05 花と饅頭

 兄が目を覚ましてからも菖瞳は毎日病室を訪れた。日常のサイクルに通院が加わったぐらいで億劫になる菖瞳ではない。バイトのある日はお店の花をこしらえて花瓶を満たすのだ。

「お兄ちゃんは知らない人だろうけど、癒月店長がよろしくだってさ。でも作品ぐらいは知っているかもよ。試合会場の生け花。覚えていればいいなあ」とそれはほとんど独り言に近い。

 当然ながら兄からの反応はないのだった。

「ああ、あの花か」

 菖瞳は驚いて声の方へと顔を向けた。

 入り口に兄の同僚とも違う一人の男が立っていた。眼鏡の奥の研ぎ澄まされたまなざしはどこか懐かしく感じられた。

「お久しぶりだ。菖瞳ちゃん」と言った男は手にした見舞い花とフルーツのかごを差し出した。

 久しぶりと言われても眼鏡の紳士を思い出せない。言葉からして父の門下生のだれかではあるのだろうが、目の前のスマートな紳士と誰かを照らし合わせることができなかった。

「覚えていないな」と言って彼は眼鏡をはずした。

「高岡さん?」

「そう。覚えていてくれたんだ」と感激した表情を見せた。

 鋭い眼鏡をしていたから思い出せなかったが、笑った顔が思い出の高岡桔梗ききょうと重なった。

「去年うちに来たんですってね。母から聞きました」

「あの時は顔を見せられなくてごめんなぁ。もう、6年だよね。師匠にはお世話になったのに、しっかりと拝みに行けてなくて、謝りたいよ」

「いいんですよ。道場を閉めて以来、疎遠になった人ばかりですから」と皮肉った。

「いや、本当に申し訳ない」と後頭部を掻いた。

「私も人のこと言えませんけど…」と菖瞳は見舞い花を手際よくさばき始めた。実のところ自らが家で稽古をしなくなったことで道場を閉めなければならなくなったのだと負い目に感じていた。

「本当に大変だっただろうね。雪虎君まで」とベッドの上で横たわる兄を見つめた。

「もうすぐ退院ですけど、精神が回復するかはわからないって」

「それは聞いている。と言うのも兄から連絡があったんだ」

「お兄さん?」

「菖瞳ちゃんは覚えていないだろうけど、私には8つ年の離れた兄貴がいるんだ。兄貴もまた師匠の下で修業していたんだ」

 初耳だった。確かに兄弟で通う同世代の子供たちもいたし、菖瞳が生まれる前から父は道場を開いていたのだ。そう考えると知らないことも頷ける。

「雪虎君がケガをした話は警察内で共有されているから、兄貴のもとにもその捜査情報が回ってきたわけだ。そして私のもとにたどり着いたんだ」

「高岡さんも警察官なんですか?」

「兄貴はね。私も警察にいたけど、訳あって離れているだけなんだけど、今は師匠、菖瞳ちゃんのお父さんと同じようなことをしている」

高岡はどこか後ろめたそうに話した。

「道場?」

「道場ってほどじゃないんだ。公民館を借りて生徒を募っている」

「そうなんですか」

 うれしい驚きだった。菖瞳にとって父の教え子である兄弟子が師匠として看板を立てているということがたまらなくうれしかった。もし父が生きていたら泣いて喜んだだろうと思えてくる。

「今度是非来てほしいな。うちの生徒の中にもなかなか筋の良い子がいるんだ。ぜひとも見に来てくれないか」

「はい」

 直接足を運ぶほどの気乗りはしないが、兄弟子がどんな指導をしているか一度見るのもいいだろうかと、軽い返事を交わした。

 菖瞳はすっと立ち上がり入れたばかりの花瓶を取り下ろした。話をしているうちに見舞い花を差し入れる準備ができたのだった。

「それにしてもきれいになったよね」と高岡が立ち上がった菖瞳をまじまじと見つめていた。

 菖瞳は何事かと思わず身構えた。

「すまん。こんなおじさんが若い子に言うことじゃないな」と手のひらを向けて弁解した。

「やましい気持ちとかじゃなく、兄弟二人が立派に成長した姿を言いたかったんだ。だって私が初めて菖瞳ちゃんと出会ったのはもう17年前のことだ。小さな子が懸命に竹刀を振り上げ、師匠にかかっていく姿は今も覚えているよ」

