13 一途なデクノボウ

 数日間、病院を訪れた。家から蝶の森林記念病院までは遠く、通うのは大変だが菖瞳は洸をあきらめたくはなかった。

 洸もまた菖瞳を思い出そうとしてはたどり着けないもどかしさを抱いていた。そのうちになぜか菖瞳と家族の部分だけがすっぽりと抜け落ちていることに気が付いた。

 だが腹部のケガはすぐに完治し退院までこぎつけた。若さからだろう、一週間もしないうちに退院の運びとなり、すぐにでも元通りの生活を送れる手はずは整った。

 元通りの生活。それはつまり菖瞳と出会っていない生活。およそ3カ月前の生活と何も変わらない。

 洸は思い出せない苛立ちを募らせ、菖瞳はそんな様子の彼女への気遣いでいつしか二人は疎遠になっていった。

 洸の事件から2週間後。季節は真夏を迎えていた。

 流れゆく月日の中において嶺橋家の道場では剣道教室も華道教室も続けられていた。

 高岡桔梗の剣道教室はいつの間にか公民館での指導をすべて家の道場に移し、昔自らも受けていたように、嶺橋茂雪の行った週三回二部制を再興させた。

 癒月蘭の華道教室も順調だった。予想を上回るたくさんの生徒が訪れ、週二回の催しとしている。

 兄は変わらず気が削がれ、ほとんど植物状態だったが、母は憂い落ち込みはしなかった。仕事帰りで疲れているはずなのに一週間のうちに何度も開かれる催事に自ら関り補助に回るのだ。

 だが杏希は来たり来なかったりで、明らかに一カ月前より訪問回数と時間は減った。それもそのはず一向に回復を見せない兄に嫌気が差しても不思議ではない。

 そんな日常の中、捜査に進展があった。それはいつかのように家にかかってきた一本の電話が始まりだった。

『ああ、ちょうどよかった。妹さんだね。光浦です』

 兄の上司は飄々として、いい意味で堅苦しくない。

『実はこの間のお友達の事件に進展があって連絡したんだが』

「はい?どうして私に?」

 それが菖瞳の率直な感想だった。

『病院にいた高岡さんの知り合いなんだってね?』

「ええ。直接的ではありませんがいわゆる家族ぐるみの付き合いみたいなものです」

『そうかそうか。それでなんだが、その高岡さんに君を呼ぶように頼まれたんだ。電話番号がわからないとかでうちが連絡を頼まれわけだ』

「つまり光浦さんは仲介役ですか?」

『不甲斐な…いやいや、これも大事な仕事だ。今日この後用事がなければどうかと思って先に連絡したんだよ。こちらで車を出そうと思うのだが』

 菖瞳は受話器を耳から引き離し、片手で持ったままコードをできる限り本体から伸ばし隣の部屋も確かめた。

 本日は土曜日。つまり、剣道教室の日である。十名ほどの子供らと高岡の姿があった。

「わかりました」

『よし。じゃあ、20分ぐらいで着くから、準備頼みま』と光浦は言葉の途中にも限らず素早く電話を切った。そこには小さな焦りが感じられた。

 菖瞳は母と高岡に事情を説明した。母が一日いるらしいので、兄の看護と道場の管理には心配なさそうだった。

 電話を切ってから確かに20分ちょうどに迎えのチャイムが鳴った。

 出迎えた菖瞳は後部座席のドアを開いた。すると先客がいることに気が付いた。

「洸?一緒なんですね」と菖瞳は光浦に話す。

「お久しぶり」と洸は他人行儀で大人しく会釈をした。

 それが妙にむなしさを感じてしまう。お互いの間にはさしたるわだかまりがあったわけでも、衝突する問題があったわけでもない。むしろ無いことが辛い。そう思っているのが菖瞳だけであるというのも、むなしさに輪をかけた。

