08 流されて萌袖

「私、人との距離感がわからなくて、いつも身構えてしまって、少しでも仲良くなるとうっとうしがられるみたいなの。だから今回も浮ついて不快にさせてしまったんじゃないっかって思ったんだ…」

「全然うっとうしいとか思っていないよ。私もサークルの仲間に自分の誕生日会をぶち壊しにされたり、過去の話を茶化されたりして、人付き合いが分からなくなっていて、つい遠ざけるようなことを言っちゃってごめんなさい」

 二人はいつしか笑い合っていた。

 不思議なもので昔からの友人のような感覚がしていた。

「実は私、二年前の試合の時からずっと嶺橋さんのこと気になっていたんだ。というのも謝りたかったの。わたしうれしさのあまりに舞い上がってしまって、勝負が決まった時はちゃんと挨拶もできなかった。先生にはあなたが強いって脅されていたし、実際前の二年間は連続で優勝したじゃない。だからどんな人なのかって勝手に興味を持っていたんだけど、いざ終わってみると自分のことしか考えられなくって、後になってとっても後悔したんだ。だから、先生から嶺橋さんを呼ぶって話を聞いた時は震えるほどに緊張したんだ」

「そんなあ。わたしだってあの時は自分のことしか考えられなくて、無礼だったでしょう?うちの騒動に巻き込んでしまうことになるかもしれないけど、石元さんは手伝ってくれる?」

「当然よ。決まりね」と洸はコップを掲げた。

 菖瞳もそれにならってコップを掲げると小さな乾杯を祝った。中身はソフトドリンクであるところもまたお互いの気が合ってのことだった。


 家に帰った菖瞳は一目散に仏間に向かった。

「変わりない」という杏希の言葉と兄の宙に向けた視線の先を確かめながらも二人を横切った。まるで二人は老夫婦のようなしみじみとした空気を醸し出しており、彼女が口を挟む余地はなさそうに思ったのだ。

 仏壇のすぐ近く、高岡の証言する戸棚の引き出しを漁ってみた。あるものは数枚の古紙、それも黄ばんでおり、触ればカサカサと響く音を出すまでに湿気が飛んでいた。さらに鼻に付く古臭さが強烈だった。

 それらしい資料はたくさんあり、一枚一枚をじっくりと観察しながら畳の上で選別していった。

 だが、その数枚の中に高岡から見せてもらった筆文字や本のページはない。たいていが保険の保証書や契約書、捨てずにとっておいたのであろう子供の絵(見たところ兄の幼少時もの)であり、かしこまった物はどこにもない。

 菖瞳はあきらめずにその戸棚からすべてのものを取り出した。

 いつだかなくしたと思っていたハサミや鉛筆、旅行のお見上げに買ったタペストリー、家や土地の登記簿なんかも出てきた。さすがに棚の奥から出てきた年代物のエロ本には驚いたが、これを超える驚きはなかった。

「アンタどうしたの?」

 いつしか部屋はうす暗く静まっていた。母が様子を見に顔を覗かせていたのだ。

「探し物」

「それで何か見つかったの?」と母は中央の蛍光灯を灯した。

「こんなものぐらい」と例のエロ本を広げた紙や雑貨の上に乗せた。

 母は苦笑いを浮かべた。

「他に古いものをしまうとしたらどこかな?やっぱり床下だよね」

「まあ、そうよね。道場の下にある物置かおじいさんの書斎の押し入れかな。探しているものにもよるけど…」

「そうか。おじいちゃんの部屋」

「菖瞳、探し物はいいけどちゃんと片付けるのよ」

 すっかり回りがたくさんのもので囲まれていた。捨てるものと残すものとを分けるだけで結構な時間がかかりそうだった。

「は~い」

「今日は杏希さんも泊まるそうだから後で布団出してあげてよね」というと母は菖瞳の返答を聞かずに踵を返そうと振りむいた。

「お母さん!」と菖瞳は急いで母を呼び止めた。

「貴雨さんってどうなったか聞いてる?」

「キサメ?誰のことだったかな~」と母は黒目を上に記憶を探っていた。

「親戚のおじさん。昔、逮捕されたんでしょう?」

「ああ、あの人ね。って言うか逮捕のことよく覚えているわ。菖瞳もまだ小さい頃よ」

「高岡さんに教えてもらったのよ。どうやらお兄ちゃんの症状がその時に使われた妖刀の被害と同じだからって調べてくれているのよ」

「そうよね。なんで今まで気が付かなかったのよ。何とかって刀で目覚めなかったあの時と同じじゃない!」

 相当な衝撃だったのか母は叫んでいた。

「どうしたんですか?」

 母の絶叫に杏希がやってきた。

「何でもない。何でもない。ただスーパーで買い忘れがあったのを思い出して、思わず騒いじゃっただけよ」

「じゃあ、私が買いに」と親切心からか、はたまた鈍感だからかは分からないが杏希は母の厳しい言い訳に従った。

「いいや、いいのよ。急ぐことじゃないし」と台所へとスコスコと逃げて行った。

「菖瞳ちゃんも大丈夫?手伝おうか?」

 あまりの散らかりように口を出さずにはいられなかったのだろう。杏希は提案ながらも勝手に散らかった資料を扱いだした。

「すみません。気づけばこんなんで」

「フフフ」と杏希が笑い声を上げた。嫌味っぽくなく、薄ら笑いというものでもない。うちから込み上げてくる笑みを隠し切れなかったようにして彼女は笑うのだ。

「ごめんね。こうやっているのが楽しくて。本当に菖瞳ちゃんのお姉さんになったような気がしちゃってつい」

 菖瞳は不思議な気持ちでいた。杏希のその仕草がどうしてもあざといのだが、許せてしまう。彼女を姉だと思うことには抵抗があるのだが、それでもそう言ってもらえることが嬉しいのだ。

