15 デジャヴの夜
溢れる赤いランプが夕暮れの中できらめいていた。その赤はまさにレッドランプ。『危険』を醸す信号のように軒先を照らしていた。
「まさか、こんなことになるとはな…」
高岡耕助は自らの車体に体を預けて呆然とことが終わるのを待っていた。
三人がたどり着いた時には家からは一切物音が聞こえておらず閑散としており、夕焼けが静かに影をかたどっていた。それは何とも恐ろしく静寂であり、不気味な空気を漂わせている予兆のように物音を殺していた。
いつもの帰宅とは空気が重い。
菖瞳は玄関からまっすぐに道場へと足を運んだ。高岡の懐かしんでいる暇はなく、その異様な空気を察してか、彼自身も音を立てることに細心の注意を払っていた。
道場のふすまを開けた時、目にした光景に三人ともに驚愕した。
血にまみれたたくさんの門下生が倒れており、身動き一つどころか、呻き声の一言も上げていない。
「いったい何があったの?ねえ?」
菖瞳は門下生の一人、襖のすぐそばの渋川老人に駆け寄った。
渋川は眉の一つも上げようとしない。
「おい、桔梗。無事か?」
高岡耕助は中央で倒れている弟を見つけるととっさに呼吸を確認した。
「呼吸はしているようだ」
ひとまず安心した高岡警部は弟を揺すったり、頬を叩いて目覚めさせようと試みたが、まったく目を覚まそうとはしない。
「菖瞳、救急車呼んだ方がいいよね」と洸は恐る恐る辺りを見回して尋ねた。
「お願い。私はお兄ちゃんとお母さんを探してくる」
恐ろしくなって菖瞳は駆けだした。何か良からぬことがあったのは見るからにそうだ。例の親戚を名乗る男なら二人をそのまま見過ごすことはしないはずだ。
廊下を抜けて二人の行方を捜した。だが、いくら探しても二人の姿は見られない。代わりに別の女が祖父の書斎に閉じこもっていたのだ。
「よかった。菖瞳ちゃんが来てくれて」
「杏希さん。無事だったんですね。ケガはないんですね。二人はどこ?いったい何があったの?」
菖瞳は
「落ち着いて、まずは落ち着いて」
杏希は冷静さを装って菖瞳を鎮めようとした。彼女も体を震わせているのは菖瞳にもわかった。
「あ、菖瞳。救急車すぐ来るって。とりあえず全員を運び出しやすい様に入り口を開けるようにだって…」
肩を組んで現れた菖瞳に気が付いて洸は報告を始めたのだが、その相方を担っていた杏希の姿に洸は話を急に止めた。
「大丈夫?洸ちゃん?」
「お久しぶりです。杏希さん」
ぎこちないが洸は確かに杏希を認識している様子だった。
「どうしたの?お母さんやお兄さんは?」と洸は菖瞳に聞いた。
菖瞳は首を振った。
「何だよこの自体。まるで…」と高岡警部が口に手を当てて見回していた。
眺め見た高岡警部の目は菖瞳の目に焦点が合わさった。訳の分からないでいる菖瞳に高岡は問い質した。
「君は15年ぐらい前のこと覚えているか?」
「いいえ」と小さくつぶやいた。
「無理もない。だが、この状態はまるであの時のようなひどいありさまだ。本当に何も覚えていないのか?」
「それって、まさかおじいちゃんのお葬式の話ですか?うちの親戚が刀を振って事件沙汰になったっていう話なら、この前高岡さんに教えてもらったばかりです」
「そうか、こいつも居たんだよな」と高岡警部は弟を見てつぶやいた。
菖瞳は目の前にいる高岡警部が当時事件にかかわった警察側の第一人者であることを思い出した。
「あの時はお父さんが解決したそうですけど、いったい何があったのですか?父は何をしたか誰にも話さなかったようですし、事件の後始末や事情聴取もすべて一人で解決させたようじゃないですか」
「ああ、そうだ。すべて先生がお独りで対応していたはずだ。その時、俺はまだ新人に毛が生えた程度だったから、すべて俺が主導するということはできなかったんだ。だが、あの時の事件に関しては先生が俺としか話さないという限定付きで捜査が行われたんだ」
「あの~」と洸は口を挟んだ。
何事かと目を向ける二人に洸は続けた。