 無言の車内に耐えかねた光浦は手元のラジオを調整させた。

 パーソナリティーの読み上げるニュース原稿が妙に耳にちらつくのだが、内容が全く入ってこない。

 隣の洸が気になって仕方ないのだ。

 ラジオから映画のサウンドトラックが流れてきた。それは菖瞳も聞いたことのある曲でおよそ10年ぐらい前の作品だったと記憶している。見たことはないが確かミュージカルムービーのテーマソング。サーカスが舞台だったはず。

 気づけば洸が口ずさんでいた。

「この映画見た?」とつい、いつもの調子で菖瞳は話しかけていた。

「もちろん。出演者みんなが個性的で格好良くていいのよ。挿入歌も聞き飽きない。構成なんかもとってもいいテンポで描かれていてね、幼少時代からゆっくり始まるのかなと思ったらすぐに大人になるんだよ。それも歌の途中で。また見たくなるよ」

「そんなに面白いんだ」

 楽しそうに話す洸に菖瞳も笑顔がこぼれた。

「ごめんなさい。騒がしくしちゃって…」

 洸は思わず浮かれていたことに自覚し、急にしおらしくした。

「いいの。洸の話好きだから。ちょっと前のことだけど何だか懐かしくて」

「そう…ならよかったけど…」

 洸には依然として菖瞳を寄せ付けない何かがあった。記憶がなくても好意をもって接してくれる菖瞳を受け入れたい気持ちはあるのだが、障害となる何かが無意識の中で働き、どうしても他人行儀のよそよそしさを省みることができないでいた。

 再び沈黙が圧力となりかかったころ、ようやく車は目的地へと辿り着く。

 いくつもの更地が目立つ住宅地の中に突如として現れた広い敷地。中央に鎮座する復興特区警察本部は地上30階はある立派な建物だった。

 これほど高い建物を見上げたのは数年ぶりだから、菖瞳は圧巻として見上げてしまう。

 それは洸も同じだったようで二人して口を開けて見上げていた。

「行くぞ」

 光浦は二人を追い抜かし呼び掛けた。

「そんなに珍しかったか?」

「当然ですよ。よくまあ、こんなに高い物をって思いますよ」と洸が大げさに語った。

「昔はこれより高い建物はこのあたりにもたくさんあったんだがなあ~。スカイツリーなんかを見上げた日にはそれはもう、たまげるだろうな」

「スカイツリー見たことあるんですか?」

「リアルタイムで見たよ。あれがもう拝めないと思うとさみしいよ」

 6年前の事件以来、高層ビルの倒壊が懸念された。現に事件当初、いくつかのビルは倒壊し、被害を拡大させたという見方もある。それとともに都心部に集中した人口の解消や、国の借金の拡大から政府は新たに高層ビルに莫大な税金をかけたのだ。

 高層建造物税。

 所有者、住民及びフロアー利用会社、設計者及び建築会社が課税対象者とされ、さらに商業施設が入った場合の建物利用者にも税金がかけられたのだ。

 これにより高層階建築物の熱は徐々に冷めていき、高層ビルは徐々に姿を消していったのだ。

 余談だが、高層ビルの影響で環境、気候に大きな変動を与えていることを危惧し、政府は新たに風力遮断税を、ガラス張りで反射する太陽光の被害を訴える事件から紫外線反射税を、くみ上げる水に低層階以上の余分な電気をかけているのではないかという国際的な批判から高層水道税を検討しているという報道がなされている。

