11 喪失
高岡の剣道教室が道場で開かれたのは清掃から二週間後のことだった。公民館で開かれる教室以外に道場での展開ともあって、昔の門下生に試しに声をかけてみると、6年前までの顔ぶれがちらほらと来てくれたのだった。
復活を心待ちにしていた声もあれば、歳のために見学という人も。久しぶりの再会に菖瞳の成長を喜ぶ好々爺の方々に彼女自身が元気をもらった。
だが、その教室に来るはずの洸の姿がなかった。数日前に刀の話を口外しないでほしい旨を告げて、開かれる教室に顔を出す話をして以来、連絡がないのだ。
現れない友の連絡を待ちわびつつ、教室は開かれた。
教室は昔の姿をそのままに新たな心を宿し再開された。嶺橋茂雪という存在はないが、昔に戻ったように道場に活気があふれている。見れば部屋の隅で車いすの雪虎を押して母の姿もそこにはあったのだ。そのことすべてがたまらなく嬉しくて菖瞳はずっと笑顔でいたほどだった。
あっという間に教室は終わり、門下生たちはぞろぞろと帰っていく。人によってはこれから飲みに行ったりするだろう。現に講師となった高岡を誘う声も聞こえてきた。
こんな楽しいひとときはまたすぐにやってくる。父のもとで励んでいた日々にはあまり感じてこなかった気持ちの変化に菖瞳は幸せな気分がした。
菖瞳は暗い道場の壁に寄りかかり膝を抱えて夢想にふける。手にした携帯電話からは返信が一切ない。
洸とはまだ数カ月の付き合いだが、これまで約束を破ったり、返事を無視することはなかったはずだ。いつだか感じた胸騒ぎが彼女の中で止まらない。
ただの心配症に終わってくれることを祈りつつ、名残惜しく道場を去っていった。
翌日の華道教室は午前10時からだった。
初めての試みで癒月の緊張が伝わってくる。道場としても華道は初めてだから、生徒の層がだいぶ異なることに戸惑ったが、生徒の半数が剣道塾に通う門下生の奥さんだったり娘さんだったりして道場の勝手を理解してくれていた。
十数名の生徒数は初回にしてはまずまずといったところだった。
ただ問題はガチガチに硬い癒月講師の教え方だろう。ここはまだ改善の余地があることは本人にも自覚できているに違いない。
この教室においても来たるべき女性の姿がなかった。
「杏希さんは…?」と頼りなく癒月は様子を見に来た菖瞳に聞いた。
「そういえばここ一週間ほど顔を見てませんね」
「どうしてよ~」
癒月は半狂乱になりながら生徒の指導に追われていた。杏希がいれば少しはうまく回せると思ったのだろうかとも思ったが違うらしい。
「もしかして人見知り?」
「心細いだけです!」
癒月はそうはっきりと全員に宣言すると、生徒たちは和やかに癒月の指導を受ける空気を作ろうとした。
この華道教室においても菖瞳は洸からの連絡を気にしていた。
華道教室の提案は洸の案である。提案者の洸が何の連絡もなくすっぽかすのはどうもおかしい。いよいよもって菖瞳の不安は拭い去れなくなっていた。
翌日の月曜日の夕方、ついに菖瞳の電話に洸からの電話がなった。
「洸。心配したんだよ」
癒月の優しいまなざしに見止められながら電話に応じた。
『もしもし?嶺橋菖瞳さんですね』
聞き覚えのない声が電話の向こう側から聞こえてきた。菖瞳は警戒しながら相手の質問に答えた。
『洸の母です。洸とは仲良くさせてもらっているみたいですね』
震える声音に菖瞳は戸惑った。母を名乗る女性は洸の電話を使ってこの番号にかけてきたのだ。
「洸さんに何かあったのでしょうか?」
『実はそうなんです。嶺橋さんなら何か知っているかとも思ったのですが…』
菖瞳は震える手をもう片方の手で押さえて聞いた。
「洸はどこに?」
癒月店長に事情を説明する前に彼女はすでに察して店を閉めていた。
