19 嬉々帰還
気が付くと自分の部屋のベッドで横になっていた。中途半端に閉められたカーテンには西日の強い光が照り、隙間からは夏の爽やかな風が吹き込んでいた。
一日が終わろうとしている。虚しさに浸りながら菖瞳は体を起こした。日中はそれなりに気温が上がったのか、はたまた痛みでもがいた証なのか、寝汗がひどかった。額の大粒の汗を手でこすり着替えを始めた。シャツは胸のあたりから背中や脇、とにかく至るところで汗が染みついている。
新しいTシャツを箪笥から選別しているとき、突然部屋のドアを叩く音がした。
「ちょっと待って」
菖瞳は急いでTシャツを被った。その間、向こうの方から開けてくるようなことはなかった。それなりにエチケットは守ってくれている。
「どなた?」
菖瞳はドアを開けた。
「どうして…お兄ちゃん…何ともないの?」
目の前に立つ兄の姿に菖瞳は瞬きを何度も繰り返した。
「それはこっちのセリフだ」
「わかった。これは夢なんでしょう?」
「夢なものか。お前が目を覚ますのを待っていたんだぞ」
兄に両肩をつかまれても菖瞳には実感が湧かなかった。目の前にいる兄は西日が作り出した幻想で太陽が沈むことで消えてなくなる何か。真夏が作り出した蜃気楼や陽炎のような気がした。
「菖瞳!」
思わぬ兄の登場に嬉しさに込み上げる間もなく、名前を呼ぶ誰かが抱きついてきた。その唐突な表現に菖瞳は戸惑った。洸が涙を流して抱きついているのだ。
「洸?」
「ようやく目を覚ましたね。この眠り姫」と洸は泣き喜んだ。
「ようやくって。10時間ぐらい…。まあ、昨日は一睡もできなかったから疲れがたまったんでしょうね」
「菖瞳、何か変だと思わない?体に異常はないの?」
「変と言えば…お兄ちゃんの意識が戻ったということ…そうだ、洸、記憶は?」
「おかげさまで全部思い出したよ。一週間前菖瞳が妖刀を叩きおってくれたおかげでね」
「一週間前?何言ってるの?今朝の話よ」
菖瞳は洸が冗談で言っているのだと思って受け答えをした。
「違うの。菖瞳はこの一週間ずっと目を覚まさずに眠り続けていた。だから体に異常はないか訊いたの」
まさかと思いベッドのデジタル時計を確認した。言われた通り日付が一週間早く進んでいる。
「いったい何があったの?」
「私にはわからない」と洸は答え、兄は黙って首を振った。
菖瞳は二人を横に部屋を出た。足はもたついて思ったように歩けない。一週間眠っていた後遺症というものを感じた。そんな菖瞳に洸は肩を貸した。
「母さんなら病院だぞ」と二人の後を追い、兄が言った。
「え?ケガでもしたの?」
ここのところ病院と言えばケガというのが続いているので、病院と聞くと不吉なイメージを連想させてしまう。
「お見舞いだよ」
「誰の?」
「誰って、驚くなよ。親父だよ」
「悪い冗談はやめてよ」
「冗談でこんなこと言わない。親父は生きていたんだ」
「いくらお兄ちゃんでも、怒るんだからね」と菖瞳は膨れた。
「なあ、そうツンケンするなよ。俺だって訳が分からないんだ。どうして親父が死んだなんて勘違いしていたんだか」
菖瞳は兄の話を全く相手にしなかった。たまにつく冗談がドギツイことは十分知っていたからだ。
菖瞳は抱えられながらも少しずつ前に進んだ。
どこに足が向かっているか困惑しつつ、洸は菖瞳の体を支えた。
たどり着いた静かな道場はいつも以上に神聖な空気が漂っており、外の空気に比べて数度ほど涼しいものだった。
