07 再会

 兄の退院。依然として意気消沈している雪虎を自宅に連れ戻した。

 彼が事件でこうなったのだと理解していても雪虎の目の奥の力のなさに、菖瞳すら元気を失いそうになった。

 これはすべて父の死から繋がっているかもしれないなどと無神経に口にできないことは分かっている。だが、兄の同僚ら眞島や堂前の不甲斐ない成果に口を出しそうになった。

「すみませんね。夕暮れ時だというのに目撃者が少なく、見たという証言もあやふやでして…。それに周囲のカメラにはそれらしい人物も見当たりませんので」と上司の光浦も改めて家にまで来て母に頭を下げた。

 母は何も言わずに聞いているだけだった。消沈しているのは兄だけではないのだ。

 母も兄の同僚らも静まり返っているのだ。

 だが、そんな中でも気持ちが和らぐ瞬間があった。それは清水杏希の存在であった。

 どういうわけか杏希と戯れる兄は常時の姿に比べて大きな反応を示すのだ。

 杏希が食事を促そうとすると兄は表情を緩め、愛しく見つめていた。杏希が口を大きく開けると兄もつられて口を開き、食事がうまくいった。

 身体を寄せてスキンシップをしてみると、兄は大きく体を反らしながらも腕を振り杏希に触れる。杏希の看護のおかげで、こうして少しずつでも表情や仕草が戻り人形状態とならずに済みそうだった。

 始めは嫌っていた母だったが、今ではすっかり新たな家族ができたように彼女を受け入れている。そんな母の姿に菖瞳も彼女を受け入れつつあった。

 そして6月。兄の事件から一カ月が経ったころだった。

 兄の看病に杏希が来ていた時のことである。自宅に一本の電話があった。

『もしもし、高岡だが菖瞳ちゃんだね?雪虎君のその後は?』

 ただの体調伺いかと思ったがそうではないらしい。

『この前、私の道場に来てほしいと言ったが、どうであろう、今度の土曜日なんて』

「…」答えを出しあぐねた。土曜日は偶然にも学校もバイトも休みであるが、剣道場に足を運ぶことにもともと気乗りしてはいない。それに兄を一人にすることも心配だった。

『突然だったよね。だけどぜひとも来てほしいんだ。というのも雪虎君の状態に一つ思い当たる可能性を見つけたんだ』

 その意味深な知らせに菖瞳は心臓の鼓動が高鳴るのを感じた。

「もしかして…」

 口にしそうになった推測をためらった。父の死のことは兄から託された極秘事項である。おいそれと他人に話してはいけない。

『何?まさか何かわかったの?』

 察するように高岡は電話先で問うた。

「いいえ、土曜日は兄を見ていなければなりませんので、どうしようかと…」

 菖瞳の苦し紛れにごまかしに反応したのは近くで聞いていた杏希だった。

「雪君のことなら見れるよ。菖瞳ちゃんもたまには羽でも伸ばして来てもいいのよ」

 杏希は相変わらずもじもじとして菖瞳に上目使いした。

『誰かいるの?』

「はい。お兄ちゃんの彼女です」

『雪虎にも彼女がねえ』と感慨深そうにつぶやいていた。

『そんなことより、その雪虎のためにも考えてくれないかな?直接じゃないと話せない内容なんだよ』

「じゃあ…」とソファーに心なく座る兄を見た。杏希が自分を見たのだと勘違いして両眉を上げてリアクションしてみせた。

「わかりました。時間と場所を教えてください」


 季節は梅雨の季節だが、土曜日は晴天だった。たまった洗濯物を庭に干し、杏希の到着を待つ。

 母は早々に仕事に出かけて行った。半日勤務だそうで帰りはお昼過ぎになるそうだ。

 寝たきりになってはいけないので兄を居間のソファーまで誘導し、ついでに布団を窓辺に天日干し。一苦労の重労働だが、長年の体幹を意識したトレーニングの甲斐あってか疲れ知らずであった。