 そう言って高岡は遠い目をした。高岡にとって菖瞳は姪のような感覚だった。


「一緒にやるって聞かないんだ。みんなごめんな」と師匠茂雪は始業の礼の際、前もって門下生に謝った。

「構いませんよ。わしにしたらほほえましい限りだよ」と一人の老人が言った。

 それに同調するように他の門下生たちも呼応して賛成を表した。

 茂雪の隣にちょこんと正座する小さな女の子は満面の笑みを浮かべていた。

 しかしそれをよく思っていないものもいた。当時高校生の高岡桔梗は冷めた目で同調する大人たちの姿を見ていた。

 高校生からは一般の部に移るのだ。

 この年、一般の部に移ったばかりの高岡は更なる上達への期待をもっていた。

 これまでの年少部では小中学生の児童が相手で歯ごたえがなかったというのが彼の感想だった。一般の部はどんなものかと期待したものだったが、相手は高岡よりも一回りも二回りも上の大人ばかり、期待外れかと侮っていた。

「それから、今日から学年が上がってきた生徒もいるからくれぐれも手加減してあげてくれよ。あんたら俺でもおっかない時があるからさ」

 茂雪の挨拶に一同は笑い声を上げた。

 そんな中に3歳前の子供ときたものだ。年少部においても泣き騒ぐ子はいたのだ。こんな小さな子ならそれもなおさらではないか、と思っていたのだ。

 だが結果はどうだ。その評価のほとんどが誤りであると思い知った。

 ただの老人だと思って手合わせた相手にまるでかなわないのだ。予想以上に機敏に動き、攻撃をかわす。

 一緒に上がってきた同級生も同じ感想を持ったはずだ。侮っていた相手に易々と打ちのめされるのだ。

 そしてあの子。菖瞳は彼らを相手に刃向かっていく。当然ながら大人たちは手加減して高岡には見せないゆっくりとした動きで攻め手をかわしたり、時には当たりに行く。彼らは我が子をあやすようにして菖瞳を参加させた。そうしていくうちに大人たちの意図した動きに菖瞳の攻撃が付いていくようになった。動きを呼んでいるのだ。

 そのうちに一人のおじさんの竹刀が幼女の面にきれいに入った。

「よけたついでに反射的につい」というのがおじさんの主張であった。

 大泣きしだすのではないか、と見ていた誰もが思ったほどに見事に決まった。しかし、菖瞳は声の一つも上げなかった。それどころか、負けじと竹刀を振り回した。

「ごめんごめん」とおじさんもあわてて面を取って土下座をした。

 茂雪が止めに入るまでその攻撃は繰り返された。軽々抱きかかえられ、面を外された菖瞳が涙を流していることをこの時初めて知った。子どもながらにして悔しさを押し殺し相手に刃向かっていたのだ。

 以来、高岡の菖瞳を見る目は変わった。

 結局菖瞳の相手は門下生には任せられないと相手は師匠自らが行うことになったのだ。

「何ぼーっとしているんだ。やることなければわしと手合わせでもするかね」

 部屋の隅で防具をいじりながら休んでいると思ったのだろう、高岡に50代の渋川という男が対戦を持ち掛けてきた。

「ぼーっとしているわけでは…ただ、最近思うんですよ。あの子」

「ダメだよ、アヤちゃんに手なんか出したら」

 渋川の冗談にむかっ腹を立てたが、気にせず続けた。

「あの子の太刀筋が良いなと思ったんです」

「そうだね。あの年にしては立派なもんだと思うよ。それも遺伝子なのかね。雪虎君もなかなかのものだったよ」

「雪虎君というのは師匠の息子さんですよね。僕は見たことないので…」

 というのも雪虎はこの年小学生になったばかりなのだ。彼もまた二年前の5歳からこの道場の一般の部にて稽古に挑んでいたのだ。なので雪虎とはすれ違っていても直接的に太刀筋を見たことがなかったのだ。

