20 皮と骨と一線

「おう、来たな。菖瞳」と兄が声をかけてきた。

「お父さんは?」

「何か、道場の方に行ったよ」

「ありがとう」とだけ告げるとそのまま他に見向きもせず居間を横切った。

「おい、菖瞳も手伝えよ」と言う兄の声なども全く耳に入ることはない。

 不審な菖瞳を心配して声をかける者はいたが何者にも反応は皆無。父が待っている道場裏部屋を目指した。

 家玄関横手から続く廊下を歩み道場本堂に出る。

 北方面を正面として裏部屋と呼ぶ小さな物置部屋はその正面の裏側にある。入り口は本堂からの経路のみである。

 その部屋だけはそう何年も足を踏み入れていなかった。その場所をただ忘れていたわけではなく、意識的に避けていた。その場所は菖瞳にとって父との思い出の詰まった聖域。悲しさを引き起こすスイッチのような空間だったのだ。

 菖瞳は震える拳で戸をノックした。

「菖瞳か?入れ」

 中からの声に恐る恐る戸を引いた。

 畳四畳ほどの空間は昔の記憶のまま変わらない。埃一つなく、澄み切った空気は本堂のものと一緒だった。

 そして中央に座布団が二つ、奥で父が胡坐をかいていた。

「座りなさい」

 促されるままに菖瞳は目の前に正座した。

「どうだ?懐かしいか?」

 菖瞳は頷いた。

「こうやって向かい合って座ると俺は決まっていつも菖瞳に謝っていたよな~」

「え?私はいつも怒られた記憶しかないけど」

「おかしいな。俺は頭を下げた記憶しかないぞ。いつもお前に泣かれるもんだから俺は必死に謝ったはずだが、そんな怒られたっていう印象しか残らなかったか…」

 父の無邪気な表情に菖瞳は思わず笑った。

「まずは何から話すべきか…」

 父はそう言って腕を組んで瞼を閉じた。

 菖瞳はその様子をじっくり見つめていた。

「石元洸ちゃんがお前とどういう関係なのかはよくわかっている」

「またそんな話?だからあれは本当に違うんだって。お兄ちゃんがふざけて…」

「わかっている。そのことを言いたいのではない。あの子とお前を引き合わせたのは父さんなんだ」

「それは笑えない冗談だよ。お父さんが介入できるはずないじゃない」

 菖瞳はまっすぐに父の目を見返した。父の目は真剣そのもので、悪ふざけのようなものは一切感じられなかった。

「お父さん。一体いつ戻ってきたというの?」


 目が覚めた茂雪の上空高くを飛行機雲が渡っていた。気が付けば芝生の上にあおむけになっていた。ポカポカ日和。春の温かさが心地よい季節だった。

 いつまでもこうして仰向けになって風の音や川のせせらぎを感じているのも悪くない。

 もうひと眠りしようかと目を閉じた時だった。地面が突然揺れだしたのだ。

 こうなればもはや眠っていられない。茂雪は体を起こして辺りを確認した。辺り一面が草原で人気が全くない。遠くに見える山から流れる川は本来なら穏やかそのものであるはずだった。

 揺れる大地の中で川が次第に水かさを増していく。

 揺れが激しく立ってはいられない。

 遠くの方から轟音が鳴り響き、空は暗く染まる。その根源は山頂だった。火山灰が降り、山火事が起こっていた。

 この場所から逃げ出さなければ、その思いだけは強いが立ち上がることはできない。茂雪は這ってでも前に進んだ。山を見上げるとすでにマグマが流れている。

 このまま這いつくばり逃げてもいずれマグマに追いつかれてしまう。

 悟った茂雪は決死の覚悟で川に飛び込んだ。川の流れに身を任せたのだ。だが、猛威を振るう水流にのまれ茂雪の意識は遠のいていく。この場所がどこであり、いったいなぜいるのかもわからないまま茂雪は川底へと引きずり込まれていった。


 再び目を覚ました時には見ず知らずの海岸で打ちあがっていた。起き上がろうとする身体が死ぬほど痛い。体に纏った召し物はそのままだ。水を含んで重くなり、ペタペタと肌に張り付いて不快だった。そして何より寒い。冷えた気候に北風の泣きっ面に八とはこのことだ。

「おい、あんた寒くないのか」

 身体を縮こませながら道路を歩いていると通りがかりの車から運転手が声をかけてきた。

「ああ」と絞り出すように茂雪は返事した。これ以上に口が開かないのだ。

「あんたどこから来たの?」

「わからない」と言った言葉を最後に茂雪はその場に倒れた。


 三度目の目覚めは病院のベッドの上だった。

 目を覚ました茂雪に看護師は慌てて医師を呼んだ。

「わかります?運ばれて来たんですよ」

「ここはどこだ?」

 覚醒を始めた意識の中、茂雪の頭が疑問を感じ始めた。

「ここは病院です」

「それは分かっている。俺が聞きたいのは」と茂雪は医師に手を伸ばした。そこで彼は叫び声をあげた。

 その手が皺だらけで自分のものであることに驚愕したのだ。皮と骨でようやく保たれ、ぶつければ容易に折れるほどに弱っているのだ。

「聞こえてますか?」

「何が?」

「あなた自分が何者かわかっていますか?」

「当然だ。俺は…」

 その時初めて茂雪は自分が亡くなったことを思い出した。半信半疑ながらも妖刀の呪いを受け止めて、家に伝わる二本の刀を姪の杏希に託したのだ。それにいとこの叢雨の遣いで夕雨も訪ねてきたのを覚えている。

(それからどうなった?)