 兄の布団を干しているちょうどその時、杏希が家に来た。

 他人に留守を任せるのは気が引けたので母とも相談して結局は彼女にお願いすることにした。

 そもそもそこまで兄を心配する必要もないのだが、彼女の申し出を無下に断るのはいささか可哀そうということになり、看病をしてもらうことになったのだ。

 10時ごろ。聞かされた公民館にたどり着いた。

 受付に尋ねると道場は施設の奥の方だそうだ。

 進む廊下に懐かしい声が聞こえてくる。畳をこする素足のリズムと竹刀の弾ける音、それにあの掛け声。

 そのうちに過去に引き戻されそうになる。

 道場の戸を引いてみるとその光景はさらに懐かしさを引き出すのだ。

 20名ばかりの生徒が各々のトレーニングに励んでいた。その真ん中で練習試合が行われているのだ。

 高鳴る胸を押さえながらも静かに中へと足を踏み入れた。

 菖瞳の姿に気が付いた数名の生徒が不信感をあらわにして近づいてきた。彼らはまだ小さく、中学生ぐらいだと思われた。

「高岡先生いる?」

 一見見渡してもそれらしい姿が見つからない。

 すると生徒の一人が指を差した。その先には練習試合の真っ最中の二人に向けられていたのだ。

 どうやら防具のどちらかが高岡に違いない。二人とも動きが良く甲乙つけがたい。

 一瞬見せた隙にすかさず相手が飛びかかる。それを囮だとするかのようにその見せた隙を利用しカウンターを決めた。

 お互い相当な手練れに違いない。観客となっていた子供たちは真剣なまなざしを向けていた。どちらかが高岡なら、もう一人はこの間病院で訊いた筋の良い生徒であろう。

 最後に決めたのはきれいに決まった『胴』であった。

 間違いなく勝負は決してお互いに礼を交わす。勝ったのはどうやら高岡の方だったようだ。やはり稽古ということもあって相手に身を預けていた部分もあったみたいだ。

 そして高岡の相手をしていたのが女性であることを面を取った姿から初めて気が付いた。

「菖瞳ちゃん。来てくれたんだね」

 若干息が荒くなった高岡が菖瞳を呼んだ。

「こんにちは」とひとまず挨拶をした。

「みんなに紹介しよう。先生の師匠の娘さん。嶺橋菖瞳ちゃんだ」

 すると全員の視線が菖瞳に向けられた。

「え~と。こんにちは。初めまして」

 あまりの熱視線に突如舞台に立たされたように緊張してしまった。

 生徒たちの歓迎のムードがよく、拍手で答えてくれた。特に上級生の男の子が「カワイイ」と口をそろえて言うので、菖瞳はますます緊張してしまった。

「嶺橋さん!」

 横から声を掛けられ、振り向くと先ほどまで高岡に稽古をつけてもらっていた女性だった。

 見覚えのある顔だが、どこの誰なのか思い出せない。

 茶色く明るい色の髪は肩までかかるセミロング。前髪のかかった瞳はとても大きく魅力的だった。そして通った鼻筋に唇がぷっくらしている。きれいな女性が防具を付けたままに顔を見せるのだ。

「うれしい。嶺橋さんにまた会えるなんて」と彼女は感激して握手を求めた。

 菖瞳は思い出せず、求められるままに手を差し向けた。

「先生。私のこと言ってないでしょ?」

「なんだか内緒にしたくて」

 彼女は菖瞳が戸惑っていることに察しがついているのだ。それに高岡はこの女性と菖瞳との何らかの関係性を知っているような口ぶりをしていた。

「何ですか?」

 その意図を理解できずに菖瞳は戸惑っていると、高岡がある提案をしてきた。

「どうだろう?彼女と一戦勝負してみないか?」

「いえいえ。ブランクがありますから。私なんかには太刀打ちできません」

 丁重に断ったが、結局防具を付けていた。

 押し切られてしまい、およそ2年ぶりに竹刀を振ることになってしまった。直近に遭遇した危機、あの時は洗濯物を干す突っ張り棒でのやむを得ない剣捌きである。あれに比べると竹刀はとても重く、気合いの入り方が違い過ぎる。

 久しく触れる畳の感触。家の畳を踏みしめる時の感覚とは少し違う、コートのラインの中では独特な感触が加わり伝わってくるのだ。

 お互い礼を交わして剣先を向け合った。竹刀を握る手が弱く、震えていることに気が付いた。

 審判の高岡の掛け声とともに試合が開始された。見たことのある動きに菖瞳はおののいた。デジャヴのように過去の記憶と重なり合う。

 面の隙間から相手の目を確かめた。彼女はまっすぐに菖瞳の目を見透かしているようだった。

 そこで初めて菖瞳は彼女が何者かを悟った。大垂の中心には名前が書かれているわけではないが、あの日の光景とつながり合う。

『石元』

 高校大会、最後の相手。

 悟った刹那に彼女の攻めの手が迫りくる。変わらず彼女は『動』で、菖瞳は『静』だった。

 手際よく受け流す菖瞳の竹刀を抜けて、石元は二手目を返した。その手が有効の判定を受ける。

 仕切り直しに今度は菖瞳が攻めた。久しく使ってこなかった身体がなかなかついてこない。だからこそ無駄のない動きで確実なスキを狙った。それでも石元の動きは紙一重で見事にかわすのだ。

 相手の動きは読めた。これはあの時も感じた世界。手に取るように石元の三手先が読めるのだ。気づけば菖瞳が有効を取っていた。ブランクを感じさせない読みの正確さに、高岡もうなっている。

 お互いに引けを取らない試合の運びに観客たちは息をのんで見ていた。

 菖瞳の読みは正確だった。石元の剣先や足の動きで次の仕掛けがわかるのだ。

 だが、足りない。読めはしても体が及ばない。決めの一手がなかなか入らない。容易く一本をとれる相手ではないことは確かなのだ。

 だが、菖瞳の頭は三手先の一撃が甘く見積もっても決まるのだという目算が立っていた。

(相手は絶対に右に体を反らして数センチ頭を下げる。その時は剣先がすでにこちらの小手先を目掛けて突いた後だから、面部分はガラ空きになる)

 菖瞳は一瞬にして読み取った。体がいくらついて行かないとはいえ、そのひと振りだけは確実に狙える。その確証は絶対だと踏んでいた。

 一手目、石元は菖瞳の予想通りに左からの胴狙いを繰り出した。それを未然に防ぎ竹刀で跳ね上がらせた。

 二手目、石元の跳ね上がった竹刀がまっすぐに面を捕えに来るが予想のままにつば元を押しのけて剣先を右に払いのけ、身体を半歩だけ後退させた。

 来たる三手目、石元は右に体を反らして頭を下げた。思った通りに石元は小手を狙って先を突く。面はガラ空きになっている。

 そこに菖瞳の竹刀が大きく振り落とされた。

 しかし、空振り。石元はすでに菖瞳の体を抜けるようにして背後にいた。

 あの時の敗戦と同じ、きれいな胴が決められていた。

 なぜかと思う間もなく、菖瞳はやっとあの時負けた理由に気が付いた。石元が繰りひろげた剣の運びは父の動きと同じなのだ。お父さんならこう動き、こう攻める。すべて定められた型通りのままに、染みついた形のままに判断していたのだ。

 ではなぜそのような父の動きを模すことができるのか?

