第十話 本当に好きなのはどちらなのか?

「!」


 解りきっていたはずの僕の答えに、茅愛は目を見開き、驚いたような、哀しそうな表情を浮かべて固まってしまった。


 なんだろう? やっぱり、何かが食い違っている気がする。

 でも、何が、違うんだろう? 何か、決定的な違いがあるような……


 僕は、茅愛の姿を見る。

 小柄な体躯。頭の後ろで無造作に結んだ長い髪。グルグル眼鏡。

 そして、ぺったんこの胸……って、ちょっと待て!


 さっきナチュラルにディスっておいて気づかなかったのも間抜けだけど。

 そうだ! そうだよ! 大切なものがなくなってしまっているじゃないか!


「なんで! どうして! 何があったの?」

「え、きゅ、急に、どうしたんですか?」


 大声を上げた僕に、茅愛はビクッとして怯えた表情を見せる。

 でも、そんなことを気にしている場合じゃない。


「だ、だって、それ、そこ!」


 僕は、茅愛の体の一点を指差す。

 服の上からでも、違いがはっきりと解る重大な欠落。


「おっぱい! おっぱいだよ! どうして? あの立派な安らぎと悦楽をもたらす膨らみはどこにいったの!」


 そう、あの魅惑の巨乳がなくなっているじゃないか!


 途端に、曖昧だった記憶の中から甦ってくるイメージ。

 鮮烈で、柔らかくて、それでいて張りのある、温かい故郷のような場所。

 そこに、ついさっきまで埋もれていたじゃないか。


 あれは、いいものだ……


「そっか、やっぱり最後のが……もしかしたら、と思ったけど、あれだけで元の木阿弥に………DNAは手強いですね……」


 僕の反応に茅愛は表情を曇らせ、考えをまとめるようにブツブツと言い始める。

 今一状況が飲みこめず、僕はそんな茅愛を見守る。


「……ううん、でも、まだ、希望はありますね。さっきの刺激でそうなったんなら、逆の刺激で…………でも、だとすると……うぅん…………うん、頑張って、みますか……」


 あれこれ自問自答して考えがまとまったのか、


「状況をより明確にするため、失礼して、ちょっと確認、させてもらいますね」


 茅愛は、僕の側に寄ってくる。

 膨らみを失った茅愛は、既に女とは思えない。

 だから、どこまで寄ってこようと、何も感じない。


 どういうつもりか計りかねていると、茅愛は深呼吸。

 どうも、頬が紅い気がする。

 白衣の前を大きく開き、ジャケットの下のブラウスのボタンを外す。

 なんだろう? と、思っていると、


「えいっ!」


 っと、声に出して気合いを入れて僕の両手を取り、ブラウスの隙間へと持っていった。


「何してるの?」


 本当に、意味が解らない。


 僕の両手は、彼女の平たい胸元にダイレクトに触れている。

 体温が、しっかりと伝わってくる。


――だけど、それが、なんなんだろう?


「こ、ここまでしても反応しない、ってことは……やっぱり、駄目、なんですね……」


 僕がキョトン、としていると、顔を真っ赤にして、それでいて哀しげに呟きながら、僕の手を放す。解放された手には、茅愛の平坦な胸から伝わった体温が残っている。


――でも、それが何?


 不思議そうな表情を浮かべているだろう僕を、真っ赤な顔で上目遣いに見る茅愛。

 その瞳には、羞恥のためかうっすらと涙まで浮かんでいた。


 まったく、恥ずかしいならやらなきゃいいのに。


「なんで、そんな羞恥心の無駄遣いをするの? 意味が解らないよ……」


 あんまりにも茅愛の行動の意味が解らないものだから、僕は思ったまんまを口に出していた。


 貧乳に反応しないのは、当然のことだ。

 巨乳だけが男の心の安らぎ。

 それは、遺伝子に刻みこまれた世の理だ。

 結果が解っているのにわざわざあんな真似をする意味が解らない。

 一方的に恥ずかしいだけじゃないか。


 ここは、はっきり言って思い知らせてあげつつ喜ばせて羞恥を和らげてあげるのが、友達としての優しさだろう。


「茅愛、あのね、今の男はEカップ以上の巨乳にしか女を感じられない。だから貧乳はそもそも女と認識できないんだよ? そんなこと、茅愛もよく知ってるよね? なのに、なんでそんな全く何の魅力もない断崖絶壁に僕の手を触れさせたんだい?」

「はぅ! だ、駄目、ハァハァ……そ、そんな場合じゃ…ハァハァ……ないんですから……ハァハァ……空気、読んで……ハァハァ……ください……ハァハァ……でも、気持ちいい……ありがとうございます」


 うん、よかった。ちゃんとハァハァして、羞恥も有耶無耶になったみたいだ。

 僕が茅愛の胸を蔑んで、ハァハァさせる。

 さっきもやった、いつも通りのコミュニケーション。

 特殊文芸部の日常風景。


 うん? あれ? でも、何か違うんじゃ?