「いらっしゃい。二人とも。光浦さんもすみませんね」

 受付を済ませ案内されるままにたどり着いたフロアーで高岡警部が出迎えた。

「あらー。お客さん。あんたも隅に置けないねえ」ねっとりとした声色でデスクに座る女性が高岡に声をかけてきた。

「違いますよ。参考人です」

「そうよねー。つまんない男だもん」と捨て台詞を吐きながらそっぽを向いた。一瞬にして興味がなくしたのだろうと誰でもわかる。

「あの人いつもアンナンだから」と言うと高岡は二人を連れて部屋へ案内した。

 案内された部屋はガラス張りでオープンな感じで可視化を目指した空間となっていた。

 席に座らせた高岡は二人に本題を話し始めた。

「実は嶺橋さんの指摘した男を逮捕したんだ」

「福内をですか?」と菖瞳は画像の男を思い返した。

「そうさ。ただ男はあっさりと石元さん誘拐の関与を認めたんだが…男はそれ以上を話そうとしないんだ」

「認めているのにどうしてですか?」と今度は洸が問い質した。

「わからない」と高岡警部は腕を組んで話を続けた。

「どうやら何かをまだ隠しているようなんだ。それが何かは分からないが、福内は嶺橋さんになら話すと要求しているんだ」

「私に?」

 思わず胸がざわめいた。

「もちろん裏から見ているし、拘束はされているから変な危害は与えさせない。嫌というなら無理にとは言わないよ」

「福内は私のことを言ってますか?」

「何とも。ただ嶺橋さんと話すとだけだ。こちらでは君たちの関係性は高校と大学の同級生という認識しかしていないが、何か知っておくべきことはあるのかな?」

 確かに一瞬だが福内とは恋人関係だったことは事実だが、そのことは目の前の高岡には意図して話していない。ここでそのことを打ち明けるべきか菖瞳は迷った。

「大丈夫。君を疑うつもりはないんだ。あくまでも男の人物像を知る機会の一つだと思ってよ。話しにくければいいんだ」

「すみません」

 菖瞳は小さく頭を下げた。

「じゃあ、仕方ない。ご足労かけたね。何かお礼に…」

「話は聞きます。洸のために」

 菖瞳は顔を上げて訴えた。表情にはしないが横で体を小刻みに震わせた洸が気がかりだったのだ。

「本当に平気?」

「大丈夫です。お願いします」

 菖瞳の決意に高岡は早速別室へと二人を案内した。その部屋はいわゆる取調室の裏部屋で、そこからガラスの向こう側の取り調べの様子が伺える。

 中では一人の男の人が待機していた。彼はどこかにいそうなあんちゃんといった表現がぴったりの身なりだった。

「こいつは岡口。石元さんは俺と岡口の三人で様子を見ていてほしい。違ったことを言ったら教えてくれよ」

 洸は頷いた。

「よし、じゃあ男を通すように言ってくれ」

 高岡の指示に従い岡口は手元の内線電話を扱った。

 すると数十秒後部屋の扉が開いた。

 外からクタクタと歩く巨体が現れ、後ろを拘束する男の背丈をゆうに越していた。

 顔がすっかり憔悴しきっており、歩く姿も情けなく映る。

 福内は扉の奥側に、こちらから左側の席に座った。テーブルの脚につながれた足枷により自由は制限されている。手錠もテーブル上に飛び出たポールにつながれており、逃げるにはテーブルごと持ち上げないといけないだろう。

「用意はいいか?」

 高岡の問いに菖瞳は小さく頷いた。

「川辺。いいぞ」と受話器に指示した。

 こちらの声が向こうの部屋に聞こえたらしく、川辺と呼ばれた男が廊下に出てすぐにこちらの部屋に顔を出した。川辺は丸頭の何とも愛嬌のある顔をしており、窓越しに見ていた感じとは全く印象が違った。

 菖瞳は再び頷いて部屋を出た。

「嶺橋さん。ありがとう」

 それは洸だった。やはり前みたいに『菖瞳』とは呼んではくれない。

 菖瞳は洸の声に頭を小刻みに振った。それはお礼はしないでいいよ、という意味があったのだが、受け取り方次第では否定の意味に取られても仕方ない。その仕草に後悔を抱きながら川辺の後に続いた。

 刑事であろう一組の男女の横をすれ違い扉の前まで来た。

「もし何かあったら俺が止めるから安心して」と川辺は優しく声をかける、扉を開いた。

 菖瞳の登場に驚き福内は立ち上がっていた。

「座りなさい!」

 迫力のある声で川辺は警告した。あの愛嬌のある顔は先ほどまで菖瞳たちに向けていたものとは大きく異なった。いかつく眉根を下げ、口は猛獣のようにむき出しにして福内に向けているのだ。

