第十四話 俺と僕

-2118/04/15-


「う、うぅん……」


 目が覚めると見慣れた天井があった。

 特殊文芸部室の天井だ。どうやら、応接セットのソファで眠っていたらしい。


「なんだろう、変な夢の中にいるみたいだ……」


 巨乳が滅びた世界。

 そんな絶望的な時代が訪れてしまったのか?


 いや、でも。


 特殊文芸部にはあったのだ。

 Hという、巨峰が。

 茅愛の、胸に。


 でも、そもそも特殊文芸部はあったのか?

 記憶が、混沌としている。


「お、落ち着きましたか?」


 不意にかかった声に、俺は上体を起こしてそちらを見る。

 そこには、恐る恐るといった体で、部屋の入り口からこちらを伺う茅愛の姿があった。スーツの上に白衣の出で立ちだ。


 俺が踏んで壊してしまったので、眼鏡はしていない。

 見えづらいからか、目を細めてこちらを伺っている。


 だが、その胸は平坦で。

 求めてやまない、希望の詰まったH(サイズ的な意味)な膨らみは、どこにもなかった。


 残酷な現実を突き付けられ、失われたものの大きさに落胆する。

 Hから、AA。

 落差は、およそ20センチ(1カップ=2.5センチ計算)。


 マジマジと胸元を観察していたからだろう。


「ほ、本当に、巨乳なんてありませんから。も、もう、襲ってこないで、下さい、ね?」


 怯えたように念を押す茅愛。

 冷静になってみれば、さらしで隠すにも限度がある。ここまで真っ平らにするのは困難だ。


 それに、直接感触も確かめたはずだ。

 あのときは巨乳への抗いがたい妄執に突き動かされていた。


 でも、今の茅愛の姿を見ていると、不思議ともう、あの渇望は感じなかった。

 今、彼女を襲うかと言えば、そんな発想自体、浮かぶことはないだろう。


「そんな平面にはなんの価値も用もない。襲ったりなんて思いもしないから安心してくれ」


 怯える茅愛に、言葉にして襲ったりはしないと断言する。


「はぅ!」


 何かそれが彼女の心の琴線に触れたのか、妙な声が上がる。


「あ、あの、大丈夫です! まだ、軽かったので、落ち着きました!」


 少し恥ずかしそうに顔を赤らめて取り繕いながら、部屋に入ってくる。

 ああ、そうだ。茅愛は、胸のことをどうこう言われると反応してしまうんだったな。


 段々と、頭の中が整理されていく。


 いや、でもそれは、巨乳をディスられるとではなかったか?

 違う、カプセルから出た直後は、貧乳をディスられても反応していて……


 何が夢で、何が現実なのか?


 整理されたと思った端から、また混乱が襲い来る。


 何がどうなっているんだ?