「素晴らしい試合だったよ」と高岡は二人をねぎらった。

「大丈夫?」

 既に面を取って髪を整えた石元が菖瞳の面を覗き込んできた。

「ごめんなさい。気に障ったよね…」

 石元は慌てて頭を下げて謝った。面の隙間から涙を流している菖瞳に手加減もなく打ち負かせてしまった己を恥じたのだった。

「違うの」と面を取って、涙を拭いた。

 顔を上げる石元に菖瞳は説明した。

「突然いなくなったお父さんの姿を感じられて…。うれしくて」

 そう言って菖瞳は涙を堪えきれず小さな声を上げて泣いた。いつしか重くのしかかっていた様々な想いがあふれ出る、そんな涙だった。


 防具をかたずけて、顔を洗って元の服装に戻った菖瞳は再び高岡と石元を呼んだ。

「すみませんでした。ご迷惑でしたね。突然泣いたりして」

 二人とも何も言わずに首だけを横に振ってくれた。

「父の型を教えたのは高岡さんでしょう?」

 高校大会の時、石元には高岡の指導があったからなのだ。父の教えを受けた高岡が彼女の指導をしたからこそ型がはまっているのだ。だからと言って父を模した動きだけではただの真似事。菖瞳を打ち負かすほどの勝負にはならないことは予想が付いた。だからこそ、型を突然破り、困惑を誘ったのだ。

 それに気が付かず、菖瞳は型を抜け出せずに彼女の術中にはまっていた。それが敗因であると今になって思い知ったのだった。

「すまなかったよ、あの試合の時、実はあの場にいたんだよ。挨拶の一つぐらいすればよかった」

「じゃあ、あの試合に声を掛けたのは高岡さんだったんですね。あの時父がどこかにいるような気がしてならなかったんです」

 それには「覚えていないな」と高岡は首をひねった。

「またまた…」と菖瞳は本気にしなかった。そして石元のほうに体を向けて深々と頭を下げた。

「本当にありがとうございました。こんなに楽しめた剣道は久しぶりで、いい思い出になりました」

「何言ってるの!またやりましょうよ。わたし感激しちゃった!すごいんだもの」と彼女は菖瞳に抱きついた。

 彼女は人懐っこく頬をこすり合わせてくる。

 戸惑う菖瞳に彼女は気まずそうに体を引き離すと改まったように手を後ろで組んだ。

「石元さんでしたよね」と恐る恐るだが記憶にある名前を言ってみた。

「そう、覚えていてくれたんだ!石元ヒカルです。ヒカリにさんずいで洸。慶長出雲芸術大学2年です」

「芸大なの?すごい!剣道やって芸術だなんてかっこいい」

 素直な気持ちだった。現に菖瞳には絵心は皆無だと認識している。

「そんに言ってくれるなんて嬉しい。今度ある催事事あるからさ遊びにおいでよ。嶺橋さんならきっとスカウトされると思うな」

「スカウト?」

「絵のモデルとか、ファッションのモデルよ。きれいな黒髪とスタイルの良さ。うちの学校にもなかなかいない美人じゃないの」

 菖瞳は恥ずかしそうに手を振って答えた。

「そんな。石元さんだって素敵じゃない。この髪だって小さいころから変えられずにいただけだもの。それに身体なんて、褒められたものじゃない。さっきだって全然ついていけず身体がなまっていたし、実はちょっとお尻に脂肪が…」