「ねえ、この紙ってずいぶん古いけど何の紙?」

「ただのゴミですよ。私が探しているものとは違います」

「ごみじゃないわ。これ、見てよ」と一枚の紙を広げて指で示した。

「ここ、刀はとても鈍くて、とてもではないけど人を切るのには適さないほどに刃先はなまくら同然に心もとない」っと書いてるわ。

 菖瞳は杏希からその書類を拝借し、その部分を確かめた。気が付かなかったがその紙には確かにその記述が見て取れた。

「すごい!どうしてこれが読めるのですか?」

「この手の文献は読み慣れているから…」と急にもじもじしだした。

「それにしても何の記述?刀の説明のように読めるけど」

「何でもありません。ある人にこういう古い資料がないか調べてほしいってお願いされたから探してみただけですので、詳細については分からないのです」

 嘘をついたが、仕方ない。他人を巻き込むわけにはいかないと心に決めていたからだった。

「そうなのね。それならお手柄じゃない?この紙がそうなんでしょ?」

「そうですね。ありがとうございます」

「別に私の手柄とかそんなことを言いたかったわけじゃあ…」

 もじもじ振舞う杏希に菖瞳は笑ってしまった。

「え?何々?私変なこと言った?」

 杏希は笑われていることに戸惑い、菖瞳の肩を揺すって聞いた。

 以前笑いは収まらずひとしきり笑った後にようやく言い訳が口を出た。

「杏希さんが手柄を欲するところを想像しちゃって、全然ガラじゃないんですもの」

「んも~。ヒド~イ」と冗談めかした彼女は嬉しそうに笑い返したのだった。


 派手に鳴り響くトランペットの音や遠くで聞こえてくる歌声とテンポの良いBGMに包まれながら、菖瞳はにぎわう人の中にいた。

 露店や路上パフォーマー、それにステージ上のミスター&ミス選手権、お祭りムード一色の学園内で彼女の手と足取りだけが頼りだった。

「すごい盛り上がりだよね」

 いつもの二倍の声量で投げかけた。

 輝く茶髪をなびかせて洸が振り返った。

「去年もすごかったけど、ひどいものよ。毎年スリの被害があるようだから気を付けてよ」

 洸の誘いのもと、本日は彼女の学校、慶長出雲芸術大学の学校祭に訪れていた。

 学生たちは炎天下においても楽しそうにそれぞれのお祭りを楽しんでいるのだった。

「ちょっと!」

 菖瞳は思わず声を上げた。人込みのどさくさに紛れて誰かにお尻を触られたのだ。

 振り向いたところで誰かがいるわけでもない。

 次第に気持ちは人込みに対する憎悪が高まる。

「あっちが私の通う演劇棟でこっちが舞台ホール」

 道のわきを反れ、群衆を抜けたところで洸は指を差して大げさに案内してくれた。

「演劇やってるんだ!」

 学校のことは聞いていても何を専攻しているかまでを聞くのはこれが初めてだった。

「そういうのって恥ずかしいじゃん」と洸は顔を赤らめて説明を続けた。

「それでね、あと三時間後ぐらいにこの舞台ホールで本番が開かれるの。だから、それまでは少し時間はあるけど、本番前だから最後のリハがあって、あまり一緒にいられないんだ」

「何言ってるの。本番前なんだから私に付き合うことないって。さあさあ、行ってよ」

「ごめんね。誘っておいて気が利かなかったわ」と演劇棟に足を向けようとしたが、忘れていたのか肩掛けのバッグを両手に持ってそこから何かを菖瞳に差し出した。

「チケット。忘れないうちに」

 菖瞳が手を出して引き受けようとしたとき、二人の間を衝撃が襲った。

 気づけば洸のバッグがなく、間を抜けた男の肩にそれがあるのだ。

 ひったくりだと思った瞬間に菖瞳は飛ばされた洸の体をつかんでこう言った。

「私に任せて。後で届けるから」

 洸は腕を前にして 怯えた表情をしていたのだが、すぐに気持ちを切り替え立ち上がり「お願い」とだけ菖瞳に告げた。

 菖瞳はすぐに男を追いかけた。一瞬にして男の後ろ姿は人込みの中に紛れてしまった。

 多色の服装はさすがは美大生、ファッションのセンスもおしゃれな色使いだった。

 犯人の黒いジャンパーにジーンズといういで立ちは逆に目立つはず。それに目的は洸の青いバッグである。肩からひっさげたバッグは特徴をとらえるのに十分なアクセントになる。

 表通りの模擬店の合間をゆっくりと探る。

 もはや犯人を取り逃してしまったと考えたくはないが、人込みに紛れた男の方が一枚上手だと認識せざるを得ない。だからと言ってさっきの痴漢のようにうやむやにしたくはなかった。

「君、とってもかわいいね」

 突然声を掛けられた菖瞳は「何ですか?」と聞こえないふりをした。見れば派手なたすきをかけた男がその声の主だとわかった。

「行くとこ無いんだったら俺とどう?」

 菖瞳は男を構わず周りをきょろきょろと見回していた。

「お姉さん、本当にいい。その黒髪もかっこかわいいワイシャツネクタイ。俺のタイプなんだよ」

 それらの口説きの一切を無視し過ぎ去ろうとしたところ、がっちりと腕をつかまれてしまう。

「連絡先ぐらい教えてよ。減るもんじゃないんだからさ」

「離してください。今は大事なようがあってそれどころではないんです!」

「後回しでもいいだろ」と男はつかんだ腕をぎゅっとそばに寄せた。今にも体を触られそうになり、菖瞳は体を瞬時的に低くし、男の左下を滑るようにして抜け出した。

 突然姿を消したようにしか見えなかった男はつかんだままの腕を持っていかれ、その勢いのままにバランスを崩し体が投げ出された。

「何するんだ!」

 群衆の中での大立ち回りのなかを男がいきり立って吠えた。だが、すでに菖瞳の姿はない。

 男の足もとを抜けた先に見覚えのある肩掛けバッグが見えたのだ。

 菖瞳はバッグを目で追った。確かに洸の青いバッグだったのだが、それを持つ男の身なりが少し違う。ジーンズ姿のラフな格好に赤いTシャツ。おまけにピエロのお面をつけているのだ。

 人違いか見間違いかとも疑ったが走る姿が犯人のそれと一致する。

 確信を持った菖瞳はその姿を追った。遠吠えがしていたが構わず人の合間を縫っていく。

 追ってくる菖瞳に気が付いた犯人が血相を掻いて逃げるのだった。

「ひったくりです」「捕まえて」などという声を全く発しない菖瞳を周りは追いかけごっこでもしているように見えたかもしれない。

 追われる犯人は何としても逃れるためにあらゆる雑踏の中を走り抜けるのだった。

 カラオケコンテストの客席を横切ったと思うと、講演中の会場を抜け、食堂を走り去る。

 長いこと走っているのになかなか追いつけない。ほとんど同じスピードで競い合っているようだった。

 講堂を抜け出し再び表通りに現れた。また懲りない犯人の逃走劇に陰りが現れた。そろそろ息が上がって体力が限界なのだ。ここでまた人込みにでも入られてしまったら見失いかねない。決着は表通りの屋台会場までだ。