「すぐにでも救急車が来るようですから、昔話はあとの方が良いかと…」
無残に切り付けられたケガ人の中で立ち話している光景に異を唱えた形であった。
駆け付ける救命医らの指示に従い、菖瞳と洸、杏希はケガ人の搬送を手伝った。
高岡は現場の責任者として関係各所への対応に及んだ。マイカーの後部座席に丸められた渡辺陽汽の衣服を眺めため息を一つ。
関連性のないと思われた複数の事件。それらが複雑に絡み合っているのは分かるが、それをひも解く何かを見いだせずにいた。
高岡はあの日と同じように車体に腰を寄せて、事の成り行きを頭の中で整理していた。
たまたま夜勤のシフトに勤しんでいた高岡耕助の元、珍しい相手から連絡があった。普段から連絡がないからこそ珍しいのだが、それ以上に夜の10時はなかなか遅い方だろう。
「よう。今は仕事中だから、また後にしてくれないか、切るぞ」
相手は弟だからこのぐらいの対応でいいだろう。その程度の認識だった。だが、様子がおかしい。
『待ってくれ兄貴。事件だ。嶺橋剣道場で事件なんだよ』
焦る弟の声に耕助はあたりを見回した。周りの点在する同僚らはそれぞれ夜勤を有効活用しようと書類業務に取り掛かっているようで、あまり騒ぎを起こしてはいられない。
「待てよ。少し場所を移る」と声を落として廊下へ出た。
ちょうどいい、自動販売機の前で壁に腰をついて、もう一度携帯電話を耳に当てた。
「本来ならそういう連絡は110番するべきだが、お前のことだ、何か訳でもあるんだろう」
『あまり表沙汰にしたくない事件なんだ』
「何だよ。まさかお前、誰か人でも殺したのか?」
耕助は冗談ながらポケットから財布を取り出して、小銭を漁っていた。温かい缶コーヒーが目に入ってきて、たまらなくのどが欲したのだ。
『そういうことじゃないんだ。誰も死んでいないと思うけど、ケガ人の数が尋常じゃないほど多いんだ』
「多いってどれくらい?」
さっそくコーヒーを口に含んだ。
『30人ばかし』
想像の6倍の多さにコーヒーを噴き出しそうになった。
「まずは近くの病院に行かせろ。犯人は捕らえてあるのだろう?」
『頼む兄貴、すぐに来てくれよ。他人には介入させられない。師匠たっての依頼でもあるんだよ』
「とりあえずわかった。行くよ」
状況が呑み込めないまま耕助は電話を切った。あれほど抽象的で浮足経った弟の様子はあまり耳にしたことはない。とにかく兄を頼るほど何か深刻な出来事があったことだけは伝わった。
なんとか言い訳を付けて抜け出した耕助は懐かしい嶺橋剣道場に足を運んだ。道場前にはすでに赤いランプが回っており、先客が来ていた。
久しぶりに踏み入れる剣道場に懐かしんでいる暇はなく、姿を見せた弟に真っ先に問い詰められた。
「どうしてこの人たちを呼んだの?」
予想外のすごい剣幕で弟に問い詰められた耕助だったが、主張はある。
「たとえケガだろうと人命が優先なんだ。お前の話じゃあ、誰がどうなって緊急だったのかもわからなかったんだ。それに彼らには話を付けてある。俺が責任者で通っているから、四の五の言わずに何があったか話せ」
「まあ、そう怒らないでくれ。桔梗はうちを思ってお前を呼んだんだ」
奥から日本刀を肩に担いだ嶺橋茂雪が現れた。久しぶりの再会に師弟関係に戻った気分だった。
それに横には奥さんの姿もあった。まだ独身だったころの二人を知っているだけに月日の移り変わりをしみじみと感じてしまう。
それは奥さんも同じだったようで懐かしむような遠い目をして耕助を見ていた。
「お久しぶりです」
耕助は昔のように礼をした。最後に礼をしたのはいつのことだったか思い出せない。そして一見では気が付かなかったが、奥さんの足元に小さい女の子がくっついていた。
「こちらは?」とつい警察口調で聞いていた。
「菖瞳です。うちの二番目。お兄ちゃんはベッドで眠っているんだけど、今日はなんだかすっかり甘えん坊でずっとこうなのよ」と奥さんが答えてくれた。
