17 真夜中の訪問
「つまり、お父さんは刀の呪いで亡くなったと言うのですか?」
「ああ、まさか本当に亡くなられてしまうとは。先生の意志は固くてあの時の俺には止められなかったのが今も悔やまれる。今思えば他の人にゆだねることだってできたはず」
「それは嫌ったでしょうね。お父さんはそういう人だったから…」
揺られる車の中で菖瞳は両手を握った。左の席には洸が座っており、菖瞳の心境を察してか腕をつかんだ。
「本当はもっと早くこのことを教えていればよかったのだが、どうも眉唾な話だから話し出せなくてな。俺も君たち家族とは疎遠になったこともあって今になってしまった」
バックミラーから覗く運転席の高岡警部の表情からは少しばかりの後悔の色が伺えた。彼もまた父茂雪の死に関して思うところがあったなどとは菖瞳の知るところではなかった。
「でも、刑事さんの話が本当ならお兄さんや剣道場の人たちを救うことができるということですよね」
洸は体を前のめりにして訊いた。
「確かにあの時、確信はなかったのだが、妖刀の呪いを解くことができた。だがそれはただ刀を折ったからというわけではないと思う。あの時使った刀だからこそ、呪いを解くことができたはずなんだ。先生はそうやって説明してくれた」
「じゃあ、やっぱりその『白星』という刀が必要ってことですか…。そもそもの話なんですけど、その『疾病』とかいう刀で菖瞳のお兄さんがケガを負ったのでしょうか?それも怪しくなりませんか?だって刑事さんの話では、悪さをした刀を折ったのでしょう。もう呪いは消えたかもしれないじゃないですか?それに折った刀はどうなったのですか?」
洸は矢継ぎ早に思った疑問を口にした。
菖瞳は洸の話に否定はできなかった。すべてが言われてみれば確かに疑問に思うところだ。高岡警部の話は希望にも思えた過去の真実だろうが、都合の良い中身ばかりではなかったのだ。
「だからこそ、私の職場に行ってほしいの…」
しばらく静かにしていた助手席の杏希が唐突に口にした。
「職場って?」
仏間での話を聞いていなかった洸が質問した。
「ここよ」と車窓の光景を確認した杏希が後部座席の二人に頭を向けた。
現在時刻は午前零時。うす暗い古風の建物が民家の間に現れた。
「何ですか?」窓越しに見える建物が何とも不気味であった。
「歴史資料館。地元近隣の歴史書や文献なんかを保管したり閲覧できるようにした公共施設です。最近ではたくさん本が寄贈されているから図書館のようにも扱われているけど」
さっそく駐車場に車を止め、菖瞳らは入り口に向かった。入り口は当然ながら閉まっており、閉館している。
「こっちよ」
杏希は少し離れた裏口の前で他の三人を呼んだ。
「いいのですか?こんな夜中に…」
心配する菖瞳に高岡警部は「事件調査の一環だ。公共施設への立ち入りを認めよう」とつぶやいた。
資料館内は古くも不快にはならない懐かしさすら覚える木の香りで満たされていた。
杏希に誘われるままに三人は固まって進んだ。蛍光灯は灯されているが、施設内は不気味そのものである。今にもガイコツ人間が飛び出したり、半透明の人間が壁から現れるのではないかとすら思えた。
「こちらです」と杏希が三人の到着を待っていた。
多くの黄ばんだ書類や本の間を抜けて大きな棚の前に立っていた。
埃っぽい中で杏希はその棚をまさぐり手を引いた。
「まさかそれが…」
菖瞳は杏希の手にしていた物を見て、察しがついた。
「そうよ。話に出ていた『白星十文字』です」
包んでいた布をほどき、中から真っ白な鞘と赤と黒の柄の日本刀が姿を現せた。それは昔、仏間で存在感を放っていた刀に違いない。手渡された菖瞳は懐かしさのあまり言葉を失った。
「この刀があれば雪虎君の呪いを解けるのでしょう?それにもしかしたら…」
「どうしてこの刀がここにあるの?」
洸の疑問に高岡警部が合点の言った口調で推測を答えた。
「君が先生の言っていた頼める人というわけか」
「どういうことですか?父が頼んだということは?」と菖瞳は刀を大事そうに頬でこすりながら訊いた。
「先生がなくなる数週間前に不安になって会いに行ったんだよ」
「そんなことが~」