 見切りをつけた菖瞳は最後の力を振り絞ってスピードを上げた。犯人の体を捕えるにはあと少し、手を出せば届きそうなところまで来ている。

(届いた)と確信した瞬間だった。

 前を逃げる男が突然横に吹き飛んだのだ。

 つまずきそうになる足を跳ね、犯人を見ると大男が覆いかぶさっていた。援護でもしたかったのだろうか、大男は身を投げ出して犯人を確保したのだった。

 だがその男に菖瞳は悲鳴をあげそうになった。それをぐっとこらあえて身を半歩引いた。

「どうしてあんたが」

 大男がのそりと起き上がり犯人の首をつかんだままに菖瞳に顔を突き上げた。それは福内宋汰だったのだ。

「別にいいだろ。みんなと来ただけだ」

「みんなって?」

 福内は顎をしゃくって通りの向こう側を示した。

「すごい走っていたけど、何かあったの?」と柿木先輩が綿あめ片手に現れた。

 他にも晴夏やサークルの顔なじみがそこにいた。

 これには思うところがあったが、口にすることを避けた。

「この人ひったくりなんです。だから追いかけていたけど。さあバッグを返しなさい」

 男は舌打ちをして言うことを聞かない。

「このバッグだな。おい、クズ野郎。警察に突き出してもいいんだぞ」

 これまた思うところがあるが、菖瞳は黙っていることにした。

 男は仕方なくバッグを肩からおろし、菖瞳に突き出した。それは洸のものに違いない。カバンの隙間から洸のお気に入りの狸のぬいぐるみが顔を見せていた。

「二度とするなよ」と福内は大物気取りで男を解放してやった。

 警察沙汰にしたくないのは菖瞳も一緒の思いだったが、犯罪の裁量を勝手に決められるとそれは違うのではないかと思わずにはいられない。

 だから菖瞳は何も言わずに立ち去ろうとした。

「ねえ、何処に行くの?」と晴夏が声を掛けた。

「このバッグを持ち主に返してくる」

「そうじゃなくって、最近、付き合い悪いじゃないの?サークルには顔を出さないし、お兄さんの件は分かるけど私たちが顔を合わせるのって極端に減ったじゃない?」

「そんなことは…」

「じゃあ、どうして無視しようとするの?本当にお兄さんのことが心配ならわかるけど、元気じゃない。堂々とこんな他校の学園祭を走り回るほど元気じゃないの。心配なら心配なりにずっと病人に付いていなさいよ。せっかく仲間のいないあなたを向かい入れたのに、恩を仇で返すなんてひどいじゃない」

「押しつけがましくしないでよ!」

 つい口を滑らせた。だが、そのあとに出てくる言葉の数々はすべて抑えようとはしなかった。

「別にまったく同じ思想の友達が欲しかったわけじゃない。少しでも理解して相談できて共感しあえる仲間が欲しかっただけ。私はお店に迷惑をかけるようなバカ騒ぎをしたり、街に繰り出して車体を横転させるような共感意識は持ちたくないの。きっとこういうことを言ったらのけ者にするんでしょうね。だいたいメンバーの私に何の連絡もなく、心配の連絡もないのに、このお祭りにやってきたことだってすでに表れているじゃないの」

「はあ、何よ!一人だけえらい子ぶって。その場の空気にノルことの何が悪いっていうの?せっかく私たちは学生生活を少しでも後悔のない様に面白くて楽しめるようにって考えて努力しているのに、迷惑?共感したくない?ふざけないで!この一瞬しかないひとときを楽しめないあんたに非があるわ」

 今にも殴りかかりそうな晴夏を落ち着かせようとメンバーが押さえつけていた。

「楽しむことを悪だと思わない。私はその楽しみ方を間違っているって言っているの。ひっかけた男の数や抱いた女の隠し撮りとかみっともない。そのうち落書きを競い合ったり、危険行動をネット上にアップしたりするんでしょう?」

