03 それなりの悩み

「それで、どうなったのよ。福内君とは?」

 話の流れの中で急に振られ、菖瞳は口に含んでいた紅茶を噴き出しそうになった。

 そんな意地悪な質問を向けたのは柿木先輩だった。

 先日の誕生日会の反省会と称して女三人で喫茶店に集まったのだ。

「私のことなんてどうでもいいです。問題は二人の異常行動をどうしようかじゃないですか」

 もちろん異常行動と言うのは例の裸踊りのことである。柿木唯と江村晴夏はお互い張り合って上下ともに下着姿になり、果てはブラジャーまで脱ぎ捨てそうになった。責任は男どもにもある。煽り立てて調子に乗った二人に便乗し、ついには男までもが全裸となって暴れ出したのだ。

 結果的にお店から応永大の学生の出禁が命じられ、サークル内の問題では済まなくなっている。

「いいのよ。私だって制御できているのだから」

「あれでですか?真っ裸になる気満々だったじゃないですか」と菖瞳は呆れて言った。

「あれは作戦よ。そうしようって打ち合わせ済みの」

「誰とですか?」

「別に誰でもいいじゃない。それよりも菖瞳ちゃんの方が過激だったわよ。ねえ」と意味深に晴夏へ同意を求めだした。

 晴夏は晴夏で無邪気に笑いながらお店特製のパンケーキを口いっぱいに頬張りながら、

「黒木君にどんな男がいいか演説したって聞いたよ。でもまあ、参考にならなかったって。それに福内君にお持ち帰りされたんでしょう。いつの間にかいなくなっているから気になっていたけど、聞いて驚いちゃった。菖瞳の魔性が発揮されたって。ねえ」とフォークに刺さったケーキの切れ端を向けて柿木先輩と息を合わせたように同意を求めるのだ。

「あいつが言ったの⁉」

 菖瞳の口調が心なしか少し強くなっていた。

「まさか。菖瞳が抱きかかえられていくところを見ていた奴がいたのよ」と菖瞳の語気を気にせずフォークを口に含んだ。

「で、どうなの?やっぱり高身長の彼って…」

 そのあと先輩が聞こうとしたことは無視をした。

「ねえ、どうなの?」と傍若無人に先輩は菖瞳の体を揺する。もはや何を質問されたかも覚えていない。ただただ、柿木先輩がうっとうしかった。

 菖瞳は思わず拳を作りテーブルを叩いてしまった。ガシャンと言う食器がこすれる音と机の音とがお店中の人間に聞こえただろうから、すぐに彼女は静かに謝った。

「先輩、あのバカとは何もしていません。あんなバカと私が付き合っていたっていう過去はトラウマ的な部分なんです。これ以上茶化すのはやめてくださいませんか」

 言ってやった。これだけはいくら寛容な菖瞳でも触れてほしくない聖域なのだ。

「やっぱりそうなのね。どおりで彼のあなたを見る目が愛情に満ちているわけだ。トラウマなんて感じる必要なんてないじゃない。福内君結構人気があるんだから、ねえ」

「そうそう。むしろ自慢になるって。あんな高身長のイケメンに好かれているんだから、一緒に歩いているだけで一目置かれそうじゃない」

 菖瞳の注意を無下にして二人はこのネタで楽しんでいる。福内宋汰と言う名のバカをあげつらうのだ。

(ダメだこの人たち)と菖瞳は二人の無神経さに怒りを通り越して呆れさせた。

 この二人を友達と呼んでいいのかさえ疑問に感じている。

「あ~あ。私も福内君みたいな高身長のイケメンに愛されたい」と晴夏は両手の甲に顎を乗せて訴えた。

「羨ましいわ。あんな誠実そうな彼を翻弄するなんて」と柿木。

 どの口がものを言うんだと突っ込みたくなるがそれを我慢した。

 二人とは感覚が大きく異なることを身に染みて理解した。

 菖瞳はアイスティーをすすりながら二人のやり取りを呆然と眺めていた。二人の会話内容などもはや雑音同然だった。

(分かり合える人間関係とはどんなことを言うのだろうか?)

