22 入院患者、罷り通る

 気が付くと病院のベッドで横たわっていた。腕につけられた点滴管や胸に張り付けられた計測器のパッドが不愉快だった。

「ここはどこだ?」

 思った以上の音量が口から出た。見たところ肉体の急激な変化はない。以前のような衰弱した体は息がするだけでも大変だった。

「目覚めたようだな?」

 ガタイが良く強面の男がカーテンから覗かせた。

「どうして俺はここにいる?」

 口にしても混乱した。最後の記憶では確かにこの腕で娘を抱えて言葉を交わしたはずだ。その後何があったか思い出せない。

「何か覚えていないか?あなたは二日前天照海岸でおぼれかけていたそうだ」

 男はカーテンを開き椅子に腰を下ろした。

「テンショウ海岸?俺は海にいたのか?」

 海で思いだす。この世に戻ってきて最初にたどり着いた海がテンショウ海岸とかいう場所だったと記憶している。

「前もあったそうだな。向こうの病院ではあなたのことを覚えていたみたいで症状も軽いからこちらに移送したのだ」

「ここはどこだ?」

「蝶の森林記念病院。ここら辺の人なんだろう?」

 正確には自宅から少し離れた隣町なのだが、病院は知っていた。

「あとでしっかりとした聴取をするから、おとなしくしているように」と言って男は病室を出て行った。

 事態を把握できないまま男の背中を目で追った。すると向かいの患者が目に留まる。全身をギブス固定されていて茂雪の比ではないほど重症そうだ。

 茂雪は無性に眠気に襲われ気を失うようにして眠りに就いた。

 再び目を覚ますといつの間にかカーテンは閉じられていた。どれほど眠りに就いたかは定かではないが、日はまだ明るい。

 すると向かいのベッドから話声が聞こえてきた。それは小声で聞き取りにくいが確かに聞き覚えのある声だった。

 茂雪は立ち上がり確かめようとしたが貧血気味で素早く起き上がれない。

「おかしな話はおしまい。もう付き合ってられない。私がボケてるみたいな言い方しないでよね」とカーテンの向こうで突然声を荒らげた。

 それで茂雪はその声の主が何者か確信した。

 こちらからも声をかけようとするものどがつっかえてうまく発音できない。

 そうしている間にも彼女は病室を出て行ってしまい、代わりに看護師や医師らの声が向かいのベッドに集まってきた。

 日が沈んだころ、またしても向かいの患者に来客があった。今度も聞き覚えのある声。茂雪は渾身の力を振り絞ってカーテンを抜けた。

 長身で細身の体つき、そして長い髪はパーマがかっている。それは夕雨だった。

「洸にだけは手を出さないでくれ」

 ベッドの男が夕雨に訴えていた。

「余計なことを吹き込んでいないか?」

「…まさか」

「信用できないです。わざわざお見舞いに来てくれた愛しの幼馴染に自分の事故を弁解しないのはどうも腑に落ちません」

「本当ですから…」

「まあ、いいでしょう。本人に直接問い質します。場合によっては……」

 夕雨は言葉を濁したままベッドから離れた。何か考えがあって病室を立ち去ろうとしたのだ。

「わっ!」

 突然ベッドの男が驚愕の声を上げた。

 不審に思った夕雨だったが、構わず病室を出て行った。


 夕雨がどこに向かうのだろうかと思えば、辺鄙な倉庫にたどり着いた。ナビゲーションシステムの情報ではここが最終目的地とされていた。

 車を降りた夕雨は中の様子を確かめた。当然、茂雪も一緒になって覗き見た。

 すると暗がりの中で一画がひときわ煌々としていた。外からではなかの様子はうかがえないが、女性の叫ぶ声が聞こえてきた。ただ事ではないと察知した茂雪は急いで車に戻ると中から刀を奪い取った。