 思わぬ二面性に菖瞳の方が恐縮してしまった。

「さあ、嶺橋さん。こちらへ」と福内に対面する椅子を引いて世話を焼いてくれた川辺は愛嬌のあるものに戻っていた。

「あ、ありがとうございます」

 菖瞳はそれ以上川辺の顔を見られずにそろりと椅子に座ってテーブルの淵に目線を向けていた。

「さあ、何があったか話す気にはなったか?」と奥の椅子に座った川辺は福内に聞いた。

「菖瞳には言うって言ったんだ。警察に話すとは一言も言っていない」

「それは無理なお話だ。ほら、見てみろ」と川辺は窓とは反対側にあるカメラを指して言った。

「ここでの供述は裁判で用いられる証拠になる。供述の記録のために内緒話など到底無理な話だ」

 福内は苦虫をかんだような何とも気味の悪いうめき声を漏らした。

 川辺は手元のボード端末を操作すると、テーブル上に画像が映し出された。それは以前菖瞳が目にした防犯カメラの映像である。

「このまましゃべらなければ、お前ひとりだけが誘拐と障害の罰を負うことになるのだぞ。複数犯であることは割れている。話すんだ。いったいお前のほかに誰がいた」

 映像は再生され洸と思われる女性の後ろを福内が歩き、やがて商店街の映像に切り替わる。洸は走り、その数秒遅れで福内が現れる。正面から映し出し、走る洸の前に白のワゴン車が現れたかと思うと、二人の姿は消えているのだ。残映像からは車両のナンバープレートと運転手の姿も見えない。

「ねえ、どうして私を呼んだの?」

 うだうだしている福内に菖瞳は問いかけた。

「お前は俺を唯一わかってくれる彼女だから」

「呆れたものよ。あんなことがあったのにまだ私をあなたの彼女だと思っているのね」

「あんなこととは?」と川辺が聞き返した。

「この男は盗撮魔なんです。それと私に乱暴しようとしました」

「なるほど」

 そういって川辺が端末に文字を打ち込んでいた。毎度のことながら渕上を見るその目つきは恐ろしく研ぎ澄まされた不快感を表に出したようなものだった。

「勘弁してくれよ。あれは本当に悪かったって反省しっぱなしなんだから。そんな心象の悪くなるような話はしないでくれよ。刑事さん、これは痴話喧嘩みたいなもんですから、気にしないでください」

「嘘じゃありません」

「分かったから。君は嘘をついていない。既にその手の話の裏は取ってあるよ」

「裏?誰がそんなこと?」

 福内は体を上げて川辺に詰め寄ろうとした。しかし、手錠につかまりその動きはままならない。

「いいか。これは高岡班からの恩情だと思ってくれ。こうして誰が関与しているかを聞き出そうとしているのは、捜査に進展がないからじゃないんだ。既に目星はついている。だが、どうしてこんなことをしているか?君はまだ若いんだ。19歳だろ。だからせめてもの恩情で誰が関わって何があったかを語るなら自白したとして問われている罪を軽くできるように計らっているんだ。これ以上阻むのならそれ相応の刑を覚悟してもらわなければならなくなる」