 サークルの破天荒ぶりや恋愛トークは彼女の気質には合わない。せっかく入った大学生活も思ったほど楽しめていないではないか。それは普通の女性にあこがれた菖瞳自身の選択の結果。剣を置いた過去があるからこその現在なのだ。


 剣を置いた日。それは2年前の夏のことだった。

 いつになく照り付ける太陽の暑さにアスファルトから陽炎が立ち込めていた。そんな炎天下に高体連の地区大会が開催された。

 風もなく、押し付ける熱気が会場の窓ガラスを通して伝わり、人の発する熱気を冷やそうと空調は最大に稼働していたであろう。

「嶺橋なら勝てる」と声をかけてきたのは剣道部の顧問の先生だった。指導は実質菖瞳が行っていたから先生は形上の責任者にすぎない。

 先輩らが引退する中、菖瞳一人が部を支えてきた。彼女が最後の一人であり、剣道部は廃部が決まっていた。

 菖瞳は頷いてみせた。この瞬間が最もナーバスなのだ。

 過去の実績では過去二回ともにインターハイに出場を決めている。今回も当然ながら周囲からの期待は大きかった。母や父の道場で稽古を受けていたおじさんたちも応援に駆けつけてくれていた。

 期待に応えるように順調に予選を勝ち抜いた菖瞳だった。顧問や応援隊らの目からするとあっけない勝利に見えていただろう。菖瞳の太刀筋も見切りも冴えわたっていた。

 迎える決勝。これまでの戦勝具合から試合の流れは予想できた。応援隊も安心して応援していた。

 面をかぶる直前に菖瞳は相手選手の顔を見た。ショートヘアの黒髪、菖瞳に負けないほどの大きな瞳が印象的だった。菖瞳は自慢の長髪を束ね面手拭いで頭を覆った。

 帯の大垂おおだれには『石元』と名前が施されていた。

 少なくとも対戦したことのない相手だった。そして相手もまた三年生のようだった。

 菖瞳は作法通りに礼をして、相手と対峙した。

 面の隙間から相手の目を見た。すると気のせいか目が合ったような不思議な感覚がした。

 お互いが監視しあっているようなそんな緊張感があった。

 菖瞳は息をのみ竹刀を構えた。

 石元の動きは大きかった。菖瞳の『静』に対して石元は『動』だ。菖瞳にとっては無駄の多い動きであった。黙して相手の動きに合わせ正面を保つ。最小限の動きで最大の防御に努めて身構えた。

 攻めの一手は相手からだった。剣先を絡ませながら、一歩踏み込んできた。

 単調な動きに余裕の防御。面白いほどに相手の動きが読めるのだ。

 隙を見て反撃に出た。攻めの掛け声をあげないのが菖瞳の特徴だった。静のまま攻撃に転じる。静かで隙のない攻め手に対戦相手は翻弄されるのだ。

 しかし、石元は容易ではなかった。攻め手が読まれていた。胴狙いから転じる小手への攻撃が見切られていた。

 菖瞳は生唾を飲み込んで体勢を整えた。だが石元はそんな間髪を与えない。機転の利く反撃の一手が襲い来るのだ。

 それらの攻撃を耐え、相手の隙を伺った。面の格子の隙間から覗く瞳を見た。間違いなく石元の動きは読めている。考えている動きも読めるのだ。しかし、何かが欠けている。読み切れていない何かがあるのだ。

「動き以外に惑わされるな!」

 何処からともなく聞こえてきた叱咤に菖瞳は体をこわばらせた。思わず声のした方向に顔を向けたくなる衝動に駆られたからだ。

 それは父の声のようだった。

 一瞬のためらいを知ってか知らずか石元は上段からの攻めを仕掛けてくる。

 我に返りそれを防ぐ。その後に続く二撃三撃は見ずとも読めた。焦りはあったが、所詮は読める相手。不意を突く動きもなければ、単調的で掟通りの動き。相手は何度となく読み取ってきた動きをしている。

 だが、それがおかしいということに菖瞳は気が付いていなかった。見ず知らずの相手が型通りの動きをするはずはない。侮っていたわけではないが、相手はこれでも決勝までたどり着いた選手なのだ。

