16 ジャージ侍、罷り通る

「たのも~。貴雨よ。来てやったぞ」

 それは日付が変わった深夜一時頃のことだった。嶺橋茂雪は高岡耕助を伴ってと門を叩いて呼んだ。およそ車で二時間かけてようやくたどり着いた目的地は立派な門と塀に囲まれており、茂雪の自宅と比較しても遜色ない存在感を誇っていた。ここが嶺橋家の分家であることは事前に聞かされていた耕助だったが、あまりの強引な茂雪の訪問方法に驚かずにはいられない。

「先生、夜中ですよ。やはり時間を於いた後の方が良かったのでは?」

「何言っているんだよ。こういうのは迅速さが肝心だとあれほど説明したであろう。一刻も早くうちの門下生を目覚めさせないとことが大きくなるのだろう?今日の朝には親父の告別式なんだ。せっかく訪問してくれた弔問客らをあのまま放置はできん」

「ですが、決断はもう少しかけるべきではありませんか。せめて奥さんに一言相談した方が…」

「そのことをまだ言うのか。これしか方法はないのだ」

 そう言って茂雪は肩に掛けていた日本刀を腰に添えた。ベルトでちょうどよい位置に添えられた刀とミスマッチなジャージ姿は茂雪にしか出せない独特の渋みのある現代版の武士を思い浮かばせた。