「私たちがそんな分別がない様に見える?」

「じゃあ、何?出禁になったお店に謝りに行った?まるで武勇伝のように話が回っているのよ。少しはやってしまったことを見つめ直してみたら」

 未だに頭に血が上ったままの晴夏は絡みつく腕を躍起になって振り解こうとした。

 菖瞳はバッグを肩に掛け、走り出した。

 今まで胸の奥に潜んでいた思いが飛び出たのだがまったくもっていい気はしなかった。涙を浮かべている自分が何とも情けなく、惨めに思えた。

「あんたはそれでいいのね!」と声を掛けたのは柿木だった。

 もはや名前で呼ぶ気はないらしい。

 菖瞳は振り返ることはせず重い足取りのままに演劇棟を目指した。


『STAFF ONLY』の貼り札の大きな扉を叩いてみた。だが、反応はない。

「すみません」と声掛けをして中を覗いてみた。

 すると廊下をたくさんの人が行き交っていたのだった。衣装係、小道具係。誰が何を持っているかで大体の察しはつく。

「勝手に入るのはまずいんじゃないか」

 ドキリとして背後に目を向けた。そこには大男、福内がいた。

「なんでついて来たの」

 菖瞳は怒りや恐怖、それ以外にも湧き起こる感情を飛び超して呆れていた。

「それは心配だからだよ。アヤは高校の時から意固地だからまた孤立するんじゃないかと思ったんだよ。あれだったらさ、俺が間を取り持ってあげるよ」

「余計なお世話。どうしてそんなに私を気に掛けるの?そんなに私とやりたいの」

「そんなことアヤの口から聞きたくなかった。幻滅ポイント50だよ」

「君たち。何の用だ」

 再び心臓が高まった菖瞳は声の主を探した。だが、周りを見てもいるのは福内と廊下の向こうでせわしなく行き交う学生たちぐらいだった。

「ここだ」

 声は上から聞こえたのだった。

 見上げた先には窓から身を乗り出し手を振る男がいた。立派なひげを生やしているその男性は学生には見えない。

「石元さんにお届け物です」と肩のバッグを掲げた。

「ああ、聞いている。入ってきてくれ。手前の階段から三階だ」

「はい」と手を振って答えた。

 土足のままに入館した。中は木の香りがいっぱいに広がり、建物の古さが伝わってくる。それを裏付けるようにして歩くと床が音を立てるのだ。

 足音が一つ二つと。そこで足音に違和感を感じ、振り返った。

「なんで付いて来るの?」

 ちゃっかりと福内が後ろにいたのだ。

「それは…俺がバッグを取り戻したんだ。その持ち主の石元って奴が気になるから」

「彼女には絶対に手を出さないでよ」

「女か。俺はてっきり男かと」

「バッグのセンスでわかるでしょ」

 階段を上った先に窓から声をかけてきた男の人が立っていた。二人の到着を待っていたのだ。

「いらっしゃい。君が嶺橋さんだね。そして、君は?」

「福内です。バッグを取り返したものです。ちなみに菖瞳の彼氏です」

 福内の思考は手に取るように分かった。ひげの素敵な紳士に対抗意識を持ったのだ。

「違います」と即答した。

「関係性は分かったよ」と男は笑顔を見せた。

「本当に違いますからね。このバカはただのレイプ犯ですから」

「あれは違うんだ。今度ちゃんと弁解させてくれ」

「面白いね、君たち。俺の想像力を掻き立てる。後で何があったか聞かせてくれないか?」

 あまりに興味津々に食いつく男に二人は引いた目で見ていた。

「悪い。つい癖で。自己紹介が遅れた。今日の舞台の監督山崎十色といろと言います。トイロというのはもちろん芸名なのだが、普段は映画監督をしているんだ。聞いたことあるかな?『夕方のロメロ』『三日月諳んじる』っていう作品」

「すみません。映画はあまり観てこなかったので…」

「はあ?知らないの?俺は見ました。三日月。とっても怖かったのを覚えています。女と行ったときは本当に最高でした」

「今の答えで俺も彼を理解した」と同情でもしているかのように菖瞳に言った。

 トイロの哀れむような視線にも関わらず、福内は過去を思い出しては妄想の世界に浸り続けていた。

「監督、リハ準備完了です」

 下の階からスタッフの男子の声がした。

「了解!」とトイロは階段の手すりに身を投げ出して返事した。

 本番前の緊張感がピリピリと伝わってくる。

「そろそろお暇します。このバッグを石元さんにお願いしてもよろしいですか?」

「ああ、そうだったね。付いてきなさい」とトイロは階段を下りた。

 それに続いた菖瞳は廊下を一歩一歩進むたびに自らの場違いに気が引ける思いがこみ上げてくる。

 時代劇の姿の俳優さんたちが本番前の独特な空気を纏って蠢いているのだ。俳優さんたちだけではない。多くのスタッフが本番に向けて台本を片手にせわしなく走り回っているのだ。時折聞こえてくる怒声はまさに緊張感からくるストレスや高揚感によるものだろう。

「監督、事件発生です」と膝に手を当て呼吸を乱した男がその報を告げた。


「大丈夫。合わせるだけでいいから」

「洸。これって現実?夢だよね。わたしなんて格好しているの?」

「落ち着いて。菖瞳ならできるから」

 気が付けば本番は始まっている。どういうことだか菖瞳は舞台のそででその時を待っていた。

 用意されていた衣装はなぜかピッタリときたものだ。

「本当にすみません。何とお礼を表わせばよいか」と松葉づえをついた男が菖瞳に声を掛けた。

「あんたは黙って自分の財布だけの心配をしろ。終わった時に心配を掛けた報いと助っ人の嶺橋さんのために何がいいか考えていることだ」と事件の報を告げた男、助監督が口を入れた。

「私、本当に演技の経験など…」

「大丈夫だって、リハーサルの立ち回り見事だったよ。石元に合わせることができる人はなかなかいない。あいつだってギリギリの動きだったんだ。俺の感想じゃあ、君の方がうまいよ」

 リハーサル直前、急遽代役が必要だった。

 シーンにどうしても必要な家臣の侍役の男が足を引きずって現れたのだ。稽古中ならまだしも、お祭りに浮かれ高所から飛び降り足をひねったというのだ。そこで洸からの代役のご指名を受けたのだ。

 だが、菖瞳には男の証言が嘘だとわかっていた。

 男は知らん顔をして「お礼」などという言葉を掛けてきたが、ひったくり犯に違いないのだ。

 その申告をする機会もなく、本番を迎えたスタッフ一同は男の言い訳を疑わず、菖瞳の助っ人を歓迎した。それにいつの間にか福内の姿がない。福内のことだから男を見た瞬間にその事実を即座に口にすることは想像できる。

 こうして菖瞳はまるで誰かに仕組まれたかのように舞台に立った。

 監督からの指示は一つだけ。

「洸の動きに合わせること」

「合わせてどうなるのですか?」

「最後は切られて倒れる。それだけだから。セリフ無し、掛けられるセリフに首を振るだけでいい」

「しゃべらない人なんですか?」

「そうじゃない。口下手なんだ。こいつは姫に恋心を抱いて謁見のたびにうまく言葉にできず思いを伝えることができない。そして選んだ答えが誘拐だったんだ」

「なんでそんなこと。姫のことを思ったらそんな野蛮な行為はしないはず」

「その通り。だが、世の中には歪んだ愛情表現で事件が起きることの方が大半だ。この浪人は姫がよく旅に出たいと聞かされていた。だから実行に及んだ。良かれと思った行為なんだ」

「姫は抵抗しなかったのですか?家臣の男に連れていかれたらどこかで拒否したり誰かに相談したりしたんじゃありませんか?」

「それができないんだ。というのも姫には意思表示ができないんだ。というのは呪いの込められた刃物に刺されてから心ここに有らずと言った状態になってしまって、自己表現が全くできなくなってしまったんだ」

 菖瞳はドキリとして監督の目を見つめた。劇中に現れた刀の存在に自らの現状が重なった。

 突然睨まれた監督は何事かと観察するように菖瞳を見返した。

「その刀って妖刀の類ですよね?」

「妖刀?まあ、そうともいうが、この話では普通想像する妖刀のような日本刀じゃない。刃物というのは包丁、ナイフほどの小さなものだが、それがどうかした?」

「いいえ、何でもありません」

 言いつつも胸中は震えていた。突如現実に引き戻される不愉快と本番を迎えることの緊張感にさらされながら、菖瞳は監督から借りた台本、自らの出番の部分を眺めていた。


(大丈夫、リハーサル通りにやればいい)