「そこでなんだが、先生は話してくれたんだ。折れた刀とともにその刀を預けることにしたと。子どもたちには家宝の妖刀について関わらないでほしいとか言っていたんだ」
そのようなことなど、娘である菖瞳は全く知る由もなかった。呪いがあるかもしれないと直面しながらも家族にそのような姿を見せることはなかったはずだ。だが、こうして高岡警部の話を聞いてみれば、あの頃の父は死を悟っていたのではないかと思い当たる節もある。
やけに稽古に付き合うように言ってきたり、話し合いの時間を設けようとした。それらはすべて心境の表れだったのかもしれない。
「刑事さんの言う通りです。おじさんが倒れる前に頼まれごとがあったと言ったよね」
それは仏間で聞いた話だった。菖瞳はそれを思い出して杏希を見て頷いた。
「そこでこの刀ともう一つ『疾病木枯らし』を預かるように言われたの。うちでは何が起こるかわからないって言って無理に頼まれたわ。まさかあれが死を悟っていたなんて…今思えば危機迫るものがあったかもしれない」
「ええ?待って『疾病』の方も預かったと言うの?」
あごに拳を当てた洸は名探偵のようだった。
「そうよ。あの時はすでに折れていたけど、事情までは教えてくれなかったわ。柄の付いた方は鞘に納められて、折れた先端側はあの雑誌に挟んであったわ」
「それってつまり…」
雑誌と言われてピンとくるのは箪笥棚から現れた年代物のアレしか思いつかない。密かに耳打ちして確認した菖瞳に杏希は黙って頷いた。
「これらの二本の刀の危険性は知っていたから、この場所に資料とともに保管しておいたわけなのよ」と杏希はまた本で溢れた同じ棚をまさぐった。手や腕を動かすたびに埃が舞う。杏希の白いブラウスもすでにすすで黒ずんでいた。
ようやく取り出し、三人のもと、木のテーブルの上に置かれたのは一冊のクリアファイルだった。置かれた拍子にテーブルから埃が舞った。それには三人ともくしゃみを催すほどだった。
治まったムズムズ感のまま菖瞳はそのページを開いた。中に収められていたのはまたしても黄ばんだ文献である。だが、その内容を菖瞳はすでに目にした記憶があった。
「お兄ちゃんのデータで見たものです」
「きっとこの資料をコピーしたものでしょうね。雪虎君がここを訪ねてきたとき、この文献だけは見せたのよ。刀の存在を教えることだけは避けるようにおじさんから言われていたし、私自身、どう言って説明するべきかわからなかったから」
パラパラめくる菖瞳は文献のほとんどに目を通していた。数日かけて目を通したこれらの資料は大体覚えていた。
だが、その中でも見覚えのない資料に手を止めた。
「杏希さん。このページは?これだけはなかったはずです」
菖瞳は杏希にファイルを手渡した。
「資料はおじさんから預けられて以来手を加えていないはずよ。それは雪虎君に見せた際も同じだと思うけど…」と杏希はその資料を読み始めた。
気が付けばいつしか洸の姿はそこにはなかった。
「洸は?」と菖瞳は高岡警部に聞くも彼も気が付かなかったようで周囲を見返した。
「大丈夫。ちょっと気になっちゃって」と当の本人は自由奔放といったように資料の棚を漁っていた。
「ねえ、菖瞳ちゃん。雪虎君はこの部分をあえてデータに残さなかったのかもしれない。この記述でおじさんの死因について気が付いたのかもしれない」
杏希はファイルを片手に顔を上げた。指では記述をなぞっている最中のように表面を抑えていた。
「いい?この資料には『白星十文字』の特性が触れられているんだけど、刑事さんが教えてくれたように他の刀を折る記述が書かれているのね」と杏希はその記述を指でなぞりながら読んで見せた。
『破壊の意思を以て振れば、業物なれど容赦なく、若き人の身体の如く身を通す。しかしながら、一本の刀は命のごとし。命を奪いし者の身に災い返りて身を滅ぼさん。齢二十五の青年なれど三十五を迎えず亡くなりて、十代の若人でありても、人を殺めし数多く、二十を迎える前に逝く。一つの命を切れば余命十年、二つで七年、三つで四年…人を殺めし数において命削れ往生むなしく息絶ゆる』
それはまさに茂雪が若き高岡耕助に説明したものだった。
「では、お兄ちゃんはお父さんが誰かに殺されたとは思っていなかったのですね…」