「蝶の森林記念病院ね」と指には車のキーがすでに引っかかっていた。
駆け付けた病棟で見た光景に菖瞳は膝を落としてしまう。たくさんの捜査員と思しき大人たちの間を抜けると、そこにはたくさんの管という管と器材が繋がれた洸の体が横たわっていたのだ。
菖瞳の登場に女性が駆け寄った。洸の母に違いない。髪型が娘を真似たように明るく、それと顔つきがどことなくそのまま親子だとわかる。
彼女は菖瞳のことを一目でわかったようで躊躇うことなく尋ねてきた。
「電話でお話しした嶺橋さんね?」
「洸はなぜこんな目に?」
「わからない。警察の話だと今朝、公園に血まみれで倒れていたそうよ。何か変わった様子はなかった?」
「そんな…。公園で血まみれなんて…」
言葉を失っている菖瞳に対して洸の母親は冷静に見えた。
「出来れたら警察の捜査に協力してくれない?事情聴取ってものが始まるようだから、何かあの子のために情報を提供してほしいのね」
菖瞳の手をつかみ見つめる瞳は気丈に振舞う母親の目そのものだった。
「もちろんです」
菖瞳の返答の直後、彼女は再び娘のもとに戻っていった。
菖瞳も心配して病室に近づこうとしたところ誰かに呼び止められた。
「嶺橋さんの妹さんだな」
その声に懐かしさを覚えた。
「お久しぶりです。光浦さん」
見た顔は兄の上司であった。少し前までは毎日顔を合わせていたが、兄の退院後めっきり顔を合わせることがなくなったので懐かしい気がしたのだ。
「こちらのご息女と友達なのかね?」
「はい。私は親友だと思っています。この事件も光浦さんが担当するのですか?」
「まだわからない。雪虎の件だって片付いていないんだ。そのうち俺も無能扱いされて飛ばされかねんな」
光浦は苦笑いを浮かべた。
すっかり事件があったことを忘れていた菖瞳だったが、今はその話をする気分ではなかった。
「いったい洸に何があったのですか?」
「通報を受けたのは…その話は後だ。うちの上司、本部から人が来ている。おじさんが出る幕はないかもしれない。少しの間だが、呼び出しを待ってくれないか?ほかの参考人も来ているから、君だけを特別扱いできないもんでね…」
よくわからないが光浦の話に菖瞳は従うことにした。警察のお役所仕事が忙しいことは兄から十分聞いている。一つの行動を起こすにも必要な手順があり、無駄だと思える所作もしっかりとこなさならないといけないと酔って愚痴っていた姿を覚えている。
「向こうの別室に関係者の待合室がある。今日中に時間があるならそこで待っていてくれないか?これはあくまで任意の聴取だから、帰ってくれても構わないから」
そういって光浦はまたどこかへと消えて行った。
「菖瞳ちゃん。大丈夫?」
気が付けば癒月が不安そうに顔を覗き込んでいた。
「ああ…店長。連れて来て下さり、ありがとうございます」
「私のこと忘れていたでしょう?」
それは図星だったが、菖瞳は小さく首を振った。
「それは当然よ。せっかくの親友がケガしたのだもの。わたしも警察の聴取受けるまで一緒にいるから」
「大丈夫です。店長はお仕事があるでしょうから帰ってください。私の友達のことで心配なさらず…」
「洸ちゃんは私の友達でもあるんだから。菖瞳ちゃんも洸ちゃんも大事な友達。そんなに辛そうな顔をしているときにそばにいないなんて私もできません。お店のことは気にしない。さあ、言われた通り待合室に向かいましょう」
優しすぎる彼女の気持ちを素直に受けとめて、菖瞳は思わず彼女に抱きついた。
今にも決壊しそうな涙を堪え、癒月の手に引かれ待合室で待機することとなった。
閑散とする待合室を想像したのだが、そこには先客がいた。
「どうも、こんにちは」