「嶺橋家は代々続く武士の家系らしいよ。21世紀において今もなお、剣道を引き継ぎ、脈継がれていく才能ってものだろうな」

 初めて聞かされるこの家の事実に高岡は自分のことのように誇りを持てた。

「ちょっとよ、噂で聞いたんだが…」と渋川はわざとらしく声を潜ませて高岡に耳打ちする仕草を見せた。

 それにつられた高岡も体をくねらせ、不自然な態勢を取って耳を澄ませた。

「どうやら、代々受け継がれた家宝があるらしく、それをもって正統継承とするらしいんだ。そのお宝ってのがなんだと思うよ?」

 家宝と聞いてまず真っ先に思い浮かんだのは道場の床の間だった。

「あの掛け軸とかですか?それともツボみたいな?」

「かもな。でも家宝だぞ、こんな人の出入りする場所に置いておくわけがないだろ。それに名家の武士の家系だ。そらあ、宝といえば日本刀だろうさ」

「なるほど…」

「あくまでも噂だよ。信じるか信じないかはアンタ次第ってな」

「何ですかそれ?」

 聞きなれないフレーズを付け加えられ茶化されているのかと半信半疑だった。しかし、あり得ることだとも思ってしまう。代々受け継がれたのはそんな宝によるところだけではないだろう。幼子の菖瞳にも流れる血脈こそ、嶺橋家の宝ではないかと、大人びた解釈で高岡は菖瞳の振り下ろす一筋を眺めてみていた。

「何している。やるぞ」

 どうやら対戦相手を探していたのは本当らしく、渋川は高岡に声をかけた。

 相手の強さは十分熟知している。高岡は二度と侮りはしないと菖瞳を見ながら自分に誓ったのだった。


 高岡の昔話を聞かされて菖瞳は懐かしい気分に浸っていた。こうして若き日の自分の話はよく聞かされたが、父の話は新鮮だった。

 それも3歳の記憶はあまり覚えていない。ただ何となく「ごめん」と謝るおじさんの体に何度も竹刀(子供用のスポンジ)を当てていたことは記憶にあった。

 昔の自分がどれだけやんちゃだったか思い知るとともに、父の愛情や道場の門下生たちの温かさというものを改めて感じた機会だった。

 高岡が病室を帰った後にまた新たに客が訪れた。それは兄には申し訳ないが菖瞳にとって招かざる客と言っていい。

 姿を現したのはあの彼女さんだった。事件以来すでに一週間以上が経っての再会だった。まだ名も知らぬ彼女は菖瞳を見るなり苦い顔を見せるのだったが、ベッドに起き上がり座っていた兄に突然飛びついたのだった。