 耕助の目には柄を強く握りしめた茂雪の手が小刻みに震えて見えた。

「貴雨の奴、寝ているのかよ」

 茂雪はぶっきらぼうに掃き捨てた物言いをして門から距離を置いた。

「暗いですから、やはり就寝中ではないでしょうか」

 耕助は門の曇りガラスに手を添えて家の中を確かめた。

「高岡君、少し横に離れてくれないか」

「何をするのです…まさか」

 茂雪が柄をつかんで今にも抜刀しそうな構えをしていた。刀で玄関門を切ろうとしているのだ。

「結構な破壊力だと思うから離れてくれ」

「素直に呼び鈴押しましょう。何のためのインターホンですか」と慌てて耕助はボタンを連打した。体裁など気にしていられない。茂雪の威圧は本物だった。

『静かにしてください。こんな夜中にどなたですか』

 女性の声がスピーカーから聞こえてきた。声の主は不機嫌であり、怒りをあらわにするのは至極当然のことだ。

「嶺橋茂雪だ。あんた貴雨のツレか?」

 柄から手を離しインターホンに寄った茂雪だったが、ぶっきらぼうな物言いは一貫していた。

加耶子かやこ様はご主人様と出かけております』

「するっていと、あんたは何者だ?」

『お使いしております家政婦でございます』

「家政婦…」その存在を仮定していなかった茂雪には衝撃でしかなかった。

『あの、もうよろしいでしょうか』

「いや、まだだ。貴雨はいないんだな」

『この家にはいまおぼっちゃまと私の二人しかおりません』

「貴雨はいつ戻る?」

『さあ、わかりかねます。お二人とも盛り上がっておられていましたから、今晩お戻りになるかどうか』

「それならそれで入れてくれ、中で待つ」

『困ります。こんな遅くに来客は困ります。失礼だとは思わないのですか』

 相手は明らかに嫌悪を示している。だが、それで引かないのが茂雪だった。

「それならこの門を壊してでも入れてもらう。うちはあんたのところのご主人様にひどい被害を受けたのだ。そのことは聞いていないようだな」

『知りません。それ以上そこに居座るようなら警察を呼びますよ』

「何を隠そうこっちはその警察と一緒だ」

『わかりました。そのような嘘を申すのでしたら、こちらもそれなりの対応を取らせていただきます』

 家政婦の声はそう言って途切れてしまった。

「何をするつもりだ」と茂雪がいくらマイクに向かって声を投げかけたところで、相手には伝わってはいない。

「無駄のようです。やはり引き返して時間をおくべきかと…」

「このまま引き下がれるか。妖刀はすぐそこにあるかもしれんのだぞ」

 これほど聞き分けの悪い先生を見るのは初めてだから、耕助はタジタジとなっていた。寒空の下でこれ以上通信の途絶えたインターホンの相手をするのも億劫になり始めた。

「やはり下がってくれ。ここはこの『白星十文字』にて」と再び茂雪は腰の刀に手をかけた。

「破壊行為は控えてください」ととっさに耕助は前に飛び出し立ちはだかった。

 茂雪は耕助が見えていないようで、柄をつかんで精神統一していた。目の前に誰が居ようと今にも刃が飛び出しそうである。

 そこに大きな破裂音と小さな衝撃音が深夜の住宅街に鳴り響く。

 この物騒な物音には茂雪の精神もかき乱され、瞬時的に我に返った。

 音の先はすぐ近く。見上げると目と鼻の先の窓からのものだった。驚くことに女がライフル銃を構えていたのだ。

「まさか撃ってないよな」

 耕助は呟きながらうす暗い地面を確かめた。

「次は外しません」とインターホンと同じ声がこちらに警告を発してきた。

「何だあの女」と呟いた耕助は砕かれたアスファルトから銃弾を取り出した。あの家政婦と名乗る女はあろうことか実弾を威嚇射撃として使用したのだ。

「それ以上撃つな。どういうつもりだ。そんな物騒なもの」と茂雪は急いで死角となっている門のそばに寄った。

 茂雪に次いで耕助も身を隠した。

「そっちは日本刀じゃないの。こちらも銃ぐらい扱うわ」と弾を込める音とともに返答があった。

「あんた正気じゃないって。こっちには本当に警察が」

 彼女は茂雪の話を最後まで聞かずにまた一つ発砲した。今度は塀をかすめて車道の路肩に命中した。

「頼むから落ち着きなさい」と耕助は懐から警察手帳を片手に両手を掲げた。

 耕助の降伏のポーズにも関わらず女は再度銃弾の装填する音を立てた。

「これは本物だぞ」と手帳をちらつかせた耕助だったが、女は三度目の発砲を行った。銃弾はまっすぐと手帳を貫通し地面に突き刺さる。

「何考えてるんだ!」

「もういい。あの女に説得は効かないようだ。俺がここを切り開く。急いで中に入って止めるしかない」

「ですが…」

 渋る耕助を横に再び刀の柄に手をかけた。

「やめよ。霧乃。それに茂雪」

 道の向こう側から貴雨が何事でもないようにのんびりと現れた。隣を歩く妻はとても幸せそうに腕に絡みついていた。

「貴雨様。お帰りでしたか」

 慌てたように女は体を引っ込めて窓を閉める音が響いた。

「おい、どういうつもりだ。お前んところの家政婦は意図も容易く真夜中に銃を撃ってもいいと教育を受けているのか」

「いや、先生。真夜中だからダメだとかの問題ではなく、使用も所持も決められたルールの中で扱うのが基本です。日本の法律には銃砲刀剣類所持等取締法という歴史ある取り決めが…」