菖瞳に気が付いて声をかけてきたのは司馬盃途だった。彼を筆頭に洸の劇団員数名の姿があった。
「皆さんも洸のお母さんに呼ばれたのですか?」
「いいや。僕らは警察に呼ばれたんだ。なにせ団員の事件が相次いだんだ。警察は僕らに何かあると思ったんだろうな。要するに目を付けられたんだと思う」
「そんなこと言って。本当は石元さんが心配だったから来たんでしょう?」と姫様役をしていた
「警察から石元さんがケガをして見つかったと聞かされた時、真っ先にみんなで見舞いに行くぞって言ったのは司馬君なんですよ」
「団員の一大事だ。焦るのは当然だろう」と司馬は彼女に対してむきになって反論した。
「でも桝山君の時はどうだったかしら?誰かがお見舞いに行こうって言い出すまで何もしなかったじゃないの?」と和歌奈は小悪魔的に司馬を覗き込んだ。
「あいつは飲酒運転を起こしたんだ。同情できなかったんだよ」
菖瞳の脳裏に一週間ほど前の事故のニュース映像が浮かび上がった。
「ところで、こちらの方は?」と司馬は揉み手をして聞いた。目線は隣で居心地悪そうにしている店長に向けられていた。
「癒月といいます。菖瞳ちゃんの保護者みたいなものです」
「お綺麗な方だなと思いまして…どうですか?今度お茶でもよろし…イタタ」
司馬は和歌奈に耳を引っ張られ、ナンパを半ばで阻止されてしまう。
司馬はまだ何かを言いたげにして癒月を見つめるのだが、癒月はというと口元に手を当ててほほ笑んでいた。
「桝山って方は意識があるのでしょうか?」と菖瞳は唐突に聞いた。
「私たちがお見舞いをした時は意識はうつらうつらだったけど、話すことはできたよ」と和歌奈が答えた。
「聞きたいことがあったので…その時洸は一緒でした?」
「団員で集まっていったからいたわよ。何か同じ殺陣使い同士で話があるとか言って、私たちを早く帰らせたけど、あれ以来、石元さんとは会っていなかったっけ」
「かもな」と他の団員が口を挟めた。
「ちょうどこの病院に入院しているから、実は私たちお見舞いはこの一週間で二回目なんだ。まさか、石元さんが運び込まれるなんて…うちの劇団悪霊にでも取り憑かれているのかしらね」と和香子は冗談めかしてつぶやいた。
「悪霊ですか…」
菖瞳は気になりながらも近くの椅子に腰を下ろした。
「何か気になるの?」と癒月は菖瞳のすぐ隣に座って聞いた。洸を憂うのとは違う神妙な面持ちの菖瞳が気になったのだ。
「まさか、洸が襲われたのは私が原因かもしれないと思ったので」
「それってどういうこと?」
「いいえ。何でもありません」
「嶺橋さん」
菖瞳が癒月に言い訳を取り繕うとしたときだった。誰かが菖瞳を呼んだのだ。
菖瞳は目線を上げると一人の男が入り口に立っていた。男は身なりの良いスーツ姿で、いかにも警察官らしい鋭い目つきだった。
どこかで見た顔のようだが、菖瞳には面識はない。
「もしかするけど、お父さんは剣道の師範だったりする?」
「そうでしたが…。父とはどういった関係ですか?」
「これは失礼しました」といって男は懐から名刺を取ると、一枚菖瞳に差し出した。
菖瞳は立ち上がって名刺を受け取った。
名刺には『復興特区警察所本部 刑事課班長 高岡耕助』と記されていた。
その苗字で菖瞳はようやく男が誰なのか気が付いた。
「高岡さんのお兄さんだですか?」
「厳密には高岡桔梗の兄です。でもよかった。嶺橋の苗字だから、もしかしてと思ってみれば、師匠の娘さんがいたとは…。それに聞いたよ。君のお兄さんの話…」
「その説は…」
話には聞いていた高岡の兄の存在に菖瞳はかしこまった。想像以上に大人なのだ。
「俺も師匠には一年間だったが、稽古をつけてもらったものでね。あの時は桔梗もこんなんだったんだよ」と彼は手で腿辺りを示した。