「眠いんでしょう?早くベッドに戻りなさい」と優しく注意する母親に彼女は首を振った。
「立ち話も結構だが、対処してくれるのかね」と茂雪は急かした。
「まず、状況が分かりません。まずこれは本当にケガしただけですか?誰一人として起き上がる人はいないようですが」
耕助は試しにそばに横たわる門下生に男を確かめた。
「先生?彼らはどういう状態ですか?」とケガ人を確かめる救命医に問いかけた。
「とりあえずわかることは、みんなそれぞれにケガをしており、息をしているということでしょうか。それに誰一人として目を覚まさない。でも死んでいない。こちらとしても対処をどうするべきか…」
「先生、とにかく重症者はいないんだな」と茂雪が聞いた。
「すぐに搬送するほどのけが人はおりません。必要なことは応急措置にひと針縫ってあとは経過を診てもらうぐらいです」
「そうか、それならいいんだ」
「ですが、目を覚まさないのはどうも気がかりです。これほどの集団が目を覚まさないなんてこと、まるでおとぎ話のようじゃないですか」
医師は今もペンライトで患者の瞳孔を確かめていた。
「先生、本当に何があったのですか?」と耕助は茂雪に向かって聞いた。
「まあ、そうさな…今日は親父の葬儀だったから悪酒にでも当たったんじゃないか。親父の幽霊を見たなんて叫ぶ声も聞こえたから集団ヒステリーって奴でも起こしたと思う」
「では、この傷はなんですか?誰かがやらないことにはこんなケガを負いませんよ」と耕助は相手が剣の先生だとしても疑問に思ったことは臆することなく口にした。
「兄貴、兄貴を呼んだ理由はそれだ。師匠、兄貴にも教えますよね」
間に入った弟が救命医を気にして小声で話した。
「先生!」と茂雪は医師に声をかけた。
「いったん出て行ってくれないか?内密に話したいことがあるのだ」
「そういうことでしたら」と言って一人の患者を担架に乗せるとスタッフを伴って道場を出て行った。
それを見計らったころ、茂雪は耕助にある突飛な話を始めた。
それは弟高岡桔梗にも話したことである。とある妖刀の存在。名前を『疾病木枯らし』通称『気削刀』と言うらしい。にわかには信じられない話ではあるが、そのようなものが本当にあるとしたら、被害者全員の現状に関して説明が付きそうだ。
疑わしいが、刑事の勘が茂雪は嘘を言っているようには聞こえない。半信半疑のまま耕助は対策を考えた。
「そこでお願いがある」とひとしきり刀の説明を終えた茂雪は話を持ち出した。
「この事件の首謀者をどうにかできないだろうか?奴が欲しがっている家宝を手渡すのは構わないのだが、奴はおそらく納得しないと思うのだ。俺も穏便には済ませたいのだが、奴のことだ、ただでは済まないだろう」
「もちろん事件沙汰にしたくないのは分かります。ですが、これほどの被害です。被害者が目を覚ます保証もないのでしょう?最後は刑事責任問題にもなりかねないと思いますが」
「わかっているさ。だからこそ、こうしてお願いしている」
茂雪は何の躊躇もなくその場で土下座をした。弟子に頭を下げる勇気がどれほどなものか耕助には計り知れないが、その覚悟は十分すぎるほどに感じた。
「そう頭を下げないでください。何か策でもあるのですか?」
「ある。だが、確証はない。それに責任のことを考えると君らに話すべきではないと思っている」
茂雪は担いでいた日本刀の鞘を引き、はみ出す刃を眺めて続けた。
「真実を知る人間は少ない方がいい。そう言ったら君は協力を断るだろうか?」
「わかりません。まずは具体的にお聞きしないと」
「分かった」と言うと再び刃を鞘に納めて立ち上がった。この場所はまずいと言うことで二人は仏間へと向かった。
「桔梗、お前は外のお医者さんに言って、もう入ってきていいと伝えてきてくれ」とついて来ようとした弟に茂雪は使命を告げた。
「ですが、俺も話を聞くぐらいは…」
「悪いな。桔梗。今度ばかりは外れてくれ。お前を失望させたくはない」
その師匠の顔があまりにも辛そうに見えたので桔梗はそれ以上何もせっつこうとはしなかった。