倒れる前に起きた光景を思い出しながら菖瞳は裸足で畳の感触を確かめた。そして床を確認して直前の記憶をたどる。床には刀を突き刺した後が残ったままだった。
慌てる高岡警部は仲間を呼びに道場を飛び出した。そこまでははっきりと覚えている。
そしてよみがえる記憶に脳が張り裂けそうになった。記憶の断片が次々に押し寄せ感情も高ぶっていた。
「お兄ちゃん、杏希さんどうなったの?」
「さあ、俺は何も聞いていないけどな。あいつが俺の彼女を名乗っていたんだってな。記憶がないからこそありそうな話だけど、俺は二度と遠慮したいね」
兄は苦い顔を向けていた。
それから菖瞳は畳に横になってみたりした。こうして見た光景を思い出そうと試みるも、喉元まで出かかっているはずの記憶が一歩及ばない。
不可思議に思いながらも二人は菖瞳の行動を微笑ましく見守っていた。
それから三人は冷たいお茶をすすりながら事の成り行きを報告し合った。
洸が失っていた記憶は菖瞳を含んだ嶺橋家の存在と幼馴染のこと。これらは菖瞳が客観的に知っていたことだからさして驚きはしない。本題は脚本家が誰であり、渡辺陽汽に襲われた夜に誰が助けたのかだった。
「もうわかっているだろうけど、草刈ミネウチは嶺橋夕雨だって紹介を受けた。桝山を脅して飲酒運転に追い込んだのは彼よ。ただ、被害妄想を抱いていたことは否定できないそうね。あいつから聞いたら飲酒運転は自分の責任で、その部分の記憶がなかったんだってさ。病院の警備の人も怪しく見えるんだから、いい様に踊らされたよ」
「夕雨は何をしたかったんだ?」と兄が聞いた。
「それは私が聞いていた」と今度は菖瞳が披露した。
「どうやら私と彼は何度か会っているみたいなんだ。その都度あの刀で記憶を消されては自分の存在を消していたみたい。それが春ごろまで続いていたようなの」
「一体何がしたかったんだ?」
呆れた兄に洸も心底同感していた。
「確か私を操れるか実験したかったと言っていたはず。分家としての劣等が両親を失った腹いせにうちが正統継承の本家であることを否定したかったそうよ。うちは本家なのに家宝の銘刀が一本もないことが許せなかったらしい。だから脚本の内容に『気削刀』を思わせる刀の存在を匂わせたり、洸の演じる女侍に記憶がなかったりしたんじゃないかな?」
「確かに話を聞く限りではその脚本の内容は俺たちの周りで起きたことを予感させるものだったかもしれないな」
兄のしみじみとした感想に菖瞳は疑問を持った。
「でもさ、菖瞳と私が再会して仲良くならなければ私が劇に関わることどころか、見に行くことだってしなかったはずよ。そんなところまで見据えていたとは思えない」
「それについては謝らなければならないことがあるのね…」
気まずそうに洸は言った。
菖瞳は何事かと首をかしげて洸が話し始めるのを待っていた。
「実は、言っていなかったけど…菖瞳を高岡先生の教室に呼んでほしいと頼んだのは草刈ミネウチ、つまり脚本家として私の前に現れた夕雨さんの助言があったからなんだよね。と言うのもね…高岡先生と夕雨さんが知り合いというところから話は始まって、うちの劇団の脚本にいかが、という経緯で接触があったんだ。だから、剣道の話で菖瞳の話題になって、それで会ってみないかという口添えがあったんだ。それで夕雨さんは私たちから自分の記憶を消して姿も消したんだけど、その菖瞳に会いたいという願望だけは強く残っていたの…。ごめんねなさい。黙っていて」
菖瞳にとってそれは思いがけない裏話だった。そんなところまで夕雨の手が回っていたなどとは想像だにしていなかった。
