09 感謝の清掃日

 翌朝、思いがけないニュースがテレビで報道されていた。

 菖瞳はいつもよりも2時間遅く目を覚ましたのだが、洸よりも早起きだった。

 隣の洸は今もスヤスヤと眠り続けていた。

 乱れた寝間着を整えてシャワーを借りることにした。冷たいシャワーを全身に浴びて昨夜の汗を流し去り、体を目覚めさせた。

 シャワーから出ると洸も目を覚ましており、ソファーに座ってテレビを見ていた。

「おはよう。シャワーとタオルお借りしたよ」

「はよ~。ねえ、これ見てよ」

 洸はテレビの音量を大きくした。

 画面に映し出されていたのは自動車事故のニュースだった。事故発生直後を映し出したものだから映像が暗く、信号や街灯の光が印象的に照らし出されていた。その中で電信柱と正面からぶつかったらしく、大きく凹んで、フロントガラスが割れた車体の姿が映し出されていた。

「ひどい事故ね」

 運転免許を持っていない菖瞳にとってはこれがよくある交通事故の一つで取り立てて騒ぎ立てるほどのものではないという程度にしか思っていなかった。

「いいから、見てよ」

 洸はどうしてもそのニュースを見せたがった。

 菖瞳は分からずタオルで頭を拭きつつ、ソファーの後ろで立ったまま眺めていた。

『この事故で運転していた男、桝山駿しゅんの血中から多量のアルコールが検出されており、捜査員は飲酒運転として調べているとのことです』

 写真の男に菖瞳は驚愕した。

『男は現在意識不明の重体、また被害に遭われた近くに住む男性はケガを負う軽傷で済んだとのことです』とテレビのナレーションが続けていた。

「この男ってやっぱり…」

「だよね。あの後、運転して事故を起こしたってことになるよね」

「でも、生きているなら何があったか、まだ聞き取るチャンスがあるはず」

 得体の知らない何かが忍び寄っている。そんな気配を感じずにはいられなかった。

 そのあともテレビでは昨夜未明に起きたこの飲酒事故の経緯を報道を続けていた。


「ただいま」

 菖瞳の声に奥から足音が近づいてくるのがわかる。

「おかえりなさい。お客さんかしら?」

 それは杏希だった。母が現れるものとばかり思っていたから彼女の登場は意外だった。

「お邪魔します。石元洸です」

 洸は丁寧に杏希にあいさつすると気さくに続けた。

「菖瞳にこんなきれいなお姉さんがいたとは聞いていませんでした」

「お姉さんだなんて」

 杏希は嬉しそうに頬に手を当てた。いつものあざとい仕草を洸にも披露しているのだ。

「洸。この人はお兄ちゃんの彼女。だからまだ別にお姉さんではなくて」

「まだって、菖瞳ちゃんは気が早いんだから」と杏希は何を聞き間違えてか一人で盛り上がっていた。

「お母さんは?」

「お母様はお買い物でして、例の如く私が雪君のお世話係を仕ったのであります」と菖瞳に手を添えて敬礼して答えた。

 杏希のテンションに付いていけず菖瞳は「そうですか」と受けかわすのだった。

 菖瞳が振り向くと洸と杏希がお互いに敬礼していた。

「洸。道場はこっちだから」

 菖瞳が促してようやく洸は靴を脱いで家に上がってきた。玄関をまっすぐ行けば母屋の自宅であり、左を行けば道場につながる。外にも道場専用の入り口があるが、菖瞳はいつもこちらの道を使っていた。教え子の特権を大いに活用していたのだった。