 菖瞳が舞台上に上がると不思議な歓声が沸き起こった。

 彼女がというよりは凛とした女侍という登場人物にざわつくものが大半だった。

 考えてみれば観客の歓声は当然のものだった。男だった役を女性が演じるとなると、これは時代劇という設定を超えた現代恋愛作品へと容態を変えてしまう。

 姫を誘拐するほどに愛した家臣が実は女だったのだ。菖瞳の登場は観客の先入観が覆された瞬間だったからである。

 誘拐犯を追う、女侍。それが洸だった。

 洸はただひたすら主人に従う家来の役どころで悪を滅する立ち回りが見せ場だった。

 洸の繰り出す殺陣捌きはリハーサルの二倍は早かった。リハーサルの動きとは全く違う動きに菖瞳は戸惑いながらもいつもの感じをつかんでいた。

 脚本の通りなら洸の刀捌きにある程度の鍔迫り合いを見せ、死闘の末に家臣は破れるのだが、お互いに熱がこもっていた。洸はより面白く見せようと舞台を降りて劇場通路へ繰り出し表現を大きく見せた。菖瞳は言われた通りに洸に合わようと、必死に付き従う。

 二人の姿があまりにもすさまじく見ている観客は思わず歓声を上げる。誘拐された姫をそっちのけに二人の激しいチャンバラが展開しているのだ。

 監督は大笑い、スタッフですらだれも止める者はいない。

「おぬし、なぜにそのように強く有りて姫君を救えなかったのだ」と舞台上から主役の男が声を張りアドリブをかました。

「私は強くない。大切な人の一人も救ったことがありません」と菖瞳は本心を口にした。

「ではなぜ剣を振るうの?」と洸もアドリブを利かせ、舞台上に駆け戻ると刀を大きく構え菖瞳に差し向けた。

「己を磨くため。成長するためです」と菖瞳は壇上を駆け上がりひと振り魅せる。

 見事振り下げた菖瞳の素振りが洸の剣をはじき返した。

 さすがにこれは台本にない。本来なら打ち負かされるはずのモブキャラがメインキャラクターの力を凌駕してしまったのだ。

 本気になりすぎたことを自覚した菖瞳は極度の緊張感から頭が真っ白になってその場に倒れた。

 不自然な勝負に見えたがそこはあるアドリブが加わったおかげでしのぐことができた。セットの裏からくのいちが吹き矢をして見せたのだ。


 目が覚めると見知らぬベッドの上にいた。保健室だとすぐに理解し、すぐに記憶を巡らせた。思い出すだけでも恥ずかしい。舞台を走り回り与えられた台本通りの締めを迎えることができなかった。それだけではない、こうして保健室に運ばれるまでに迷惑をかけたのだ。せっかくの演劇を台無しにしてしまったことは顔向けできない。責めを受けても仕方ない。

 菖瞳はベッドから起き上がりカーテンをめくった。

 他の患者がいないどころか先生の姿もない。

 一言お礼を告げてから出るべきか、迷惑にならないうちに出て行くべきかを迷っていたが、待っていても誰も来ないのだ。

 仕方なくベッドに腰掛けてぼんやりと外を眺めていた。

 窓の外では薄明りの中において今も学校祭が催され、楽しそうに人々が行き交っている姿が見られた。

 その人々の中で偶然にもサークルのメンバーの姿を見つけてしまった。彼らはまた、柿木先輩を筆頭にしてベロベロに酔っているようだった。変な徒党を組み、組体操を始めていた。だが、見たところ例のバカの姿はない。あの高身長が見つからないはずはない。どうも、福内も抜けていないのだ。

「起きたみたいね」

 声の主は白衣姿だった。保健室の先生と見て違いない。

「ベッドを借りていたみたいで失礼しました」

「軽い熱中症の疑いがあるから水分補給は取ることよ」

「すみません。ありがとうございました」

 菖瞳はベッドを降りて頭を下げると、そのまま部屋を出ようとした。

「待って、あなたここの学生じゃないんだって?」

「はい、すみません。応永大学です。今日は友達の誘いで…。本当にご迷惑をおかけしました」

「それはいいの。見た顔じゃないから」

「それでは」と言ってドアに手を掛けた時、先生は変なことを言った。

「ファンがいっぱい来ているから気を付けてね」

「ファン?」何のことだろうかと思いつつもドアを引いた。すると多くの人が詰めかけてきたのだった。彼らは出待ちでもしていたかのように我先にと菖瞳に接触を図る。

「こら、あんたら。どきなさい」と洸が群れの中を抜けてやってきた。

 菖瞳は状況把握できず洸に引っ張られるままにして廊下を突き進んだ。

「漫画のモデルに!」

「うちの映画に出ないか?」

「私たちのブランドのモデルになって!」

 誘いは様々あるが、誰もが彼女のありようを褒めるものだった。

「洸?これって?」

「気にしないで。私のせいだわ。とにかく付いてきてよ」

 言われるがまま、引かれるがままに菖瞳は洸の後を行く。気が付けばこの建物は舞台ホールだった。倒れて保健室に運び込むにはちょうど良い距離だったのだ。というよりも舞台で倒れる人が多いから保健室が設置されているのかもしれない。

 いくつもの楽屋口を横に抜け、たどり着いたのは多目的ホールと名付けられた扉の前だった。

「心の準備が」

 どんな顔をして謝るべきか迷っていた菖瞳だったが、洸はそんな言葉を無視し扉を開く。

「ヒロインのお出ましよ!」と洸の掛け声とともに大勢のスタッフがグラスを掲げ出迎えてくれた。

「ありがとう」と姫役だった女優も菖瞳の元に駆け付け祝杯を挙げた。

 肩透かしを食らった気分だった。幻滅され、怒られるとばかり思っていたから、その振り幅に戸惑っていた。

「監督!」と洸が声を掛けた。

 すると監督が満面の笑みでやってきた。

「とてもいい演出だったよ。洸が舞台を降りた時はひやひやしたけど、君があんなに激しくて鋭くて、それでいて静かな殺陣を演じきったおかげで世界観が大きく広がった。観客たちも世界観に没入できたようで後に続くストーリーも和やかな空気の中ができた。そして彼らものびやかに演技ができたと大いに喜んでいる」

 思いがけない高評価に菖瞳は依然として戸惑った。

「それにしてもあのアドリブ。よかったよね。あの時ばかりは『誘拐家臣A』が完全に主役の座を奪っていたよね」と助監督も声をかけてきた。

「すみません」

「謝ることないって。さあ、ごちそうどうぞ。と言ってもほとんどが桝山ますやまのおごりだから」と松葉杖の男を指した。彼は隣の仲間と肩を組んで楽しそうにしていた。時折財布を掲げて誰かれ構わず見せつけるしぐさをするのだ。