「怒っている…よね?」と恐る恐る洸は菖瞳の顔を覗き込んだ。
「怒ると言うかびっくりしちゃった。夕雨が私たちを引き合わせたのがすごいなって逆に感心しちゃった。私たちの相性まで読んでいたんだもの」
「馬鹿言うなよ。相手は洸ちゃんだぞ」
兄の言葉の真意を知れず菖瞳は疑うような視線を向けた。
「お兄さん、それってどういうことですか?」と洸も訳が分かっていない。
「まさか洸ちゃんも覚えていないのか?」
やれやれと言ったように雪虎は呆れた素振りを見せると改めて経緯を話し始めた。
「洸ちゃんはうちで教わったことがあるじゃないか。だから俺はこの間洸ちゃんがうちに来た時てっきりお互いを覚えていて仲良くなったのだとばかり思っていたんだ」
「それっていつの話?」
「俺が中学校に入る前の頃だな」
いくら消された記憶が戻ってきたところですべての記憶を思い出せるほどではないらしい。それでもそれは単なる過去の記憶と呼ぶにはもったいない。覚えていないことを悔しく思う事実だった。
「夕雨のことだ、きっとこのことを知っていただろうな。それじゃなかったら高岡さんから聞いたかもしれない。どちらにしても夕雨はそこまで計算に入れて、その検証とやらに力を入れたに違いない」
それを肯定することはつまり、こうした洸との出会いもすべて夕雨による計画の上に成り立っているということになる。
「ある意味ではありがたい収穫ね」
菖瞳は洸にグラスを掲げた。
「嫌じゃないの?」
心配そうにする洸に菖瞳は彼女のグラスを当てた。キンッとなるグラスと氷の爽やかな音が涼やかに部屋に鳴り響かせた。
「だって洸は私の戦友だもん。体育館で私は心底そう感じた。その直感だけで十分じゃない」
洸は頷くとコップを掲げて静かに口に運んだ。
「そうだ、お兄ちゃん。夕雨のお母さんが殺されたって真相を突き止めたってことは本当?それでおばさんに襲われたって?」
「誰がそんなことを?」
「夕雨本人がそう言っていたと思うよ」
「まあ、確かに加耶子さんのことで不審なことはあったから、おばさんに聞いたり、夕雨に尋ねたことはあったけど、殺されたとは誰も…」
「ただいま」
ゴソゴソと物を運び込む音とともに母の声が玄関から聞こえてきた。
「菖瞳!目覚めたのね!」
全ての持ち物を投げ捨てて母は菖瞳に抱きついた。菖瞳にとっては母と兄が行方不明だったのはつい昨日のことである。だから、心配を向けられることに違和感を覚えずにはいられない。
照れ臭そうに母の腕を払い退けているとき玄関を開ける音が聞こえてきた。
「誰かお客さん?」
その質問は宙に消えて行った。
居間に入ってきたその姿に瞬間的に言葉を失ったのだ。
「ただいま」
「お父さん?」
その姿に恐れすら抱く。目の前に実在する父を素直には受け止められないでいた。
「もう退院できたんだな」と兄は母に訊いた。
「驚異的な回復力だってお医者さんが褒めてたわ」
「なんで生きているの?」
母の話など頭に一切入ってこない。何よりの疑問を解決しなければ何も受け入れることはできない。
「菖瞳、自分が何をしたのか全く覚えていないのだな」
懐かしい口調に涙が流れそうになったが、それどころではない。目覚めると洸の記憶が戻り、杏希の存在を認識できただけにはとどまらず、兄は意識を取り戻し、亡くなったはずの父は生きて目の前に立っているのだ。これを当の本人は理由を彼女に投げかけている。
「『録破二日月』を折った私は…」
頭を抱え膝をついた辺りまでは記憶にある。それからどうなった…?