「そうなんですか…」
「どうでもいいことだったね。おや、こちらの方は?」と彼も癒月に目線を向けた。
彼女には男性を惹き付ける何かがあるのだろう。そんな意識があるのかないのか、癒月はもじもじしていた。
「お花の先生です。家の道場で講師をしている癒月さん」
「初めまして。弟さんには優しくしてもらっています」
「こちらこそどうも」と二人は握手を交わした。
「ところで、関係者全員に聞いて回っているのだが、この男に心当たりないかな?劇団員の人たちには聞いたんだが、わからないと言うんだ」
高岡の出した電子ボードには写真が映し出されていた。モノクロでなお且つ画質が粗く判別しにくいものだが、それがどこかの防犯カメラの映像であることは誰にでもわかるものだった。
「この男ですか?」と覗き込む癒月は中央の男を指した。
癒月の指が電子ボードに触れたのか、画像が映像となって再生を始め出す。
「すみません」と癒月は謝ったが、高岡は「構いません」と映像を元のシーンに戻した。
「どうですか?」
「私には全く。菖瞳ちゃんは?」
ずっと黙ったままの菖瞳に癒月が話を振った。
「もう一度再生してもらえますか?」
「構わないよ」と高岡は菖瞳に電子ボードごとを手渡し、指で触れて映像を再生して見せた。
「まさかこの男が洸を?」
「わからない。だが可能性は十分に高いとみている。どうだい?心当たりは?」
画像の粗さを差し引いても、男の歩き方や仕草には特徴がみられた。ポケットに手を入れて肩を上げ、あごを下げたまま体を揺らすようにして歩く姿がある男と重なった。
「福内かもしれません」
「そのフクチという男と被害者とはどんな関係が?」
「関係はあるとは思えません。あえて言うなれば、私が共通の知人ということぐらいです」
「なるほど…フクチ何という男だ?」
「福内宋汰。応永大二年です」
「ご協力ありがとう」と高岡は電子ボードにメモ書きをして、簡単な謝辞を述べて立ち去ろうとした。
「あの。本当に福内が?」菖瞳は高岡を呼び止めて再度確認した。
「どうだろう?本人に直接聞かないとわからないが、さっき見せた映像の男が被害者を連れ去ったことは間違いないだろうさ」と言って高岡はキザに背中越しに手をかざした。
高岡が去ってから一時間ほどが経った。待合室は継続的に重たい空気に包まれていた。
菖瞳はというと、ずっと映像の男のことが頭から離れないでいた。一瞬見ただけでわかる男の歩いた時の特徴。あれはどこからどう見ても福内宋汰そのものだった。だが福内と洸に接点は思いつかない。それにいくらバカでも福内が誰かを傷つけるとは考えにくい。それが菖瞳の友達であるならなおさらあり得ない。
そしてもし仮に福内と洸が知り合いだとしたら二人で菖瞳をだましていたことになる。
洸への疑念に行きつく菖瞳は何度もそれを否定しては、答えを模索していた。
「目を覚ましました」と待合室に看護師が駆け込んできた。
その希望の声が菖瞳の中に響いたのは思考のスパイラルに陥っている、ちょうど最中の頃だった。悩みは一瞬にして吹き飛び、すぐにでも彼女の元気な姿を拝みたい、そんな気持ちが支配した。
待合室の一同は看護師の声に即座に反応して真っ先に集中治療室を目指した。
窓にへばりつく団員たちの隙間から元気そうに腕を振る洸が見えた。団員の中に紛れて彼女に呼応するようにして手を振り返したのだ。
それから菖瞳は安堵のなか、皆と同じようにその中の様子を眺めていた。室内では高岡や光浦ら警察官の聴取をしており、一般面会は謝絶という札が貼られている。
「どうしたの?」
集団の中を抜け出し立ち去ろうとする菖瞳に気が付いた癒月は声を掛けた。