「俺はどうすればいい?菖瞳」

 今にも泣き出しそうな顔で菖瞳を訴える福内だった。

 菖瞳は確かに福内のことが嫌いだし、行為のことは憎んでいたが相応以上に懲らしめてやろうとか、人生を破壊したいとは思っていない。

「正直に話せばいいんだよ。あんたが人を傷つけたりしないことは分かっているから」

 この時ばかりは福内をいたわった。

 見せたことのないほどの苦悩を表す福内が哀れで仕方がなかった。

「出来ないんだ。本当はこの映像を見ても何も思い出せていない。この日に何があったか全くと言っていいほど記憶がないんだ」

「今更、そんな話で言い逃れか?それならなぜ否定しなかった?」と川辺が口を挟んだ。

 おかしな話だが、そう聞き返すのも頷ける。事件の関与を認めた犯人が記憶喪失を訴えるのにはどうにも一貫性がない。

「それは!」突然声を荒げたと思ったら今度はぼそぼそと聞き取りずらい小さな声で話し始めた。

「だってよ。カメラに映ったのは俺だってわかるよ。変に否定しても…俺はこれが俺だってわかるし…。記憶がないから…自信なくて…でも俺だし…。俺だって訳が分からない」

「じゃあ、あれか。お前適当に白状したのか?」

「はい」

 消え入りそうなほどに小さな声がなぜか部屋中に反響した。

 福内の話に菖瞳は洸のことを思っていた。

 記憶のないことは共通して言えることだが、洸は部分的に、つまり嶺橋菖瞳の部分だけを欠落させている。対して福内は全く記憶がないと主張している。その部分は大きく異なるだろうが、記憶欠落という大きな部分だけは全く同じだった。