 茂雪は記憶を思い返した。突然内臓をえぐられる強い痛みに襲われ、自ら救急車を呼べるだけの余裕もなく、道場で倒れ、そして亡くなった。なぜか自分が死んだことだけは確実に覚えていた。

「まさか自分の名前も思い出せませんか?」

 失礼な言い方はさげすんでいるようにしか思えない。自分より若い医師にそのような態度をされるいわれは一切ないはずだ。

 沸々と湧き上がる怒りをぐっと堪えて茂雪は話題を切り替えた。

「今日はいつだ?」

「やっぱり、記憶喪失ですか。何とか思い出してもらわないと困るな」と悪態をつき大部屋の中央に掛かったカレンダーを指さした。

「2025年11月18日ですよ。どうですか?思い出せそうですか?」

 茂雪は額に片手を押し当てた。

「ここに運び込まれたのはいつですか?」

 その若い医師は面倒くさい様に手元の電子ボードを操作して、茂雪のカルテを確認した。

「三日前に天照てんしょう海岸で搬送されて来たようです」

「11月15日…」

 茂雪の記憶ではその日は自分が亡くなった日付と一致する。

 今度は両手を出してじっくりと眺め見た。腕までまくって確かめたが衰弱しきっており、生前の記憶とは程遠い見た目をしていた。

「悪い、先生。少し眠らせてくれないか。何か思い出せそうなんだ」

「それには心配していません。もし記憶が戻らなくてもDNA検査で身元はすぐに判明するでしょうから」

「そんなことできるのか?」

「もちろんですよ。去年あんなに話題になった…記憶喪失でしたね。無理もない」と少し気に障る言い方をして医師は病室を出て行った。

 茂雪は横になってカレンダーを眺めた。11月の暦の上にはデカデカと2025年の文字が掲げられていた。

 死んだと思ったら5年後の世界にタイムトラベルしていた。そして体はすっかり弱り切っている。相応に歳をとっているのとはまた違う。不気味な弱り方をしている。

 どのように現実を受け入れるべきか茂雪にはわからなかった。これが『白星十文字』を使って刀を折ってしまった代償というのも可能性としては考えられるだろうが、それなら残っている文献に記述があってもいい気がする。数年後現れたという記述はなかったはずである。

 茂雪は瞼を閉じてさらに考えを巡らせた。

 このまま家族の前に何もなかったかのように現れていいのかという疑問だった。普通の考え方ならこの現象を奇跡として受け入れ、真っ先に家族のもとに戻るだろう。だが、これを単なる奇跡として受け入れるべきなのかしり込みしてしまう。おそらく家族は自分が死んでしまった理由も知らないはずだ。だが、それは家族と再開しない理由には当たらない。いくら否定的理由を思い浮かべてみても結局は奇跡を受け入れたい自分がいた。

 いつしか再び眠りの中へと導かれてしまう。

 疲労感以上に衰弱が辛い。

 茂雪はその眠りの中で夢を見た。それは今までにないほどに鮮明な夢となって茂雪の脳にこびりついた。

 その夢はまるで未来の出来事を予想しているかのような内容であった。それは嶺橋家の家宝と家族の夢である。それも悲惨な内容だった。


 菖瞳が何者かに『録破二日月』で記憶を奪い取られ、記憶を失った状態で自らの兄とも知らず雪虎を『疾病木枯らし』で刺してしまうという内容だった。


 この夢を単なる悲劇的な夢だと捉えることができなかった。

 目覚めた茂雪はすぐにでも家族に会うべく点滴棒を杖にしてナースステーションに向かった。看護師は強引な茂雪をけん制したが、小窓から電話機を強引に奪い取って、当然のように覚えている自宅の電話番号につないだ。

 繋がった電話先を待ちわびて茂雪は体を傾けていた。正面に備え付けられた鏡に自分のみっともない姿が写っている。

 酷いものでしわがれていて想像以上に骨と皮しかない。

 茂雪は受話器を外したまま鏡の前に立った。剣道の師範として恥ずかしい身なりであるだけではない。削ぎ落ちた筋肉のせいで生きているのもやっと、頬骨が浮き出て、眼窩の落ちくぼみが強調されている。髪の毛は肩まで伸びて艶は一切なくボサボサ。頭蓋骨に髪だけ生えた白装束の死神のような姿だった。