「どうしても気になることがありまして、先にそちらを済ませてこようと思います。すぐ戻りますので」
菖瞳は速足でその場を立ち去った。
総合案内の情報により病室を特定した菖瞳は教わった病室の前に立っていた。
相部屋の右奥が桝山駿のベッドで違いない。
菖瞳はゆっくりと病室に足を踏み入れた。不審がる他の患者の視線を感じながら、奥のベッドを目指した。ベッドはカーテンで覆われており、一見するだけではいるのかいないのか全く分からない。ちなみに向かい側のベッドは空いていた。
「桝山さん」
ゆっくりと声をかけてカーテンをのぞいてみた。
すると頭部を包帯がまかれ、内出血していると思しき顔のあざ、全身を固定するギブスの塊が事故の壮絶さを物語っていた。
桝山は菖瞳の登場に目を数度瞬かせた。
「私のこと覚えていますか?」
「ああ。嶺橋菖瞳と言ったっけな」
それは驚きだった。一度話し、二度違う場面で会った程度の菖瞳の名前を男は知っていたのだ。
「教えてください。ひったくりは何かの計画ですか?」
「それは言えない。言ったら今度は確実に殺される」
「誰が?」
「それは言えないんだよ!」と大声を出したためか桝山は痛みを訴えた。
「大丈夫ですか?看護師さん呼びま」
「いいんだって。構わないでくれ。面倒は二度と御免だ」と動かない体の代わりに目線をわざと上の空に向ける。
「誰ですか?私を舞台に引きずり上げたり、洸を傷つけたのは?」と桝山の肩を揺すって聞いた。
「洸って石元洸だよな。なんだよ傷つけたって話?」
「今朝傷だらけの状態で発見されたんです。あなたが洸のバッグを奪ってけがを装ったのと何か関係があるのでしょう?」
「何だよそれ…」
「洸があなたのお見舞いに来た時、いったい何を話したのですか?お見舞いの後から姿を見ていないと団員が教えてくれました」
「洸には手を出さないって約束したのによ」
桝山は動かない腕を懸命に挙げてテーブル上に投げ出した。ガツンという音がベッドのキャスターまで響き、床をも鳴らした。
「嶺橋。俺と洸の関係は聞いているのか?」
「何も」
菖瞳の率直な答えに桝山は苦笑いを浮かべた。
「俺たちはもともと幼馴染だったんだ。少なからずそれは俺と洸の共通の認識だったはずなんだ」
菖瞳は驚いて訊いていた。そんな話は聞くどころか察することもできていない。事件のニュース映像を眺めて見ていた時の彼女のまなざしは幼馴染のそれではなく、単なる知人の事故としか認識していない様子だったはずだ。
「そうなんだよ。嘘だと思うだろ。でも本当なんだ。俺が洸を剣道に誘い出した。なのに洸はその過去どころか俺のことまで忘れてしまった」
「記憶喪失?」
「だが、ただの記憶喪失とは少し違う。洸は急に俺のことだけを忘れてしまったんだ。驚くだろう。いつものように話しかけただけで不審者扱いされるんだ。この間の演劇で俺を相手役に推薦したのは洸なんだぜ。それも洸は忘れている」
「そんなに思っているのならなんでバッグを奪ったりしたんですか?」
「信じられないだろうが全部洸のためだった。あんたの察しの通りあんたを舞台に引き上げる口実の一つに過ぎなかった。そうすることで洸の記憶が戻る。そういう手はずだった」
「やっぱり誰かが裏にいるってことね。教えて」
「おい、お前ここはただの病棟じゃない」と何者かが廊下から声をかけてきた。
「耳を口に当てろ」ととっさに桝山がつぶやき声をあげた。
菖瞳はそれに従い、ほんの一瞬だけ頭を下げた。
「関係者以外の立ち入りは禁止している。そこの女、すぐにその患者から離れなさい」と一層のこと男は菖瞳に注意を向けた。見たところ男の身なりは医師というわけではなく、警察関係者のような身なりをしていた。
「本当なのね?」