 ひったくりの真意を聞かなければならない。

 菖瞳は桝山と呼んだケガ人のもとに向かった。だが、途中で多くのスタッフが声をかけてくるのでなかなか前にたどり着けないのだった。その声掛けのほとんどが菖瞳を称賛するものであり、あとは勧誘や人となりを聞くものだった。

 彼らに少しずつ答えるなり徐々に前に進むのだが、視界を遮るようにしてある男が飛び出してきた。

「僕、司馬盃途はいとと言います。今回の主役。以後お見知りおきを。ところであんな剣捌きどこで教わったの?」

「父が師範だったからうちで」

「すごい。やっぱり父親の教えが良かったんだね」

「それはもう。感謝でいっぱいです」

 しつこいことに彼は菖瞳の向ける目線の先を捕え、正面に現れるようにするのだ。

「だよね。感謝は大事だ。やっぱり道を究めた人の教えはありがたいと思うよ」

 これでもか、と来る男の反射神経にうっとうしさを覚えずにはいられない。

「そこの席に座っても?」

「どうぞどうぞ」

 ようやく男が視界から外れ目の前の光景が普通に見通せるようになった。だが、肝心の桝山がいないのだ。さっきまで楽しそうに酒盛りをして騒いでいたはずなのだが、松葉杖も消えている。

「あれ?ここに座っていた人は?」と隣で肩を組んでいた男に聞いた。

「急にトイレだって走って行ったよ。ケガをしているくせに元気なもんだよ」

 菖瞳は仕方なく近くの席に腰を落とす。その隣を堂々と司馬が肩を並べてきた。

 警戒した菖瞳に男の質問攻めが続いた。

「どこの学生だっけ?お酒飲まない人なの?何歳?誕生日は?今付き合っている人はいるの?お父さんとは仲がいいの?」

「父は殺されました」

 それには返す言葉を用意していなかったようで、司馬は無言でビールを飲みほした。

 それにしても松葉杖の男が帰ってこないのだ。

「ねえ、桝山って人、どんな人?」と司馬に聞いてみた。

「桝山?どの人間を言っているんだ?」

「ケガ人よ。私が代わりをやった役の男です」

「ああ、あの男か。悪いけどあんまり知らないなあ」

「やっぱり主役の人は端役の人には興味がないと?」

「いやいや、そういうわけじゃなく、桝山という男は3週間ぐらい前に助っ人として加入した男だから、どんな男かを詳しく知らないんだよ」

「そうなんですか?」と先ほどまで肩を組んで騒いでいた男に聞いてみた。

「そうだよ。でも面白い奴だよ」とつまらなそうに答えた。

「そうなんだ。それにしても遅すぎませんか?見てきた方がいいかもしれない」

「ほっとけって。あんな男の相手より、今日は舞台の成功を祝おうぜ」と司馬は馴れ馴れしく肩に手をまわしてきた。

 ゾクリと背筋の凍る思いがした菖瞳は思わず体をこわばらせた。

 司馬の下心が見え見えなのだ。やけに構ってきてやかましいことこの上ない。

「もっと肩の力を抜いて、リラックス」と回した手先が菖瞳の反対の肩に触れる。

 それに心なしか男の目線が太ももに向いている気がするのだ。

 菖瞳はすっと立ち上がった。肩を這う司馬の腕がはらりと落とされたかと思うと不自然なままにお尻に触れた。

「どうかした?」

 司馬は顔を見上げて聞いた。その顔にいやらしい笑みが張り付いていることを菖瞳は見逃さなかった。

「お手洗い」

「じゃあ、俺も桝山って男も気になるし」

 菖瞳は何も言わずに部屋を出た。半分酔った状態の司馬が床から立ち上がろうとして足を着くのだが体の操縦がうまくいかない。おぼつかない足取りのままに菖瞳を追った。

「違うよ、トイレはあっち」

 廊下の突き当りを指さした。それは楽屋を抜けた先なのだが、菖瞳はいくつかある楽屋の中からあるものを発見した。

「何かあったのか?」

 すり寄る司馬に菖瞳は距離を取って聞いた。

「松葉杖。あれって小道具?」

「あ~あ。去年のものだ。あれを見ると花巻先輩の名演技は今でも思い出す」

 しまったと思い、菖瞳は急いできた道を駆け戻った。

 宴会場の多目的ホールを横に玄関を目指す。怪しいひったくり犯はケガなどしていなかった。けがは偽装、3週間前から菖瞳を舞台に立たせるための裏工作があったのだとみても良い。

 桝山という男は姿を消した。菖瞳から逃げるようにしていなくなったのだ。

「どうしたの?走り出して」

 走り去る菖瞳を追ってきたのだろう洸が玄関の中央で途方に暮れた佇む背中に声をかけてきた。

「洸は知っていたの?」

 口から心臓が飛び出しそうになるほどの緊張感。決して疑っているわけではなかったが、口にしてしまうと疑念がこみあげてくる。

「何のこと?」

 菖瞳は振り返り洸の目を見つめた。竹刀を構え合ったときに見せる鋭さ。それにはほのかな殺気の中に戸惑いと後悔が宿ってる。

「何もかもよ。脚本の内容にひったくり犯、私が舞台に立つ意味は?」

「わかんないよ。それらに何の関係があるっていうの?」

「私にもわからないよ。この不安の正体も仕組まれているように感じる窮屈さも。誰を信用していいかもわからない。洸は信用してもいいの?」

「当然でしょうって軽々しく言えない」

 洸の答えが思いもよらない冷静さに菖瞳はため息をついた。嘘でもいいから「信用して」と言ってほしかったのだ。知らないうちに、かりそめの言葉に甘んじたいほどに傷ついていたのだ。

 菖瞳は体を反転させ歩き出した。

 今日一日だけでどれだけの人を敵に回し、どれだけの人に嫌われただろうか。

 色とりどりのライトのもと、楽しそうにはしゃぐ学生たちの群れを横切りひたすらに顔を上げて歩いた。肩がぶつかってきてもお互いかわす言葉はない。

(今ならたとえ襲われても抵抗できないな)