「だが、あえてデータに残さなかったのだろう。雪虎にも思うところがあったのだろうさ。長いこと犯人がいると思って調査をしていたはずだ。そこにそんな記述が現れたんだろう。彼も警察官として迷っていただろうさ」
高岡警部は回ってきたクリアファイルの文字を眺めながら心情を推測した。それは同じ警察官だからこそ想像できた心境だったかもしれない。
データ入りの誕生日プレゼントを渡されたとき、兄は菖瞳に何かを言いたげにしていた。それはこの迷いの表れなのかもしれない。
菖瞳の脳に浮かぶあの日の兄はやけに明るくて楽しそうに努めて見えた。
「でも、そうなると…」
菖瞳の頭に疑問が残る。食い入るように見る二人を前に菖瞳は改めて疑問を投げかけた。
「お兄ちゃんはどうして襲われたの?私はてっきりお父さんを殺して、この『白星十文字』を盗んだ犯人がお兄ちゃんを襲ったのだと思っていたのだけど、お兄ちゃんは犯人がいないと気が付いたのでしょう?お兄ちゃんが襲われる理由は何?それにもう一本の妖刀『疾病木枯らし』はどこにあるの?」
「それが…」
杏希は初めて気まずそうにした。
「実を言うといつの間にかなくなっていたのね…」と人差し指を合わせて言った。
「なくなったとは紛失したということか」
いまいちよくわからず高岡警部は聞き返した。
「それがわからないのです。確かにその刀とともに別の場所に保管していたんだけど、いつの間にか無くなっていて…」
「つまり、ここにはないけど、使われていないとも限らないわけだ」と洸がだしぬけに棚から顔を覗かせていた。
「そうとも言うね…」と笑ってごまかす仕草はいつかの彼女のままだった。
「杏希さん、どうしても聞きたいことがあるのです」
再び車に乗る前に菖瞳は彼女を捕まえた。
改まった菖瞳に杏希は何事かと神妙な様子だった。
「恋愛感情はなかったわけですよね?なのにどうしてあんなにお兄ちゃんの面倒を見てくれたのですか?」
「それは……」
言い訳を取り繕うとして考えているのは菖瞳にもわかった。
菖瞳の不審感を含んだ目に耐えかねた杏希は懲りたように取り繕うことをやめた。
「分かったよ。正直にね…。実は…。雪虎君が気になってしかなかったのよ。恋愛感情がなかったわけじゃないわ」
「でも…いとこ同士ですよ。私たちは忘れているかもしれないけど、杏希さんにとっては弟みたいなものじゃないですか」
「わかっているよ。そんなの…。だけど、久しぶりに現れた雪虎君と昔みたいに話しているうちに気になる存在になったと言うか…。別に法律上はいとこ同士の結婚は許されているんだから不思議じゃないでしょう?」
「でも…」
恋愛感情を否定したいのか何なのか、菖瞳は自分でもわからなくなっていた。本人がそう言っているのだからそうなのかもしれない。だが、なぜか腑に落ちない。
「本当に行くのだね」
車に乗り込む菖瞳に高岡警部は再度問いかけた。菖瞳は心ここに有らずといった様子で全く声が聞こえていないのだ。
「菖瞳、今日はいったん休んで明日に改めた方がいいんじゃないの?」
心配そうに洸も顔をのぞいていた。
我に戻る菖瞳は三人の表情を見返した。皆一様にそれぞれ血色が悪い気がした。それもそのはずなのだ。渡辺陽汽と立ち回り逮捕に結びつけ、帰れば道場の対応に追われたりとすべてこの十数時間で起きたことなのだ。誰もが疲労を浮かべて当然なのだ。
「帰ります。無理に連れて来て下さり、ありがとうございます」
そもそもこんな真夜中に無理を言ったのは杏希に理由があった。彼女を信用するべきかわからないでいたのだ。『白星十文字』を持っているというのを証明させるためなのだ。そこに洸も伴ったというわけだ。
「君がそういうのなら…だが、皐月さんや雪虎君のことはいいのか?」
「仕方ありません。何の情報もありませんから…。もし夕雨という人が犯人というのが本当だとしても、もう夜も遅いですから…」
「安心したよ。先生みたいに夜中だろうが構わず行こうなんて言い出さなくて」
「何ですか…?」
高岡警部は呟いたつもりでいたが、耳に届いたらしく、菖瞳は聞き返した。