桝山から耳打ちされた事実の確認をした。この男が執念で語った証言である。嘘ということはなさそうだと思ってもいいだろう。
「なあ、お前は洸と仲がいいのだろ?」と桝山は尋ねた。
「もちろん」
「あいつを絶対に見捨てないでくれ。たとえ洸に何があってもだ」
「さあ、出なさい」と男はすぐそこに来ていた。
菖瞳は桝山に頷くとその足を元の集中治療室へと向けたのだった。
戻ってみると治療室には警察関係者の姿はなく、事件の聞き取り聴取が終わったことが窺えた。既に洸のもとに多くの団員が集まっており、洸の母も安心した様子でそばに付いていた。
何と言葉を掛けるべきか思いつかなかった菖瞳は部屋に入るなり、横になったままの洸に抱きついた。それだけで気持ちは十分伝わるはずだし、そうすることが最も自然な間柄だと信じていたからだ。
「え?こんな美人に手厚い歓迎」
なぜか洸は気まずそうに劇団員にそういったのだ。
「何言ってるの~。親友なんだからこれくらい。もし洸が私の立場なら同じことしたはずよ」
「嫌じゃないんだよ。でも、まだちょっと抵抗あるかな…」
洸はまだ冗談を言っているようにしか思えなかったが、反応が明らかにおかしいのだ。菖瞳の手をやんわりとどかして、そばにいた扇和歌奈に小声で聞いたのだ。
「この人、私のファンかな?こういう場合ってどう対応したらいいのかな?」
「この人って、嶺橋菖瞳さんよ。洸の友達だってこの間紹介してくれたじゃない?」
「え~?そうだっけ?私が紹介したのは…ごめん思い出せそうにない」
洸の中で記憶が混濁しているのだろう。そこで思い出す桝山の話。
親しいはずの幼馴染を忘れてしまい、不審な目を向けるとかなんとか。今の洸はまさにそれではないか。
「洸?本当に私のことを覚えていないのね?」と恐る恐る聞いたところで返ってくる答えは変わらない。
「ごめんなさい。まったく。どこで会ったかだけでもヒントくれないかな。ほら、もうこのあたりまで来ているから」と洸は胸のあたりを示して言った。
「最初は2年前。といっても直接言葉を交わしていない。私たちの最初はまさに敵同士だった。高校の剣道大会。地区大会の決勝戦の相手。洸は一方的に私のことを覚えていてくれていた」
「二人にそんな関係があったのね」といつの間にか現れた癒月が菖瞳の後ろから両肩に手を乗せていた。
「勝負は私の負けだった。それで私は竹刀を置いた。それはこれから歩む人生に何の未練もないと疑わなかったから。なのに、なのに。洸はもう一度私の前に現れた。それは私が望んでいたわけではなく、洸、あなたが望んだのよ!お兄ちゃんの事件を境に懐かしい父の教え子の高岡さんが現れ、その高岡さんの教え子が洸だったでしょう?高岡さんに後から聞いたんだよ。わたしを連れてくるように頼んだのは洸、あなたの望みだったって。高岡さんは当初、社交辞令程度で顔を出してくれないかって頼んだだけだったのに、洸の熱望で私を呼んだんでしょう?」
菖瞳はいつの間にか洸の手をぎゅっと握りしめていた。
「どうしてだろう。あなたのことが全く思い出せない。ここにいる劇団員のみんなのことも後ろの癒月さんのことは覚えているのに、肝心のあなたのことが思い出せない」
洸は涙を流した。
「大事な人と過ごしたっていう楽しい感情の記憶はあるのに、あなたがわからない。気の合う、とっても大切な人がそばにいたはずなのに、何にも思い出せないの…」
洸は悔しそうに顔を落としシーツを睨んだ。
「いいの。もういいのよ」と菖瞳は洸の肩に優しく手を置いて続けた。
「何があったか教えて。犯人は桝山君が教えてくれたから」
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