「そうなの?そんな風には思えなかったけど…。それに脂肪が多少あるほうが男受けはすると思うんだよね。ねえ、先生」

 呆然と若い女子の会話を見ていただけの高岡は照れた顔して頷いた。

「やっぱり、先生」と洸はにやけた顔をする。

「断じて違う。お前らみたいなガキは対象外だ」

「ひどい。傷つく!」

「言ってろ」と吐き捨てるようにして高岡は二人に背を向けた。

「そうだ、菖瞳ちゃん」と高岡は思い出したように振り返った。

「あ!お兄ちゃんの件!」

 すっかり目的を忘れていることに驚いた。高岡もそのことを言いたかったのだ。


「この間、お見舞いに行った帰りに思い出したんだ」

 二人は稽古の音が一切聞こえない静かな和室で向き合った。わざわざ公民館の別室を借りたのだ。普段は茶道や華道を嗜む小部屋のようで、妙に落ち着くのだ。

 高岡は持ち寄ったカバンからクリアファイルを抜き出し、テーブルの上に置いて見せた。

「そうだな、まずはどこから離そうか」

 菖瞳は並べられたいくつもの書類を手に取った。

「マユツバものだから説明が難しいんだが」

「もしかして、銘刀のことではありませんか?」

 菖瞳は確信をもって打ち明けた。並べられたそれらの書類は筆書きの古い資料や何かの本の一ページの写しだったりした。そしてそのどれにも刀の記述がなされているのだ。

「では、君はお父さんから刀のことを聞いたのだな?」

「いいえ。直接ではありません。兄から教えられました。それも直接ではありませんが…」

「そうか、では話が速い。雪虎君があのような状態になったのは、まさに刀にあると思っているのだよ」と高岡は腕を組んで言った。

「ですがが盗まれたのは父が亡くなった日だと兄は思っていたようです」

 菖瞳の解釈に高岡は眼鏡の奥で目を丸くした。

 その表情に菖瞳は口を滑らせてしまったことに気が付いた。

「いえ、今のは何でもありません」

「そう言うことか。師匠は白星という刀で殺されたのだな」

 既に菖瞳の撤回は功を奏さない。高岡は合点があったように菖瞳に問うた。

「つまるところ、その白星という刀が嶺橋家の例の家宝というやつなのだろう。その白星とはどのような刀なのだ」

「言えません」

 菖瞳は警戒心を募らせた。鎌をかけられ引っかかってしまったのだと思ったのだ。

「すまん。意地悪だった。絶対に門下生には教えようとしなかった嶺橋家の秘密の家宝だったのだろう。聞いた私が悪かった。なにもだます気はなかったんだが…」

 これ以上口を開くものかという意思表示を口だけであらわした。

「本当に誤解なんだ。と言うのもここにある資料を君に見せるために呼んだのだから。というのもこれらは師匠、君の父が私に託したものなんだよ」

「お父さんが?」

 皺のない複数枚の書類たちは高岡の手によって大切に保管されていたことがうかがえる。


 深々と静かに降りしきる雪の日に厳かに開かれたお葬式。

 開けっぴろげのままの道場は寒く、お世辞にも居心地の良い空間ではなかった。

「先生、さすがに寒いです」

 そう言及したのは高岡だった。

「そう言うな。うちは代々親族の見送りに火は焚かない習わしなんだ。これも修行の一環」と話す茂雪は一つくしゃみをして体を震わせた。

「せめて窓だけでも閉めませんか?おじさんたちが俺にどうにかしろと」

 背後に感じる視線に目を配った。古参の門下生らが手を振って答えた。

「そうだな。入り口以外は閉めてくれ」

 そう言って主賓としての挨拶に周りに戻っていった。

 大切な使命を受けた高岡は素直に道場の窓や戸を閉めて回った。時折見える弔問客の顔をうかがい、粗相のない様に気を使っていた。

 棺に眠る師匠の父であり雪虎や菖瞳の祖父嶺橋國雪は数年前から体調を崩し、入退院を繰り返していたそうで、二日前に亡くなったのだそうだ。

「ねえ、手伝おうか?」

 突然声を掛けられて振り返ってみるとどうやら少年が声をかけて来たらしくそこに立っていた。

「いいや、大丈夫。もうすぐ終わるから」

「ふ~ん。そうか」と少年はつまらない顔をした。

 年少の部の生徒だろうかと思ったが、見たことのない顔だった。先生の子らの友達かとも思ったが、この時雪虎は9歳、菖瞳に至ってはまだ5歳のはずだ。少年はどう見ても中学生か小学生のそこらへんではないか。それにしても身なりの良い服装だった。どこかのお坊ちゃんのように整えられたセーターやきれいな襟、蝶ネクタイが決まっていた。

「ねえ、君は誰?」

 聞く前に少年はどこかへと走って行った。

(いったい何だったんだ?)と再び高岡は作業に戻った。

 高岡の働きにより、幾分だけ寒さが和らいだ気分がしたが、それもすぐにまやかしとなった。室内は依然として息が白いのだ。

 誰もが口をそろえて寒いとつぶやく始末に、ついには茂雪の心は折れた。主賓席に座っていた茂雪はすっくと立ちあがり、暖房の調節を始めた。どうやら親族の口添えのおかげで参列者の全員が風邪をひかなくて済んだようだ。

 そこで気が付いた。

 声をかけてきた少年は親族の参列者の席に座っていた。どうやら彼も嶺橋家の人間なのだろう。

 式は滞りなく執り行われ、何事もなく締めくくられると誰もが思っていたところに、お焼香をまき散らすという事件が起きた。それは子供たちがふざけ合って台にぶつかったとか、立ち眩みしたおじさんが倒れかかりまき散らしたといった事故の類ではない。

 いい年をしたおじさん、それも師匠と同じぐらいの人がお焼香の灰をつかみ、罰当たりにも遺体に向かって吹っ掛けたのだった。

 当然ながら騒ぎになったが、その犯人は悠然として式をから出て行ったのだった。

 急いでその者を捕えようと門下生たちは立ち上がったのだが、そこを師匠は一喝した。

「構うな。これは家の問題だ」

「だけどよ、いいのかよ。國雪さんがかわいそうだ」といつも高岡に食って掛かる老人が反論した。

「いいんだ。そちらも思うところがあるだろう?」と親戚席に向かって言うと席に着き、「続けてくれ」と順番を急かした。

 これには高岡もいい気持ちはしない。

 式が終わり、すっかり団らんとした席において、高岡も参加した。酒を注ぎ合う門下生の中でどうしても気になることがあったのだ。

 高岡はいつものように掃除箱から箒や塵取りを取り出し、そのままになっている灰の掃除をし始めた。この場所は普段自分たちが鍛錬を重ねる神聖な道場なのだ。それを汚されたままにされるのがどうしても許せなかった。

「まあ、桔梗君、いいのよ。私たちが掃除するからさ」と高岡の背後から師匠の奥さん皐月さつきが声をかけてきた。

「お寿司もまだあるから遠慮なく食べてよ」

「すみません。どうしても気になって」

「桔梗君はえらいわね。うちの人、こういうの意外と無神経だから」

「そんなことありません」と若干の照れ隠しをしていた。

「お兄さんは元気?」

「ええ。おそらく、忙しくしてるらしいです」

 彼女は兄が師匠の下で教わっていたことしる数少ない一人だろう。

「それは…まあ忙しいことはいいことね。さあ、あとは私に任せて、一杯やりなさい」

「俺、まだ高校生ですよ」

「やだ。そうね。未成年にお酒を進めるなんて悪い大人ね」と笑って答えた。

 高岡は奥さんに淡い気持ちが芽吹くのを感じてしまい、慌てて顔を伏せた。

「どうしたの?」と奥さんは知ってか知らずか顔を寄せて尋ねるのだ。

 慌てた高岡は話題を探した。

「この灰をぶちまけたの誰ですかね?酷いことするや」

「それは…私も良くわからない。親族間のことだけど、嫁いできた身だからあまり詳しく聞いたことないんだけど、あの人があんなことしたのは結構深い因縁でもあるんじゃないのかな?」

「そうですか…」

「それよりも、今後ともあの人をよろしくお願いします」

「いや、いや。なんで俺なんですか?」

「あの人、耕助こうすけ君もそうだけど、あなたのことを本気で弟子だと思っているようなのよ。耕助君は最初の門下生だったけど、期間が短かったからもっといろいろ教えたかったって悔やんでいたけど、桔梗君なら筋がいいし、よく話を聞くいい子だって褒めてたのよ」