 いきなり開いた車のドアに驚いた夕雨を横に茂雪は中へ侵入した。

 男たちの視線が向けられる中、証明に照らし出された洸の姿を目撃した。彼女は身ぐるみを強引にはがされ下着姿で涙を流しているではないか。

「オッサン、ここは病院じゃないぞ」とパンツ姿の男が話しかけてきた。

 病院から抜け出したままの身なりは入院患者丸出しである。だが、それが逆に不気味な存在に見えるのだ。

「オッサン、落ち武者かよ。そんな物持ってきてどういうつもりだ」と偉そうに椅子に腰を掛けて足を組む男が尋ねた。

「誰かそこにいるのですか?」

 口を挟んだのは夕雨である。中のざわめきに異常性を感じ中に入ってきたのだ。

「誰だよ、あんたら。俺たちのお楽しみに参加したいのか」とパンツ男が薄気味悪い笑みを浮かべて、洸の体を押しつけている。

「冗談じゃない。僕はそんな女の体に興味はない」

「じゃあ、何だ?男がタイプかよ」とパンツ男が言うと、周りにいたむさくるしい男どものせせら笑う声が響いた。

「そうね。あなたの体なら満足いくかも」と夕雨は唇に指先を当てた。

「こいつらを始末しろよ」と引きつった顔で男は命令した。

「誰か知らないけど『健忘刀』を奪ったんでしょう?僕には見えない誰かさん」

 夕雨は茂雪がいる反対側に目線を向けて尋ねた。

「まさか、この状況を受け入れるとはな。恐るべし男だ。だが、本領発揮と行こう」茂雪は鞘を抜いた。

 迫りくる男どもに刃先を突き付けると、茂雪は豪語した。

「お前らが素人だろうと許せん。わが弟子である彼女への屈辱、ここで成敗しよう。覚悟はいいな」

 初めて見る真剣に男たちは引き下がった。

「相手はオッサンと変態だろう。早く何とかしろ」

「ですが、渡辺さん…あのオッサン、凶器を持っています…」

「お前らも護身用にナイフの一本ぐらい持っているだろう。それにあんな作り物の刀が怖いのならそっちの男からやれよ」

 パンツの男はうつぶせに押し付けられた洸にまたがりながら指示をした。

「僕も弱く見られたものですね…だけど、武器がないのは事実」と言った夕雨はゆっくりと前に進んだ。

「行くぞ!」

 誰かの掛け声とともに夕雨のもとへと一斉に迫ってきた。

「やれやれ。俺も人がいい」

 いくら憎くても夕雨は親族という意識が根底にはあった。

 茂雪は夕雨の体に接触を試みた。

「おい、オッサンが消えたぞ。どういうからくりだ⁉」と傍観して見ていた監督風情の男がたまげて素っ頓狂な声を上げた。

 消失はどうあれ、これで日本刀の脅威は消えた。残るはどうにも強そうとは見えない細身の男だけである。男たちの闘争本能は最大限に高まる。

 最初に飛び出した筋肉男が夕雨につかみかかろうとした。夕雨には死角だった。

 だが、飛びかかった男はつかみかかる前にその場に倒れてしまう。一瞬現れた茂雪に見事腕を切り付けられたのだ。傷は深くはないが、それなりの出血でその場に倒れた。

 恐れたほかの男たちだったが、無謀にも戦いを挑んできた。

 だが、襲い来る男たちはことごとくその場に打ちのめされることとなった。時折現れる茂雪に抵抗できず、肩や背中が切り付けられていった。

 こうして残る男たちは数えるほどしかいない。傍観を決め込んでいた監督風情の男、口だけ出すパンツの男、それに少し離れたところでおどおどする背の高いデクノボウ。

「話し合おう。どうやったかは知らないけど、あんたは強い。あんたで映画撮ろう。きっとヒットする」

 夕雨から離れた茂雪は椅子に座ったままの男に足を向けた。

「いい話だろう。俺も一度はそんな映画を撮ってみたいと思っていたんだ…」と言葉を残して男は椅子のまま横に倒れて気を失う。

 奥でデクノボウが喚き声をあげて逃げようとしていた。

 茂雪はすかさず『健忘刀』をまっすぐ投げつける。刀は宙を回転しながら突き進み男の肩をかすめて壁に突き刺さった。デクノボウはそのまま地面に体を落とすと奴らと同様にもれなく気を失ったのだった。

「頼む、許してくれ。何でもするから」と命乞いをするパンツ男に夕雨は抱きついていた。

 夕雨は有無を言わさず男をベッドに押し投げた。

「おい、オッサン。こいつをどうにかしてくれ。報酬は弾む。これだけは…。男とだけは…」

 茂雪はのそのそとスタジオセット近づいた。明らかに動きに切れがなくなっているのを自分でも感じていた。洸は今も体を丸めたままで顔をあげようとしない。

 可愛そうに思った茂雪はしゃがみこみ、刃先を洸にかざした。『録破二日月』の力で嫌な記憶を消してあげようかと思ったのだ。

「お前らいったい何者なんだ!」

 茂雪は手を止めて立ち上がった。

「どうせ忘れるだろうが教えておこう。俺は嶺橋剣道場の師範。そしてこの子は俺の教え子だ。いいか、復讐なんて考えるなよ。もし何かしようものなら俺だけじゃなく、息子と娘が黙っていない。うちの塾生が総出でお前を仕留めに行く。わかったな!」