 耕助の説明を無視し、茂雪は刀を八相に構えていた。月明かりに照らされたむき出しの刃は美しく輝いていた。

「茂雪。そんなもの向けるな。脅しのつもりか?」

「どう受け取られようが構わない。『疾病木枯らし』を返してもらおう」

「ついに力ずくかね」と言った貴雨は狐のような吊り上がった目じりが印象的な眼を細くさせた。

「おかえりなさいませ。旦那様。そして奥様」

 門が開かれ女が主人らを出迎えた。背後に狩猟用の拳銃が垣間見えるのが物騒だが、その姿は敵対していた二人が想像していた家政婦とは違い。とても若く、美しい女であった。

 家政婦というよりかはこの頃流行りのメイドと呼ぶほうが適切ではないかと耕助は頭の片隅に思いとどまらせた。

「霧乃、夕雨はどうですか?」と奥方は対峙する夫と茂雪を無視してメイドに尋ねた。

「おぼっちゃまはすでにお眠りになっているはずです」

「はず、ですか?その意味わかっているのでしょうね?」

「はい?」

 無謀にもメイドは加耶子に聞き返した。すると彼女の表情は見る見るうちに恐ろしい物へと変わっていった。

「これほどの騒ぎを起こしたのですよ。この者たちをあしらえず、うるさく音を立てる銃なんて放って。もしかわいいあの子に睡眠障害が襲ったりでもしたら…」

「失礼しました」

 メイドは背筋を凍らせたように伸ばし、勢いよく頭を下げた。

「すぐにでも確かめに参ります」

「待ちなさい。夕雨は私が面倒を見ます。お前はこの者たちをもてなすのです」

「はい!」

 恐縮したままメイドは頭をあげようとはしない。加耶子が姿を消しても顔はずっと地面を向いたままだった。

「霧乃、必要ない。すぐに出て行ってもらうのでな」と間髪なく貴雨は否定した。

「俺もその気はない。刀を返してもらえればそれで良い」と茂雪は刀を鞘に納めて言った。

「それには取引を守ってもらわねばならん。して、約束の物は持ってきているのか」

「ああ。ここに有る」

「まさか、それがそうだと言うのか」

 貴雨の問いかけに茂雪は無言だった。だが、表情だけは何かを物語っているようで、それ以上の問いかけを必要としないことが暗黙のうちに定められていた。

「霧乃、状況が変わった。この者らを道場へお連れしなさい」

「はい。旦那様は?」

「俺は準備がある」というと貴雨は母屋へと消えて行った。

「ではこちらへ」

 メイドに案内されるままに別棟となる入り口を目指した。彼女のいまだに抱えるライフル銃が物々しい空気を放っていた。露出の少ないメイド服だが、これほど美しい女であるならそこいらのカフェに比肩しないはずだ。

 だからと言って気を許すわけにはいかない。耕助は警戒しながら彼女の後を追った。容赦なく人の手帳を打ち抜く女だ。粗相があったりしたら何をされるかわかったものではない。

「靴はこちらでお脱ぎください」

 暗い畳づくりの道場に通された。電気の類はつけないらしく、うす暗いまま、外から照らす月明かりだけが頼りである。

「サミ~い」と茂雪は感想を漏らした。

 耕助はとっさにメイドの様子を確かめた。ちょうど目が慣れた頃で彼女の表情は確認できる。だが、茂雪の感想に関して何も関心を抱いていないようであり、もしかすると聞こえなかったのかもしれない。耕助は思わずホッとした。

「ここ、意外と埃っぽいな」と無神経にも茂雪は独り言をつぶやいていた。

 耕助は冷や冷やながらも彼女の様子を覗き見たが、これも特段の関心を示していない様子であった。どうも、二人の客人を客とは思っていないらしく、さして興味も抱いていないようだった。

「何だよ。あの女。本当にメイドさんか?用心棒か戦争屋の間違いじゃないか。もしかして伝説の傭兵なんじゃ」と思わず耕助も本音がポロリ。

「聞こえましたよ」

 ほんの小さな声を聞こえたというのだ。よっぽどの地獄耳か、口実が欲しかったのか、メイドは例のライフル銃を構えて耕助に向けた。敵意むき出しの表情に耕助はひれ伏さずにはいられない。

「やめよ。高岡君、君も謝りなさい。彼女は自分の仕事を全うしているだけだぞ。自分の仕事をけなされるのは嫌だろう?」

「あなたもです」と今度は茂雪にも銃口を向けた。

「霧乃、撃っていいのはどこだか教えたはずだ」と奥から貴雨が現れた。彼もまた上下ジャージ姿で手には日本刀を携えていた。

「はい。家以外でした。申し訳ありません」とメイドは敬礼とともにライフルを収めて言った。

「よろしい。下がれ」

 貴雨の指示でメイドは奥に姿を消した。

「おい、どうなっている。あの娘に何吹き込んでいるんだ」

「家のことに首を突っ込まないでもらいたい。それよりもさっそく差し出してもらおう。話はそれからだ」

 貴雨は腕を組んだ。それは威厳を見せようとか、身を守ろうとする心理が働いたわけでもなさそうで、単にこの部屋が寒いのだ。体が小刻みに震えているのが見える。

 それは全員同じであり、一刻も早く暖を取りたい衝動に駆られていた。

「ほらよ」という茂雪の掛け声の後、遅れてガチャンというものが落ちる物々しい音が響いた。一部始終を見ていたはずの耕助には何が起きたのか全く理解できないでいた。確かに茂雪が投げた辺りで物音がしたはずが、そこには何もない。

「受け取ってくれ。『疾病木枯らし』は後からでもよいぞ」

 自信たっぷりに言い放つ茂雪に対面している貴雨は恐る恐る一歩また一歩とすり足のままに茂雪のもとへと向かった。そしてちょうど物音がした辺りで腰をかがめると、両手を下ろして手探りのように床に触れた。