 日曜日ということで引き続き洸との週末を送ることにしたわけだが、昨日の学校祭の参加で稽古に参加できなかったという口実で洸はある提案をした。

「菖瞳の家なら剣を振れるんでしょう?それなら公民館に通わなくてもいいのに」

 洸は朝食のトーストを食べながら言ったのだった。

「そうだけど…使ってないから掃除しないといけないよ」

「しようよ。二人で掃除して、人呼んでさ。なんなら先生に言って道場使わせてあげれば。せっかくのスペースもったいないって」

「でもね。やるとなるとこれまた大変よ。人の出入りが多くなって管理が大変になるんだからね」と過去の記憶を引っ張り出した。

「昔以上にケガに対してうるさくなったし、ご近所への配慮も難しいんだよ。不審者がいてもすぐに対応できるかどうか」

「それは具体的には分からないけど…今日掃除をすることは絶対だからね」

 否定を口にする菖瞳に対して洸は簡単には折れなかった。そんな洸を菖瞳は少々面倒に思うこともあったが、それ以上に頼もしさと人としての魅力を感じていた。

「すごい想像以上のお屋敷ね!」

 家を見た洸の感想はこうだった。

 菖瞳にとってはただの古いだけで老朽化が気になる家としか思っていなかったから、率直にこういった感想を聞かされると改めてすごいのだと実感するのだった。

 廊下は埃が気になるほどに汚れていて、とてもではないが招待するほどに自慢できるものではない。

「ドキドキしてきた」と洸は汚れなどさして気にした様子はないようだった。

 襖の前に付いた二人は別々の緊張感を持っていた。

 菖瞳は襖に手を掛けた時、瞬間的にあの日の光景が目の前によみがえる。


 涼やかな空気の中で菖瞳は立ち尽くしていた。

 いくら辺りを見回しても主役がいない。そこにいないのが不思議なぐらいだった。

「お父さんのこと残念だったね」

 掛けられる言葉はすべてこれだった。

『残念』などという簡単な言葉で締めくくられていいものか?菖瞳の心の奥深くにはどす黒い憤りが宿っていた。

 弔問客はほとんどが顔なじみのはずだったが、この時ばかりは知った顔以上に知らない顔、馴染みのない顔の方が目についた。その代表が親戚関係であった。

 一度も見たことのない親戚を名乗る人物たちに菖瞳は信用できないでいた。苗字に『嶺橋』を名乗っているからと言ってそのことだけで鵜呑みにはできないではないのか。

 父の妹、富雪おばさんの家族だけは信用できるが、他は正直来ないでほしいと思ってしまう。

 菖瞳は主役の眠る棺を覗き込んだ。施された父の亡骸は生前以上に健康そうに見えた。眠っているだけではないかと思えるほどに安らかな表情をしている。

「神は僕らに何歳で死ぬのか寿命を教えてくれたらいいのにね」

 父の顔をじっくりと眺めていた菖瞳に何者かが声をかけてきた。顔を上げてみると、そこには髪の長い中性的な顔立ちの男が立っていた。

 男は妖艶なまなざしで菖瞳を見つめほほ笑んだ。

「それなら僕ら人間は大切なことや無駄なことを選びながら人生を計画的に生きられると思うわない?」

「そうでしょうか?私には想像もつきません」

 菖瞳は警戒していた。

「恐らく僕のこと覚えていないようだ。無理もないさ。こんな時でないと集まる機会はないし、あれはもう10年前のことだからね」

 10年前と言われても菖瞳は当時4歳。物心ついた辺りのことだから思い当たる出来事が浮かばない。

「僕は嶺橋夕雨。君のおじいさんのお葬式で僕らは会っている」

 その名前は聞き覚えがあった。だが、その名前をどこで聞いたのかまではしっかりと認識できていなかった。

「どんな親戚関係ですか?」

「僕のおじいさんは君のおじいさんの兄。つまり僕らはハトコ同士だよ。うちの事は何か聞いていないの?」

 菖瞳は首を振った。

「そうか。では刀のことは?」

「刀?何も。それがどうかしましたか?」

「じゃあ、僕の父のことも聞いていないか…」

 夕雨は当てが外れたようにさみしそうにつぶやいた。

 そんな夕雨を見て菖瞳は心底さみしい思いを抱いた。父はまだ自分に伝えきれていないことがある。いつもひざを突き合わせて教えてくれていた習慣はもう二度と訪れることはない。教えたいことの半分も語ってくれていないのではないかと思うと無性に悲しくてつらくなった。

「ところで今日はあのお兄さんは来ていないの?」と夕雨は部屋中を見回し眺めながら問いかけた。

「お兄ちゃんならそこに」と椅子に座ったまま全く微動だにしない兄を視界でとらえた。

 いつになく気が立っており、菖瞳が話しかけても何も口を利いてくれないのだ。病院を飛び出しどこにいて、何をしていたかについて問い質しても兄は一言も話してくれなかった。それどころか遠ざけるようにして姿を消すことが何度かあった。

