第十六話 目覚めはムネ先輩の胸の中で

-2118/04/15-


 頭の後ろから規則正しい拍動を感じる。

 小さいというか、ほとんどないに等しい膨らみの奥からの音。

 鉄で出来ているわけじゃない、というレベルの柔らかさはある。

 それでも、心安まる温かみを感じることはできた。


 目を開けると、視界の先には俺を見下ろす楕円形のレンズ越しの瞳が見えた。

 下へ向くことで、上に白目ができた三白眼。


 とても優しい表情を浮かべたムネ先輩の顔が、そこにあった。


「お、起きたかの」


 どうやら、俺はあのままムネ先輩の胸に体を預けて眠っていたらしい。


「お、おはよう、ございます」


 俺は妙な居心地の悪さを感じて体を起こし、ムネ先輩と並んでソファーに座る形になる。


「えっと、あの? 何をいい雰囲気をつくってるんでしょうか? というか、どうしてそんな雰囲気が作れるんですか?」


 珍しく棘のある茅愛の声に。


「な、何を言っておる! 研究者として、疲れた被検体を労るのは当然の義務じゃろう?」

「へぇ……そうなんですか? なら、わたしも助手ですから、役得があってもいいですよね?」

「だ、駄目じゃ! これは、研究所の所長としてのあたしの義務で……」


 なんだろう、段々茶番染みてきた。


「この辺にしておきましょうか」

「そうじゃの。どうせ、蓮人は何も感じておらんじゃろう。せいぜい、茶番と感じるぐらいか」

「なんで解るんですか?」


 図星だったので思わず聞き返すと、


「それは、あたしのことも茅愛のことも性の対象外と思っておるからじゃ。蓮人を挟んで取り合いのようなことをしたとしても、何も感じんのは道理じゃ」


 全くその通りだった。


「でも、形だけでもこんなやり取りができる日がくるなんて……夢みたいです」


 眼鏡を割ってしまったので今は裸眼の茅愛の大きな瞳には、涙さえ滲んでいた。


「そうじゃの……あの特殊文芸部の日々は、無駄ではなかったのかもしれんの」


 一転して、二人はしみじみし始める。

 雰囲気を壊すのは少し悪い気がしないでもないが、聞き流せない言葉があった。


 そこは、追求しないといけない。


「俺が被検体って、どういうことですか?」


 正直、またも被検体とは、うんざりする。


 ん? また? 何が、またなんだ?


 いや、今それはいい。

 余計なことを考えて、また頭痛に苛まれるのはごめんだ。


「隠すこともないじゃろうな」


 隣に座るムネ先輩は、立ち上がるとソファに座る俺と正対する。

 レンズ越しの三白眼が、俺をまっすぐに見つめていた。


「あの特殊文芸部の日々が、実験じゃったということじゃ。蓮人にシンデレラバストを愛するように仕向けるためのな」


 俺はその言葉をすんなりと受け入れることができた。

 薄々、そんなところだろうと感じていたのだ。


「なるほど。俺の頭痛の種は、ムネ先輩の実験の後遺症とも呼ぶべきもの、ということですね」


 皮肉っぽい言葉が口を衝いてでたけれど、どうにも感情が乗っていない。

 恨んでもいいところだろうが、どうしてもムネ先輩に対してそういう気分になれないのだ。


「す、済まぬ。そこは、本当に、申しわけないとは思っておる……」


 頭を下げて誠意を見せてくれる。

 なら、それで俺には十分だった。


「頭を上げてください。俺は、実験の内容については特に怒っても恨んでもいませんから」


 手打ちにする意志を示すように、素直な気持ちを言葉にする。

 何より今、ムネ先輩には謝罪よりも話して欲しいことが幾つもある。


「それより、俺が何者かを教えてください。特殊文芸部の日々が実験だというなら、今、ここにいる俺は、一体何者なんですか?」


 俺の頭痛は、自分の正体を問う過程で生じていたように思える。

 特殊文芸部の僕と、今、ここにいる俺。

 その差異に、何かしらの原因があるのだろう。


 俺は、僕のことは比較的よく覚えているが、肝心の俺のことは断片的にしか覚えていない。


「ふむ……話すのはよいが、困ったの」

「何か不都合でもあるんですか?」

「いや、そうではない。あたしも茅愛も、蓮人が何者かは知らんのじゃ」

「どういうことですか? 素性も知れない人間を実験に使っていた……もしかして、研究所の近くに倒れていたのを保護したとか……」


 なぜだか、当然のようにそんな状況が浮かぶ。


 衝動的に茅愛に襲いかかりそうになる少し前、荒唐無稽と思いながらも、パンデミック絡みのことが口を衝いて出たことがあった。


 もしかすると、今も、あのときも、深層に眠る記憶を無意識に語っていた?