 その疑問に気が付かず動きが読めた。次はどう来てどう来るのか。その時の隙をついた相手はどう動くのか。すべてがまるでデジャヴのように重なり合った。

「その時は大胆に踏み出して、相手の面を狙いなさい」

 動きに呼応するように何処からともなく助言が聞こえてきた。動き回っているのにはっきり声が聞こえるのだ。

 そう言われると体が勝手に動き出してしまう。手筋から言えば攻撃に転じず慎重に隙を伺うのだが、頭よりも先に体が動いてしまったのだ。

「一本!」

 審判員の声が会場に響いた。紅白の旗が赤に上がっていた。

 長いこと争われた試合は可憐な一本で幕を下ろした。

 自分でもわかる敗北だった。石元の放った胴への一撃がきれいに菖瞳の右わき腹を叩きつけたのだから。

 振り返った菖瞳の目線の先に対戦相手の後ろ姿があった。相手もまたこちらを振り向いていた。

「お父さん?」

 自然と口に出た言葉は会場のだれにも理解できなかっただろう。破れた相手に父の姿を見たのだった。当然背丈も違うし、相手は自分と同じ女子高生だ。亡き父と姿を照らし合わせるのはどの角度から見ても無理な話である。

 だが、その幻覚もすぐに消えうせた。

 勝ちを確証した石元は体いっぱいにうれしさを表現した。それは愛らしく、とてもではないが父がするような仕草ではない。

 大喜びする石元の応援団とともに会場は温かい拍手が沸き起こった。

 対戦相手を父だと思ってしまうとは何とも情けない。

 菖瞳は無心のままに礼をするとすぐに防具を剥ぎ取った。昔、投げ捨てたままの防具に父は叱った。今それをやればただの無礼な行為だ。

 黙々と防具を片付けて、身なりを整えた。大会を締めくくる主催者の言葉も二位の盾の贈与も上の空だった。

 どこかにあるかもしれない父の姿を探した。

 確かに聞こえた声の出どころを探した。

 それはどこにもない。あるはずもないのだ。

 学校の道場の真ん中で置いた防具一式を前に、ひとり正座をして過ごす。大垂に刻まれた『嶺橋』の文字を見つめながら真夏の数日間を過ごしていた。周りではすでに受験モード。悶々としている時間が惜しいはず。菖瞳も大学進学を考えていなかったわけではないが、解決していない問題を隅に置き、勉強に励むことなどできない。

(なぜあの時父を見たのか?声が聞こえたのか?)

 それはオカルト染みている問いだった。学校のオカルト研究部に足を運ぼうかとも思うほどだった。午前中は学校の講習を受けて、あとは呆然と道場に引きこもる。そんな日々が夏休みの一週間続いた。

 結局答えの出ないままに大学進学に励んだ。おのずと剣を振る間を惜しんだ。以来剣は握っていない。毎日行っていた素振りも、精神統一もするはずもなく、いつしか普通の大学生へと人生の歩を進めたのだった。

 そんな菖瞳が福内と知り合ったのは受験真っ只中の秋口である。

 周囲からは近寄りがたいイメージを持たれていた菖瞳に福内は気さくに声をかけてきた。同じ大学を目指しているということが初めの内容だった。だがそれは後になってわかった口実だった。たまたま同じ大学を狙っていたというのは全部嘘。菖瞳に声をかけるべく福内は進路を決めたのだった。