「記憶を取り戻した夕雨が殺気立って富雪に切りかかったのよ」
母の言葉に記憶が鮮明によみがえる。
高岡警部が助けに呼んだ直後である。夕雨は何かを思い出しテーブル上のアタッシュケースに置いた証拠品から富雪が犯行に使った『疾病木枯らし』を奪い取った。
半分折れた刀では殺傷力は半減するだろうが、それが兄や門下生らを呪った妖刀であるからには相手を不幸にさせるには十分である。
頭痛に苦しむ菖瞳だったが、夕雨の衝動を止めるべく床に零れ落ちた『白星十文字』をつかむと切りかかるその太刀筋を横から受けた。
鍔迫り合いと言うものは一切なく、『疾病木枯らし』は『白星十文字』をすり抜けると、やがて切りかかった刀の先が転がり落ちた。
その瞬間、『気削刀』の呪いは解けたわけだが、『傷無刀』の代償は菖瞳に降りかかる。既に折れた刀であっても妖刀として扱える限りその刀には命がある。二つ目の命を切り落とした菖瞳に更なる苦しみが襲う。
『白星十文字』を掴んでいるほどの余裕もなく、その刀は手から離れ落ちた。
隙を見た夕雨は『白星十文字』を拾い上げた。
「何をしている!やめなさい」と急いで駆け付ける高岡警部と捜査員らだったが、ひと振りするほどの隙はまだある。
床に手を着いた菖瞳を『白星十文字』の一振りが襲う。
刹那的に体が反応した。菖瞳は無意識のうちに腰に備えていた『アラズ』を抜き取り、『傷無刀』に対抗していた。
菖瞳の横を『白星十文字』の刃が転がり落ちた。誰も菖瞳が何をしたかわからない。ただ夕雨の振り下ろした刀が突然折れたとしか認識できないのだ。
「『白星十文字』を切ったんだ!」
それは記憶から導き出した真実である。
「でもどうして?と言うか『アラズ』はどこ?」
いつしか常に帯刀していた『漆黒不現刀』がどこにもない。
「それを俺たちに聞いても意味がないことだと思わないか?」
「そうね…」
兄の言葉にさみしさが込み上げてきた。
『アラズ』はすでに菖瞳にとってただの刀以上の存在であった。『アラズ』は菖瞳の体の一部であり、大切な姉のようなもの。誰にも認識されず、ひっそりとその存在を保つ彼女は古風だけどとても心強い味方だった。
「だけど、これでわかったぞ。菖瞳は『不現刀』で『白星』を切ったわけだな。だから親父は生きているのか…」
兄は腕を組んで父を見つめた。
「ちょっと待ってよ。『白星十文字』を折ってしまったからお父さんは生き返ったってこと?それってどんな理屈があるの?」
「名は体を表すと言うがそれは刀にとっても言えることかもしれない。うちに授かりし銘刀は俺たち人間より長く存在し、名を大切にされてきた。それは『録破二日月』が『健忘刀』であり、『疾病木枯らし』が『気削刀』であるように刀にも使命が宿るということだ。そうして銘刀は妖刀であり続けてきたわけだ。菖瞳は『漆黒不現刀』をどんな存在だと聞いている?」
昔のように父は腕を組んで菖瞳に問うた。
「『アラズ』は存在自体が矛盾していているから、大勢に確認されると消えてしまうみたいなことだけど…」
「その通りだ。では『白星十文字』を何ととらえる?雪虎、教えてやれ」
「はい。『白星十文字』は『傷無刀』と呼ばれていて、切った表面に切り傷を残さない。だからどんな物でも切られていることにすら気が付かない。だけど、それは扱った使用者にも影響があって命を削るものなんだよね」
「よく調べたな」と父は感心していた。
そして兄は「苦労したよ」と照れ臭そうに返した。
「では菖瞳、ここで疑問だが、『漆黒不現刀』と『白星十文字』が互いを切り合ったときどちらが勝つと思うのだ?」
「それは…切れ味のある『白星』の方だと思うけど…結果は違うのでしょう?夕雨と私の腕の違いで『白星』が負けたなんてことはなかったはずだけど……」