「そこのあなた」

 傍若無人に振舞ったことが気に障ったのか対応する看護師の口調が強い。

 いくら自分の容姿を見たところで事実は変わらない。茂雪は受付に戻って受話器を耳に当てた。

『はい?』

 それが妻の声であることはすぐに分かった。

「皐月。俺だ」

『どちら様ですか?』

「茂雪よ。生きていたんだ。子どもたちは元気にしているか?」と話しながら涙を堪えた。ここで泣いては変に誤解される気がしたのだ。

 皐月からの返事を待ちながら何をどう説明するかを懸命に考えた。

 死んだ夫からの連絡など信じられないのだろう。電話先の皐月の返事はなかなか返ってこなかった。もしかしたら涙を流して声になっていないかもしれない。

 だが、皐月は一言冷酷に返答したのだった。

『切りますよ』と。

「待ってくれ。本当に俺だ。もっと話を聞いてくれないか…」

 茂雪の声は最後まで聞いてもらえず、電話は切れていた。

 いぶかし気に受付の職員が茂雪を見ていた。

 だが茂雪はもう一度電話機を奪い取り同じ番号に掛け直した。間違い電話ではないはずだが、今度は番号を確実に復唱していた。

『はい?』とまたしても妻の声がした。先ほどのこともあってか、第一声に猜疑心が強くにじんでいる。

「頼むよ。茂雪だ。俺は死んでいない。本物だ。雪虎と菖瞳はどうしている?それだけでも聞かせてくれ」

 相手からの返事を待たず茂雪はただひたすらに声を伝えることに専念した。いくら5年経っていようと妻が自分の声を忘れているはずはない。肉体の変化のせいで声量も衰えているだろうが、風邪の時と変わらないではないか。

 だが、無情にも皐月からの歓迎の言葉はなかった。

「どうしたらわかってくれるんだよ…」

『あの…』と皐月が声を返してくれた。

「おう、何だ?」

 茂雪は皐月の問いかけに期待してしまう。だが、その期待も脆く崩れ去る。

『無言電話ならもう相手にしませんから』

「聞こえてないのか?それならもう少し大きな声で…」

 既に電話は切れていた。

「何でだよ⁉」と受話器を戻して悪態をついた。

「さっきからうるさいですよ。他の方たちの迷惑です」と冷たい目をした受付職員に注意を受けた。

「俺の声が聞こえているんだな?」

「ええ、だから静かにとおっしゃっているのです」

「この電話機が壊れているのか?」

「うちの備品にケチ付けないでください。普通に使えてます」と彼女は電話機を奪い返した。乱暴に置いたのでガシャンと音を立てた。

「なあ、もう一度だけ頼む。今度はあんたが掛けてくれないか」

 小窓に顔を突っ込んで懇願した。他の職員たちも迷惑そうにしていたが体裁を気にしているほどお気楽ではない。

「わかりました。番号は?」

 番号を告げると彼女は素直に電話を繋ぎ受話器を耳に当てた。

「もしもし、こちら末藤松市民総合病院です。ご主人の件で…」

 話の途中で彼女は受話器を置いた。

「どうして途中でやめる?」

「奥さん警戒されているみたいです。声を聞く間もなく切れてしまいました」

「そうか…」

 思い返してみれば妻は警戒心の強い方だったかもしれない。なぜかは分からないがこちらからの声が聞こえない電話が続けざまにかかってきたのだ、三度目は番号を確認してたたき切ってしまっても無理はない。

「悪かった。俺も疲れているようだ。もうひと眠りするよ」


 何度も同じ夢を見た。子どもたちが呪いに苦しむ姿である。

 目覚めた茂雪の前に警察官が来ていた。彼らと並んであの若い医師が不気味そうな顔で見つめていた。

「あなた誰ですか?」と聞いたのは警察官の一人だった。

「おたくで調べたのであろう?DNA鑑定で身元が分かるのだろうさ」

 茂雪は前日、身元の確証のためにDNA鑑定を承諾したのだ。

「言い忘れてました。去年のことを覚えていないようですから説明しますと、DNA鑑定で身分を判明できるのは一部の者しかわかりません。賛同して登録したものはおよそ2割程度。それ以外は重犯罪者や以前重大な病気に掛かったり、何らかの原因でDNA検査をした者に限ります」