 そんな皮肉を抱きつつ、菖瞳はひたすらに露店通りを抜けていた。

「待ってよ」

 肩を捕えられ簡単に向きを変えられる。抵抗する間もなく抱きしめられた。

「説明は家で聞くから、勝手に行かないでって」

 洸のぬくもりが心地よく、つい顔をうずめてしまう。


 洸の学校からそう遠くはないところに彼女の住まいがあった。3階建てのアパートの3階に洸の部屋がある。

 小さな緊張感を持ってお邪魔した。始めて上がる友達の部屋に感動が込み上げていた。

「意外と物がないのね」

 失礼な感想ではなく、本当に物がないのだ。お金持ちの家を連想させるように質素でいて片付いているのだ。

「実家が近いからね。と言っても大したものないけど。あるとしたら漫画ぐらいよ」

「へ~。そうなんだ」

「今日は泊まるんでしょう?」

「え?」考えてもいなかった提案に菖瞳は変な声を上げた。

「これから家に帰るのは遅くなるよ」

「でも、悪いよ。せっかくの一人暮らしに」

「そうやって逃げようとする口実を考えてもダメ。今夜は私が菖瞳を本当に信用できるのか探るために用意された夜なのよ。さあ座って」とソファーを指した。

 洸もソファーに腰を掛けた。菖瞳との間には一人分のスペースが開いていた。

「何?その用意って。それよりも趣旨が変わっていない?私が洸を信用してよいかの問題だったはずじゃあ?」

「細かいことは気にしない。まずはお風呂ね」

「ん?なんで座らせたの?それよりもなんでお風呂?そこはまず、何があったのかの話し合いからじゃぁ?」

「いきなりの見解の相違ね。それでは私の信用は得られません。まずはお風呂でイチャイチャ。パジャマに着替えてイチャイチャ。そして夜寝る前にイヤイヤ。これが完ぺきなプロット。まずは裸の付き合いからよ」と菖瞳に迫った。

 そこにはいつもの洸のはずなのだが、目が完全に求めているのだ。

 菖瞳は生唾をのんで成り行きを見送るしかできないでいた。詰め寄る洸は今にも抱きついてきそうだった。

「やっぱり萌袖、萌える!かわいいよね~」

 飛びついた先は菖瞳の両袖だった。たまたま伸びて手先が隠れただけなのだが、洸はそれを見て大興奮していた。

「冗談だって。菖瞳のことだからきっと居心地悪いって嫌うでしょう。お風呂湧いたら先に入って。私は後から入るから」と洸はソファーを離れて風呂場へ向かった。

「別に嫌うってわけじゃあ。少し抵抗があるってだけで…」

「気にしないでよ。私だっていきなりパーソナルスペースに他人が入ってきたりしたら、抵抗して思わず足が出そうになるもの」

 洸は時折風呂場の奥から顔を出して答えた。案外お風呂の準備は悠長にこなすたちなのか器用にシャワーやお湯の調整を図りながら会話が弾む。

「司馬盃途っていたじゃない。あの菖瞳にベタベタしてた。あれなんかも典型的にそういうタイプだよね」

「あの人ってああいう人なの?」

「そうよ。気に入った女の子がいたら誰彼構わず口説いちゃうような男だよ。スタッフの女子には大体声かけているんじゃないかな。わたしも昔、絡まれたことあって思わず足が出たもの」

 その話には二人は思わず笑っていた。

「どうして言ってくれなかったのよ。わかっていたなら言ってよね。私ずっと変な思いしていたんだから」

「言えないでしょう?この男ヤバイよって。それに菖瞳の好きなタイプ知らないしさ、司馬さんもあれでいて案外顔はイケメンだから気にいるかもしれないじゃない」

「変な気遣いありがとう。残念ながら目に移った瞬間無理だと思ったわよ」

「そうなの?結構辛口なのね」

「違うって、目に入った瞬間にあの人次の視界に移ろうとするから怖いじゃない」

「それもそうか。私たちの視線を追えるんだからきっと相当の手練れよね」

「まさか⁈」と二人は大笑いしていた。

 そんな会話をしているうちにいよいよお風呂の準備ができて、洸の助言に菖瞳は一番風呂を頂くことにした。

 身体や頭を洗いながら、頭の中ではこれから話すことについて考えていた。何をどこまで話すべきかの線引きは難しい。すべてをさらけ出し、いま彼女の周りで何が起きていて、何が起こりそうなのかを包み隠さず話してしまいたくなる。

 だが、それと同時にあることが思い浮かぶのだ。

 洸も兄と同じようにケガを負ったり、父のように亡くなってしまうのではないかと。自分がケガをするならまだしも、洸は他人。家のことに巻き込みたくはない。

 呆然とシャワーを浴びているとおもむろに扉が音を立てた。

 何事かと振り返ると扉の隙間から洸が顔を覗かせていたのだった。

「いい湯加減よ」

「そう。よかった。じゃあ」と洸は少しずつ扉を開いた。

 扉から覗く彼女は裸だった。きれいでスレンダーな脚を踏み入れた。その肌はさすが女優志望、見ただけでスベスベとわかるほどに艶がきれいに光っていた。

「後で入るって言ってたでしょう?」

「私がいる時とは言っていない」

 すみませんというように洸は脚を引き下げ、おどけたように扉を閉めた。

「待って」

「もし熱かったら、お水足してね」と洸は何でもないように脱衣所で下着を着けなおした。

「違うの。入ってきても、…いいよ」

 菖瞳の誘いにすぐに返答はなかった。今の洸のことだからすぐに来ると思ったのだがそうはならなかった。代わりに物が崩れる大きな音がしたのだ。

 音はドアを隔てた脱衣所に違いない。

 菖瞳は気になってドアを数センチばかり開けて覗いてみた。

 するとそこには下着姿の洸が横に倒れていたのだった。彼女の背中に細い切り傷を確かめたが関係ないようだった。他のケガはないか、場合によっては誰かに襲われたとみて、辺りを見回したが他にあざも人の気配はない。

「大丈夫?何があったの?」

 倒れたままの洸の頭を支えて声をかけてみた。

 すると洸は「萌える」と一言だけ発し、鼻血を垂れ流した。

「洸、キャラ崩壊してる!」


「つまり、お父さんは家宝の妖刀で殺され、お兄さんはその事件を追っていたために返り討ちにあったかもしれないと?そしてお兄さんを襲ったのは別の妖刀で、それがうちの演劇の脚本に出てくる記述と似ているってこと。これであってる?」