 兄と比較されるのはともかく、そんな風に思われていたとは思いもしなかっただけにとてつもない衝撃だった。

 そんな会話をしている間に畳の見えている部分には灰の痕跡はなくなっていた。すべてが塵取りの中に納まっていた。

「おいおい、これやったの高岡か?」と茂雪が雑巾をもってやってきた。彼も彼なりに掃除でもしようと思ったのだ。

「すみません。気になったもので」と同じ弁解を話していた。

「本当にいい子よね」と奥さんが助言を挟んだ。

「さっきね、桔梗君が一番弟子だって話してあげたところよ。そうでしょ?」

 夫婦は顔を合わせた。お互いに何か言いたいことがあるようだが、それは一切口にしない。

「修行が足りないが、間違いなくお前は一番弟子だ」と手にしていた箒を見て言った。

「ありがとうございます」と高岡は素直に言葉を受け取った。

「だが、雑巾がけも必要だな」

「そうですね」

 そうして二人で水拭きと乾拭きをしていた。それを皐月は嬉しそうに見ているのだった。

「お母さん」と小さな雪虎が菖瞳の手を取ってやってきた。どうやら妹が眠たそうなので兄が気になって連れてきたようだった。

 母に抱きかかえられた菖瞳とともに雪虎も目をこすりながら宴会を抜けて行った。

 皐月がいなくなった後も二人は黙々と床掃除に向き合っていた。するとそこへ、

「それでは、我々はこれにて失礼いたします」と釣り目の男が二人の背後から声を掛けた。

「ああ、どうも」と茂雪は真剣に床と向き合っているような装いをして振り向こうとしなかった。

 気が付けばその釣り目の男の横にあの少年が立っていた。どうやら彼らは親子なのだ。少年の母親と思われる女性に手を引かれていた。

「例の件、頼むよ」

「ああ、考えておく」

「言っておくが、これはそちらの汚名を返上するためのものだ。そちらが申し出ないからこうして、こちらが譲歩して言っているのだ。そのことは肝に銘じるように」と言うと男は大きな足音を立てて道場を出て行った。

 あの時手を振る姿が高岡の印象に残っている。

「先生、やっぱり気になります」

 茂雪は分かりやすく手を止めたのだが、高岡はためらうことなく続けた。

「この灰の件にしても、彼らの態度にしてもおかしいです。いったい何があるんですか?」

「これは家族の問題だ」

「俺も家族だと思っています」とひるまなかった。

「それは勘違いだ。悪いが門下生に託せるほどの内容ではない」

 返す言葉がなく高岡は濡れた雑巾とバケツを手に廊下を出た。それほどまでに拒絶されるとは思いもしなかった。その前までは一番弟子と認めてくれておきながら、この変容の大きさは全く理解できない。

 バケツの汚水を投げて雑巾をきれいに干し、やるせない思いのままに宴会に戻ろうとした。その時、小さな影が飛び出してきた。

 腰を落としそうになった高岡の前にあの少年が現れたのだった。

「帰ったんじゃ?」と半ば独り言のように口を出た。

「いいや、やめたんだ」と少年は無邪気に答えた。

「やめた?つまり引き返したと言うのか?」

「違うよ。期限を速めたんだ」

 言っている意味が分からず、高岡は聞き返した。

「だから、我慢が出来なくなった父が期限を速めて取り立てに来たんだよ」

 まるで借金取りのようなことを言っているなと思った。彼らは親族ではないのか?少なくともその関係性は債権の取り立てをするような間柄には思えなかった。

 とにかく広間に戻ろうかと足を向けた。

「気を付けた方がいいよ、お兄さん」と少年が背中に声を掛けた。

「よくわからないけど、忠告ありがとう」

 まったくもって意味がわからない。どことなく浮世離れしたような少年はまるで狐が化けた姿のようなイメージが似合う。

 道場のふすまの前まできた高岡はようやく異変に気が付いた。酒盛りで騒がしくしていたはずの宴会場が時を止めたように静かなのだ。

 高岡は妙な胸騒ぎを覚えつつ、道場の戸を開いた。

 目の前に広がる光景は恐ろしい空間だった。

 宴席に着いていた門下生たちや嶺橋家の親せき一同が倒れているのだ。それに誰もが一様にして血を流していた。

 高岡はすぐそばに倒れていたなじみの門下生の一人のもとに膝をついた。

「何があったんだ」

 その問いかけにおじさんは答えない。腕の切り傷はそれほどの深さはないはずだが、おじさんは気を失ったように目を開かない。

(師匠は?)