 そんな二人の恋人期間は一週間だと菖瞳は認識していた。

 受験終わりに遊びに行こうということになったのだ。そこで初めて勉強から離れ、自分のことを話した。そこで初めて分かった。福内宋汰と言う男の本質である。

 菖瞳は福内と付き合いだして初めてのデート。初めての男性とのデートに興味があった彼女はデートを一応オーケーしてみたのだった。

 そこで催されたデートプラン。それはそれは散々だった。

 始めはよかった。喫茶店でのランチ。そこだけはよかった。後は最低だった。喫茶店での会話で福内宋汰と言う男の薄っぺらさを見透かしたのだった。

 バスケ部のエースだったという話まではよかったが、行きつく話題は女性の体。目の前の彼女に話す内容ではない。

 男はこういうものなのかとも思いつつ、続いて向かったのは映画館。

 そして選んだ作品は官能映画。嫌だと断りハリウッド映画を推したが二人別々の映画を見ることになった。

 そして最後はホテルだった。

 つまりあの男は下心がひどいのだ。それに己を貫く思想や芯となる信念を持ち合わせていない。菖瞳にとって魅力的な人物の条件に欠けていた。

 その日はホテルについて行かずやんわりと断った。いくらなんでもこれはドン引きしてしまう。終始縋り付いて手を握ってくる福内を菖瞳は遠慮気味に並んで歩いた。帰りの電車では無駄に駄々をこねだす始末。仕方なく彼の頬にキスをしてその日はなんとか逃げ延びた。

 初デートがこれほどひどいものになるとは思いもしなかった。

 一週間後の相手からの連絡に恋人関係の解消を突き付けて一週間だけの恋愛にピリオドを強制的に打ったのだった。

 恐らく菖瞳にとって理想の男性は父のような人なのだ。

 父の教えが彼女を形成し思想を形成したと言っていい。

「いいか、たとえ金がなくても、力が弱くても、理想を掲げそれを大切にする男を選びなさい。父さんはそれさえあればどんな男だろうと許す。信頼する娘が選んだ男だ。お前を大事にしないなんてことはないだろうさ。そいつが俺よりもかっこよくても…許してやろう」と笑顔で小さな彼女を抱きかかえた。

「でも、お金がないと生きていけないよ」

 すっぽりと若かりし茂雪の懐に菖瞳は収まっていた。

「もちろんだとも。でも父さんは信念やしっかりとした芯がある人間ならお金に困るなんてことはないと信じている。それにもしもの時は父さんがいるじゃないか」と父は笑って菖瞳の顔を覗き込んだ。

(あれはいつだったか…)と記憶を巡らせた。唐突によみがえる記憶に懐かしさとさみしさが胸を突き刺した。


「痛っ」と指先に向けられた痛みに菖瞳は我に返った。

 手にしていたバラの棘が薬指の腹に刺さったのだ。

「心ここに非ずね」とエプロン姿の女性が声をかけてきた。彼女はすぐにポケットから絆創膏を取り出して菖瞳に差し出した。まるで四次元ポケットみたいだと感心してしまう。

「すみません。ちょっと胸騒ぎがしまして…」

「何があったのかしら?私でよければ聞くわよ」と彼女は拳を自らの胸に当てた。強く押しあてすぎたのかゴホゴホと咳を立てる。

「実は…」と菖瞳は彼女の顔を見た。話すべきか迷ったのだ。

 女性は菖瞳の雇い主。お花屋さんの店長さんだ。自らの名前が花の名から来ていることにちなんだのも生花店で働いてみた一つの要因なのだ。ちなみに店長の名前は癒月ゆづきらんといって、彼女もまたお花にちなんだ名前だった。

「ああ、言っとくけど恋愛相談はNGだからね。私そう言うの疎いから」

「私も苦手です」と菖瞳もきっぱりと断った。

 花の名前二人は並んでお店に立てば男性が寄り付きそうなのに男運がない。変なところまで二人は共通していた。だが、二人の共通項は他にもあった。

「実を言いますと友達関係で迷ってまして…」

「結構重たいわね」

「と言うのも、私気が付いちゃったんです。ちゃんとした友人がいないなって。サークルで一緒になった友人もいるのにはいるんですけど、なんか価値観が違うみたいで…。周りの遊びと言うか、感性に付いていけないんです。気が付けば無理に笑っているような状態でして…」

 癒月店長は腕を組んで時折頷きながら聞いていた。

 菖瞳は黙って彼女の回答に期待していた。

 そして店長の答えは「ごめん。わからない」だった。

「私も友達が多い方じゃなかったから的確なアドバイスって難しいのよ」と弁解した。

「ごめんなさい。難しいことお聞きして」

 菖瞳はまっすぐに頭を下げた。

「的確でなく、一応って答えなら思いついたけど…」と手のひらを頬に当てて愛でるような瞳で菖瞳を見た。

「聞きたいです」それには興味があった。

「私の経験なんだけどね。私お花が好きでこうしてお店まで構えることができたんだけど、学生時代お花のことしかしてこなかったのよ。お花の研究をしたり、見え方の研究のために配色とか学んだのよ。時には花が出てくる俳句なんかに手を付けたこともあった。だからなのか私も友達少なかったわ。お花に興味のある子って稀だったから」