「分かったから、こいつを…」


 刀が地面に落ちる音とともに茂雪の姿は消えていた。絶望する渡辺にまたがり夕雨は振り返った。すると蹲る洸のそばに『録破二日月』が転がっているのが目に入った。

 夕雨は渡辺の首に落ちていた首輪を嵌めて鎖につないだ。

「頼むから…見逃してくれ…」

 今にも泣き出しそうな顔に夕雨はにんまりとした顔を向けて、落ちている刀を拾い上げた。

「いったいどれほどの女の子がキミにそう言って懇願したんだろうね…」

 夕雨は洸の背中に触れた。彼女は体を一瞬跳ねさせて恐怖心を表したが、周りの様子を理解すると夕雨に小さくお礼を伝えた。

「桝山から何か聞いたか?」

 突然の質問に洸は戸惑った。

「今日病院でお見舞いに来たのだろう」

「え?いや…何も…」

「うん、嘘だ」

 言い訳の暇を一切与えず夕雨は彼女の脇腹を刀で突き刺した。

 そして「君は僕たち嶺橋家のことをすべて忘れる」と洸の耳もとでつぶやいた。

「お前、どうして彼女まで…助けに来たんじゃないのか」

 夕雨の奇行に渡辺はさらに怯えた。

「フフフ、優しいんだね。レイプしようとした相手にもかかわらず、彼女に気をかけるなんてさ」

「頭ヤバイよ。それは殺人だ。無害な女を凶器で刺したんだ」

「殺人とレイプ。僕にとってはどっちもどっちだけどね。それよりさあ、この人たち全員君の仲間だよね」

 そう言ってから夕雨は踊るように刀を振り回した。

「君は三日前からの記憶を失う」や「君は泥酔していたでいこう」などを倒れている男たちに刀を突き刺しながらブツブツと設定を吹き込んでいった。

 全ての者たちが血を流し、残るは首輪を嵌められた渡辺だけになった。

「最後に君はどうしようか?ちょうどカメラもあることだし…」と峰を押し当て耳元でそっとつぶやく。

 恐怖心を植え付けられた渡辺は思わず悲鳴をあげ、パンツを湿らせた。

「取引しよう…」


 次に目を覚ました時も同じベッドの上だった。

 何が起きているのかさっぱりわかっていない。パンツの男に警告していたまでは覚えているのだが、そこから突然気分が悪くなり、目をつぶったのだ。そして目を開いた時にはこの場所で再び横になっていた。

 時間の感覚がもはやわからない。茂雪はまさかと思い体の表皮を確かめた。どこかに傷痕があるかもしれないと推測したのだ。もぞもぞと触れられる表皮を手でこすった。だが、手の届く個所に傷らしきものは見つからなかった。

「どこへ行っていた」

 以前もいた強面の男がカーテンから覗き見ていた。

「わっ」と思わず叫んでいた。

「今先生を呼んでこよう」

「待て、今度はどこにいた?」

「今度も海にいたよ。どういうつもりだ。二週間前にいなくなったと思ったら、また同じ場所で倒れていたそうだ」

「二週間?」

 思いがけない時間の流れ方に茂雪は混乱せずにはいられない。気が付けば向かいにいたギブスの男は回復しつつあるように見える。

「今度はおとなしくしてい…」

 男は無線を耳に押し当てた。

「何?わかったすぐ行く」

「あんた警察か?」

 茂雪の問いに首を横に振ると急いで病室を出て行った。

 こうして見張りはいなくなった。試しに床に足を着けてみたところ、多少のぐらつきはあるが、歩行には問題なさそうだった。点滴キャスター台を杖に病室を抜け出した。今がいつなのか知りたくなり、新聞のありそうな場所を探した。

 フロアーの中心辺りに多目的ホールが存在したので、その部屋で新聞を漁ることとした。

『これは大量殺人事件でしょうか?』

 ニュースキャスターの声が何となく聞こえてきたが、それは自分に関係ない事件でしかないだろうと、さして気にせず新聞を開いてみた。

「7月?」

 新聞の文字に茂雪は驚いていると妙に気になるリポートが耳をかすめた。

『剣道場で12名がケガ、うち4名が今病院に運び込まれたそうです。え~、現場は子供たちや近隣の大人も通う教室であるそうで、そこに通う生徒や講師が被害者となったとのことです』

 見覚えのある景色は紛れもなく自宅近所の光景だった。

 食い入るようにテレビ画面に近づいたが、リポーターは『現場からは以上です』と中継を切り、番組は別の話題へと挿し替えられた。

 何が起きているのかわからないが、いてもたってもいられず茂雪はエレベータでフロアーを降り出口を目指した。しかし、点滴を付けたまま出て行こうとするものだから、警備員に止められてしまった。