「雪虎君じゃなくて、ほら、もっと背の高くて、きりっとした目つきのお兄さん。茂雪おじさんの一番弟子だとかいう」

「高岡さんの事ですか?」

 一番弟子というのは兄雪虎をおいて表せるのは彼しかいないと思ったのだ。

「名前は分からないけど、その人いないみたいだけど。どこにいるのかな?」

「さあ、今日は顔を見ていませんけど、知り合いなんですか?」

「ちょっとした縁でね、お互いに忘れられない夜を迎えた程度だけどさあ」

 真に受けた菖瞳はドギマギしてしまった。思いもよらない深い話に急に心拍数が上がったのだ。

 それに気が付いた夕雨はからかい混じりに話を続けた。

「当時11歳の僕にはあのお兄さんがとっても素敵に見えて一目ぼれしちゃってね。どうにかして振り向いてくれないかって気を引いてみたんだけどさ、最初は子供としか見てくれていなかったけど、あの夜だけは僕をまっすぐと見つめてくれて男らしいところを見せてくれたんだ」

「失礼します」

 これ以上聞いていられないと、居てもたってもいられなくなった菖瞳は夕雨から逃げ出した。少なくとも父の遺体の前で聞くような話ではない。

 捻じ曲げられて伝えられた過去の出来事に嫌悪を抱くとともに潜在意識の中に高岡に対する未成年の男の子に手を出したらしいという疑惑の軽蔑心が植え付けられたのだった。

 急激な疲れを覚えた菖瞳は参列席に腰を下ろした。二つ開けた席の向こう側には兄がいたが、近寄りがたい空気を放っていて、とてもではないが菖瞳ですら隣に座る勇気はなかった。

 いつの間にか夕雨の姿はそこになく、姿を眩ませた。

「あの子と何を話していたの?」

 前の右斜めの席に一人ポツンと座っていた富雪おばさんが声を声をかけてきた。化粧でわかりにくいが、目元は待ったでひとしきり泣いた後が窺えた。彼女は夕雨と一緒にいるところを見ていたようで、好奇心というよりは警戒心をもって問いかけてきたようだった。

「何も」

 最後に残った印象は口に出すほどのことではない内容だった。

「彼らと関わっちゃダメよ」と耳打ちした。

 菖瞳は表情だけで『なぜですか?』と表現した。

「茂雪兄さんから向こうの一族のことは聞いていない?」

 菖瞳は首を横に振った。

「いい?私たちと向こうとはある素質が決定的に違うの。ちなみに私には備わっていなかったけど、兄さんは備わっていた。あなたのおじいさんにも備わっていた」

「何の話ですか?」

 富雪はあたりを見回して警戒しつつ更に菖瞳に耳打ちした。

「菖瞳ちゃんは目がいいと思ったことはない?」

「目ですか?あんまり感じたことは…」

 確かに眼鏡は掛けていないが、目がいいとことさらに自覚したことはほとんどなかった。人並みの視力だし、酷使した時は疲れる時もある。

「これは受け継がれる血筋の神秘でね」

「富雪」と会話を遮るようにして知らないおじさんが小声で話す彼女を呼んだ。

「叢雨」と叔母は話を切り上げ、そのおじさんをそう呼んだ。

「茂雪は本当に残念だったね。おじさんの回忌の相談でもと思っていた矢先だったから俺たちも本当に無念な気持ちだよ」

 不審に見る菖瞳に叔母はその男の人を紹介した。

「このひと叢雨。わたしとはイトコでおじいさんの兄の子。夕雨君のお父さんの弟さんと言えばわかる?」

「父の葬儀に参列していただいてありがとうございます」と突然現れた男に菖瞳は丁寧に挨拶した。

「いい子に育って茂雪も鼻が高かっただろうな」

 そう褒められると菖瞳は弱かった。思わず父を思い出し涙を流してしまう。

「すまない。泣かしてしまった」

「よくも顔が出せたわね。前回は父の遺体に灰をぶちまけたのよ。それでよくも兄の式に参列しようと思うわ」と富雪は立ち上がって叱りつけた。

「あの時は俺もガキだったんだ。俺も家庭をもって変わったんだ。もっと家族は大切にしないといけないだろ」

「あんた結婚したの?」

「もう8年になる。これが妻だ」と気が付けば後ろにピッタリと寄り添う女の人が立っていた。紹介されてその女性は会釈をし、居心地悪そうにまた男の後ろに引っ込んだのだった。