家に戻ってみると、数時間前と打って変わって家はもの静かだった。大勢いた被害者とその家族は警察の助力によってそれぞれ家に連れ帰ることとなったのだ。それでもマスコミの姿が家の周辺にちらついて見える。事件の報道が治まる気配はまだ先であると窺えた。
杏希の話によると母と兄は襲撃の際に夕雨に連れていかれたのだそうだ。男は突如家に現れるなり狂乱の如く生徒に切りかかったのだという。
菖瞳にはその常軌を逸した行動の根源がわからなかった。16年前の事件に関して二つの家同士諍いはあったことは確かだろうし、嶺橋貴雨が逮捕されたという話も本当のことのようだ。だが、それは一昔前のこと。こう思っているのもこちら側の感想でしかなく、向こうはどう思っているかはまた別の話である。それでも現在においても一方的に恨みを持たれるいわれはないはずではないか。
ヤキモキする気持ちを抱えたまま菖瞳は仏間のふすまを開いた。
「誰?」
思いがけぬ人の存在に菖瞳は悲鳴をあげそうになる。誰もいないと思われた家に見ず知らずの何者かが仏壇の前で手を合わせていたのだ。
スーツ姿の背中は広いが長髪でパーマを当てたように毛先がクルクルと乱れていた。一見女性の後ろ姿とも思えるが男性に違いない。
警戒する菖瞳に男は座ったまま体を向けた。中世的な顔つきのせいか髪型と相まって女性のようにも見えるが、やはり男性のようだった。
「失礼しています」と男性独特の低い声が聞こえてきた。
「誰ですか?」
菖瞳はますます警戒心を尖らせた。
「嶺橋夕雨です。これも何度目になるか。覚えていないかもしれないけど、君のハトコだ」
言われてみれば6年前父の葬儀で一度話した男性に違いない。それにしても渦中の張本人が目の前に現れたというのだ。
「お母さんとお兄ちゃんはどこですか」と震える声で菖瞳は訊いた。
「僕は知らないよ」
「じゃあ、剣道場の人たちは?生徒さんたちをケガさせたのはあなたなんでしょう⁉」
「変なことをいうなあ。僕がなぜ高岡さんたちを傷つけるなんてさ」と夕雨はおもむろに立ち上がった。腰には見たことのない日本刀を携えていた。
すっと立ち上がった夕雨は菖瞳の頭一つ分ぐらいの大きさでありながら、細身の体が際立っている。
「それは分かりません。でも私たちから杏希さんの記憶を奪ったのはあなたなのでしょう?それに渡辺に私のことを助言したのも…」
菖瞳の問いに夕雨は鼻だけで笑った。
「それに…洸の記憶から幼馴染の記憶を消したのもあなたなのでしょう?」
「この刀について君はもう聞いているのだろう?」
夕雨は腰元から日本刀を抜いた。姿かたちは初めて見るものに違いない。
「『録破二日月』だ。こいつで記憶を消されたと」
「名前はさっき杏希さんから聞きました」
「菖瞳はこの刀の力を信用しているわけか?普通変だと思わない?記憶を消せるのだよ。そんな話を受け入れられると思うか?」
「もちろん信じられません。でも他にもあるのだから否定はできないと思ったのです」
菖瞳はふと腰に手を当てた。
「そこなんだよ。結局否定できないんだよ。それは君自身がすでに体感している。だからこんな眉唾な妖刀も信じられてしまうのさ。おかげでうちは両親を失ったよ」
夕雨の目が突然鋭くなった。
「君は『漆黒不現刀』を見つけたのだろう?否定しなくていいさ。既に確証は得ている」
「なぜです」
菖瞳はまた一歩身を引いた。男の全身からただならぬ殺意が浮かんで見えた。
「この刀は『健忘刀』と聞いただろう。つまり誰の記憶でも消すことができる。洸ちゃんだって高岡さんだって、もちろん菖瞳ちゃんだって…。僕はいつだって誰かの知らないうちに介入できた」
「じゃあ、『アラズ』のことは私が…」
「残念ながらそれはちょっと違う。本人は言っていなかったかな?この家に潜入して『不現刀』を探していたことを」
「まさか、杏希さん?」
うすうす気が付いていた違和感。一時、入り浸るように家にいた。それが、『漆黒不現刀』について示唆した直後から兄への熱でも冷めたようにはたとこなくなったのだ。さっきも本人は恋愛感情がどうこう言っていたが、それは刀を探していたというのが腑に落ちる。
「『不現刀』を君はどれだけ知っているのだ?」
「ほとんど何も知りません」