「誰が関与したか全くわからないの?」

「わからない。どうして俺はこの人を追いかけているかもわからない。気が付いたら病院にいて、この人たちがそばにいたんだ」

「じゃあ、何?二週間も記憶がないっていうの?」

「二週間?そんなに?最後の記憶は学校祭の帰りだけど、もうそんなに経つのか⁉」

「ていうことは違うわ。それは四週間前。本当に何も覚えていないわけね…」

 福内は茫然とした。そこに嘘はないのだろう。

 テーブルの映像がむなしくループ再生を続けていた。

『嶺橋さん。もうやめようか?』と天井のスピーカーから高岡の声が聞こえてきた。

 菖瞳は鏡に向かって首を振った。ガラスの向こうの彼らに伝わるように。

「私が洸にバッグを返そうしたら、あなたが勝手に付いてきたことを覚えている?」

「もちろん。俺には昨日のことのように新しい記憶だ」

「それならあの後、どこに行っていたの?あのまま棟に付いて来るのかと思ったら急に消えたよね」

「先輩に会ったんだ…。待てよ。そうだよ」と興奮した様子で福内は自らを納得させると川辺の方に顔を向けて続けた。

「先輩だ。刑事さん、白状するよ。俺は渡辺先輩に逆らえないんです。だからもし先輩に何かを命令されたら従ってしまいます」

「その渡辺という奴とはどんな関係があるのだ?」

「高校時代のバスケ部の先輩です。俺の二つ上の先輩で部活では当然上下関係がありました」

「それはこの男か?」と川辺は端末を操作し、テーブルには男の写真が流れてきた。

「そうです」

 福内は即答し、菖瞳は頭を掻いた。

 確かに見かけたこの人物。髪はきれいに整えられ品の良い長さ。眉毛がきりっとしていかにも二枚目の顔つきである。女性受けの良い顔立ちではないだろうか。

「なるほど。だが、いくら逆らえないからと言っても犯罪行為まで従ってしまったとなぜ思える?自制を利かせて止めることだってできるはずだ」

「弱みがあるとしか言えません」と言って菖瞳の顔を一目した。

 すると川辺は鏡に向かってコクリと一つ頷いた。

『もういいぞ。十分だ』と高岡の声が再び部屋中に響いた。

 高岡の合図に従い、川辺はおもむろに立ち上がると、テーブルに取りつけられた拘束器具の解除を始めた。

 当事者たる福内は追及されないことに安堵していたが、菖瞳は違った。

「どうして福内と渡辺の間にある何かを聞かないんですか?」

「首謀者の名前を吐いた。こちらはそれで十分だと判断している」と川辺は説明した。

「私は聞きたいです。どうして主従関係が生まれたのか重要な気がします」

 主張する菖瞳の後ろの扉が開いた。

「我々は渡辺という男をすでにマークしていたんだが、どうしても手を出せない理由があったんだ」と高岡が菖瞳の肩に手をかけて諭すような口調で言った。

「そうか。わかったぞ。あんたらは先輩の親が怖いんだな。だから第三者の証言、つまり俺の自供が欲しかったわけだ」

 納得した口調の福内は二人の刑事の顔を見てヘラヘラと笑った。そして訳が分からない様子の菖瞳を見た福内は説明を始めた。

「いいか、先輩の親父は国会議員なんだ。しかもそれなりの有力者らしくて、いつも自慢していた。そんな親父だぞ、一人息子を逮捕してみろ、下手すれば退職に追い込まれかねないもんな」

「ほう、やはりよく知っているな」

 へらへら笑う福内の両肩を揉むようにして川辺が掴んだ。その手に力がそそがれ次第に悲鳴を上げるほどの痛みを伴った。

「お客さん、肩が凝っているみたいですね」と口元を緩めていた。

「高岡さん、それって本当なのですか?」

「実はそうなんだ。せめて決定的証拠があれば早いのだが、あるのは使用された車両の特定と少しの目撃情報ぐらいで十分な立件には程足りないんだ。福内ほどの証言がもう少し集まればいいのだが、奴も記憶がないと言い張っているし、アリバイに会っていた女性がいたというのもあって、なかなか引っ張ってくることができないでいるんだ」

「そうですか…」

「だから福内宋汰はこれ以上口を開くつもりはないのだろうし、こちらとしても渡辺陽汽ようきを捕えるために時間を掛けたい。それにこの男にはこれからも十分な時間があるだろうから、今じゃなくてもいいのさ。川辺、行くぞ」

 高岡はクールに首だけで指示すると早々にドアへと向かった。

「待ってください。私だけなら話すんでしょう?」

 菖瞳は福内の顔をじっと見つめて聞いた。

 俯いて不貞腐れていた福内だったが、菖瞳の顔に見とれた様子でうなずいていた。

「高岡さん、二人だけで構いませんので話をさせてください。正式な聞き取りじゃないのでカメラも切ってもらえるとありがたいです」

「どうしますか?」と聞く川辺に高岡は腕を組んだ。

「お願いします。せっかく来たのだから洸のためになることをしたいのです」

 懇願する菖瞳をチラッと目線を向け、腕時計を確かめた。

「そろそろ昼だし、飯でも買ってくるか、岡口、聞こえているか?」と鏡に向かって投げかけた。

『はい』とスピーカーからの声。

「俺は飯を買ってきてやるけど、リクエストはあるか?」

『頂ければなんでもいいですよ』

「川辺、お前は?」

「俺も何でも…」

 高岡の突然の問いかけに川辺もポカンとしていた。

「何だお前ら、希望はないのか?そういう何でもいいってのが奥さんに嫌われることもあるんだぞ」と愚痴って頭を掻いた。

「じゃあ、俺は飯買ってくるから、それまでここをどうにかしていろ。二人で話させてもかまわないし、男を留置所にぶち込んできてもいい。ただし、しっかり見張るように。わかっているだろうが目だけは離すな。女子大生二人を悲しませるなよ」