「この間はその鑑定技術をたいそうなことのように言ったが、つまるところ俺は該当しなかったわけか?」

「いいや。該当したのだがデータが残っていなかったんだ」

「それはそうだろうな」

「何か覚えているんだな?」

 医師は鋭い目つきで茂雪を睨んだ。犯罪者や危険人物とみなしているのだ。

「俺は嶺橋茂雪。住所は△△。電話番号は○○。どうだ、メモしたか?」

「結構遠いな。なぜ末藤松市にいる?」と警察官が尋ねた。

「わからんよ。言っておくがここ5年分の記憶がないことは確かだ」

 茂雪の話を傍らに警察官は早速電話をかけた。

「この時間だ。妻は仕事だろうし、子供たちも…どうしているだろうか…」

「ダメですね。お出になりません」

「そうか。それなら退院させてくれ。家に帰りたい。いいだろう、先生」

「うちに長く居られても困る。好きに出て行ってくれ」と言うなり彼は病室を出て行った。

 医師の対応に警察官は驚いた。茂雪の身なりがガリガリにやせ細っていて、骨と皮。言ってしまえばミイラである。とてもではないが退院させるには危うさが否めない。


 不審人物としての評価は拭えず、警察の監視下のもと茂雪はようやく自宅へと帰ることができた。5年前とは代わり映えしない我が家に安堵の気持ちが込み上げてくる。

 日暮れの寒空のもと彼はインターホンを押した。

 中から駆け付け明かりを灯し、ついに玄関が開かれた。それは紛れもない妻であった。彼女もまたほとんど変わりなく記憶にある彼女のままだった。

「どうかなさいました?」

 皐月は茂雪越しに後ろの警察官に問いかけた。

「ただいま」と茂雪が彼女の目を見つめて言った。こうやって面と向かってただいまの挨拶をしたのはいつ以来だろう。今はその言葉がどうしようもなくうれしかった。

 だが、妻の反応は不思議なものだった。

「何か事件でもあったんですか?」

 警察官は「ええ?」とあたふたしていた。

「皐月?俺が生きていたんだぞ」と彼女の肩に触れようとした。だが、その手は彼女の体をすり抜けてしまう。

「どうかなさいました?」と尋ねる妻に警察官の男は腰を抜かしていた。

「おい、俺がわからないのか?」

 茂雪は挑戦をあきらめない。両手で彼女を抱きしめようとしたが何もかもがすり抜けるのだ。

「今日、ご主人を連れて来たんですが…」と警察官が起き上がると血相を掻いた様子でパトカーに向かった。

 茂雪は慌てて彼を追いかけた。自分の姿は皐月に見えていないことは確かである。

「待ってくれ。いったいどう見えたんだ」

「ついて来るな。お前何者なんだ」

 彼は泡を食ってエンジンをかけた。

 茂雪はパトカーの前をあえて通って助手席に乗り込んだ。

「頼む、何があったかだけでも教えてくれよ」

「奥さんに触れようとしたとき、あんたは消えたんだよ」

「消えたってどういうことだ」

 思わず警察官の胸倉をつかんで訴えた。どこにこれほどの力があるのかと自分でも疑うほどに彼をつかみ上げていた。

 むせびながら彼は茂雪の腕を振り払おうと必死にもがいた。


 留置場の片隅で茂雪は再び目を覚ました。

 鉄格子の向こうにいる監視員に気が付き茂雪は「すまんが」と声をかけた。

 すると男は席に座ったまま軽く返事をした。

「ここに高岡という職員はいないか?知り合いなんだ。身元引受けに協力してもらえそうだ」

 一晩頭を冷やした茂雪は彼の存在を思い出した。

「そうか、高岡さんの知り合いですか。正直身元不明のあんたをどうするべきか頭を悩ませていたところなんだ。呼び出してみよう」とやけに正直者の職員は受話器を取ってさっそく内線を繋いだ。

「すぐ来るそうだ」

 彼の予想通りほどなくして男が現れた。なぜ呼び出しを受けたのか、わかっていない彼は監視職員から事情を聴くと茂雪の留置所の前に現れた。

 彼は茂雪の顔を見るや否や腰を抜かして床に尻もちをついてしまう。

「師匠⁉亡くなったはずじゃ…」

 茂雪は腰を抜かした男の顔をまじまじと見つめると理解した。

「耕助じゃないな。お前は桔梗だな⁉そうか、ここはお前の職場か」

「数年前に配属になったばかりで…じゃなくて、本当に師匠なんですか?」

「どう見える?」

 茂雪の問いに桔梗は格子に顔を近づけた。彼の目にもその姿はガリガリに痩せ、みすぼらしい白装束の布を羽織っており、死期が近い男にしか見えていない。だが、その顔の面影は確かに数年間見知った嶺橋茂雪に違いはない。

「何とか生きているように……。すみません。でもどうして?」

 桔梗は生唾を飲み込んだ。

「俺にもわからない。気が付けば天照海岸にいたんだ。それで病院から家に戻ったのだが、問題がありここにいる」

「ここにいる、じゃないですよ。すみません、この人の罪状は?」と桔梗は監視職員に声をかけた。

「警官に暴行だってさ」と職員はつまらなそうに片肘をついて資料を読んだ。

「だけど被害者も気が動転していたからすぐに出していいってさ。身元が不明のままだから対処に困っていたんだよ。でも、まあ、高岡さんの知り合いならすぐにでも釈放できるでしょうな」

「わかった。処理お願いします。責任は私が取りますから」

 桔梗は職員の元で署名を済ませると留置所の扉は開かれた。

「ありがとう。我が一番弟子」

「そういうのは結構です。それより家族には何と?」

「それが…帰れないのだ。理由は後で話す。とにかく何か着る物が必要だ」

 白い羽織は薄汚れて裾は破けて糸がほつれていた。

「幽霊みたいですよ」

「きっとそうだ。パンツすら穿いていない」

「それは何と言うか……暴行で捕まってよかった」


 早退した桔梗は茂雪を自ら自宅に招き入れた。まずは入浴してもらい身なりを整えさせた。その際に茂雪の体を垣間見たが肉体に生前の面影はない。

 茂雪は伸びきった髪を乾かしながら椅子に座った。机にはおにぎりやカップラーメン、菓子パンと炭水化物のみの食事が並べられていた。

「とにかく食べてください。痩せすぎです」と桔梗がすべての食べ物を押し付けた。

「分かった。ブクブクに太ってやろう」

「食べながらでもわかっていることを教えてください」と桔梗もおにぎりを頬張った。

 桔梗のその姿に昔の面影が懐かしくよぎる。ガキだったころから面倒を見ているのだ。もう一人の息子も同然なのだ。

「どうしましたか?何もなければご家族に連絡しますよ」

「そう焦るな」と茂雪は麺を勢いよくすすった。立ち込める湯気と熱いスープに思わずむせる。

 桔梗はそれがたまらなくおかしかった。本人にしては苦しんでいるのだが、苦しむ以上に彼は死を乗り越えてきたのだ。むせるぐらいのことが普通にできている不思議が愛しくて笑えて来てしまう。