「どうせそんなところだろうさ。加えて僕の父が亡くなったことも知らないだろうね」
親戚の情報はほとんど皆無と言っていいほど不通であった。話には聞いていた貴雨が逮捕後どうなったを身内は誰も知らなかっただろう。
「そこが気に食わない。お前らはさして賢いわけでも栄えているわけでもないのに本家じゃないか。うちがどれだけ功をなそうと、所詮本家の名所ある家柄だけで見劣りしてしまう。しかも長男である祖父が本家を奪われたのはうちにとって最大の屈辱なんだ」
「ごめんなさい。よくわかりません。そんなに家柄が大切ですか?」
無神経だとわかっていても菖瞳は聞かずにはいられなかった。
気に障り怒られると思った菖瞳だったが、夕雨の反応は違った。
「これは全部父の言い分だ。僕は家柄を気にしていないし、父は本家の名の代償に莫大な資産を受けたことを忘れていたと思うよ。うちが小さいながらも会社を立てて財を成せたことは恩恵だと思っている」
身なりの良いスーツは確かに高級そうだった。高岡警部から聞いた話の中にもメイドを雇っているというのも聞いていた。彼がそれなりにお金持ちであることはまず間違いないだろうと思えた。
「そろそろ本題に入ろう」と夕雨はおもむろに刀を鞘から抜いた。きれいな刃が姿を現せた。現に見た『白星十文字』とは比べ物にならないが、『録破二日月』も丹精込めて作られた業物に違いない。
「今日はどんな様子かを見に来ただけだから、もう僕の記憶は必要ない」
夕雨は丸腰の菖瞳に刀を振り下ろした。
菖瞳は突然の斬撃にぎりぎりまで反応が遅れた。少しのかすり傷でも効果はあると聞いている。だが、よけようにも避ける間合いを失っていた。
菖瞳は刃を止めた。
瞬間的に回した腰もとから『漆黒不現刀』の柄を抜き刃で受け止めたのだ。
「持っていたのか⁉」
刹那的な一撃を交わし切った菖瞳は物言わず『アラズ』を構えた。真剣を相手に向ける恐怖はあったが、冷静に相手の刀の動きを見つめていた。
「今の攻撃を受けられては僕も勝ち目はない」
夕雨はあっさりと刀を収めた。
「菖瞳ちゃん。何?今の音は⁉」
その声に菖瞳は驚いた。帰ったと思われた杏希が姿を現せたのだ。
「あ、あんた」
杏希は夕雨を見るなり怒鳴り声をあげた。
「よくもぬけぬけと現れたわね!皐月さんと雪虎君を誘拐しておいて」
「確かに渡辺君から菖瞳の不在連絡は聞いていた。だけど僕は今晩の騒動に関しては何も知らないし、君の母や兄に関しても知る由はない。お前がやったんだろう。母を殺したんだ、今回もお前の仕業だろう」
「どうして私が⁉」
絶叫した杏希は物騒にも懐から小刀を出した。
「やるのか⁉」と火に油を注ぐように夕雨も『健忘刀』をもう一度鞘から抜いた。
一触即発の空気、もしものために菖瞳も『アラズ』を抜いた。
まず動いた杏希は小刀を振り回した。見たことのない速さで動く杏希はこれまで知っている彼女ではない。以前自分をのろまと表現していた彼女ではないのだ。
杏希の刀捌きに夕雨は慎重だった。お互い互角の速さで刃物を扱った。そこはさすがは嶺橋家の血筋というものだと、菖瞳は間に入るのを躊躇って見ていた。
そんな修羅場と化した仏間に新たな訪問者がやってきた。
「やめなさい。二人とも」
その声に菖瞳は肩を震わせた。
「お母さん!どうして!」
母が腕を組んで襖の外で仁王立ちしていたのだ。
「おばさん。こいつのところに誘拐されたんじゃないの⁉」
「だから知らないと言っていただろう。お前はそうやって僕を悪役に見立てるんだ」
「私をスパイに仕立てたのはあなたよ」
と未だお互いを非難し合う二人だった。
「とにかくそんな物騒なものはしまいなさい」
皐月の命令に二人はおとなしく刃を収めた。
自体を把握できない菖瞳もひとまず『アラズ』を鞘へと納め母の顔を見返した。
「さあ、こちらへ来て説明してもらいますからね。杏希さん、それと夕雨君」
二人は思いのほか大人しく仏間を後にした。
部屋の蛍光灯の紐を手に菖瞳は父の遺影を眺めた。できることならこの騒動の行方を最後まで見届けてほしいと願い静かに紐を引いた。
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