「どうなっている。本当にここに有るのだな」

「ああ。もちろん。くれてやったぞ。早う掴み上げよ」

「……」

 貴雨は何もない床を必死に手探りをしていた。

「どうした?お前の欲していた物はすぐそこだぞ。早うせ」

 茂雪は腕を組んで仁王立ちのまま見下ろしていた。いまだに床を這う貴雨に苛立ちすら抱いている。

 だが、先にしびれを切らしたのは貴雨の方だった。地を這うのが馬鹿らしくなったのだ。彼はかがめた腰のまま携えていた日本刀を収めた鞘の先で床を押し突いた。床への八つ当たりというものだ。

「だましたんだな」

 貴雨は納得した口調で体を起こした。押し突いた刀を杖代わりにしていた。

「バカ言うな。『アラズ』はそこにある」

「ない。いくら探っても無い物を触れることはできない。ここにあるはずはないのだから。そもそも『アラズ』なんてものは存在しないのではないか」

「やはり、お前は見えていないのだな」

 二人の会話に耕助は終始疑問符が浮かんだ。茂雪は『ないものをある』と主張し、貴雨は『ないものをないのではないか』と疑問を抱いているのだ。どちらも言っていることはまるでなぞなぞの一種ではないか。

「『それ』は見えていない者に触れる資格を与えない。お前の家系は見えない血筋にすぎない。だからこそ親父は『それ』を受け継いだのだ。その刀一本のためにいさかいを引き起こすのは大きな間違いだぞ」

「嘘を並べたところで何の証明にもならん。嘘を申して俺をだまそうとする魂胆は見え透いている。この罪はいよいよもって罰に値するものではないか」

 貴雨は一歩下がると刀を鞘から抜いた。鈍的に輝きを放つ毒々しい妖艶さ。

 耕助の目にもその刀の刃先は他では見たことのないほどの不気味さを醸し出しているように見えたのだった。

 鞘を投げ捨てた貴雨は刃先を茂雪に向けた。

「さあ、そこにあると言うのだろう。そいつでケリを付けようじゃないか」

「お前は愚か者だ」

 茂雪は一歩前に踏み出すと腰をかがめた。さっきまで貴雨が手探りで這っていた辺りである。貴雨とは対照的に茂雪はすっくと上体を起こした。

 そのまま茂雪は手に何かを持った仕草をしていたが、すべては素振りにしか見えない。本人以外には一連の動きに意味はないものだと思ったことであろう。

 それから二人は対峙した。一方は毒々しい刃をちらつかせまっすぐと構えている。そしてもう一方は半身に構えていた。腰に刀が一本下がっているのだが、それには一切手をかけていない。だらりと下がった両腕に刀を防げるような備えはない。諦めてしまったような格好にも見えるだろうが、彼の表情は真剣そのものだった。

 それからは沈黙が続いた。灯りの一切ない道場において、窓からの月明かりのみが頼りだった。その静寂がどれほど長いものであったかは分からない。ともすれば本当は感じるよりも短い時間の中での静寂だったのかもしれない。

 耕助は二人の行く末を傍らから見守るしかできないでいた。

 月明かりのもとちらつく雪が照らし出した影が貴雨の目に落とした刹那、彼は動き出した。丸腰の相手に彼は容赦なく飛びかかった。

 貴雨の攻め手を難なくかわした茂雪は間合いを取った。

 二手、三手と繰り出す貴雨の攻めに一切を受けずにかわすのみだった。

 飄々と動き回る茂雪をうっとうしく思った貴雨は強引にでも刃先を突きさしてやろうと躍起になっていた。

 動き続ける貴雨は集中力を乱し始めた。疎かになる攻撃はもはや最初の一手に比べると粗末でしかない。だが、それでも貴雨の攻撃には一切の躊躇いというものが存在しなかった。通常は生身の相手を切り殺してしまうのではないか、という抑制が働くもののはずだが、貴雨にそれは全くない。

「どうした、やはりかわすだけじゃないか!」

 威勢よく挑発してみせる貴雨だったが、もはや刀を振り切るだけで精一杯だった。

 茂雪は攻撃をかわすのみでそれ以上は何もしない。

 こうした攻防は長いこと繰り返されたのだが、ことが動いたのは茂雪のちょっとしたミスだった。突然茂雪が足を躓いて腰を着いたのだ。彼の足元には貴雨が投げ捨てた鞘が落ちていた。