「は…はい?」と川辺はさえない顔を見せた。

「とにかく俺の言いたいことわかったな?もちろん現場を離れた俺に責任があるだろうけど、俺はお前らの弁当を買いに行く、そういうことだ」

 高岡はそんな言葉を残すと本当にどこかへと行ってしまった。

 残された空間で川辺は福内の拘束器具を外しだした。

『いや、川辺さん。そういうことじゃなくて、二人に時間を与えようとして班長は離れただけですから』

 スピーカーからの声が川辺の手を止めた。

「そうかそうか。わかりにくいよ」と川辺は悪態をつきながら手錠や足枷をもう一度テーブルにつなぎ始めた。ついでに「分かった?」と菖瞳にあの愛嬌の良い顔をした。

「隣で見ているから安心して」というと川辺は部屋を出て行った。

 こうしてついに二人だけの空間が訪れた。それは福内が望んでいた状況であり、これなら口を閉ざす口実はない。

「さあ、教えて。その渡辺という先輩とあなたには何があるの?」

 真正面に据えた菖瞳は福内を刺すような視線で見つめた。

「さすがだよ。菖瞳。いつだってお前は正しいよ」

「それは違う。私にだって間違いはある。あまり買い被らないで」

「俺は菖瞳が言った通り、芯がない男なんだよ。いつも誰かの女の尻を追いかけてばかりで、いつもそれしか頭にない。大抵はこの身長と顔に魅かれて心を許してくれるが、菖瞳、君は違った。そんな関係になる前に君は俺の本性を見抜いた。君はすぐに俺の前から立ち去り、拒絶したよな」

 福内は同意を求めた口調だったが、菖瞳は黙っていた。

「俺は至って気にしていないふりをしていたが実は心底お前に恋していたことが分かった。だけど下半身は歯止めが利かなかった」

「何、その話?聞かないとダメ?」

 この男の性生活にはこれっぽっちも興味はなかった。

「頼む聞いてくれ」と頭をテーブルにこすりつけて福内は懇願した。

 そんな福内にかける言葉はなく菖瞳は黙っていた。

 そうしているうちに今までの3分の1ほどに声を落として話し始めた。

「だけど俺がこんなクズになったのはある事件がきっかけなんだ。それは高校一年生の時だ。バスケ部に所属した俺は純粋にボールだけを追いかけていた。俺もそれなりにバスケットボールが好きだったし、身長のおかげで頼りにされるのが嬉しかったんだ。だけど入部から初めての夏、先輩に目を付けられてしまって…」

「それが渡辺って人ね?」

「そうだ。かっこいい人で女の子からチヤホヤされていたからあこがれの先輩だったから、最初俺は嬉しかったんだ。先輩に可愛がられるのは身長のせいか、あまりなかったから…。それでいつも付いていたんだが、先輩が引退してすぐのことだった。先輩はいきなり俺に薬を渡したんだ。これを使って男になれって」

「薬って、まさか」

「危険ドラッグっていわれる奴だって俺は知らないで、先輩の言われるままにそれに手を出してしまったんだ。もちろん注射なんて嫌いだったけど、せっかく慕ってくれる先輩が俺のためを思ってくれたものだからって思ったら針の痛みも耐えられた。そしてどうやら俺はものすごくハイになっていたらしく、不気味なぐらいな高揚感に目覚めて快感を全身で感じていた。それで気が付いたら俺は誰かと楽しんでいた。初めて感じる性の快感に俺は無意識に夢中になっていたんだ。でも我に返った時、俺は驚愕したんだ。隣で眠っていたのは女じゃなくて見知らぬ少年だった。慌てて飛び起きた俺は見知らぬその部屋を飛び出ようとしたなんだが、そこに渡辺先輩が居たんだ。俺の目覚めを待っていたらしく、先輩はにやけ顔を浮かべていたよ」

 全く話の見えない福内の話に菖瞳は戸惑って聞いていた。

 要点を整理すると『福内はドラッグで男と寝た』という公式にたどり着いた。

「先輩は俺に動画を見せたんだ。それは俺が薬でハイになって、見ず知らずの少年を犯しているものだった。当然俺はどうしてこんなことをしたのか聞いたさ。その時は怒りや憎しみよりも不思議だった。そしたら先輩はそのベッドに横になっている少年は自分の弟みたいなもので、そいつがどうしても俺を好きだというから俺をあてがってみたのだそうだ。それを証拠に収めれば俺は反論できないことを先輩は見越していた。要するに先輩は何でも言うことを聞く確実な奴隷が欲しかったんだ。それでも最初の内はお礼にと先輩がいろいろと大人の女性をあてがってくれた。先輩の親父が議員だと知ったのはそのころだった。女性をあてがわれてから俺はすっかり盛りの付いたサルになり、一週間に一度は快楽を求めるようになっていた。こうして俺は菖瞳の言う芯のない男になってしまったんだ」

