第二十話 その感情の名は

「蓮人君、起きてください」


 ふいに肩を揺すられて、目を開ける。

 起き上がろうとすると、どうにも身体が少々ぎくしゃくしていた。

 どうやらソファーの上で、変な姿勢で眠ってしまっていたようだな。


「これ、食事です。置いておきますね」


 茅愛は、トレイに乗せられた御飯と味噌汁の簡単な食事を、応接用の机に置いてくれる。いい匂いに、腹の虫が反応して、キュウと軽く鳴き声を鳴らす。


 凝り固まった肩と首を回して解してから身体を起こし、


「ありがとう、茅愛……うっ」


 礼を言おうと茅愛の姿を見た途端、また、俺の心がざわついてきた。


 これは、間違いない。

 あのとき感じた、ないはずの巨乳を求める衝動に相違ない。


 どうしてだ?


「あ、あの、どうしたんですか?」


 グルグル眼鏡の奥の瞳を気遣わしげに揺らしながら、茅愛が困った風に言う。


 ああ、どうして、ないんだ?

 彼女には、あったはずだ。

 あれがあれば、最高なのに。


 待て、待て、待て。


 どうしてだ? さっきまで収まっていたじゃないか。

 どうして、今になって茅愛に幻想の巨乳を求める衝動が湧いてくる?

 しかも、こうしている間にも、どんどん衝動は強まっていく。


 俺の記憶が戻ったお陰か、僕の感情と分離してどうにか今のところは押さえていられるが、これは、まずい。


 限界を越えるまで、そう時間は掛からないだろう。


「済まない、茅愛。また、茅愛の巨乳が、欲しく……」

「え、ど、どうして、急に……」

「わから、ない……でも、取りあえず離れてくれ。このままだと、また」

「え、で、でも」


 茅愛は慌てて俺から離れようとして、うっかり部屋の中央にある作業机に足を引っかけてしまう。


「うきゃ」


 そのまま、茅愛は転んでしまった。その勢いで、眼鏡が外れてしまっていた。


「あ、めがね、めがね……」


 慌ててそれを探す茅愛。

 そのころには俺の衝動は治まっていたので、眼鏡を探すのを手伝うことにする。

 今度は踏み割ってしまわないように、細心の注意を払う。


 見れば、眼鏡は俺のそばに落ちていた。

 眼鏡は丁重に扱わねばならない。

 俺はそっと拾い上げると、両手で恭しく掲げて茅愛へと差し出す。


「あ、ありがとうございます」


 そうして、茅愛が俺の手渡した眼鏡をかけた瞬間。


「うっ……茅愛、離れて、くれ」


 また、衝動が甦ってきた。


 どういうことだ?

 さっきと今の茅愛の違いは……なんだ?


 って、そうか。そうなの、か?

 まさか、そういうことなのか?

 そんなことが、あるのか?


 でも、そうだ。


 俺が、あの官憲の女に捕まった日、その原因となった本はなんだった?

 そして、特殊文芸部における、茅愛の属性はなんだった?


 他の全てのファクタを固定して、特定のファクタだけを変化させて影響を確認する。

 今、期せずして行われたのは、そんな非常にシンプルな対象実験と言えるだろう。


 そうか、そういうことだったんだ。

 これが、ずっと解らなかった足りない『何か』の正体ということだ。


 ならば。


「茅愛。悪いけど、すぐにムネ先輩を呼んできて!」

「え、急にどうしたんですか?」

「早くして! あと、眼鏡はしばらく外していて!」

「は、はい!」


 茅愛は慌てて部屋を出ていった。


「これは、いけるんじゃないか?」


 気づいた事実に興奮を覚えながら待っていると、ほどなくしてムネ先輩がやってきた。


「なんじゃ? 急に」

「『メタテラ』をもう一度使ってください」


 説明ももどかしく、単刀直入に結論を口にする。


「駄目じゃと言っておろうが。あれは、失敗したのじゃ」


 呆れたようにムネ先輩は言うが、


「いいえ、成功です」


 俺は断言する。


「はぁ? 何を言っておる?」


 訝しげに眉を顰めるムネ先輩。


 三白眼が狭められて結構目つきが悪くなっているが、オーバルのレンズが素晴らしい仕事をして、そこに宿る険を緩和している。


「シンデレラバスト愛を植え付けることだけにこだわったのが間違いだと気づけたから、成功なんですよ」


 俺は夢中になって話す。


「いや、じゃがシンデレラバストを愛せるようにせねば、どうにもならんのじゃぞ? 蓮人も、シンデレラバストが対象外だから、あたしのことをなんとも思っておらんのじゃろう?」


 少し拗ねたような声音でムネ先輩は窘めるように口にする。

 可愛いが、貧乳だから対象外だ。

 その通りだ。


 でも。


「大丈夫です。俺に、考えがあります」


 そうして、ムネ先輩ばりのドヤ顔を意識して宣言する。


「シンデレラバストへの思いを植え付けるだけでなく、別のモノへの愛を一緒に増幅してください!」

「は?」

「???」


 ムネ先輩も茅愛も、全く理解できないという顔をしている。


「別のモノへの愛を加えて、何の意味があるんじゃ? そもそもとして、シンデレラバストを愛せなければ意味はなかろうて。余計なモノへの愛情は邪魔になるのではないか?」

「いいえ。そうではありません。よくよく考えれば、ムネ先輩への恋心は『メタテラ』を緊急停止した後も、残ってはいたんです。男は遺伝子レベルで巨乳しか愛せなくなっているにもかかわらず」