「先生、何を考えているのですか?」
「すまん、高岡君。君に迷惑をかけることになるかもしれない」
そう言って仏間に通した茂雪は耕助を座布団に座らせた。彼の目の前には立派な仏壇が祭られており、ご先祖と思われる遺影が飾られていた。
「失望とか迷惑だとか、よからぬことを考えているとしか思えません」
茂雪は耕助の目の前に座わって目線の仏壇を遮った。
「実を言うと、彼ら被害者にかけられた呪いを解いて、すべてを丸く収める方法が一つだけあるのだ」
「それはどういったものですか?」
高岡は膝を打って身を乗り出した。
「だが、それにはある代償があるのだが…」
茂雪は差し迫った最悪の事態を厳しく向き直すように仏壇の花を見つめていた。
それから聞かされる茂雪の決意に耕助は一度は否定をしたのだが、茂雪の強い意志にそれ以上阻むことはできず、結局押し入られる形で茂雪に協力することとなったのだ。
12名のケガ人のうち、4名が救急搬送され、あとは高岡警部の指示により道場内で様子を見ることとなった。あまりのひどい事件であることで注目を集めたせいで、テレビクルーが群がる蠅のように何処からともなく駆け付け、道場自宅周辺を厳戒態勢で固める始末だった。その報道は夕方のニュースで報じられるどころか、生中継までされていた。
全ての救急車が引き下がった後であってもせわしなさは変わらない。そのうちに門下生の奥さんや親御さんまで駆け付け、道場内には所狭しと人でごった返しとなった。もはやこの中に記者がまぎれていてもわからない状態である。
「皆さん。とにかく落ち着いて」
騒ぎに駆け付けた兄雪虎の同僚、眞島と堂前の二人も懸命にその場を収めようとした。
「どうしてこうなったの?説明してちょうだい!」と中学生の息子の母親が菖瞳に説明を求めた。
「そうよ。せめてしっかりとした理由を提示してくださらないと!」と叫ぶ彼女もまた中学生の息子を揺すっていた。
「すみませんが、彼女にもわからない事態でありまして、彼女を責めるような発言は控えてください」
川辺潤悟が例の丸頭で愛想のよい顔で対応した。
高岡耕助はというといつの間にか区警本部に戻ったそうで、戻る見込みは分からないそうだ。
事態はあまり良いわけではなく責める声は大きかったが、道場に駆け付けたみんながみんな菖瞳を責めたわけではなかった。被害者のほとんどが昔から通うおじさんの奥さん方は責めるどころか、菖瞳を慰めた。
「お母さんとお兄さん見つかっていないんだってね…気をしっかり持つのよ」と声をかけるご婦人には菖瞳は心から感謝した。
道場の事態に連絡を受けた癒月もすっ飛んで駆け付けてきた一人だった。彼女もまた菖瞳を慰めては自らの教室の生徒でもある奥さん方に声をかけて回っていた。
衝動的に一人の気分になりたくなった菖瞳は自らの部屋ではなく、あえて仏間で腰を下ろした。昔ならこれほど賑やかな夜は珍しくなかった。そこにはいつも父がいて、居残りと言っていいほどに名残惜しむ門下生らの賑やかな声が聞こえてきたはずだ。
どうしても父に会いたい。無意識のうちにそう思ったのかもしれない。
菖瞳は気持ちを落ち着けて仏壇に手を合わせた。
いつものように父に報告をすることとした。逮捕された福内宋汰に真相を聞き、渡辺陽汽と戦い、謎の親戚を名乗る男の存在を知る。そしてこうして何者かが道場を襲撃し、母と兄を誘拐した。激動の一日はまだ終わらない。
真相はまだ何もわからないままなのだ。
菖瞳は合掌した手を引き離すのを躊躇った。現状に見える世界を目にしたくはない。このまま父のもとに行けたらと、そんなどうしようのない甘い考えが頭を離れないのだ。
「菖瞳ちゃん」
呼ばれた声にふと我に返る。気づけは線香どころか、ろうそくすら跡形もなく溶けてなくなっていた。
声の主は杏希だった。いつになく難しく神妙な面持ちであり、フワフワしていて取り留めのない彼女はそこにいなかった。
「どうかしましたか?」
