。
「……わかった。今のうちにしっかり呼吸を整えておこうか。深呼吸を心がけて……」
深呼吸も俺が教えた。日本で暮らしていると普通にどこかで見知る程度の知識だが、これもこの時代では誰も知らなかった。人類が積み重ねてきた知識と経験は、確実に進歩の糧なのだなぁと思うよ。
それはともかく、義姉さんにはもしかしたら鬱陶しいと思われているだろうか。できないことをやれと言っているわけだし。
けれど何もなしで陣痛に耐え続けるよりは、不完全でもラマーズ法などで呼吸を整えていたほうが痛みは和らぐはず。ここは憎まれても構わないと開き直るしかないな……。
俺がそう考えている傍らでは、兄貴が甲斐甲斐しく義姉さんに水を渡したり、大きい葉っぱで仰いだりしていた。
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その時不思議なことが起こった。
いや、冗談でもなんでもない。太陽の力を受けた黒い世紀王はここにはいないのだが、本当に不思議なことが起きたんだよ!
赤ちゃんの頭が見え始め、いよいよ義姉さんの痛みがピークに達しただろうという頃合いだった。
それまで今この瞬間死んでもおかしくなさそうな状態だった義姉さんが、突如として復調したのだ。と言っても、普段の調子まで戻ったわけではなく、痛みが初期陣痛程度まで収まっただけらしいのだが。
男からするとそれはものすごく痛いのではないかと思ったが、ピークの痛みを経験してしまった後だと、初期レベルの陣痛は物の数ではないらしい。
これを聞いて周りは喜んだのだが、俺はそれどころではない。
陣痛が消えてしまったということは、開いていた子宮口が閉じてしまったのではないか?
赤ちゃんがこれ以上出てこれなくなってしまったのではないか?
などなど、様々な疑念が浮かび上がったのだが……何の問題もなく、出産は進んでいた。
「……なんで普通に進行してるんだ!?」
「私に言われても……」
話を聞くに、どうやら痛みだけが抑えられた状態で動きはあるらしく、その間隔は明らかに出産末期のそれだった。痛みが弱くなっていても、身体はしっかりと赤ちゃんを押し出そうとしていたのである。
産科医でない俺でもわかる。これはおかしい、明らかに異常だ。だって分娩真っ最中に普通に会話が成立しているんだぞ!? こんなことあり得ないだろう!
「一体どうなってるんだよ……わけがわからないぞ……。アルブスの出産って、いつもこんなことが……」
「起こるわけないでしょう。私の時も起きてくれればよかったのに」
「ですよねぇ!?」
話を振った婆さんの一人が、純粋にうらやましそうに返してくれた。
もしかしてと思ったが、やはりそんなことはないらしい。つまり、やはりどう考えても今何かよくわからない、不思議なことが起きているのだ。
とはいえ、不思議なことというものは原因がわからないから不思議なわけで。どれだけ考えても答えなど出なかったので、とりあえず棚に上げてやるべきことをやってしまうことにした。
「……考えてもわからんし、俺は産湯の用意をしてくるよ」
産湯は、生まれたての赤ちゃんを洗うためのお湯だ。当然赤ちゃんに合わせなければならないので、温度は控えめ。ぬるま湯くらいにするのだが、温度調整が簡単にはできないので、終わりが近づいてくるまで手を付けていなかったわけだ。
まあ、正確には手を付けていなかったのではなく、いつでも使えるように常に一つは火をかけた土器を用意しておいてあるのだけれど。
とはいえ、産湯そのもので赤ちゃんを沐浴させるつもりはない。
ドライテクニックと言うんだったかな。確か現代では、産湯を使うことは減っているとか聞いたことがある。
生まれたての赤ちゃんの身体を覆っている白や黄色などの汚れに見えるやつは、
しかしドライテクニックには、温めたふわふわのタオルが必要だ。そして原始時代にそんなものはない。
だから煮沸消毒しておいた毛皮に産湯を軽くくぐらせて、それでぬぐう形で行く予定だ。毛皮はあまり固くなく、長すぎず、大きすぎないウサギのものを使おうと思っている……。
「あ、あれ? あ……ちょ、い、痛い! 痛い痛い痛い! また痛くなってきたよおおぉぉぉ!?」
「な、なんだってーっ!?」
と思って、外で湯加減を確かめていたら、そんな声が聞こえてきた。
慌てて中に戻ると、破水した直後のような光景が広がっていて思わず唖然とする。
「えっ、はぁっ!? 痛み引いてたんじゃないのか!?」
「わからん! わからんのだが、またぶり返してきたみたいで……」
「マジかよ……一体何がなんだっていうんだよこの現象は!」
とか言いつつ、内心少しほっとしている俺もいるわけだが。
だって、あまりにも不自然だろう? 痛みだけがピンポイントで取り除かれるとか、怪しすぎるじゃないか。
義姉さんには悪いが、原因がわからない以上自然の状態の痛みはあったほうが……。
「……あ、あれ? なんか、また痛くなくなってきた……」
「なんでだよ!!」
思わず声が裏返った俺は悪くないと思う。しかも日本語だったし、俺、相当混乱しているな。
いやでも、仕方ないだろう!? 本当に、本当に何がなんだっていうんだよ!?