「あの時は本当に大人げなかった。だから今日は謝罪の意味も込めて来たんだよ」

「勝手な話ね。謝罪なら兄が生きているうちに来るべきだったわ」

「怒りはごもっとも。この通りだ」と父の遺体に向かって頭を下げた。叢雨に次いで奥さんも一緒に頭を下げていた。

 その光景は他の参列者の目にも留まった。罪滅ぼしとばかりに彼らは辱めを受け入れ、真摯に謝罪の意を表したのだった。


「想像していたほど汚れていないね」

「え?ああ。そう?」我に返った菖瞳の前に懐かしい空気が霞めて行った。

「ゴミ一つ落ちていないし、蜘蛛の巣を張っているようでもないでしょう?」

「お母さんが掃除していたのかもね」

 それでも歩けば埃は立ち込めているので、菖瞳はすべての窓を開け放ち、道場に風を呼び込んだ。

「じゃあ、やりますか」と洸は腕をまくり上げた。

 それから二人は畳を干したり、すすを払い落し、窓を磨く。黙々と清掃に励む二人に引き込まれるように杏希も手伝っていた。

 女手三人は後から帰ってきた母の介入でさらに進捗は加速した。

 お昼の休憩を挟んでさらに人手が加わった。

 洸が冗談で呼んだ高岡桔梗と菖瞳が発注したお花を届けに癒月蘭が現れたのだった。

 総勢六名の働きにより、嶺橋茂雪の道場はすっかり見違えた。清掃が終わった時には初夏の西日に涼しい風が場内をめぐるのだ。

 気持ちの良い空間に誰もが満足感に満たされていた。皆思い思いに道場の畳の感触を味わっていた。

「菖瞳、何か一言」と洸が畳に大の字になって話を振った。

「え~?一言といっても…」

「聞きたいな。菖瞳ちゃんの感想」と杏希がはやし立てた。

「え~と。まずは…ありがとうございました。せっかくの日曜日にお掃除に突き合わせてしまいまして」

 誰ともなく笑顔がこぼれ聞こえてきた。全員身内みたいなものだが、少しの緊張感をもって菖瞳は話を続けた。

「まずは、じゃあ。杏希さん。いつもお兄ちゃんのお世話ありがとうございます。本当のお姉さんみたいに接してくれるのは照れ臭いけど、いつも元気をもらっています」

「いいのよ~大好き」と杏希は涙ながらに答えてくれた。

「癒月店長。いつもバイト大目に見てくれてありがとうございます。出られない時は融通を利かせてくれるし、相談にも乗ってくれます。今日なんてこんな素晴らしいお花まで繕ってくれて、さらにお掃除まで手伝ってくれました。大人の優しさで暖かく見守ってくっださってありがとうございます」

「こちらこそです。頼りない店長かもしれないけど、これからも頼ってよね。菖瞳ちゃんはうちの看板妹だから」

 癒月は最後にほほ笑んで見せた。

「ありがとうございます。そして高岡さん。お父さんの剣術を受け継いで下さりありがとうございました。それに高岡さんの誘いがないと今も私は道場に足を踏み入れるどころが、竹刀を握ることもなかったかもしれません。あの時、無理にでも誘っていただきありがとうございました」

 高岡は何も言わず首を頷かせるだけだった。そのあとも高岡は天井に顔を上げたまま顔を向けようとはしなかった。

「お母さん。つらいことを一緒に経験してきたけど、これからは前向きにお父さんの意志を引き継いで生きるよ。お兄ちゃんのこともあるけど、ここにいるみんながきっと力になってくれる。だから、お母さん。辛くても落ち込まないで。わたしも一緒に頑張る。お兄ちゃんが良くなることをあきらめないでいいんだよ」

「ア~ヤメ~」と母が抱きついた。母の目には2カ月前に膿んでいた絶望に満ちた悲しみがすっかりと消えていた。

「あれ、私は?」と洸がさみしそうにつぶやいた。

「もちろん洸も。洸がいなかったら、こうしてみんなが集まることはなかった。道場を開放しようなんて思っていなかったかもしれない。心から信頼できる友達に洸というあなたがいてくれて本当に幸せです。これからもよろしくお願いします」

「ア~ヤメ~」と洸も母と同じイントネーションで抱きついて大泣きした。

 菖瞳は彼女のぬくもりに抱きしめられ同じく涙をこぼす。背中越しに見えた癒月が頷いていた。いつか抱えていた悩みを忘れはしない。

 高岡は背中を向けて肩を丸めており、杏希は車いすに座った雪虎に何かを優しく語りかけていた。

 まさかこの中に一人裏切り者がいることを菖瞳は知る由もない。

 流れ込んできていた涼やかな風はやがて沈みゆく太陽とともに冷たい風へと変貌していた。

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