無言のまま座布団に座った杏希が別人のようで菖瞳は警戒していた。
「菖瞳ちゃんはずっとそうやって私のことを警戒していたよね。出会ったときからずっと、気を許す素振りを見せても心のどこかで私のことを遠ざけていたでしょう?」
「何ですか?唐突に」
杏希の得体のしれない様子に菖瞳は冷静に努めた。
「いいのよ。わかっていたから。菖瞳ちゃんは私のことを覚えていないのだから…」
菖瞳はじっと杏希の顔を見たが、彼女は清水杏希であり、兄の彼女でしかない。それ以外に彼女を表す符号が見つからない。
「きっと無理よ、誰一人として私のことなんて覚えていないんだから」
杏希はさみしそうな顔を浮かべた。一度も見せたことのない表情に深刻さを物語っている。
「あなたは一体誰だというのですか?」
菖瞳の率直な問いに杏希はまっすぐに視線を見つめ返し、自らの正体を明かした。
「あなたのイトコ。わたしの母は富雪です」
それは疑わざるを得ないほどに衝撃の告白だった。
「叔母さんの娘さん?富雪さんに子供がいたなんて初耳です」と菖瞳は思わず疑ってかかっていた。
「菖瞳ちゃんだけじゃなく、皐月おばさんも雪虎君もそれに母だって私のことを忘れてしまっているんだから」
「え?そんなことって…」
菖瞳の頭の中である仮説がよぎっていた。
「母は私のことなんかすっかり忘れて自分が身寄りのない独り身だなんて思っているのよ。こんなにつらいことはないよね…」
杏希は形式ばった正座をほどくと膝を抱えて顔をうずめた。
「それって本当の話ですか?それが本当なら…」
菖瞳は彼女の心情を察した。忘れ去られる辛さはすでに経験している。それが一人だけであるならまだしも、親族に忘れ去られる孤独はもはや計り知れない。それでも彼女は自分たちの前に現れ他人として接してきたというのだろうか。
「でも…どうしても信じられません。みんなが覚えていない。知らないのは、それは真実ではないことと同じではないでしょうか?」
「つまり証拠よね。無理もないよね」と言った杏希は立ち上がり、おもむろに仏壇そばの箪笥棚の引き出しに手をかけた。それは以前菖瞳が調査のために引っ張り出して散らかしたあの箪笥であった。
杏希は引き出しからあの年代物のエロ本を取り出した。あの時結局捨てずにしまったのだ。杏希はパラパラとページをめくるとあるページで手を止めた。
「これ見て」と杏希が雑誌を手渡した。
何を見せるのかと警戒したが、とある文字だけのページにクレヨンで文字が書かれていたのだった。
青の文字で『ゆきとら』ピンクの文字で『あやめ』そして黄色の文字は『杏希』と書かれていた。これはまさに三人で記した落書きの証拠である。そのあともページにはたくさんの落書きとともに、名前の練習と思われる崩れた文字が並んでいた。
「このとき菖瞳ちゃんはどうしても赤いクレヨンで名前を書きたいって言ってたけど、赤文字は縁起が悪いって私がどうしても許さなかったんだよ」
杏希は文字を指さして懐かしんでいるようだった。
「ついでにこれ。さっき閉じこもっていた時に見つけたんだけど」と言って一枚の写真を手渡した。
何かと思い見てみると、それは家族写真だった。
若かりし父茂雪と母皐月、それに富雪叔母と今は亡き祖父國雪、見たことのない男の人は富雪の旦那だろう。父の足元で居心地悪そうに押さえつけられているのは兄雪虎、富雪の横で手を握る女の子は緊張しているのか表情が硬い印象があった。そしてこの家族写真の中心に位置していたのが母の腕に収まる生まれて数カ月であろう赤ちゃんだった。それが自分であることは菖瞳にもわかる。
「つまり、この子が杏希さんですか?」
写真の女の子はカメラをまっすぐ見据えており、いかにもしっかりとしたお姉ちゃんであり、写真の兄とは大違いだった。
「いかにも当時6歳の私よ」
見比べてみて確かに面影はあった。この写真の子が成長して今の彼女となったと言われても頷ける。