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……と、言うことをなんと都合四回も繰り返したのだが。
大まかにだがこの不思議な現象の発生条件はわかった。
ずばり俺と義姉さんの距離である。
俺が産湯の状態を確認しようと外に出ると、数分後に痛みが元に戻る。だが俺が家の中に戻ると、やはり数分後に痛みが引いていく。
そして家の入口付近で待機していると少しだけ痛みが和らぎ、義姉さんの隣にいると無痛とは言わないものの、かなりの痛みが消えるということもわかった。
うん。
要するに、また俺の中途半端な特殊能力が効果を発揮したんだと思われる!
なんなんだよ! あの神とかいうやつは俺に何をさせたいんだよ!?
出産時の痛みを軽減する程度の能力とか、どれだけピンポイントなんだよ!? 反則的な能力ではあるだろうけど、使う機会なさすぎて全然ありがたくないわ!
というか、こんな半端なチートをあれやこれやとくっつけるなら、せめてリストアップして全容を見せてくれ! できれば鑑定的な能力と一緒に、ゲームのステータス的な形式で!
「おぎゃあぁぁ! おぎゃああぁぁ!!」
そしてわけのわからない現実と戦っているうちに、出産はいつの間にか終わっていた。
こんなのってないよ! あんまりだよ!
「生まれた!! 生まれたぞギーロ!!」
「おめでとうッッ!!」
そのせいで、ものすごいオーバーリアクションで答えてしまった。歌舞伎みたいになった。
だがこんなことをしている場合ではないな。俺が混乱していようが、状況は刻一刻と変わっていくのだ。悠長にしてはいられない。
俺は急いで外に飛び出して、産湯と毛皮を持ってくる。
「と……ッ、とにかく、まずはこの子の身体を拭くぞ。ただしこの汚れは全部取らないほうがいい、最低限でいいから……」
と胎脂について説明しつつ、今まさに生まれたばかりの赤ちゃんを、出来る限り優しくぬぐう。
そこで俺は、ようやく間近でアルブスの赤ちゃんを見る機会を得たのだが……なんというか、サピエンスなら未熟児間違いなしの小ささだ。
三十センチくらいだろうか? まるで手乗りサイズの小人みたいだ。
ただ、身体の各部位はしっかりとついている。耳もちゃんと尖っている。何より元気に泣いているので、少なくとも俺には五体満足に見えた。
しかし他がわからないから何とも言えないが……もしこのサイズが平均だと言うなら、アルブスの未熟児って一体どんな……。
……いや、考えるのはやめておこう。変な思考の渦にはまり込んでしまいそうだ。
「サテラ……お疲れ、本当にお疲れ……。よくがんばったな……ありがとう……」
「……うん……えへへ、私がんばった……」
傍らでは、兄貴たちが声を掛け合っている。義姉さんは、終盤不思議な力で守られていたもののやはり相当堪えているようで、疲労困憊だ。ぐったりしている。
そんな二人を尻目に赤ちゃんを慎重にぬぐいながら、俺はぽつりとこぼす。
「男の子かぁ」
そう、兄貴と義姉さんの第一子は男の子だった。
この子がいずれ兄貴のような二メートル強の巨漢になるのかと考えると、生命の神秘でぶん殴られたような気分になる。女たちみたいに、子供程度の背丈で止まると言うなら納得もできるのだが……。
「……こんなもんかな。よし」
程度がわからないので、当初の見立てより少し胎脂を残すことにして、俺は一つ頷いた。
それを見て、赤ちゃんを取り上げそのまま俺の前で支えていた婆さんが頷き返してくる。次いで彼女は、まだ声を掛け合っていた兄貴たちの前に赤ちゃんをそっと差し出した。
「ほら、二人とも。赤ちゃんだよ。さ、抱っこしてあげて」
「あ、う、うん……わあ……」
「か、かわいいな……小さくて……なんだか不思議だ……」
「ねー……。この子が私のお腹の中にいたんだねぇ……」
赤ちゃんを遂にその腕に抱いた義姉さんは、微笑みながら涙を流していた。
痛みに耐えているような涙ではない。静かで、本人すら気づかないほど穏やかな……悟りとも言うべき涙だった。
そしてそんな義姉さんを包み込むように、そっと抱きしめて寄り添う兄貴。美しい構図だった。
二人はそうしてしばらく感動で言葉を失っていたようだが、実のところ俺もだ。言葉を失って二人……いや、三人を眺めるしかなかった。
新しい命が生まれるって、本当に壮絶でえげつなくて……でも、こんなにも美しいことなんだなぁ。できることなら、この光景を写真に収めたいよ。
……まあ、義姉さんが赤ちゃんを兄貴に渡そうとしたところで、その感動は余韻ごと丸ごと吹き飛んだわけだが。
俺も直前にしていたことではあるが、それでも傍から見たら不安しかなかったんだ。こんな小さい赤ちゃんを、パワーの権化みたいな男のアルブスが抱きかかえるとか……なぁ?
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