「おお、起きたか」


 無数の疑問が湧き上がる中へ、ムネ先輩がやってきた。

 なぜだか、その顔を見てとても懐かしく感じる。


「どうじゃ? どこか体に不調があったりはせんか?」


 まっすぐ俺の居るソファの傍らまで来ると、気遣わしげに問うてくる。

 こちらの顔を覗きこむようにして、ムネ先輩の顔がすぐ側にあった。

 オーバルのレンズ越しに、優しげな三白眼がこちらを見ている。


 だが、特殊文芸部での日々のようなトキメキが、今はない。

 理由は明白だ。

 貧乳だから。性的な意味での女とみなせないから。


「肉体的には大丈夫ですが、精神的には、かなり混乱しています」


 特に体温が上がったりと言った反応もなく、冷静に答える。

 現状の把握に混乱があるのは確かだが、一番の混乱はムネ先輩に関する俺の感情にあった。


 彼女への、心にわだかまる思いが本能との狭間で軋み合っている。


「どうして俺は、ムネ先輩にあんなに憧れていたんでしょう?」


 本当に、そこだけが理解できなかったことを問う。

 本人に聞くのもどうかと思うが、ムネ先輩なら知っている。直観的にそう思ったのだ。


 何しろ、貧乳に憧れる男など、俺の知る限り僅かな旧世代の生き残りだけだ。

 少なくとも、俺は自分がそうじゃないことは知っている。


 だが、確かに、この人が好きだったという感情が残っている。

 むしろ、どうしてトキメかないのか? もどかしくさえ思っている。


 しかし、貧乳は対象外だ。


 堂々巡りの感情。

 俺の問いに対する答えは返らず。


「む? 『俺』……一人称が、変わっておるな。口調も、違う……もしかして、記憶が……」


 難しい顔をし、おとがいに手を当てて思索に耽り始める。楕円形のレンズの奥の三白眼が、思案気に顰められていた。


「おかしなことを言わないでください。俺は、ずっと俺らしくいますよ」


 ごく自然に『俺』と言っているし、特に口調も造ったりした覚えはない。


「いいや、間違いなく『僕』と言わせていたはずだ。あたしの、趣味もあるがな」


 思索に耽ったまま、半ば反射的にも思える端的な答え。


 どういうことだ? まるで、俺のことを操っていたような言動じゃないか?


 でも、なぜだろう。


「言われると、『僕』って言ってたような気も、して、きます、ね……うっ」


 特殊文芸部での記憶を紐解こうとすると、激しい頭痛に見舞われる。

 『僕』が特殊文芸部員だったのは確かだ。


 でも、そこで貧乳を愛していたというあり得ない記憶を、『俺』の本能が拒絶する。

 特殊文芸部が俺の妄想なら、それをムネ先輩と茅愛が把握しているはずがない。

 なのに、二人ともキチンと把握しているようだ。

 時代が合わないとかは置いておいて、それは特殊文芸部が確かにあったという証左。


 とはいえ、こちらが夢で、特殊文芸部の方が現実という可能性もある。

 むしろ、そうあってくれた方が、幸せだ。

 あそこには、俺が渇望するHな茅愛の巨乳があるんだから。


 そして、巨乳を憎み、貧乳のムネ先輩を愛する、僕、が……


「あ、あがああががっがががあが」


 頭が、割れそう、だ。

 矛盾が、矛盾が、脳内で、警告を、はき続けているような。


 デタラメな、激しい頭痛が襲いくる。


「蓮人の状況は、大体解った。そうか、そんなに苦しませて、しまっているか……」


 痛みに滲んだ涙で歪む視界に、辛そうな、哀しそうな表情を浮かべたムネ先輩が映る。


 ふいに感じる温もり。


 ムネ先輩は、苦しむ俺の頭をそっと抱き寄せてくれていた。

 俺は、その胸元に顔を埋めていた。膨らみはなくとも、最低限の柔らかさだけは感じられる。


 心臓の音が、聞こえる。

 いい匂いが、した。

 なぜだか、僕の心に安らぎが生まれ。

 俺の頭の痛みは、少しだけ和らいだ気がする。


 ムネ先輩は俺の頭を離すと、今度は隣に座って背後から肩を抱くようにしてきた。そのまま、俺は起こした上体をムネ先輩の胸元に預けるような姿勢になる。


 後頭部に薄い胸。

 見上げるようになった視界には、気遣わしげだが、どこか嬉しそうにも見えるムネ先輩の顔。

 きつめの三白眼だけれど、オーバル眼鏡が絶妙に仕事をして愛嬌を産みだしている。


 貧乳である以上、性愛は感じられない。


 それでも、愛玩動物へ向けるような好意なら、感じることができるのだ。

 そんな風に考えていると、また少し、頭痛が和らいだ気がする。


「取りあえずは、これを飲んで落ち着くのじゃ」


 ムネ先輩は小さな瓶を俺の口元へと持ってきてくれる。

 前に茅愛が飲ませてくれた薬、恐らく鎮静剤か何かだろう。

 されるがまま、差し出された薬を、ゆっくりと飲み下す。


 ほどなく、頭に靄がかかったようになって、段々と痛みが消えていくのを感じる。

 同時に、気が抜けたのか急激な睡魔に襲われた。


 瞼が、重くなる。


「よいぞ、そのまま眠るがよい」


 ムネ先輩の言葉に甘え。

 臼井霧音の薄い胸の中で、僕/俺は心地良い眠りに落ちた。

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