 隙を見た貴雨はここぞとばかりまっすぐに刀を振り下ろした。

 茂雪の身体の真ん中を狙いもはや回避は不可能に思われた。

「まずい!」と耕助は見ていて思わず声を上げていた。

 振り落とされた刀はそのまま茂雪のもとに落とされたと貴雨も確信していたはずだった。だが、刀は途中で止まっていた。宙を浮いたように刃先は茂雪の顔の真ん中、残り数ミリのところで止まっていたのだ。

「なぜだ⁉」

 戸惑う貴雨に対して茂雪は「危ないわっ」と言って腕を振った。それと同時に貴雨の刀は振り離された。

 構え直そうとする貴雨を前に茂雪は堂々と立ち上がった。ついでに先ほどまでには見せなかった腕を構えるしぐさを添えていた。もちろん手には何も見えず、ただ仮定として何かを握っている振りにしか見えない。

 今度は茂雪の方が先に踏み出した。

 当然丸腰の男が立ち向かうのは無謀でしかない。それでも耕助の目には何かの力を感じはじめていた。

 踏み込んだ茂雪に貴雨は刀を下ろす。だが、それはまたしても何かにはじき返されてしまう。ついでに男の悲痛の声が聞こえてきた。

 貴雨の向こう側へ抜けた茂雪は正面に向き直し同じく踏み込んだ。今度は貴雨は攻撃をしない。身をかわそうとしたのだが、茂雪はその横をぎり抜けていく。またしても苦痛を訴える声は貴雨のものだった。

 そして決定的な瞬間を耕助は垣間見た。

 まっすぐ向き合った二人。またしても茂雪の方が一瞬早く踏み込んだ。今度は腕を大きく振り上げていた。相手も同じく刀を大振りに振り上げると、まっすぐに振り下ろした。そのままなら当然ながら刃のある刀が茂雪の脳天を貫くだろう。だが、それは起きなかった。

 ちょうど宙の真ん中で止まっていたのだ。

 耕助は改めてないものを『ある』と実感した。茂雪は確実に見えない刀を持っている。

 鍔迫り合いになっていることに驚愕したのは貴雨も同様だった。思わず腕の力が抜け、押し返されていた。

 そのよろけた貴雨を茂雪は逃さなかった。瞬時的に懐に迫り込み、刀を振れる間合いを与えなかった。

「もうよかろう。嘘をついて騙そうとしたなどとは言わせん」

 貴雨の左頬をスーッと縦に沿って血が浮き出てきた。見えない刃先が表皮を掛け下りているのだ。

 貴雨は刀を持った左手を振り投げた。刀をその場に投げ捨てたのだ。

「高岡君、手錠を」

 突如呼ばれた耕助は慌てて男を後ろから取り押さえ、用意していた手錠で後ろ手にした。最初は抵抗した貴雨だったが、掛けられた手錠にうろたえて、身体をうつぶせにしたまま起き上がろうとはしなくなった。

「まずは犯人を確保したな」

 これまた見えない鞘に刀を収める所作をしながら、茂雪は満足そうに耕助に言った。

「あとは呪いを解かなければなりませんね…」

 耕助は苦々しい顔を茂雪に向けた。

 茂雪は一つのため息の後、床に捨てられたままだった刀と鞘の両方をつかみ上げた。一度の鍔迫り合い程度では刃こぼれなど欠片も見えない。添えられた刃先は凛々しく鋭いままである。

「それが例の妖刀『疾病』何とかって奴ですよね」

 耕助の質問に茂雪は話し始めた。

「この刃でケガをした彼らは正気を削がれたように無くしてしまう。ゆえにこの刀はうちの家が長年に渡り悪用されないよう保管していたものなのだ。それを貴雨は…身内が身内に使うとは皮肉なものだ」

「わかっているだろうが、俺を逮捕したところで被害者の誰一人として証言をするものはいない。気を削がれたものは永遠その意識を戻すことはないと言われている。今更になって騒いだところで奴らは戻ってくることはない」