「妻にあったが、俺のことが見えていない。連れてきた警官は俺を幽霊だと思って逃げだした」

「何ですか?師匠は幽霊になったと?」

「高岡君には俺が見えているのだろう?どうして妻には俺が見えない?」と茂雪は桔梗の肩に触れてみた。やはりジャケットを手渡されたときのように何の違和感もなく相手に触れられる。

「もちろん、私の目には師匠は生きているとしか見えていませんよ」

「おかしなことを訊くが俺は死んだよな?」

 そんなセリフを言う機会はめったにない。あったとしても比喩ぐらいだ。

「私は葬儀には参加していませんが、告別式には参加しました。確かに遺骨は灰になり、墓へと埋められたはずです」

「お墓参りはしたか?」

 桔梗はおにぎりを口へと運ぶ手を止めた。

「もちろん」

「嘘だな」

 桔梗を見抜いた茂雪はある提案を思いつく。

「今日にでもうちに行ってみようか。仏壇に手を合わせるのはどうだ?」

「そうですね。このままと言うわけにもいきません」

「だが、家族には俺の話は一言もしないでくれ。変に俺の存在を匂わせて変な希望を持たせたくはない」

「どうしてですか?せっかくこの世に戻ってきたのですよ。家族に無事を知らせるべきじゃないですか」

「言うなれば俺は不安定な存在だろう?いつまた消えるかわからないではないか。せめて向こうの方から俺を見つけてくれてからではないとならん。家族を持つとはこういうことだ。これは師匠からの最重要命令だ。これを破れば即破門とする」

「それは横暴です」


 仏壇の前に座った茂雪は自らの遺影に違和感を覚えた。死は十分自覚していたが、突き付けられる現実に頭が混乱してしまう。現在の自分の置かれている立場がなんとも気味が悪い。結局、妻は桔梗の訪問に驚いただけで茂雪については目すらも合わせようとしない。

「ちょっと、最後にもう一度手を合わさせてください」と桔梗が妻に一言断りを入れて、仏間に顔を見せた。

「師匠、帰りますよ。子どもたちは今日はいないそうですから」と違和感がない様に仏壇の隣でしゃがみこんで小さな声で話しかけた。

「ありがとうな。俺はここにいる」

 茂雪は呆けたまま仏壇を眺め見ていた。

「これからどうするのです?」

「妻には俺がここにいても分からんだろう。それならここにいるさ」

「わかりました。これうちのカギです。おなかが減ったらうちに来てくださいよ」

「そうか」と出されたカギを茂雪は受け取った。

「本当にありがとうな」と最後に桔梗の肩に手をかけて頭を撫でた。

「どうかしましたか?」と背後から皐月が声をかけてきた。それは桔梗に投げかけられたものである。

 桔梗は涙を流して肩を震わせていた。

「いいえ、なんだか懐かしくて。師匠は昔よく寄り添って肩に手をかけて頭を撫でてくれたなと思い出してしまいまして……すみません」

 その桔梗の言葉は茂雪にかけた言葉だった。

 茂雪も思わず顔を俯かせていた。


 桔梗が帰ってからも茂雪は仏壇の前で考え事をしていた。何度も見る夢をどのようにとらえるべきか考えあぐねてしまう。

 ふと床の間に目が行った。先代から預かっているツボや置物は彼にとってはガラクタも同然でしかないが、その中で完璧な存在を放っている家宝だけは風格が違う。

『漆黒不現刀』は茂雪が亡くなって以来もそこにあり続けていたようだ。

 雪虎は『白星十文字』を披露した時、もう一本の刀の存在に気が付いていなかったから、見えていなかっただろう。菖瞳に関しては家宝を披露することができなかった。果たして彼女には『漆黒不現刀』が見えるのかわからない。

 家族に気が付かれずそこにあり続ける家宝『漆黒不現刀』が今の自分と重なる気がした。

「ただいま」と菖瞳の声が聞こえてきた。

 茂雪は急いで顔を覗かせた。

「今日、ご飯いらないよ」

「それなら先に言ってよね」

「授業でそれどころじゃなかったんだよ」

 二人の他愛のない会話の中、茂雪は目を瞬かせていた。五年ぶりの我が子は親ばかながら一流モデルのように美しく思えた。娘の見違えた姿に父としてとても誇らしかった。

「そうそう、さっきね高岡君が来たのよ。お父さんの一番弟子」

「そうなの⁉懐かしいね」

「お父さんに手を合わせていなかったからって来てくれたのよ。突然だから何かあったんじゃないかなって心配になっちゃったさ」

「まさか夢枕に立たれたとかだったりしてね」

 そう言いながら菖瞳は仏間に足を踏み入れた。

 隠れるつもりはなかったが、茂雪は慌てて襖の裏に立っていた。

「お母さん、電気つけっぱなしよ。も~」

 菖瞳はそのままの足取りで仏壇の前に座った。

「今日も報告」と彼女は呟き、手を合わせ瞼を閉じた。

「菖瞳、元気にしていたか?」と茂雪はその背中に声をかけた。

 やはり彼女にも聞こえておらず黙々と合掌を続けていた。

 茂雪はなるべく足音を立てないようにして娘の隣に座った。その肩に触れてみようとしても、すり抜けてしまう。頭を撫でてあげようにも触れることはできない。だから接触ギリギリの空間を保ち、それらしい素振りだけで頭を撫でた。