「薬の件でも警察に言うべきよ。聞いているとあなたは被害者じゃない?」

「ダメだ。俺が薬を使ったのはあの一回だけだ。それにどうしても言えない。先輩に口止めされている。芸大で先輩に出くわした時、まず初めに警告されたよ。もし俺が過去のことで口を滑らせたら動画を公表することと、菖瞳、お前をいたぶるとを。だから俺はきっと良からぬことにも手を貸したに違いない」

「動画のことなら釈明できるじゃないの。これは先輩に薬を盛られて訳が分からないままに侵してしまったものですって」

「違う。俺は菖瞳の方が心配なんだよ。俺のせいで菖瞳に危害が及ぶのだけは許せない。先輩のことだ。石元さんだっけな、彼女と同じ被害を受けるかもしれないんだぞ」

「どうして?どうしてそんなに私のことを気に掛けるの?一度ならずも二度もひどい拒絶の仕方をしたのになぜ私に固執するの?私のことを気にかけなければ先輩に逆らうこともできただろうし、芸大で先輩と再会することもなかったはずじゃない」

「言ったろ。俺はお前に心底恋をしたんだって」

「ただ一緒に同じ大学を目指しただけじゃない…。私はあなたに特別優しく接したわけでなければ、特別好かれるようなことをした覚えはないのに…」

「菖瞳は覚えていないだろうけど、俺たちは別に予備校で隣同士になるよりも以前に会っているんだよ」

 思いがけない話に菖瞳は目を瞬かせた。

「だよな。いいんだ。始めは小学生の時。体の小さかった俺は周りの奴らにいじめられていた。悔しかったけど体格差で圧倒的に負けていたから、俺はただ泣いていた。そこに現れたのが竹刀を持った俺と同じぐらいの女の子だった。名前の知らない女の子に助けられ面目もなかったから、俺はむきになってその場から立ち去った。後からその子はうちの学校の生徒にはいないことを知った」

 その福内の話に菖瞳の頭をかすかによぎる光景があった。小学4年生の剣道地区大会。その帰り道に見えた残酷な光景に突如彼女の中に正義感が宿った。

 パンツを下ろされ静かに泣く少年、それと彼を囲う5人の子供が陰湿にもパンツを投げ合っていたのだ。

「次に見かけたときはすぐに分かった。高校生になった彼女は変わらず竹刀を持って俺の前に現れた。苦い思い出でしかなかったあの日の彼女は、俺の前で輝きを増していた。だから昔の逆恨みのような感情はもうなかった。たまにすれ違ったとき声をかけようかとも思ったけど、できなかった。俺のことを覚えていないかもしれないし、そもそもあんな格好悪い醜態をさらした人間が俺なんて言えないよ。それでも君の凛として剣道に打ち込む姿を見るだけで幸せだった」

 福内は懐かしむような眼をした。だがその目は決して目の前の菖瞳に向けられたものではない。幻覚を眺めるような遠い目をしていた。

「それに俺はドンドンと君に似合う人間とは程遠い男になっていた。先輩の差し金であっても、俺は性の快楽を求めていた。もはや自省は利かなくなっていた。だから遠くで見守る程度に留めていたんだ。だけど、結局俺の方から声をかけてしまった。竹刀を置いた君はもはや俺の崇めていた彼女ではなく、純粋に勉学に励む高校生になっていたから。将来という同じ悩みを抱えてもがく等身大の君がいることに俺はこの上なく恋焦がれていた。受験勉強どうするか、とかいう単純だけど共通する話題の話ができるというだけで俺はたまらなくうれしかった。だから俺は菖瞳、君を切り捨てて先輩に逆らうことなんてできなかったんだ。今まで本当にすまん。迷惑かけた」

 全てを打ち明けた福内は悪いものが落ちたような素直な顔つきになっていた。

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