 貴雨は背中に力を入れて体を反らし、頭を上げた。逮捕下に置かれてもなお彼は茂雪を蔑むことをやめる気はないようだ。

「『気削刀』の特性を忘れてはおらん。呪いの力を容易く解けないこともわかっている」

 そう言って茂雪は刀をうつぶせの貴雨の元、刃先を向けて置いた。

 刀とともにすぐわきに前に胡坐をかき腰に添えた刀を鞘ごと抜いた。

「こいつなら『疾病木枯らし』の呪いを解けるだろう」

 鞘から刀を抜きまたしてもその姿を露わにさせた。

 暗闇においても雪のように白く美しく、反りの曲線美がうっとりするほどの銘刀。耕助の目にもそれは銘刀たるゆえんをそのまま感じさせた。

『疾病木枯らし』の毒々しい妖艶さに対しそれは純粋無垢で気品あふれる令嬢を思わせる。

「まさか『そいつ』で『こいつ』を砕く気か」

「『白星十文字』これしかない。『傷無刀』の異名を持つ彼女なら『気削刀』でも切れるだろう」

「お前、それが一体どういうことかわかっているのか?」

「もちろん。覚悟はできている」

「もちろんってお前。その『疾病木枯らし』は妖刀である前に我が家の家宝だぞ。代々受け継いできたその刀を破壊することがどれだけ罪深いことかわかっているのか?」

「なんだ。そっちの話か」

 いまいち二人の会話がかみ合っていなかったようだ。

「俺はてっきり俺のことを思って言っているのかと思ったが、まあ、お前に限ってそんな心配はしないよな」

 その心配は耕助が先に聞いていた。だから否定的であったのだ。しかし選択肢がない中で、それは最後の綱である。これで事件が治まるのならと決断してきた。

「俺が気にかけているんは『白星十文字』のことなんだが」

「その刀に何があるって言うんだよ。俺には興味がない」

「じゃあ、黙っていろ」と茂雪はすっと床に置いていた『疾病木枯らし』を持ち上げて、躊躇いなく貴雨の首に刃先を押し当てた。小さな切り傷程度のもので、少量の血が漏れる程度である。

 すぐに貴雨は意識を無くし、剣道場の門下生ら被害者と同様の状態になった。

「先生。やはり覚悟は固いのですか?」

「仕方ない。こればかりはお前に頼むわけにもいかない」

 茂雪は呼吸を整え、『疾病木枯らし』とは直角に位置する右手の『白星十文字』を手にした。

「高岡君、その刀を水平に構えてくれないか、できるだけ正面には立たないでしっかり持っていてくれ」

 耕助は言われた通りに『疾病木枯らし』を手に取った。初めて感じる真剣の重さに震えが止まらない。

「では」という掛け声から茂雪は精神を集中させた。いつ刃先が飛び出して来てもおかしくはない。

 両手でしっかりとつかんだ柄を固定させ、迫りくる衝撃に備えた。耕助は無意識のうちに呼吸は止めていた。

 目にも留まらぬうちに刀の刃先が真下に落ちた。

 耕助が供えているほどの衝撃は一切なく気が付けが刃はきれいに欠けていた。

「お見事です」

 そう声をかけずにはいられない。落ちた刃先は包丁大ほどの長さで、刀の全長のおよそ五分の二ほどが切り落とされた。試しにつまんで切れ目を見比べてみると、切れ口が恐ろしくきれいで、人のなせる業とは思えない。

「扱いには気を付けろ。万一、刺さりでもしたら効果があるかもしれんからな…」

 それには恐怖を抱かずにはいられない。両刃をゆっくりと、そしてそっと床に置いた。

「刀を一本切ると十年後に死が訪れるとは本当なのでしょうか?」

「さあ、わからん。だが刀一本に一つの命が宿るというのは分かるだろう。『白星十文字』は昔からそんな副作用があるらしい。一つの命を奪えば寿命に期限が付与されるらしい。それは刀を一本切っても同様らしいが、それらは全部妖刀にはよくある迷信ではないか。一族が不幸に見舞われるや、所持したものが死ぬなんてよく聞く話だろう」

「ですが…まさかという可能性は?」

「そもそも人は十年後の未来まで確実に生きているなんて保証はどこにもない。突然の事故死や病死なんてよくあることではないか。お前が悲しむ必要はない。それより効果だ。貴雨の様子は?」

 茂雪の強さに耕助はただただ頭が下がった。もし自分に同じような選択に迫られたとして同じ決断をすることができるだろうか。こうもあっさりと迷信を受け入れ起きたことは起きたことだと受け流すことはできないかもしれない。

「どうなんだ?」と茂雪は欠けた刃をつまみ上げて聞いた。

「いえ、まだ意識は…」

 すると耕助の携帯電話が鳴った。それは嶺橋家からのものであった。電話の先は弟であり、興奮気味に無邪気に報告をしてきた。

 ひとしきりの連絡の後、耕助は茂雪にも端的に報告した。

「全員目覚めたようです」

「そうか!」

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