 長いことそうしていた。隣を見ると娘はそのまま寝息を立てていたのだ。どれほど成長しても彼女は愛しい娘のままだった。茂雪は思わず微笑んでいた。


 家にいるにしても死人に居場所などない。

 家は家族が出入りするだろうし、剣道場は広々として落ち着かない。それならばとして選んだのが剣道場裏部屋である。手入れからして人の出入りはないようだから潜伏場所としては持ってこいの部屋だった。

 拠点を確保した茂雪は姪っ子杏希の勤めていると聞いていた歴史資料館に向かった。

 杏希受付をしていた。彼女もまた茂雪を目視できておらず、目の前に立っても知らん顔だった。別の職員が訝し気にして杏希を注意したが、茂雪は断って奥へと逃げ込んだ。

 最後に家宝を託したのは彼女である。記憶ではこの資料館に保管しておくと約束していたはずなのだ。この資料館のどこかに刀があることを確認したかった。

 夢で見た光景が実現するなら刀のありかが重要なカギである。杏希に託したままに『疾病木枯らし』があるなら憂いは必要ない。

 職員に交じってどのように探すべきか、図書館から本を拝借し、読んでいるふりをしながら周囲を観察していた。

 するとあるお客が杏希と親し気に話しているのが目についた。だが、その姿に見覚えがあった。

 茂雪はゆっくり立ち上がり彼らのもとへと向かった。そう、彼は雪虎だった。

 雪虎は杏希に何か資料を頼むと机にそれらを広げた。茂雪は気になり本を片手に同じテーブルに着いた。はたから見たら相席だが、雪虎には見えていない。

 茂雪は机に広げられた資料を盗み見た。それは茂雪が杏希に二本の刀と一緒に預けた古い文献であった。

 ますます刀の行方が気になった茂雪はそのまま息子が資料を返すところを待っていた。一時間もしないうちにその時が来た。茂雪は杏希の後を追った。どうせ彼女には見えていない。それに彼女に触れていれば他の人にも見えなくなるのではないかという予想は当たっていた。原理は分からないが妻と接触を試みた際に警察官の慌てふためく姿でその予想は立っていた。

 杏希に付き誘導を受けたあと、彼女がしまった棚を探った。ものが保管されているというよりは乱雑に置かれ片付いていない物置状態だった。だが、このあたりにあることは確かだろう。

 茂雪はめげずに辺りを捜索した。すると思った通り一本の日本刀を見つけ出した。布に包まれたその刀は間違いなく『白星十文字』だった。この分だと『疾病木枯らし』もどこかにあるに違いないと捜索を続けたのだが、同じ棚にはそれらしきものは見つからなかった。こうなれば後は膨大なものの中のどこかにあるだろうが、探し出すには厄介だろう。

「あなたそこで何しているのです?」

 声をかけられた茂雪は適当な言い訳を繕い渋々ながら退散を余儀なくされた。

 元の机に戻り適当につくろった貸し出し図書を元の棚に片付けた。本を片付けながら現状について改めて考えていた。

 富雪が受け継いだ『録破二日月』も杏希に預けた『疾病木枯らし』も行方を確認するすべはない。富雪に会っても彼女にも見えていなかったのだ。いくら刀のありかを尋ねたところで反応はない。

 例の夢は毎晩続いた。このまま夢として放っておけない。だが、茂雪には本人たちに直接警告はできない。桔梗に事伝えしてもらうことも考えたが相手にするとはどうも思えない。

 本を片付け終えたところふと思った。

 間接的に伝えるのはどうか。まどろっこしいかもしれないが物語の中で伝えられないだろうかと考えたのだ。

 それから茂雪は桔梗の自宅で作品の制作に取り掛かった。不慣れながら構成はすでに出来上がっている。とはいってもすべて夢で見たままのものである。ただ登場人物の名前や刀の名前は工夫させてもらった。子どもたちの存在や我が家に伝わる家宝をありありと記載するにははばかれた。