 僕の記憶にある茅愛は胸に巨峰を備えていたよね?

 それを蔑む?

 ってことは、巨乳を蔑むってことにならない?

 え? なんで僕は、巨乳を蔑んでたんだ?


 おかしい。


 巨乳にしか魅力を感じないのは、現代男性の当然の嗜好というかDNAに刻まれた本能。

 なのに、どうして、そんなことが日常風景だったんだ?

 いや、違う。


 何を言ってる?


 だって、


「巨乳は敵で、シンデレラバストが真理で……うっ……」


 そう、思わず、考えを、口に出した、ところで。


「え? そっちも、まだ覚えてるんですか? だったら……」


 茅愛の、不思議そうな、でも、少し希望のこもった声。


「うぅ……」


 でも、それどころじゃなく、激しい、頭痛が……


「ああ、やっぱりそうなっちゃうんですか……なら、駄目です! できるだけ余計なことは考えないでください! 多分、蓮人君の脳は矛盾を抱えてかなりの負荷がかかってるはずですから!」


 矛盾を抱える? 脳に、負荷?

 意味が、解らない。


「うぅぅぅぅぅがぁっ」


 考えようとすると、更に痛みが増し、頭を抱え、呻きながらその場に蹲る。


「はわわっ! え、えっと、これ、鎮静剤です!」


 茅愛は白衣のポケットから小さな瓶を取り出し、僕の手に握らせてくれる。

 でも、手が震えて上手く詮が開けられない。

 見かねた茅愛が僕の震える手に自分のそれを添え、詮を開けて口元まで持ってきてくれる。

 僕は、茅愛の補助を受けながら、ゆっくりとその中身を嚥下する。

 甘いような、苦いような、不思議な味。


「あ……」


 段々と、頭の中に靄がかかったような感じになってくる。

 それにつれ、痛みも和らいでいく。


「どうですか?」

「うん、ちょっと頭がぼーっとするけど、大分楽になった」


 眠気が残ったような倦怠感はあるけれど、痛みは引いている。


「はぁ、よかったです」


 心配してくれていたのか、ない胸を撫で下ろす茅愛。

 これで巨乳だったらちょっとはトキメくシチュエーションだけど、それは、ゼッタイにないんだよな。


――あれ、胸はないほうがいいんじゃ?


 いや、考えるのはよそう。


「えっと、恐らく蓮人君の頭の中では、記憶の混乱が生じてしまっています。そのせいで、さっきの様子だと相反する価値観が同時に存在してしまっているんでしょうね。ですから、記憶を整理していかないと、矛盾した部分に差しかかるとさっきみたいに脳が処理しきれず、頭痛などの症状が出てしまいます。なので、無理に考えず、ゆっくりと状況を把握していってください」


 茅愛が、病院の先生のように僕に言う。

 なんだろう? 記憶が混乱しているのは確かだけど、相反する価値観って……


「つっ」


 また、頭痛がしてきて呻いてしまう。


「だから、考えこんじゃ駄目ですって!」


 茅愛の声に、思考が中断される。お陰で、頭痛はそこで治まった。


「……うん、やっぱり、少しずつ整理していかないといけないですね」


 一つ息を吐いて、居住まいを正す茅愛。


「では、最初に尋ねた年月日のことから、お話ししますね」

「ん? 年月日って……今日は、二〇一八年四月一三日、だよね」

「それが、違うんです。すぐには信じられないかもしれませんけど、今は、二一一八年四月一四日、なんですよ」

「ああ、そっか、丸一日眠ってたのか……」

 気を失っている間に一日経っていたのか。道理で、状況が変わっているはずだ。

「違いますよ」


 茅愛は、僕の言葉をやんわりと否定すると、その事実を改めて示す。


「今日は【二一一八年】四月一四日です」


 そう。

 どうも、僕は気が付くと百年と一日の時を飛び越えていたらしい。


 冗談だろう?

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