 そう思った高岡はあたりを見渡した。だが、茂雪の姿がない。

「逃げて」

 何処からともなく女性の声が聞こえてきた。高岡はすぐに声の主を探した。

 彼女は嶺橋家の人間だろうか。師匠と同年代という推測から兄弟かもしれない。

「ケガはないですか?」

「私は平気。身を隠していたから」

 見たところ確かにケガはなさそうだった。

「いったい何があったんです?」

貴雨きさめさんがついに反旗を翻したのよ。それよりもあなたは逃げなさい。これは家の問題よ。あなたのような青年は巻き込まれてはいけない」

「ですが、彼らが」と倒れている門下生らを示した。

「忘れるのよ。そしてもうここには近づかないで」

「意味が分かりません。この人たち全員死んだって言うんですか?それを見捨てて俺だけが何もなかったようにしろと?」

「そうだよ」

 それは彼女の声ではない。突然背後から少年が口を挟んだのだ。

夕雨ゆう君。居たの?」

 彼女は少年のことをそう言った。

富雪ふゆきおばさんも居たんだね?全員口封じするって言っていたけど、父さんも詰めが甘いよね」

「お願いよ。お父さんを止めて。みんなを直して」

「おばさん。わかっていないから言うけどさ元に戻るなんてことありえないよ。おじさんもこんなことになる前に取引に応じるべきだったんだ」

「いったい何の話ですか?取引って何?」

 二人のやり取りに水を差すかのように高岡が口を挟んだ。

「お兄さんは僕のタイプだから教えてあげる」

 少年のまなざしに高岡はゾッとした。得体のしれない何かが目の奥に感じられたのだ。

「今日のお葬式のおじいさんは僕の家のおじいさんの弟なんだ。そして家督はこの家に受け継がれている。それはどういうことかわかるかな?」

 少年の口から語られるにしてはあまりにも難しい話な気がした。

「つまり順番が違うと?」

「そう。この家は長いこと家督の正統に継承する権利を侵害してきたんだ。だからおじいさんが死んだ今、父さんがそれを取り返しに来た」

「おい、夕雨。なぜここにいる?」

 廊下から誰かが少年に声を掛けた。それは出て行ったはずの釣り目の男。少年の父親だった。

「ごめんなさい」と少年は跳ねるような足取りで廊下に出て行った。

「余計なこと言ったんじゃないか?」

「ちょっと話しちゃった。お兄さん僕のタイプなんだもん」

「他人を巻き込むなとあれほど…」と男は踵を返した。その腰に一本の得物を携えているのが見えるではないか。

「貴雨、彼は見逃して。本当にただの部外者よ。こんな子まで手にかけるほど落ちぶれていないわよね」と富雪が男の前に飛び出し高岡をかばった。

 男は腰の得物に手を掛けた。

「まだ一人残っていたのか。逃げ腰は相変わらずだね、富雪」

 男はゆっくりと鞘から刀を抜いた。鈍った鋼が姿を現せた。剥き出された刃先は最初の印象のままに鈍的に輝きを放っていた。それは毒々しい妖艶さを表しているのだ。

「面白い。他人を犠牲にしてお前もこうなりたいんだな」

 男は何の趣もなく刀を振り下ろそうとした。

「貴雨!目的は果たしたはずだ。これ以上の犠牲を生むな!」

 それは師匠であった。手にした木刀の先を男に向けて言い放ったのだ。

「それもそうだ。後で絶対に取りに来るからな」と男は鞘へと刀を収め背を向けた。

「さようなら、お兄さん」と少年は高岡にウィンクすると父に付き従うようにして姿を消した。

 彼ら親子が姿を消すまで誰一人として微動だにするものはいなかった。

「どうするの兄さん…」

 始めにその静寂を破った富雪は今にも泣き出しそうな弱々しい声をしていた。

「わからない。とにかくみんなの手当てをして…救急車か?それはまずい。警察に報告が行って自体がますます複雑になるぞ」と返す師匠は普段は見せない慌てぶりだった。

「ひとまずケガの具合を確かめてみては?」と高岡が提案した。

「無駄だ。どうせそんなことしても全員目覚めないぞ。何せこいつらはあの刀に切られたんだから」

「こういう時はとにかく医者に診てもらうべきです。全員が死んだとは考えたくありません。ほら、渋川さんだって息していますし」と横たわる口元を耳で確かめた。

「そうね、目覚めたときに不自由があってはいけない。兄さん、まずは救急。後のことは状況を見るべきよ!」

「その間に警察の介入があるぞ。俺にはこの状況を説明している暇はない」

「それなら、俺に考えがあります」

「何だ?話してみなさい」

「その前に何がどうなっているのか教えてくれませんか?俺はすっかり蚊帳の外で何もわかっていないことにヤキモキしているんです。雑巾を洗っている間に何があったんですか?そして彼らはこの後どうなるんですか?」

 茂雪は口を結んだまま腕を組んでいた。

「兄さん、彼を信用してあげてもいいじゃないの?せっかく力になってくれると言ってくれているのに、相手にしないのってあんまりじゃない?」

「だが…高岡君を巻き込むことになる」

「彼らだって巻き込まれているんですよ。俺にも状況ぐらい教えてください」

 高岡の訴えにおいても茂雪は依然として腕を組んだまま考えあぐねていた。

「ねえ、何のための門下生?」

 廊下の外で師匠の奥さんがこちらを覗くようにしていた。

「子供たちは?」

ともすっかり寝たわ。それより今回の件どうするつもり?家族の件だからって何の説明もなく彼らを放置しようなんて言わないでしょうね」

 これにはさすがの茂雪も肩の力を抜いて腕を組むことをやめていた。

「わかった。話そう。だが、その前に彼らの容態だ。一人ずつケガの具合を確かめて診てくれ。先に言うが目を覚まさないことが前提だぞ。呼吸とか心臓、脈拍を確かめるんだ」

 いつもの姿がそこにはあった。

 茂雪の指示により、富雪、皐月、高岡の三人は手際よく被害状況を確かめたのだった。

 するとそこに小さな足音が近づいてきた。それは目をこすりながらも歩むパジャマ姿の菖瞳だった。いつまでたっても戻らない母を心配したのか、それとも心細さに突き動かされたからなのか、明かりのない廊下を一人歩いてきたのだった。

 確認作業の結果、幸いにして致命傷を負った様子の被害者はいないようだった。ほとんどが腕や足に小さな切り傷を負って少量の血液を流している程度であり、最もひどくとも腹を横一文字に抜ける切り傷ぐらいだった。

 血止めに応急処置を施したのち、茂雪は一同を自宅の仏間へ連れ立った。

 初めて足を運ぶ空間に高岡は緊張していた。

 茂雪は菖瞳を抱きかかえたまま仏壇の前の座布団に腰を落とした。

「さて、まずは事の経緯だな。刀を振り上げた男は嶺橋貴雨。その息子は夕雨。俺たちからして彼らは親戚」

「少年から聞きました。おじいさんが家督を奪ったみたいなことですよね?」

「そうだ。だがそれは向こうの勘違いなのだが、困ったことに聞く耳を持ってくれないんだ。奴らはうちを一方的に敵対視していて、親父の式で灰をぶちまける始末だ。あの男は叢雨むらさめという男で貴雨の弟にあたる。言ってしまえば二人ともいとこというものだ」