「しかも、洸のバッグを奪った男の代役に私が出ることになった。偶然にも刀を振り回す役で、洸の相手役だよ」

 菖瞳は結局洸に今まで分かっているすべての事実を打ち明けた。

 部分的にうやむやにして話すことも考えたが、これらの出来事はすべて繋がっており、一部だけを語らずに一連のことを説明することはできないことに気が付いたのだ。

「桝山が犯人だったなんて。どういうつもりかしら」

「洸は関与していないんだよね」

「もちろん。後で桝山に問い詰めないとね。それにしても妖刀が存在するって話はそそられるわね」

 洸は頭の後ろで手を組み、ソファーにゆっくりともたれかかった。

「信じられないでしょうけど、無視はできない。わたしだって現物を見たことがないからすべてを信じているわけじゃないわ。でもお兄ちゃんは『白星十文字』を信じていた。そして高岡さんは『疾病木枯らし』の存在を過去に体験している。だからたとえ眉唾でも存在を仮定しておこうと思ったんだ」

 洸は首だけを菖瞳に向けて言った。

「妖刀は実在すると思う。だって、所有者が次々に亡くなる呪いが噂される銘刀がどこかの博物館に保存されているって聞いたことがあるじゃない?菖瞳の家が銘家ならそういった刀の一本や二本があったとしても不思議じゃないでしょう?」

「洸は受け入れるのが速いね。わたしなんてお兄ちゃんの残したデータを最初は変な妄想だと思ったもの」

「妄想か。確かに」と洸は体を戻し、テーブル上のコップを口へと運んで続けた。

「私も菖瞳から聞かなかったら絶対に疑ったね。例えば司馬君、彼からそんな話があったら絶対に口説くために頑張って考えたんだなって思っちゃうところよ」

 菖瞳もコップを手に取ると合わせたようにすすった。長いこと置いてあったから中のコーンスープが程よいぬるさに冷めていた。

「ああ、ところで、今日のお芝居のことだけど、結局どんな話だったの?リハーサルの時もそうだったけど、私の出た断片しか理解していないんだよね」

「考えてみたらそうだ。菖瞳ったら舞台上で倒れちゃうんだもの」

「本当に恥ずかしい」思い出すだけで顔が紅潮して熱い。

「当たり所でも悪かったのかなって焦ったんだから。ちょっと待ってね」

 洸は床に置いたままのバッグを引き寄せ、中身から見覚えのある黄色の表紙を取り出し、それを菖瞳に手渡した。

「ざっくり説明するとね、時代推理物。司馬盃途が演じた遊び人が実は奉行の相談役で今でいう探偵とかコンサルタントみたいな役どころでね、街で起こった様々な事件を解決するっていうストーリー。この探偵のお供をしていたのが記憶をなくした女侍、つまり私の役どころだったりするのよ。主人公に付き従う家来って立ち位置だったのね。そしてその事件の一つに菖瞳が演じた城中の家臣が姫を誘拐するというものがあったわけよ。そのお姫さんというのが例の妖刀に侵され病んでいくんだけど、探偵はその刀を使った犯人を捜し出して一件落着というのがあらすじ」

 菖瞳はパラパラとページをめくり眺めてみた。目立つのは洸が手を加えたであろうマーカーの線やメモ書きだった。

「結構面白そうね。それで、犯人は誰だったの?」

「誰だったと思う?」

 洸は試すような眼で問い返した。

 菖瞳は本を閉じてその問いを考えてみた。

「そうね、やっぱり女じゃないかしら。監督の話だと妖刀と言っても包丁ぐらいのものなんでしょう?それなら女性でも扱える。襲われたのが一国のお姫様なのなら、結婚相手にされた男の恋人だとか、よく思っていない女性従者や芸者だったりして」

「身内を疑うのはなかなかの推理ね。でも犯人はもっとそばにいた。探偵がたどり着いた答えは姫の兄だった」

「兄?」答えに鳥肌が立った。

「そう、血のつながった兄妹。兄は行商人から買った懐刀で妹に切りつけたの」

「どうしてそんなことを?」

「兄の歪んだ愛情が原因だったの。妹が嫁ぎ離れて行ってしまうことを恐れた兄は異国から仕入れた行商人の懐刀に取り憑かれ、妹を切りつけた。これで我を失った妹が自分のもとから離れてしまうことはなくなり、介抱する兄を続けることができると錯覚したってわけ。菖瞳が演じた家臣が姫を連れ去った際に殺害命令を出したのは兄だったんだけど、結果的に探偵のことが父の耳に入り調査を依頼した。探偵はそれを解決して兄は追放され、姫は目覚めたという終わりを迎える」

 複雑な思いが込み上げてきた。どこかその姫と兄は自分と重なるような気がした。

 兄の歪んだ愛情で姫は傷ついていることを全く自覚していないどころか、最後は自らのすべてを失ってしまった。

 菖瞳はまさか自分にも置き換えることができるのではないかとも思ったが、すぐにそれを否定した。

「ところで姫さんはどうやって治ったの?呪いの解き方があったはずじゃない?」

 洸が手を差し出したので菖瞳は台本を手渡した。洸はパラパラと後ろのページをめくった。

「さあ?言われてみたら犯人の兄が追放されると姫は目を覚まし、探偵と結婚してめでたしめでたしだったから、呪いを解くシーンはないね」

「そうか…それがわかればお兄ちゃんの正気を取り戻せると思ったんだけど…」

「じゃあ今度聞いてみようよ。脚本家なら何か知っているかもしれない」

 洸は最後のページを開いて見せた。その最後の行に作者の名前が書かれていたのだ。

「この『草刈ミネウチ』なら何か知っているかもよ。トイロ監督に聞けばこの人のこと何かわかるかもしれない」

「それならいいけど…」

 菖瞳はソファーに座ったまま膝を抱えて丸まった。

 つながる脚本と自身の現状、弄ばれているような不思議な感覚は変わりなく不明。

 菖瞳はその姿勢のまま洸を見た。洸は冷たいお茶を注いだコップを頬にくっつけてその冷たさに浸っていた。

 菖瞳は思わず笑みを浮かべていた。

 これからのことを考えると洸にすべてを話したことはまずかったのではないかと思ってしまうのだが、同時に救われた気がした。少しでも感じている不安を分かち合える友がいることがこの上なく嬉しかったのだ。

 お茶を口に含んだ洸と目が合った。

 ハムスターのように口いっぱいに含んだ頬の大きさが愛しくて菖瞳は微笑みかけた。

 その微笑みに洸は恥ずかしそうな顔を見せた。

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