「こんなもの必要ない!」

 点滴針を抜き取り、抵抗してみるも警備員は自ら仕事を全うした。

 外来の時間はもう間もなく終了のはずが、院内は次第に慌ただしくなりつつあった。

 茂雪の目の前に知った顔が現れた。

「高岡君か?」

 呼び止められた男は茂雪の顔を確認した。

「耕助だろう?」

「先生、ご健在でしたか」と何食わぬ普通の感じで答えていた。

「驚かないのか?」

「まあ、先生が生き返ったという話は弟から聞いていましたから」

「では、家族にも?」

「弟からこのことは伝えるなと固く禁じられておりましたから。それに数日前、先生が病院に搬送されてきた時は俺が警備を付かせていましたので」

 あの病室に張り付いていたガタイの良い強面の男は茂雪の見張りだったようだ。

「だがやけにクールだな」

「そうでもありません。弟から聞かされたときは…立ち話している場合ではありません。ご自宅の事伺っておりますか?」

「さっき、テレビで見た。だから抜け出そうとしたのだ」

「そうでしたか、ではこちらに」と耕助は茂雪を誘導した。

 着いた先は救命センターの集中治療室だった。

「ケガをした4人はここに運ばれてきました。ちょっといいですか?」と作業中の看護師に断りを入れて一人の患者を見せた。

「桔梗じゃないか⁉」

 横たわる男に茂雪は驚いた。

「先生、見てほしいのがこの傷なんだよ」と耕助はすぐそばの患者管理モニターを示していった。そこには桔梗のものと思われる腕と脇腹の切り傷の画像が映し出されていた。治療前の状況を記録したものだった。

「娘さんは刀の呪いだと推測していましたが、いかがでしょうか、先生の意見は」

「あり得る。『気削刀』だけはどこにあるか見つけ出せなかったのでな」

「やはり折れても効果はあると?」

「ああ、一度折った程度では症状をリセットしただけにすぎない。折れた刀を使ったものが犯人に違いない。家族はどうなった?」

「事件当時、身を隠していた者の証言によれば、皐月さんと雪虎君はいなくなったそうです」

「いなくなっただと⁉いったい誰の証言だ」

「清水杏希、雪虎の恋人らしいです」

「それはない。杏希は俺の姪っ子だ。なぜ嘘をつく必要がある」

「それは何とも…」

 目覚めようとしない桔梗を眺めて茂雪はある人物を疑った。

「妹を調べてくれ。名前は富雪。お前も知っているだろう」

「ええ、でもなぜ?」

「富雪なら警戒心をもたれることなく、桔梗を傷つけることができるだろう。それにあいつなら10人ぐらい簡単に倒せる。皐月にも警戒されることはない。もしかしたら何かの記憶を消されているかもしれない」

「妹さんを疑うのですか?」

「俺も焼きが回ったものだ」

 何度も見た悲惨な夢が重なった。あの夢は我が子らのことではなく、自分たちのことではないかと思ったのだ。被害者は自分ではないが、家と言う単位で考えてみれば『気削刀』で被害を受けた状況は同じではないか。

「そう言うことなら調べさせます」と耕助は足を外に向けた。

「先生はどうなさいます?もう一度現場に行こうと思うのですが」

 茂雪の性格なら断っても付いて来るだろうと思って尋ねてみたが、彼はベッドの横で椅子に座って桔梗を眺めていた。

「どうかなさいました?」

「俺はこいつのそばにいる。耕助、後は頼んだ」

 そう言って茂雪は石造のように動かなかった。

 自身が動いたことで見た夢が実現したように思えて仕方がなかった。富雪の動機は分からないが、すでに死亡した自分の行動により事が複雑化したのだと思わずにはいられないのだ。