「あの!」と菖瞳は思わず語気を強めて行った。

「あ、こんにちは」と彼女もまた見舞い花を持ってきていた。

「今日はどうしたのですか?」

 若干棘のある言い方をしたことに後悔はない。姿を見せなかった彼女に非があるとする主張は当然できるのだ。

「お見舞いに…」と花束を菖瞳に押し付けて両手をもじもじとさせた。明らかなかわい子ぶった仕草だった。菖瞳はそう解釈した。

「申し訳ありませんが、花瓶はすでにパンパンで」

 ツンケンした言い方はもはや意識して出たものではない。兄を取られるさみしさ以上に女の勘が働いている。一週間もほったらかしにされる兄の気持ちを考えなかったのかと。

「じゃあ、花瓶を借りてきます」

 女は花だけをベッドの上に置くと病室を出て行った。

「お兄ちゃん?」

 彼女が出て行った時に気が付いた。無反応だった兄の目から涙が流れていたのだ。少なくともこの一週間はそんな変化も兆しも見せたことはない。

 菖瞳は急いで兄に話しかけた。

「大丈夫?何か言いたいことがあるんでしょ?」

 ただただ流れ出る涙。だがそれ以上の反応は何もない。

 菖瞳はティッシュペーパーを手にして代わりに涙を拭いた。変わらず兄の瞳の先には何もない。

「雪君。どうしたのかしらね…」

 花瓶を手にした菖瞳は覗き込むようにして顔に寄った。

「事件の後遺症だって聞いていないんですか?どうして今になって来たんです?」

 菖瞳は率直に聞いた。菖瞳にとってわだかまりはここなのだ。

「実は私たち喧嘩していたの」と女は両手を組んでこね回す仕草をして話を始めた。

「遅くなったけど、私の名前は清水アキって言います。アはアンズって意味の杏に、キはまれって意味の希で杏希です」

 自己紹介されても兄の口から聞いたこともない名前だった。

 依然として態度を改めようとしない菖瞳にさらに杏希はもじもじと体をくねらせた。

「失礼ですが、何歳ですか?」

「24よ。普段は公共施設の職員をしているの。いわゆる受付嬢。雪君とは高校時代に知り合って一緒だったんだけど何か聞いていない?」

 菖瞳は首を横に振った。高校時代といえば6年前ということだが、兄のそれらしい素振りを見た記憶がない。

「家族に知れるのが恥ずかしいから秘密だって言ってたもんね…」

 疑いの目をやめない菖瞳を気にせず杏希は話を続けた。

「それでね、ちょっと前。雪君が事件に遭う前なんだけど、喧嘩しちゃったの。最初は本当に他愛のない話からだったんだけどね、確か…結婚したらどんな家に住みたいかって、ペットは猫ちゃんがいいとか、そして未来のことについて話していくうちにお互いの価値観の違いにね、ちょっとした言い争いになったの…。それで少し距離を置こうって言われちゃって…。あの日、ケガをしたって聞いてとっても後悔したの。もしあのまま喧嘩別れして彼が亡くなったらと思うといてもたってもいられず、ここに来ていたの。でも後ろめたくて手術の成功を聞いてから、こうやって対面するのに時間がかかっちゃった…。それでも会いたくて仕方なかったわ。何度も顔を見ようと思って病室を覗き込んだんだけど、見せる顔がないなって自覚して気づけば逃げてしまって…。でも今日こそはって来たけど、よかった。雪君がカワイイって自慢していた妹さんとこうして直接お話ができるんだもの。今までの苦労は水に流してって言わないけど、私にもその負担を分けてくれてもいいのよ。退院の時とか、看病だって私が見るから」

 杏希の主張を菖瞳は黙って聞いていた。

 兄との関係性については何となくは理解できたが、杏希とはどんな女性なのかいまだにつかめていない。なぜそう思うのかわからないが、彼女を100%信用できないのだ。

 彼女は何か言ってほしいような眼をして菖瞳を見ていた。

 気に入らないと言って相手を拒絶することは簡単だろう。だが、彼女は兄が慕う人物である。兄の気持ちを無視した態度はできない。

 事情を知った今、菖瞳は態度を改めるとベッドに置かれた杏希からの見舞い花を手に取った。

「いっけな~い。私が自分でやるわ。妹ちゃんはお菓子でもどうぞ」と慌てて持ってきた紙袋から包みを取り出した。

 気乗りしなかったが包みを受け取り中身を確かめた。

「これって!まさか、復興饅頭?」

 菖瞳はそれだけでテンションが上がった。中から覗く紅白の饅頭に胸がときめいたのだ。それは6年前の都心部で起きた事件の後に作られた下町生まれの復興の象徴だった。

「そうよ。雪君との思い出のお菓子だし、妹ちゃんも好きかなあって思って」

「きっと並んだんでしょ?」

 杏希は表情だけで答えた。

 その苦労をあえて語らない杏希に菖瞳は彼女の人柄を見た気がした。今もなおお店には朝から行列が並び、即完売するほどの人気があると聞いている。

 包みケースを開けて赤い方の饅頭を手に取った。一口食べるとしっとりとしたほど良い生地とともに包まれた濃厚でなめらかな餡子が口内に満ちる。断面からは大粒なイチゴがお目見えし幸福感を誘うのだ。

 ちなみに白い方はふっくらとした生地に餡子とホイップクリームの層が包まれている。

 おいしそうに食べる菖瞳の姿に満足そうに杏希は垣間見ながら、ハサミで花の茎を切っていた。

 それは姉妹を思わせるほほえましい光景に見えただろう。菖瞳も不思議と張りつめていた気持ちが穏やかになった気分になっていた。

 そして杏希なりに一生懸命に仕立てた花瓶が出来上がる。菖瞳の目から見てもお世辞にも手際が良かったとは言えないが、出来上がったものは上々の出来だと思った。

「ここがいいかな?」と杏希が花瓶をもって配置を探す。

「そこは看護師さんがよく使う場所だから窓の方はどうです?」

「そうね。さすが妹ちゃん」と踵を返した時だった。点滴棒に足を引っかけて頭から床に倒れて行った。手にした花瓶は見事ひっくり返り、花とともに水が床に飛び散った。

「ごめんなさい。私…。ドジった」

 清水杏希を100%信用できないのはこれではないかと菖瞳は即座に思った。どことなく無理をしている部分が気になったのかもしれない。

 杏希もまたドジっ子なのか?

「私、雑巾借りてきます」

「そんな、私が…」と杏希は打ち付けた膝をこすって立ち上がろうとすると、再び足を滑らせて肘をついた。

「それと看護師さんも呼びますね」

 もはやその姿は誰かと重なる。菖瞳は苦笑いを浮かべて病室を出て行った。

「不甲斐ないわ。よくできた妹ちゃん」

「それと」とドア越しに頭を覗かせてこう言った。

「菖瞳でいいわ。お兄ちゃんをよろしくお願いします」

 気のせいか一瞬見えた兄の表情が緩んだように思えた。

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