「それは、本当か?」

「それなら、わたしも確認しています。目覚めた直後にムネ先輩のことを語る蓮人君は、特殊文芸部の蓮人君と全く同じぐらいの思いをこめて、語っていました」


 ムネ先輩が、驚愕の表情を俺に向ける。

 見開いて四白眼になった瞳とオーバルレンズの奏でるハーモニーは絶品だ。


 貧乳でさえなければ、そのまま押し倒してもおかしくないぐらいに。

 そう、今の俺は、ムネ先輩をこういう風に思えるのだ。


「いや、でもじゃな、実験直後に残っておったのは偽りの恋心じゃ。『メタテラ』が産みだした幻想じゃ。シンデレラバストを愛せないことも解ったはずじゃ。なのに、どうしてあたしにこだわる?」

「それは、ムネ先輩が可愛いと思うからです」

「え、か、可愛い……そ、そんなこと、言われても……」


 偶然か、あのときと同じような反応をしてくれる。

 なら、ここで更にカードを切るべきだ。


「それに、運命を感じているんですよ、ムネ先輩には」

「運命? ただ偶然拾っただけの研究者に、なんの運命を感じるのじゃ?」


 やっぱり、ムネ先輩はあの事実に気づいていない。

 今こそ、それを告げるときだ。


「俺とムネ先輩は、実は昔、会ったことがあるんですよ」

「と、唐突に何を言いだすのじゃ? 一体、いつ会ったというのじゃ?」


 予想通り、全く覚えていないようだな。

 なら、少しずつ真実を語ろうじゃないか。


「正確にいつかは解りませんが、ムネ先輩は官憲の仕事をしていたことはありませんか?」


 そう、俺があの最上級の素敵滅法な本をゲットした直後のことだ。


「それなら、研究所に引きこもってばかりいたものだから、貞子さんにちょっとは外に出ろと恫喝されて官憲の手伝いをさせられていたことがある、が……ま、まさか。いや、年代が合わんぞ? 男の寿命は変わっておらんはずじゃ」


 どうやら、思い当たることがあったようだ。

 記憶の片隅には残っていてくれたようで、重畳だな。


「ええ。でも俺はあの後、貞子に捕まって冷凍睡眠の実験に参加させられたんです」

「いやいや、あの実験は早々に失敗して誰も生還はできんと……」

「俺が生還しましたよ。貞子の研究所で」

「まさか……じゃが……そうか、世代が違う男を扱いかねて、貞子さんの研究所から放逐されたと考えれば、辻褄は合う……のか?」

「理解して、もらえましたか?」

「いまだ、半信半疑じゃがの」


 渋々という感じで、俺の話を受け入れようとしてくれている。もう一押しだ。


「その話し方……俺の言葉が切っかけなら嬉しいです」

「うん? どういうことじゃ……」


 俺の言葉に首を傾げるムネ先輩。

 どうにも稚気があって愛らしいが貧乳で対象外になってしまう。


 もどかしさを感じながら見守っていると、不意に手を打ち鳴らし。


「! そうか、あのときの刺激図画不法所持男がお前じゃったのか……」


 どうやら、思い出してくれたようだ。罪状も含めて。


「そうです。可愛くてちょっと大人げない女の子だったから、思わず言ってしまったんですよ」

「女の子、といっても、あの時点で四十を越えておったがの」

「不老なんですから、永遠の十七歳でいいじゃないですか」

「む、そう言ってもらえると、嬉しいが」


 そこで、茅愛がちょんちょん、とムネ先輩を突いた。


「あの、臼井博士。これって、凄いことですよ?」

「何がじゃ?」

「だって、蓮人君、臼井博士のことをちゃんと女の子として扱ってます」


 俺は驚かない。すでに、解っていたことだから。


「あ……ほ、本当じゃ。特殊文芸部の実験で身近になって忘れておったが、そうじゃ。こんな風に軽口を言ってくれる男など、もう、おらんかった……」


 不思議そうに俺を見る、ムネ先輩と茅愛。


 そうだ。

 貧乳は対象外。本能のブレーキが常にかかってしまう。


 でもそれは、裏返せば、否定しないといけない感情を抱いているということ。


 きっとこれは、あのとき出会った巨乳めがねっ娘本のお陰だ。


 天啓だと思った。

 至上の逸品だと思った。

 心にどこまでも響いた。


 貞子に踏みにじられて処分されてしまったが、その表紙の女の子に似た容姿のムネ先輩と出会ったことで、この感情は俺の中で着実に育まれていたんだ。


 あの後、すぐに眠らされてしまったり、記憶を失っていたりで混乱していたけれど、恐らく俺の中には、あの時点でこれまでの男とは違う何かが芽生えていたのだ。


 貞子はそこまで気づいていたわけではないだろうが、あのころの男なら巨乳を全く知らない世代とはまた違う感性を持っている、ぐらいは思っていたのかもしれない。


 確かに、俺は違う感性を持っていたのだろう。

 感性に導かれ、心の奥深くに芽生えた感情が、俺の心を動かしたのだ。


 芽生えた感情の名。


 それは、『めがねっ娘愛』だ。

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