「師匠には文才があるのですか?」

 3時間ばかりパソコンの前で固まる茂雪に桔梗は尋ねた。

 茂雪は画面を睨んではメモ紙を見るという行為を続けた。

「やはり文にせずとも別の方法があるように思うのですが…」

「それもそうだが…どうしたらよいか」

「この紙を持って行きましょう。私が説明します。私が何度も見た夢として警告すれば何となくわかってもらえるかもしれないでしょう?」

「すまんな」

 翌日は土曜日、桔梗が公民館を借りて行っていたボランティアの剣道教室に茂雪は顔を出した。快活いい子供たちの剣を振る姿に茂雪も心を震わせた。

 特に菖瞳と同じ年頃の女性には目を奪われた。なかなか筋が良い動きをしていた。

 少し気になって桔梗に彼女のことを聞いた。

「洸、どうだ?師範を相手にしてみないか?」

「桔梗、何を言い出す。俺はこの身体だぞ」

 茂雪はなかなか脂肪の付かない体を指して言った。

「どなたですか?」と洸は茂雪を見た。

「この人は私の師匠だよ」

「それじゃあ、やっぱり強いんですね。お手合わせよろしくお願いします」

「えらいことになった。死人にお前は剣を握らせるのだぞ」

 茂雪の文句に桔梗は笑っていた。

 実感はないが5年ぶりの防具や竹刀に何かがざわめいた。それは体が欲している合図、高揚感を抑えきれない。

 茂雪は師範らしく相手からの攻撃を受ける側へと回った。あえて立ち回りの主導権を与えた。茂雪は相手に隙を見せては紙一重でかわしたり、防いでみたりした。

 洸の攻め手はすべて見切れた。

 だが、彼女の渾身の技が繰り出された。それは茂雪が指導していると理解した洸のとっさの思い付きであった。定跡どおりに繰り出す攻め手の裏をかく。ガラ空きになった相手の右わき腹を狙わずあえて面を狙った。

 茂雪は洸の判断に笑みがこぼれていた。洸の攻め手をすり抜けて、右胴をそのまま打ち込んだ。

 圧勝を確かめた時、ある記憶に囚われてしまった。それはイトコの貴雨を打ち負かした後、『白星十文字』で『疾病木枯らし』を叩き折った光景だった。あの後、見事に呪いは解かれ被害は最小限に収まったのだが、あのことをきっかけに茂雪は『白星十文字』の呪いを被ることとなったのである。

「どうかしましたか?」

 心配そうに桔梗が茂雪に声をかけた。

 気が付けばコートの真ん中で呆然と立ち尽くしていた。

「翻弄されっぱなしでした」と洸は会釈した。

「石元洸ちゃんだね。変なことを聞くが、昔、嶺橋剣道場で稽古を受けていなかったかな?」と確認で聞いたが、おおむね確信めいていた。掛け声や振舞い方が小さい頃の彼女のままなのを試合中に感じ取っていた。

「嶺橋…?どこかで聞いた名前だけど…なんだっけな?すみません。あまり思い出せ…。でも確かに…どこかの道場に通った……」

 洸は茂雪の顔をじっと見つめていた。

 茂雪はまずいと思いそっぽを向けた。どこで家族の耳に入るともわからない。なるべく顔バレしないようにした。

「ダメ…やっぱり思い出せない。嶺橋って名前も…」

「いつか思いだせるだろう。おじさんと違って若いんだ。これからもっと強くもなれるさ」

「別に強くなりたいわけじゃ…。私は立ち回りをきれいに見せられるようになりたいんです。殺陣が本格的な女優に…」

「劇団にでも入っているのか?」

「何?おじさん演劇に興味あるの?」と明らかに話題への食いつきが違う。

「少しだけだよ。ほんの好奇心程度だ…」


 桔梗と二人、茂雪は自宅の門前にいた。桔梗の後ろで妻が出迎えるのを待っていた。

 いくら待っても妻からの返事は帰ってこない。

「留守じゃないはずだが」

 茂雪はすぐそばの窓の明かりを確かめた。

「そういえば誰か先客ですかね?」

 桔梗は駐車場に止められていた高級車を思い出して聞いた。

「それにしたって遅い。何か返事があってもいいころだろう」

 一向に返ってこない応答にしびれを切らし茂雪は剣道場側の門を引いてみた。すると思ってもみなかったことに簡単に扉は開かれた。

「おい、こちらから入るぞ。来いよ」

「私はここで待ってます」

「固いな。ここは俺の家だ。家主の許可で侵入を認めると言っているのだ。潔く付いてきなさい」

「遠慮します」

「まったく、反抗期かね」と呟きながら一人で侵入した。静かな道場を横切り母屋へ向かった。玄関横にたどり着いたが外で待っているであろう桔梗を無視した。

「ただいま」

 聞こえていないだろうが居間の隙間をこっそりとすり抜けて様子を確認したが電気が点いたまま誰もいなかった。食事の準備はできているが手は付けていないまま食卓に並べられていた。

「やめてください!」

 叫ぶ声に茂雪は駆け出した。何事かは分からないがそれは妻の声に違いない。

 居間を抜けて廊下の反対側の部屋から声がした。そこは仏間に違いない。

 襖がしまっていたので茂雪は気にせず戸を引いた。血を流した妻と娘が横たわっていた。そして突然開かれた襖に驚く何者かが立っていた。

「何事ですか?」

 パーマがかった長い髪と顔つきは女性的であるが低い声だった。

 男は刀を茂雪に向けた。

 その刀は紛れもなく『録破二日月』ではないかとすぐに悟った茂雪は構える彼に警戒を向けたままゆっくりと襖から左へとずれて行った。

 男は刀を構えたまま視線はまっすぐ向けたままである。茂雪の動きには全く目もくれない。

「さては見えていないな」

 茂雪の声は男には届いていない。それは彼が近づいても同様や抵抗を見せないので明らかだった。

「師匠!」

 桔梗が襖の前に駆け付けた。それは刀を持った男の前に飛び出してしまった形である。

「高岡さん」

「夕雨君⁉どうしてここに?」

 男は刀を収めるとうっとりした目つきで手を組んだ。ついでに手をくねらせて桔梗に近づいた。

「待て!近づくな」

「どうしてですか?僕たちの仲じゃないですか」

 桔梗は茂雪を垣間見つつ引き下がった。否応なく夕雨はすり寄ってくる。

「玄関は閉まっていたはずなのに。どうやって?」

「道場側が開いていたから…」

「いけないんだ」と人差し指で桔梗の鼻を押し付けた。

 調子を狂わされた桔梗は夕雨にタジタジだった。

 そうしている間に茂雪は部屋で倒れている妻と娘を確かめた。触れることはできないから様子を覗き込むことしかできない。それぞれ首元に軽い切り傷があり、出血しているようだが傷口はふさがっていた。