 初めて聞かされる店長の昔話があまりに新鮮で菖瞳も仕事そっちのけで聞いていた。

「でもそれでいいと思ったのよ。大勢に振り回される生き方は私にはできないって決めた。興味のない子にいくら華道のすばらしさを説いたって、私の理想に沿うような理解をしてくれるはずもない。それに押し付けることは違う気がしたの。だから諦めたの」

「孤立は怖くなかったですか?」

「それはもう。もちろん嫌だった。でも周囲からは私はこんな人間なんだって認識されるうちに一人の友が出来た。彼女もまたお花について精通していて一生懸命だったわ。だからって性格が全く一緒ってわけじゃないし、育った環境だって違ったわ。でも根が一緒だって気が付いたのよ。華道という根底でつながっている感じ。根っこの部分で一緒なら葉先でも波長が合うみたいな…。難しいかな?」

 そう語る癒月店長が難しそうな顔をした。だが、次の瞬間には表情がぱっと華やいだ。

「人生の先輩からのアドバイスだけど、焦る必要なんてない。嶺橋さんの進んでいる先にもきっとお互いに分かり合える人が現れるはずよ。私が保証する」と再び拳を胸に押し当てた。

 癒月店長は拳に力の制御が利かないのかまたしても咳き込んだ。その姿は頼りなく見えるだろうが、菖瞳にとっては何とも頼もしかった。

 これでいて癒月がすごい人だと知っていた。彼女の飾る生け花を菖瞳は何度か目撃していた。彼女の名前は剣道大会の会場でよく見ていたのだ。

 緊張感で殺伐とした雰囲気の中でその生け花は華々しくも凛々しくそして品格のある存在感を放っていたのだ。それが癒月蘭と言う人が生けた作品だということに興味を持ったきっかけだった。

 大学の入学式、偶然にも会場の隅で作業をしている女性を目の当たりにした。それが癒月蘭の作品であることに感銘を受け、アシスタントと思われた女性に声を掛けた。どんな大物が作ったのだろうかと内心想像していただけに、その女性こそが癒月蘭本人だとは全く思いもしなかった。

「いらっしゃいませ」と接客に向かう癒月は慌てたように駆けだした。だが、踏み出した右足が中央の商品棚に当たり、いくつかのバケツ花がひっくり返った。

「申し訳ありません」

 すぐさまお客さんに頭を下げ、転げ落ちた商品を元の位置に戻すのだが、別の商品も突き落としそうになる。これにはお客さんも声を上げた。

 菖瞳は急いで飛び落ちそうになった商品を寸分のところで抑えた。あと数秒遅ければ花瓶ごとダメになっていたところだ。

 そして癒月店長は今にもトホホと嘆きそうな表情をするのだ。つまり何と言うか、彼女はいわゆるドジっ子だった。

「私がやりますから、店長はお客様に」

「いつもごめんね…」

 こんな店長だが、菖瞳は嫌いではない。癒月もまた彼女が語る道の先の友人のような気がした。

 モップをかけ、バケツの水を入れ替えて、商品に傷がないか確かめた。茎の折れてしまった花を引き抜こうとしているとき携帯電話が鳴り出した。

「ごめんなさい」と菖瞳は一緒に作業していた店長に告げた。

「誰かしら?」

 店長も他人ながら菖瞳の急な電話に興味を示した。それは暗に通話オーケーを意味していた。

「兄からです」と小さな胸騒ぎを覚え、店長の許可のもと通話に応じた。

 だが、電話の相手は兄ではなかった。相手の男性は光浦と名乗る警察官だった。

 不信感を募らせた菖瞳だったが、見ず知らずの電話番号ではない。混乱しながらも自分は雪虎の妹であることを伝えた。

『お兄さんが今、病院に運ばれた』

 一瞬にして頭が真っ白になって電話機を落としていた。

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