04 緊急入院

 病院へは事情を知った癒月店長が送ってくれた。まともに話を聞けなくなった菖瞳に代わって彼女が応じてくれたのだ。

 父の時の光景と重なり合う。

 あの日母と二人で心細く寄り添っていた忌まわしい手術室の前にたどり着く。だが、母の姿はなく、代わりに見知らぬ男女3名が待合室にいた。男二人は警察の制服姿だった。

「妹さん?」と聞き覚えのある声。それは一報を知らせた光浦、つまり兄の上司だった。

 菖瞳は頷いた。

「雪虎君はつい20分ほど前に手術を始めたばかりで、どれだけかかるかわからないそうだ」

 菖瞳の脳裏に父のときの症状がよぎった。内臓が切り刻まれ壊死していくウィルスのことだ。

「何があったんですか?」

「それがわからないんだ。私は巡回業務でおらず、眞島まじまは目を離していたそうなんだ」と説明した光浦の横でもう一人の彼より若い男性が口をはさんだ。

「すみません。休憩している最中だったもんで気が付かなかった。まさか雪虎が倒れているとは…」

 彼が眞島という兄の先輩だった。

 すると母が息を切らして現れた。バッグを崩し、上着を乱していた。血相を掻いてやってきたことは一目瞭然の姿だった。

「雪虎は…」

 母もあの日の光景を思い浮かべたのだろう。絶望感に満ちた表情と脱力感を全身にまとっていた。

「すでに犯人逮捕に動いております。とにかく手術の成功を祈りましょう。さあ、こちらで」と光浦が母をベンチの端に誘導した。

「犯人がいるのですか?」

 菖瞳は自分の描いていたイメージとの差に疑問を投げかけた。

「兄に何があったのですか?」ともう一度同じ質問を投げかけてみた。

「俺が発見した時には脇から出血していた。すぐに調べてみると刃物で刺されたようなひどい傷だった。他にも手や腕、脚なんかも複数個所に切り傷があったよ」と眞島が説明した。

 それを聞いて内心の心配は原子単位で和らいだ。少なくとも未知のウィルスではないのだ。

「それって交番内のことですよね。どうして気が付かなかったの!」と母がくらいついた。

「本当にすみません。気が付きませんでした」と眞島はまっすぐに頭を下げて謝った。まるで非は自分にあると認めているようなものだった。

「とにかく、今は犯人の痕跡を探しているところであります。目撃者の聞き取りや周辺の監視カメラの映像、宛はたくさんあります。私どもも雪虎君が襲われたというのは誠に由々しき事態だと思っております」と上司ながらに光浦は眞島に続いた。

 母は落ち着きを取り戻すと両手組んで祈った。

「ところであの人は誰ですか?」

 疑問を抱かずにはいられない。ベンチの隅、母とは反対側の席で顔を両手で覆い、うつむいている女性が気になり、菖瞳は光浦にこっそり聞いた。

「雪虎君の彼女らしい。電話したら来たんだが、知り合いじゃないのかな?」

「誰だかまったく…」

 確かに彼女がいるようなことは聞いていたが、あったことは一度もない。恋人の一大事だ、駆け付けてくるのは当たり前の行動だろう。

 二人がこそこそして話しているのが聞こえたのだろう。女性は顔を上げてこちらを見た。

「どうも…」と菖瞳はドギマギしてぎこちなく言葉を交わした。

「初めまして」と答えた彼女の両瞼が赤くこすれていた。真っ赤な口紅が口元を滲み、目元はパンダ目のように化粧が崩れていた。化粧姿はいかにも男性が好きそうな顔だと想像がつく。

 兄の彼女はすぐに目を伏せて母と同じように祈りのポーズをとった。

 それから二人の警察官は捜査のためと全員に断って病院を後にした。

 菖瞳はうす暗くなり行く窓の外を眺めながら、兄の帰還を待っていた。ウィルスならまだしもケガで亡くなるような兄ではないと信じていた。

 竹刀を何度打ち込まれようと耐え抜く打たれ強い兄を知っている。足を捻挫しても決してめげない強さ、肩を脱臼しても素振りを欠かさない気迫の持ち主ではないか。めそめそしている彼女さんには悪いが、自分こそ真の兄の姿を理解している唯一の人間だという自負があった。

 窓の外はすっかり暮れて雨粒が窓ガラスを叩きつけてきた。

 ひたすらに重苦しい待合室でその時を待っていた。

 女三人それぞれに相関関係は違う。息子を待つ母、恋人を待つ彼女、そして兄を待つ妹。だが菖瞳にとって嶺橋雪虎はいつしか兄以上の存在となっている。勝手に雪虎の背中に父を見て、太刀筋を師匠と仰いでいるのだ。