 いつしかそのまま眠りこけていた。

 夜が明け、強い日差しが窓から照らしつけていた。既に蛍光灯の明かりは必要なく、ベッドを囲うカーテン越しにでも朝のお告げはしっかり分かった。

 茂雪は立ち眩みと固まった身体の痛みを伴い桔梗を確かめた。依然として目を閉じたまま目覚める気配はない。

「おお、ここにいたか」

 この声はと思い振り返るとカーテンの隙間からあの強面の男が顔を覗かせていた。

「すまん。勝手に病室を出ていた」

「その話はもう構わん。高岡さんからの指示だ。付いてこい」

 男はカーテンを開け放った。

 茂雪は男の肩を借りて歩んだ。桔梗のことは名残惜しいが、事件に何か進展があったに違いない。病院で着替えを借りて男の車に乗り込んだ。

 茂雪はふと疑問に感じていたことを尋ねてみようと思った。

「あんたは警察の方ですか?耕助の部下とか?」

「直接の部下じゃないけど、似たようなものだ。区警本部捜査員の倉本といいます。高岡さんにあなたと接触するものがいないか見張るように言われていました」

 倉本と名乗った男は最初ほど強面の印象はなかった。意外と気のいい男のようだった。

「それは勝手にいなくなって悪かった」

「もういいです。結局面会者はいなかったようですから」

「でも何のために?」

「あなたの願いだと聞きましたけど」

「違いない」と茂雪は腕を組んで答えた。

 耕助は桔梗から聞いたと言っていた。家族に知られたくないという願いをそのまま伝えたのだろう。出来の良い高岡兄弟に茂雪は心底感謝した。

 そして到着した嶺橋剣道場。途中詰めかけてきた記者たちを抜けて車は自宅の並びに到着した。

「もう始まっているようですね」と運転席から倉本が眺め見た。

 自宅の駐車場も前の道路も警察関係者のものと思われる車両で埋め尽くされていた。最後尾に止めて二人は自宅入り口を目指した。

「岡口、どうしたんだ?」

「何か秘密な話があるとかで、高岡さん以外追い出されました」

「そうか」

 道場入り口の前には何人もの捜査員が手持ち無沙汰で群がっていた。

「今、中には誰が?」と茂雪は岡口に尋ねた。

「誰ですか?」

「ここの家の主人だそうだ」

 岡口の疑いを持った顔つきに倉本が答えた。だが、その疑いの目は晴れない。

「主人はいないと聞いていましたよ」

「それは知らない。だが、高岡さんに呼ばれて連れて来たんだ。中の様子を教えてあげてくれ」

「それなら…」と岡口は電子ボード端末を懐から広げると名前を挙げていった。

 全ての名前を聞き終えた茂雪はゆっくりと気が付かれないように戸を開いた。口に人差し指を立てて少しずつ引いていく。

「いいから」と倉本は制止しようとする岡口に言って聞かせた。外門を開き切った茂雪は中に入るとまた戸に手をかけて慎重に閉め始めた。

 二つ目の戸を開くときはもっとも慎重に気を使って手にかけたのだが、中が騒がしい。中から走りくる耕助の姿が隙間から見えた。

「先生、来ましたか」

 姿を見た瞬間、耕助はそう言った。

「何がどうした?」

「娘さんが刀を切りまして、みんな頭を抱えております」

「菖瞳、何を切った」

 茂雪は急いで道場に入った。中の者らはすべて親族。誰一人として茂雪の姿を見ることができたものはいない。だが、彼らにそんな余力は残っていない。頭を抱えて悶絶するものばかりだった。

「菖瞳!」

 呼びかけは全く届かない。触れようとしてもそれはかなわなかった。

 床に突き刺さった刃先と落ちた柄側の半分でそれが『録破二日月』であることはすぐに分かった。消されたすべての記憶が戻っていく。これは記憶の封印からの解放の瞬間だと理解した。

 そして事件は終わらなかった。『疾病木枯らし』が折られ、『白星十文字』も折られた。

 その瞬間、茂雪は再びあの草原に横たわっていた。心地よい世界がどこまでも続いていた。

 すぐに茂雪は悟った。

「そうか、俺はもう消えるのか」

 悟りは言葉として表され、やがて空気は一変した。

 その予感に遠くの山を望むが火山灰もマグマもない。単なる気のせいだった。もうひと眠りしようかと頭を地面に付き目を閉じたとき、急激な高低差を感じた。上から落とされ地面に叩きつけられたような衝撃を感じたのだ。

 目覚めると再びベッドにいた。

「またかよ」

 何度目かの光景と全く一緒。重たい体を挙げて倉本と言ったはずの男の顔が現れるのを待った。

 だが、その予想は大きく外れることになった。目線とは反対の位置に人の気配があった。

 驚いた茂雪は体を引いたが、よく見れば座ったまま眠っている皐月だった。

 状況が読み取れず混乱した茂雪は手を伸ばした。見えていなければ触れることもできないはず。妻に変ないたずらだって…。

「え?」

 妻の胸へと伸ばした手はそのまま貫通することなく、彼女に当たった。思わず揉んでしまう。

 寝ぼけたまま茂雪はうつむいていた顔を見上げた。するとどうだ、皐月の目は開いていた。気まずいながらも指は動いたままである。

「おかえりなさい」と皐月はベッドに乗り込むと気にせず抱きついてきた。

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