 となれば。


「そうか、俺は記憶を失った状態で保護されて……だから、ムネ先輩も茅愛も俺の素性は知らない、というところですか?」


 これは、推理に基づく結論。


「正にその通りじゃが……記憶が戻ったわけではないのじゃな?」

「はい。恐らくは、どこかに残っている記憶が不意に浮かび上がって、それが無意識に言葉になったとか、そんなところだと思います」


 ムネ先輩は、茅愛と顔を見合わせて当惑している。

 俺が先読みで事実を言い当ててしまって、何から話したものか困っているのかも知れない。


 なら、こちらから要求しよう。


「あの、俺が何者か解らないなら解らないでいいです。それなら代わりに、この研究所に来てからの経緯を教えてください。俺には、その部分の記憶もありませんから」


 これなら、確実にムネ先輩と茅愛が知っている。


 この研究所でどう過ごしてきたのか? そこを思い出すことで、更に過去を思い出す切っかけになるかもしれない。そう思っての申し出だ。


「おお、それなら、幾らでも話そう!」


 ムネ先輩は渡りに船と食いついてきた。

 その声音と表情は、俺の記憶にある語り好きの特殊文芸部のムネ先輩のそれらに一致する。あれは、素なのだろう。


「そうじゃの、始まりは半年ほど前のことじゃ。蓮人の言った通り、研究所の近くで頭から血を流して倒れておったところを見つけての。ここで保護したのじゃ。道を踏み外して斜面から落ちたのじゃろうな。結構な怪我をしておったが発見が早かったようで、治療が間に合い一命は取り留めた、というわけじゃ」


 俺の無意識が補強された形だが、残念ながらそれ以上は今のところは思い出せない。

 それでも、衝動的に言葉が口から出てきた。


「だったら、ムネ先輩は俺の命の恩人じゃないですか。ありがとうございます」


 記憶になくとも感謝の思いは浮かび上がってきたということか。

 温かい感情が胸に渦巻いている。


「そ、それは、どういたしまして、なのじゃ」


 なんとも居心地悪そうなのは、実験で後ろめたいことがあるからかもしれない。

 だとしても、それはそれ、これはこれだ。


「それで意識が戻ってみれば、記憶を失っておるようじゃった。手続き記憶だけは残っているのか食事やらの最低限の生活習慣がこなせてはいたが、記憶の欠落の影響か感情も希薄で人格まで曖昧になっておっての、会話も断片的にしかできんような状況じゃった。それでも色々聞き出そうとはしたが、結局、聞けたのは名前ぐらいじゃった……」


 言葉もまともに話せないぐらいに自我が曖昧な状態だったから記憶が蓄積されておらず、その間のことも思い出せない、といったところか。


「そこで、あたしの研究を活用しようと思ったのじゃ。都合のいいことに、あたしの専門は『脳』の研究じゃからの。これまでに発明した技術を活用して蓮人の脳に刺激を与えて、記憶の回復を図ったのじゃ」

「それが、俺を被検体にしたという事ですか? なら、治療の範疇じゃないですか」


 もしもそれを後ろめたく思っているなら、そんな必要は全くないと俺は感じる。


「確かにこの段階であれば、そうじゃろうが……さっきも言うたじゃろう? 最終的には蓮人に『シンデレラバストを愛する』という偽りの感情を植え付けるまでしたのじゃ。そこまでエスカレートさせてしまっては、とても治療の範疇とは言えん」


 研究者としての矜持か、俺の言葉に甘えず己の非を主張するムネ先輩。


「話が前後するが、あたしが蓮人に使用した技術はの……」


 少しためを造り告げられたのは、俺のよく知る単語だった。


「『特殊文芸』じゃ」

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