「記憶を奪ったな!高岡、その男から何の記憶を奪ったか聞き出せ」

 二人はキスを交わす直前までに顔を近づけていた。ぐいぐい迫る夕雨に桔梗は抵抗できないでいた。

 見ていられないでいた茂雪は夕雨を掴み上げようとするが触れることができない。

「おい、マジかよ」

 見るとすでに唇が重なり合っていた。

 茂雪は構っていられなくなりそっぽを向いた。

「一体、どういうつもりだ」

 唇を奪われた桔梗は夕雨を押しのけた。

 ふらっと押し出され夕雨はご満悦そうに手を後ろで組んで言った。

「ただの挨拶ですよ」

「挨拶にしては度が過ぎている」

 夕雨はちらりと後ろにしていた手を出した。彼は四つ折り紙を持っている見せつけた。

「いつの間に」桔梗は背広の懐に手を突っ込んだ。夕雨が持っている紙こそ茂雪が書き記したメモ紙であった。

「高岡さん、気取られ過ぎ~」と彼はその中を拝見した。

「返してくれ。それは師匠から預かった大事なものだ」

「師匠っておじさんのことだよね…」

 その設計図を彼は真剣に読み解いていた。

「その紙のことは気にしないでいいから、こいつが何の記憶を奪ったか聞き出してくれ。ことがことだ。そこに書いてあることが実現しかねないのだぞ」

 茂雪は気が気ではない。既に娘から雪虎に関する記憶が消されているとしたら、悲劇の前段階まで来ていることになる。

「構成は面白いけど、内容はつまんないね。これをおじさんが?」と夕雨は茂雪の心境など知る由もなく、メモ紙を眺めていた。

「皐月さんたちに何をした?」

「何も。ちょっと欲しいものがあったから顔を見せたんだけど、変に盗人と思われたくないからちょっとね、数時間の記憶を消すぐらいの技術と言うかコツみたいなもので防いだまでさ」

「まさか、その刀でか?」と夕雨の腰を指して言った。

「ああ、これ?ご名答。高岡さんならわかるよね。一度別の妖刀を見たことあるだろうから」

 それは茂雪の父國雪の葬式でのことを言っていた。桔梗と富雪の前に立ちはだかった『疾病木枯らし』のことである。

「あの日、僕の家族は崩壊したんだ。わかる?だからこうして時々この家に来てこの人たちと戯れて憂さ晴らしをする。この家族に家宝が渡ったことを根に持って、うちの家族は取り憑かれたようにして堕ちて行ったんだよ。だから宝刀を見つけ出して叩き折ってやろうと思ったまでさ」

「わかっているのか?私は警察だ。見逃すわけにはいかない」

「そう言わず。僕らの仲だろう」

 夕雨は手を広げて桔梗に詰め寄った。

「お前ら本当にどういう仲だ」

「何でもないです」

 茂雪の問いかけに桔梗は応じたが、夕雨には自分の問いかけに対する答えにしか聞こえない。

「何でもないことないじゃない?僕をナンパしたのは高岡さんの方じゃないか」

「後ろ姿で勘違いしただけだ」

「まさか?顔だって見たじゃん。勘違いなわけ…それでも好みのタイプだったんだよね?運命の再会じゃないの」

「何が運命だ。うちの教室に見学しにきたのは君じゃないか」

 夕雨は再び桔梗に迫っていた。

「何でもいいから何とかしてください」

 桔梗は夕雨の後ろの茂雪に指示したつもりが、それは夕雨の勘違いを助長させた。

「じゃあ、遠慮なく」

 夕雨は桔梗を押しのけた。腰を着いて倒れた桔梗の上にまたがった。

「何する⁉」

「何って、僕がずっと望んでいたこと」とその手が桔梗のベルトに触れる。

「後のことはいいから、早く!お願いですから」

「何だ、高岡さんも望んでいるんじゃないの」

 夕雨の手が桔梗のズボンのチャックに回った。

 その時だった。突然ドスッと鈍い音とともに夕雨の上体が桔梗の体に被さった。

「遅いですよ」

 桔梗は頭を上げて足元に立つ茂雪に言った。

「まさか本当に当たるとは思わなかったものでな」

「どうやったんですか?触れられないんでしょう?」

 気を失っている夕雨を引き放し桔梗は起き上がった。危うく一線を越えしまえばトラウマになりかねない事態だった。

 茂雪はそっと手にしていた『漆黒不現刀』を撫でた。当然その刀の存在を桔梗は目視できていない。

 この騒動のおかげでわかったことが二つあった。

 一つは嶺橋の人間には茂雪の体が見えないこと。そしてもう一つは『漆黒不現刀』でなら触れられない家族に触れることができるということだった。

 茂雪は『アラズ』を元の刀掛け台に戻して拝んだ。

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