「俺が席を立っている間に何があったんですか?少年が俺に警告したんです。危険だから注意するようにって」

「高岡君は運が良かった。あの時戻ってきた貴雨は誰かれ構わず刀を振り回したのだ。うちの門下生たちは酔っていたし、動けるものも初めて見る真剣におののいて誰もかなうものはいなかったのだ」

 それは確かだろうと高岡の脳裏にあの鈍く伸びた鋼が浮かんだ。

「兄さん、あの刀って例のあれよね」と富雪が聞いた。

「ああ、そうだ。皐月も高岡君も信じないだろうが、真面目に聞いてほしい」と言って茂雪は丸くなった菖瞳を妻のもとに預け、再び腰を据えて話し始めた。

「あの刀は『銘刀疾病木枯らし』という妖刀だ」

「妖刀ですか?呪いの刀?」

 高岡は勝手に自分の中で合点がいっていた。その手が震えていることに気が付いて拳をぎゅっと強く結んだ。

「ああ、『疾風木枯らし』通称『気削きそぎがたな』というやつだ。切りつけられた者は傷の深浅に関係なくまるで心を奪われたように気が削がれてしまうのだ。それを直す方法はまだ解明されていない」と茂雪はおもむろに立ち上がると近くの箪笥の引き出しを開け分厚くなった一束のクリアファイルを高岡に差し出した。

「見ても?」と一言断りを入れさっそく数枚の資料を床に置いて眺めた。

 一目見て読める代物ではない。だが、パラパラとめくるページの中には確かに文字で『疾病木枯』と書かれ『気削刀』と記されていたのだった。

「『気削刀』はもともと家にあった家宝の一つだ。世に出ては危険だということで代々受け継がれた一品の一つなのだが、父の死に際にやってきた貴雨が契約の手付として持って行ったものなのだ」

「そんなにすごい妖刀を手付にするなんて、いったい奴らは何を求めているのですか?」

 高岡が聞くと茂雪は背後の床の間を指で指した。そこには刀掛けの台とともに上段の日本刀が鎮座していた。それで下段に例の妖刀が収められていたことは察しがついた。

「うちには代々ある刀を受け継ぐ伝統がある。それは古い話で、信じられないほどバカげた話のようだが、奴らはそうは思ってはいない。その刀を持つことで一族は繁栄し、家の存在を示すものであると信じてやまないようなのだ」

 高岡にはにわかには信じがたい話だった。現代社会において受け継ぐ現物、家宝ごときで一族が優劣を抱くなどということがあるなどとは聞いたことがない。

 妖刀の話は信じられてもお家騒動に関してはまったくもって鵜呑みにできないでいた。

「こんな被害になる前にその家宝をあげてしまえばよかったと思いますが…」

 少なくとも茂雪の口ぶりでは家宝を何とも思っていない、そういう思想であるのは明白だからこそ、高岡は生意気にもそう言ったのだった。

 だが、事態はそれほどに単純ではないらしく、茂雪は腕を組んでつぶやいた。

「困ったことに俺はその家宝を奴らには渡すことができないのだ」

「なぜですか?」

「これは血筋としか言いようがない。悪いがこれ以上は一族の事情だ。今は道場の彼らをどうするかを考えないとならない」

 そう言って茂雪は再び菖瞳を優しく抱きかかえ、仏間を出て行こうとした。

「待ってください。俺の考えを言ってません」

 それは自ら口走った提案だった。もともと提案を言う代わりの条件に聞いたお家騒動の真相である。せめてもの突破口にと高岡は思ったのだ。

「まず、警察を呼びましょう。そして救急車。素人目での診断だからちゃんと見てもらわないと」

「警察の介入はまずいと言ったはずだが」

 まるで師匠本人が気を削がれたように振り返って言った。

「俺の兄貴なら手伝ってくれると思いませんか?」

「そうよ。耕助君。警察の人間じゃない」と思い出したように皐月が言った。

「耕助君に状況を説明して逮捕してもらいましょうよ。うちの門下生と親戚関係者がケガを負った傷害事件よ。十分被害は立証できそうじゃない」

「そうね、いくらお家問題だとしても逮捕してもらうべきよ。このやり口は泣き寝入りするべきではないわ」と富雪も皐月の意見に賛同した。

「呪いを解く方法だって見つかるはずです」

 肩の上で熟睡している娘を再び妻に引き渡すと茂雪は仏壇の前に戻った。そしてその足取りのままに床の間に腰をかがめたのだった。

「桔梗、悪いが耕助に頼めるか?」

 そう言って振り向いた茂雪の手には刀が握られていたのだった。無になった刀掛け台を見つめて高岡は快く引き受けると、急いで兄に助けを求めたのだった。


 菖瞳はその時のことをうろ覚えながらに断片的に記憶していた。救急車で運ばれた数名はいずれも悪酔いの影響で、つまり急性アルコール中毒として診断を受け、元気に帰ってきたのだ。他の者らも軽いけが程度で済んだのだが、彼らはこぞってその前後の記憶がなく一種の集団ヒステリーだとする説明を受けたのであった。

 それと後になって身内が逮捕された件は聞いていた。それらの出来事がどういうことなのか当時全く理解できないのは当たり前だろうが、子供ながらに事態の重要性に驚いたことは覚えていた。

「あの時の被害者は誰も寝たきりになっていないのですよね。つまりそれは木枯らしって言う妖刀の呪いを解いたってことですよね。それならお兄ちゃんの呪いも。教えてください。どうやって全員が目を覚ましたのですか?」