「そうだ。どんな刀を相手にしても『白星十文字』が勝つ。それは想像できるな。でも相手は『漆黒不現刀』となると話は別だと思わないか?これはあくまで俺の推測だが、存在そのものが矛盾している刀に傷をつけずに切り落とす。これがどれほど難しい話か分かるだろう。『不現刀』の相手が『気削刀』や『健忘刀』なら効果はない。その二つは切り付け傷を負わせることで呪うのだから。だが、『傷無刀』はそうはいかない。傷をつけずに物を切るのだ。存在しない『不現刀』に傷をつけて切ることはできない。『白星十文字』の刃先は『漆黒不現刀』に触れた瞬間に刀の存在意義を失い、刃先は折れた。『傷無刀』と祭り上げられていた刀自体が崩壊しその呪いははじけ飛んだと思うのだ」
「ややこしい話ですね。つまり妖刀の能力で自滅したということでしょうか?」
片隅で小さくなっていた洸が父に質問した。
「ああ…、ところで誰?」
「菖瞳の彼女だよ」と真面目な顔で兄は告げた。
「彼女…そう言うことか菖瞳…」
父は気まずそうに菖瞳と洸を見返した。
「違うってば!」
「いや、俺は気にしないからな。娘が増えたと思えばそれでいい…」
菖瞳の否定にも関わらず、それは逆効果を生み父は明らかに勘違いし始めた。洸が否定していないことも相まっているのだ。
「雪虎、とりあえずあれ持ってこい」
「あれって?祝い酒?菖瞳と洸ちゃんの前途を祝うのか?」
「バカ!未成年が何言っている。この間言っていた刀の件だよ」
「ああ~。あれか」と言って兄は仏間に向かった。その去り際に「俺も菖瞳も成人しているわ」とツッコミのように残していった。
父は洸をジロジロとなめるように見た後、目を大きく見開いた。すると洸は頷いた。そのコンタクトがいったい何を意味するのか菖瞳にはわかっていない。
そのうちに「持ってきたぞ」と兄がすぐに帰ってきた。その両手には二本の刀が携えられていた。
まさかと思って菖瞳は兄からさっそく一本を奪い取った。見覚えのある柄と鞘。それは紛れもなく菖瞳が切り落とした『録破二日月』であった。それにもう一本、兄が持っていた柄も見覚えのあるものだった。
「一体どういうことなの?それって『疾病木枯らし』よね」
「そうだ。あまり刃を抜きたくはないが、確認してくれ。注意しろよ」と父の合図に兄は慎重に鞘から刃を抜いた。
毒々しい妖艶な刃と言う表現は何度か聞いたが、目の前のそれは確かにそのようだ。杏希が持っていた小刀の鋭い刃先、富雪が使ったという不格好ないでたちの凶器。いずれも中途半端に毒々しい刃先を宿していたが、披露されたその刀は比べ物にならない美しさが宿っていた。
兄は刃を蛍光灯で照らし当て、表面を見せつけた。
「傷がない」
菖瞳は呟いた。その『疾病木枯らし』は確実に一本の刀であり、修繕されたようには見えない。
「その刀も確かめてみろよ」と兄は慎重に刃を鞘に納めて言った。
菖瞳は早速『録破二日月』を抜いた。引き抜く際にすでに予感があった。重みが違う。折った刀の重みではない。
ゆっくりと引き抜きながら表面を見つめた。記憶にある切り落とした表面はすでに通過している。それは光に当てずともわかる。
刀は結合していた。だがその表現は正しくはない。正確には一本に戻っていた。
「気付いたな。それが俺を戻した理由だよ」
「帳消しにしたように元に戻ったの?どういうこと?」
ほほ笑む父に菖瞳は困惑した。突然このようなものを突き付けられたところで答えなどわかるものではない。
戸惑って刀を鞘に戻す菖瞳だったが、洸が口を挟んだ。
「わかりました。『白星』って言う刀を折ったことで、それまで刃に触れてきたものに矛盾を引き起こしたのではないでしょうか?その二つは『白星』が折った物なんでしょう?だから折れた二本ともが元の姿で復活した。まさに『なかったことは、ないこと』だから帳消しになったということじゃないですか?」
洸はいつか見せた名探偵の仕草でこの難問を解き明かした。
「それは俺の推理だ」と兄はツッコミを入れた。
洸は「ばれたか」と舌を出してごまかした。その愛嬌には思わず誰もが笑っていた。
「俺の推理だけどさ、あり得るだろう。『傷無刀』がその存在理由を失ったんだ。それまで切ったという刀の存在も否定されるわけだよ。だから元に戻った。さらにそれは親父にも影響したんだよ。なにせ呪いの条件である刀の命を奪う行為が否定されたんだ。呪いなんて最初から存在していない。親父は矛盾のおかげで戻ってこれたんだ」