 嶺橋雪虎の重要性は他の誰よりも大切な役割を担っている。

 降りつける雨粒が激しさを増した、ちょうどそのころ。『手術中』の赤いランプが消えたると、お決まりのように一人の医師が扉から現れた。

 菖瞳は医師の姿に一目散へと駆け付けた。天候とともに不安感はつもりに積もっているだけに、医師の姿が悪夢を予感させた。

「手術は成功しました。後は目が覚めるのを待つだけでしょう」

 そこで初めて菖瞳は涙をこぼした。降りつける雨粒に比べるまでもなくあふれ出す涙は温かく、そして優しいものだった。


 手術を終えた兄雪虎はICUから一日も立たないうちに一般の病棟に移され、あとは目を覚ますだけである。

 医師に寄れは腹部に負った傷は思いのほか浅く、命に係わる大きなけがではなかったらしい。この様子だと目覚めた後すぐに経過を見て、退院も望めるらしく、眞島と光浦、そしてもう一人堂前という同僚の3人が代わる代わる4時間おきに見舞いに来ていた。彼らはすぐにでも兄の身に何があったか聴取したいのだ。

 菖瞳は生花店のバイトを休んで学業の合間に兄のお見舞いに駆け付けた。

 母は一日目を付きっ切りで見ていたが、二日目からは仕事が休めず、仕事終わりに顔を見せるぐらいしかできないと嘆いていた。

 彼女だとしたあの女性は手術の後以来、姿を見ていなかった。見回りに来ていた看護師によると姿を見たそうだが、いずれも菖瞳も母もいない時間帯だったそうだ。

 名前も知らない彼女を菖瞳は信用するべきか迷っていた。

 そして、ついに兄は目を覚ました。それは事件発生から五日目の午前中のことだった。

 刺し傷の痛みに顔を歪ませ心配そうな妹の顔を見た。

「お兄ちゃん!」

 菖瞳の呼びかけに瞬きを一つすると、再び目を閉じてしまった。

 それから医師を呼び状況の確認を行った。麻酔の効果が利きすぎたらしいので、麻酔濃度を抑えて回復の経過を待とうということでさっそく処置をしてもらった。

 二度目の目覚めはそれから1時間後のことだった。

 再び目を覚ました兄の顔を菖瞳は覗き込んだ。

 一時間のうちにやってきた眞島もそれは確認した。

「雪虎!」という眞島の呼びかけに瞬き一つ。そして呆然と見つめ反応がない。

「お兄ちゃん?」

「ナース呼んでくるよ」と眞島は急いで病室を飛び出した。

「どうしたの?何か言ってよ」

 菖瞳の問いかけに兄は頭を動かし顔を見ていたが、すぐに興味を失ったように天井に目線を戻すと何事もなかったかのように鼻歌を発しだした。

 どう見ても様子のおかしい兄の姿に菖瞳は茫然としていた。一度も聞いたことのない鼻歌のメロディーに才能は微塵も感じられない。それは旋律を奏でているという感じではなく、遠くの電波を受けたラジオのように奇妙なものだった。

 すぐに看護師がやってきて検査を始めた。目覚めを確認できても自我が見られない。

「どこ行くの?」

 突然、兄のもとにストレッチャーが運び込まれてきたのだ。

 菖瞳の質問に看護師が応えた。

「脳の検査に回します」

 ほどなく兄の脳はMRIでの画像スキャンをが施された。そして結果は二時間ほどで伝えられた。

「脳への異常は一切なし」と言うものだった。

「では、彼に何が起こったのですか?」と眞島が代わりに医師に質問した。

「心的外傷。いわゆる過度なストレスが原因であのようになったと診ています」

「それはあまりのも雑な診察ではないですか?」

 病室に響く眞島の反論にさっきまで静かにしていた雪虎は突然飛び跳ねた。まるで爆撃にさらされた兵士のように怯え、奇声を上げ出したのだ。

 そんな兄を菖瞳は背中から抱きしめた。自然と落ち着きを取り戻し、また静かになる。

 眞島は彼女を見て頷くと、ため息をついて続けた。

「確かにPTSDに似ているようだが、彼は体にけがを負った程度だぞ。戦時中でも災害に見舞われたわけでもない。それであんな状態になるのか?」

「PTSD。つまり心的外傷後ストレス障害はどんな状況にだって起こりうる。犯罪被害者も該当するのはご存知でしょう?脳への外傷も脳内の異常も見受けられません。体に至るケガについては完治するケガです。体とともに精神も同じくケガをするのです。後は専門の精神科医に回しますので、警察の方の聞き取りはそのあとの方が良いかと思います」

 宙を見て口をパクパクとさせる兄を見て、菖瞳は思わず兄の頭を抱きしめた。

「どうしたらいいの?お兄ちゃん」

 その問いに答えてくれる兄はそこにはいなかった。

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