「覚えていないでしょうけど、おじいちゃんのお葬式にも、茂雪おじさんのお葬式にも出ているし、母とよくこの家だって来ているんだよ。道場で菖瞳ちゃんに剣道を教わったことだってあるんだから」
そう告げられても菖瞳の記憶には『清水杏希』というイトコの存在は欠落していた。
「いいの。わかっているから。すべて『ある刀』の呪いだって」
「刀ですか?それはつまり妖刀の類だったりしますか?」
菖瞳は慎重に探りを入れた。
頭の片隅ではずっと予想していた妖刀の存在。断片的に菖瞳の前にその存在となる証言や事実は現れてきていた。
渡辺陽汽の前に現れたという刀を振る男。この男の刃でケガをした被害者は記憶に欠落が見られるというのだ。それは菖瞳のことだけを忘れてしまった洸にも見られるものだ。
それに思い返してみれば洸の背中には謎の切り傷があったはずだ。それは洸の部屋で浴室を借りた時に確かに見た。それが刀の力によるものなら幼馴染を名乗る桝山駿を忘れてしまったことも説明が付く。
確かにそのような未知の力が宿る刀の存在は信じられないのだが、現に菖瞳のもとには『漆黒不現刀』が今も台座に収まっている。試しに一日持ち歩いたことがあったのだが、誰もその刀の違和感どころか存在にすら触れてこなかった。
まだ見ぬ我が家の家宝『白星十文字』と『疾病木枯らし』があるというのであれば、それに似た妖刀が存在していても否定はできないはず。
だが、その憶測をこの杏希に話すべきかそれだけが躊躇われていたのだ。
「私も嶺橋の人間よ。今でこそ『清水』って父方の姓を名乗っているけど戸籍上は『嶺橋杏希』よ。家に伝わる銘刀の話ぐらい聞いているわ。菖瞳ちゃんには『アラズ』が見えているのでしょう?」
「え?」
急に突き付けられた極秘事項に心臓が飛び出しそうになった。
「『漆黒不現刀』を見つけたんでしょう?私には見えないけど、剣道場を掃除した後、見つけたんだってことは私にはわかったんだから」
あの時、杏希はリビングの蛍光灯のもと荒れ狂う菖瞳に違和感を抱いていたのだが、それはすぐに確信へと変わる。菖瞳は刀をかざして杏希に直接「見えるか?」と聞いてきた。それが何かと聞くと菖瞳はこう切り返していた。
『あるかもしれないし、ないかもしれない。わたしには見える、とっても美しい姿』
それで知ったのだった。『アラズ』はあるということを。
「じゃあ、私たちが杏希さんを忘れたのも妖刀が原因だって確証があるわけですね」
「当然よ。刀の正体は『
「健忘刀…。やはり洸もそれを…」
「犯人が同じならありえるわ。何せ切り付けてしまえば自在に記憶をいじることができるのですもの。私以外が全員切られて見事に私のことなんか忘れ去られてしまったのだから…」
「一体いつのことですか?私たちが杏希さんを忘れてしまったのは」
「おじさん、あなたのお父さんが亡くなる直前よ。あの晩、あなたたち親子とともに私も居たんだ。午前中におじさんに頼まれていたことがあって、それを終えた後、ある男にその話を聞いて病院に駆け付けたわ。そしたら、駆け出す雪虎君とすれ違った。あまりに血相を掻いて走るので何があったか聞いたんだけど、何も言わなかったわ。だからどうしようもなく行かせてあげたんだけど、後ろからあいつはあの刀で雪虎君の腕を切ったんだ。ケガをしているのに彼はまた走り出してしまったの」
「その男って誰ですか?今回の事件の首謀者なんでしょう?」
「もう察しがついているわよね。すべての黒幕は嶺橋夕雨。彼は病院でお父さんを見守っているあなたたちに切りかかり、その場にいたという夕雨自身の存在と私という存在そのものの記憶を消した。すべて私の保管した『疾病木枯らし』を奪うためだった」
「その妖刀はどうなったのですか?」
「お葬式の時に彼に引き渡したわ。そうすることで母だけは傷つけないって約束だったから。でも夕雨はそれが偽物だと言い張って母をも切り付けた。だから私はあなたたちの記憶から存在を抹消され、長年孤立してきたんだ」
「でも、お兄ちゃんとは?恋人関係だって話はたしか光浦さんから聞いたはずですけど…」