とても大それた推理だと思うがこれには菖瞳も納得した。これ以上の根拠が思いつかないし、証明するすべはないのだ。
菖瞳はふらふらと仏間に向かった。
床の間の刀掛け台に『疾病木枯らし』と『録破二日月』を添えてみた。とても立派で見劣りしない。だが、菖瞳には物足りない気がしてしまう。
床の間の前で正座をし瞼を閉じた。こうしていればどこからか『アラズ』の声が聴ける気がした。昔のように『白星十文字』と『漆黒不現刀』の姿を拝むことはできないかもしれないと思うとやはりさみしい。
『アラズ』が消えたのではなく、ただ自分には見えなくなった。そうであるなら構わない。自分には彼女の姿を見て触れる資格はないのであるなら、そうであってほしい。
菖瞳は『アラズ』が消滅してしまっていないことを願った。
「お前たちも大人なんだよな」
瞼を開けて後ろに振り返ると父がいた。
父が普通にいることにまだ慣れていない菖瞳はドキリと体を跳ねさせた。
「いつも拝んでくれたんだよな」と父は仏壇の自分の遺影とお線香を眺めてしみじみと述べた。
亡くなった後の自分を見るのは不思議な気持ちだっただろう。
その足を仏壇の前に移すと座布団に腰を下ろした。
「死んでいた方が良かったか?」と冗談めく父だった。
「まさか。嬉しいんだけど…なんか」
「何か怖いだろう?」
「やめてよ。気持ちの整理が付かないだけで…怖いわけなんかじゃ……」
「そうか?正直俺はビビったね。どんな顔をして家に戻るべきかわからなかった。こんな死んだはずの男が突然出てくるんだ。俺なら真っ先に幽霊を疑う」
「幽霊好きだったじゃない。よく怖い映像とか好んで見ていたよね」
「そうだ。だから現れるにも出方と言うものがある。お前たちを変に怖がらせたくなかった。今になって悪かったね」
「それってどういうこと?」
父の言い方に菖瞳は不信感を募らせた。
父の言い方はまるでいつ家族の前に現れても良かったみたいな言い方ではないか。
「お父さんは私が切り落とした『白星十文字』で戻ってきたんだよね」
「ああ。俺はそう思っている」
「じゃあ、いつ戻ってきたの?それにどうして私が『アラズ』で『白星』を切り折ったと知っていたの?あの場であの刀を見ることができたのは私だけのはずよ。お兄ちゃんだって見えないんだから、他人から聞くことなんてできなかったはず」
不思議と疑問が口から漏れ出した。ついさっきまで何とも思っていなかったはずの疑問が浮上したのだ。
「菖瞳はお父さんを信用できるか?」
「ええ。お父さんのことだから信用したい」
「では、昔みたいに剣道場裏部屋へ来なさい。ここで話すべきことではない」というと父は立ち上がり仏間を抜けていった。
菖瞳は生唾をのんだ。こうやって裏部屋に呼ばれるのはいつも説教がメインだったはず。説教以外にもいろいろ享受されただろうが、説教のイメージが強い。
嫌な予感を感じながら菖瞳は再び床の間を眺めていた。
あえて裏部屋に行かないという手もあるかもしれない。あの部屋は剣道場と違ってまったくもって手入れはしていない。物置部屋としても使っていない。だから、掃除をしていないからやめようなどと提案もできるではないか。
そんな甘い考えも抱いてはすぐに否定した。それは間接的に父を信用していないということになる。父を信ずるには呼び出しに従うしかないのだ。
菖瞳は刀掛けの二本の刀を見つめた。そこにはもう『アラズ』はないし、呪いを証明する痕跡もない。夕雨の画策はすべて無に終わり、彼は何を得たのだろうか。そして自分は何を失ったのか。測ることができる天秤はデジタル社会の現在においても存在しないのだ。
菖瞳は一つため息を漏らして立ち上がった。
居間の方からは賑やかな声が聞こえてきた。複雑な心境のまま菖瞳は仏間を後にした。
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