 菖瞳は机に乗り出して高岡に問い詰めた。それはとんでもない吉報である。

 二度と笑顔を見せることはないものと思われた兄を救える手立てがある、それも過去に門下生らが経験したという実績まである。

 だがそれに対する高岡は何ともさえない様子なのだ。

「この資料に書かれているのですよね?」と菖瞳は恐る恐る身を引いていた。

「残念ながらこの資料には呪いの解き方まで記されていなかったんだ」

 恐れていた予感は的中した。積みあがった期待が音をなして崩れ行く失望感へと変わるのだ。

「あの時、私は必死になってこれらの資料に挑戦したんだが、対処の仕方について全く読み取ることができなかったんだ。そのほとんどが実例だったり、伝承だったりして、資料自体も疑ってかかっていたはずだ」

「そうなんですか…」

「だが、もしかしたらまだ資料が残っているかもしれない。これはあの時師匠が渡してくれた資料の写しだが、家にまだ書物があるかもしれない。それにまだ妖刀が雪虎君を苦しめていると決まったわけではない。すべてをあきらめるのはまだ早い」

「別に諦めているわけではありません」

 菖瞳は伏せた顔を上げて反論した。

「お母さんから聞いているぞ、菖瞳ちゃんは兄のことばかり世話を焼いて、自分の生き方を投げ出したみたいだって」

 言われた言葉にハッとして返す言葉が見つからなかった。この数週間、誰にも相談できず、ただひたすらに兄の面倒を見ていた。さっきのように体を動かしたことだって久しぶりだった。

「妖刀のことは私の方でも調べてみるから、君は君でしっかりと自らの人生を歩みなさい。雪虎君が心配なのはわかるが、せっかくの君の人生、今を楽しまなければもったいないじゃないか」

 菖瞳は静かに頭を下げた。久しく感じてこなかった大人の男性からの優しさにいつしか凍てついていた心が解けるような温かさを感じていた。

「それと、鍛錬は行うべきだろうね。もし、本当に雪虎君が妖刀で襲われたのなら対処できる身体能力が必要になるかもしれない。今も犯人は分かっていないのだろう?私の勝手な推理だが、必然的に怪しいのは嶺橋貴雨だろうな。あれはもう10年以上も前のことだ。量刑のことは聞いていないが、刑はとっくに勤めを終えたはず。もし復讐に駆られて雪虎君は襲われたとしたら、菖瞳ちゃんも自分の身はしっかり守れるようにするべきだろう」

 過去にそのような事件があったなどとはすっかり忘れていた。それと兄の件を繋げることができたのはその場にいた高岡だからこその推理だろう。

 一族の小競り合いも以来一度としてなかったはずだ。高岡の口から語られる我が家の事情が何とも新鮮で浮世離れした昔話のようにも思えてくるほどだった。

「どうであろう、ここで剣を振るうのは?」

 突然の申し出に菖瞳は戸惑った。確かに体を身心を鍛えなおすべきだと思っていたが、実際に通って鍛えなおすとなると敷居が急に高くなった気がした。

「そう難しく考えずとも。せっかく家に立派な道場があるんだ、昔のように剣を握る、それでいいではないか」

 思いがけない提案に衝撃を受けた。なぜ、道場を閉めたままにしていたのだろうかとさえ思えるほどだ。

 二人は茶室を出て道場へと戻った。

 生徒たちはすでに片づけを終え、帰り支度を整えた後だった。高岡の帰りを待っていたのである。その中にひときわ目立つ女性の姿があった。

「ただいま。どうだった?」と一目散に菖瞳に駆け寄ってきたのは洸だった。

 ミニスカートにレギンスで何とも動きやすそう。道着の袴からは分からなかったが足のラインが細く伸びていた。

「何の話ですか?」

 高岡がおしゃべりでもして彼女の耳に入れたのではないかと思ったのだが、どうもそうではないらしい。

「わかんないけどさあ、先生に嶺橋さんの稽古に付き合うように言われたんだよね」

「そんな。悪いです。わたしなんかに付き合ってもらうなんて」

 手を振って否定する菖瞳が必死に拒絶しているように見えたに違いない。洸は「そう…」と、とんでもないほどにさみしそうに呟いたのだった。

 二人が会話しているうちに終礼を終えた生徒たちの姿はどこにもなくなっていた。そして残る高岡が二人に声を掛けた。

「閉館の時間だ。さっさと帰るように」

 落ち込んだ姿のままに洸は出口へと向かった。その後ろ姿にどう声を掛けたらよいかわからず、菖瞳は気まずく背中を追うだけだった。

 追いついた高岡が菖瞳の耳元でささやいた。

「石元は菖瞳ちゃんと一緒に稽古ができるって聞いて、今日久しぶりに顔を出したんだ。稽古が必要になるかもしれないって言ったら是非って申し出たほどだぞ。あの子のことは信用していい。二年前から抱いていた思いが彼女なりにあるようなんだ。少しは壁を作らず石元のことを受け入れてあげてくれないか?」

「でも、私はどうしたらよいか、最近わからなくて。スランプに陥ったみたいに人付き合いがうまくいかなくて…」

「スランプだって感じているうちは何もできない。そんな言葉に支配されずにいつもの君をそのままに打ち明けることだよ。大丈夫さ。あんなに鋭い真剣勝負に挑み合った相手だ、スランプなんてちっぽけな言葉もすぐに忘れるさ」

 そう言うと高岡は菖瞳の背中を押して立ち止まった。

「カギ返してこないとだから今日はここまで、石元、また来いよ」

 洸は手を肩まで上げて答えると靴を履き替えた。どうも菖瞳を意識してか動きにぎこちなさが伝わってくる。

「石元さん」

 先にスリッパから靴に履き替えた菖瞳が声を掛けた。

 大きな瞳を丸くさせた洸が菖瞳を見ていた。

「お昼、どこか行きませんか?」

 次の瞬間洸の表情は和らぎ笑みがこぼれていた。

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