「初めはあの警察官の勘違いで連絡がきただけであって、本当にそんな間柄であったわけじゃないわ。雪虎君が最後に電話をした相手が私だから恋人だと思ったのでしょうね。だけど、不審に思われたくなかったのもあるし、それ以上に雪虎君が心配だったからから恋人の振りをして駆け付けたの」
「つまりお兄ちゃんは杏希さんがイトコだと知らずに連絡を取ったわけでしょう?いったい何があったの?どうして今になってお兄ちゃんは気を削がれるケガを負って、うちがこんな有様になっているの?」
こうして仏間に閉じこもった二人を差し置いて、道場の方からは今でも対応に追われる警察一行や保護者ら意見を求める声が騒がしく続いていた。
「どうやら雪虎君は真実にたどり着いたみたいなんだ。私の記憶はないながらも、偶然にも私の勤める職場に彼は現れた」
「職場?受付嬢をしていると聞きましたけど…」
「古い文献を扱う資料館よ。受付嬢もそうだけど、資料の管理もしているわ。雪虎君が現れた時、勝手に胸がドキドキしてたわ。もしかしたら覚えているのかもしれないとほんの少しだけ期待しちゃったんだ。でも彼はやっぱり私のことなど意に返さず、個人的な調査のために探し物をしているって伝えてきた。それが去年の十二月の話よ」
「探しているってまさか、『白星十文字』のことじゃないですか⁉」
菖瞳は興奮していた。一つの証言にすぎないが、的確に話の筋が通っている。疑うことをやめて積極的に耳を傾けるべきだと思い始めていた。
「そうだけど、聞いたの?」
「直接ではないのですけど、データがあるのです。お兄ちゃんは極秘にお父さんの死の真相について調べていたみたいなんです」
「やはりそうだったんだね。当然私は部外者だから理由については教えてくれなかったんだけど、雪虎君の目的は家宝の『白星十文字』だってすぐにわかったわ。でもそれは私を苦しめるものだった」
「それはなぜですか?」
なぜだか雲行きが怪しい。杏希に苦悩の色が濃くしみ出していた。
「実は刀を持っているのは私だったんですもの…」
「え⁉」
菖瞳は思わず声を上げて立ち上がった。無意識のうちに床の間の『アラズ』を背にしていた。
「落ち着いてって」
慌てる杏希だったが、菖瞳の手にはすでに『アラズ』が握られていた。
菖瞳の中では『白星十文字』を盗んだ犯人はすなわち『父を殺した犯人』という公式が成り立っていた。それは兄の集めた警察捜査資料から明らかだったのだ。
「誤解だから。本当に」
「では、なぜうちの家宝を持っているなんて告白するのですか!少なくともお兄ちゃんは刀を盗んだ犯人こそ、お父さんの殺人に関わっていると思っていたみたいです。真実にたどり着いたというのなら、それこそお父さんの亡くなった真実じゃないんですか⁉」
菖瞳は今にも『アラズ』の刃を抜こうとしていた。
杏希の目には刀の姿は見えないのだが、今にも刃が飛び出しそうなことは分かる。
「それは違うんだって。私が刀の保管をしたことと伯父さんが亡くなったことは全くの別問題であって、亡くなった原因は本当に知らないんだよ」
杏希は手を前にして抵抗を示した。菖瞳の持っているであろう刀は全くの透明である、振り下ろした剣先がどの程度まで達するかもわからない。
「その人の言っていることは正しい」
突然開かれた襖の奥で高岡警部が声をかけた。中の騒がしさから修羅場だと真っ先に思った彼は手に竹刀を携えての登場となった。だが、その目には二人の女子の姿が異様に映ったことだろう。『漆黒不現刀』という存在を知らないものにとって、それはさしずめ小道具無しの演劇立ち回り稽古である。
「なぜそう言い切れるのですか?」
ポカンと佇んでいた高岡警部に菖瞳は質問を促した。
我に戻った彼は二人がどんな状況かわからないままに答えを返した。
「俺は先生が亡くなった本当の意味を知っているからだ」
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