第三話 世界への挨拶
-2018/04/06-
始業式など何をやったか覚えていない。新しいクラスのことも意識の外だ。
今、この瞬間からしか今日の記憶はないといっても過言ではない。
教室での出来事なんて語るに値しない。
僕の新しい高校生活は他のどこにもない。
僕にとっては、この旧校舎最奥部の特殊文芸部の部室で繰り広げられることが全て。プログラミングには疎いけれど、ムネ先輩と共に過ごして青春のメモリーを刻むこと。
それが、僕の高校生活における至上命題なのだ。
「あ、あの、わたしの存在、忘れてますよね? ハァハァ」
これからに期待を馳せて旧校舎へ向かう僕の後ろには、肉塊をぶら下げたクラスメートの茅愛がいた。入学式では気づいていなかったけど、同じクラスだったらしい。
だからといって並んで部活へ向かうことはない。
不快な乳袋が視界に入らないよう、前に立ってスタスタと歩き、部室へと。
「こんにちは、ムネ先輩!」
元気よく挨拶して扉を潜れば、
「おお、は、蓮人、よう来たの!」
返ってくるのは、老成したような、それでいて愛らしい声。
大きなディスプレイの後ろから、制服の上に白衣を羽織った小柄で薄いお姿を顕現させる。
神々しくもあり、それでいて僕の名前を呼ぶのに若干照れのあるギャップが、いい。
「では、いよいよ部活開始じゃの」
嬉しそうに、ムネ先輩は作業机の上の入り口から向かって左側の席を示す。
「蓮人はそこのパソコンを使うがよい。諸々の環境は準備しておるからの」
言われるがまま席に着くと、僕の左側にムネ先輩が立つ。
そして、逆側に肉玉女……じゃなくて、茅愛。
「ハァハァ……いま、蔑んでくれました……ハァハァ、お礼に、プログラミングのサポートをしますから……ハァハァ……遠慮なく罵って下さい」
まだ短い付き合いだけど、色々大丈夫なんだろうか、この娘は?
とは言え、僕はプログラミングのプの字も解らない。
その状態から、部活の仲間に教えてもらいながら覚えて行くのは、部活の醍醐味と言えるだろう。
「いいものじゃの、後輩がおるというのは……」
果たして、ムネ先輩は僕と茅愛の姿を眼鏡の奥の三白眼を細めて見つめながら、そう漏らす。
「まぁ、しみじみしておっても何も始まらん。やはり最初は『 Hello World! 』じゃな」
「『 Hello World! 』?」
「うむ。プログラミングを学ぶ者が最初に創る、儀式めいたプログラムじゃ。例えば、そうじゃの……」
突然、ムネ先輩は左手を力強く払う。
と、白衣の裾から黒いB六版ぐらいの大きさの板状の物体が現れる。
それを、素早く左手でキャッチ。
なんだかカッコイイ。
とか思ってたら、ドヤ顔で僕を見る。あからさまに狙っていたようだ。
そんな仕草が、愛おしく僕の心に突き刺さる。
現れた物体に目を向ければ、ムネ先輩によく似合う、薄い物体。
レザーケースに収まったタブレットPCのようだ。
ムネ先輩は慣れた手付きでケースを開き、タブレットの表面に触れて素早く操作。
僕にそのディスプレイを示す。
見れば、綺麗なグラデーションのかかったカラフルな飾り文字で、
Hello World!
と画面いっぱいに表示されていた。
「これが、『 Hello World! 』の一例じゃ」
「え、えっと???」
またドヤ顔になって一例と言われたが、何がなんだか解らない。
僕が戸惑っていると、
「まぁ、そう難しく考える必要はありゃせん。『 Hello World! 』というのは、言葉通り『 Hello World! 』と表示するだけのプログラムのことを言うのじゃよ。まぁ、最初からここまで飾り立てる必要は、ないがの」
と、補足してくれる。
「プログラミングというのはコンピュータと言語を通してコミュニケーションを取ることじゃ。コミュニケーションはシンプルなところから始めるのが吉。文字を表示して欲しい、と伝えて文字を表示してもらう。そんな単純なプログラムを通してプログラミングというものが何なのか知っていこう、というのがこの『 Hello World! 』の主旨じゃ」
「ああ、そういうことですか」
僕は合点がいった。
お願いして、結果が返ってくる。
この場合、文字が表示される。
コンピュータとのコミュニケーション、というのが少し解った気がする。
でも、まだ気になることがある。
「それじゃぁ、どうして『 Hello World! 』なんですか?」
文字ならなんでもいい気がするんだけど?
「それはまぁ、伝統とか慣例とかそういうものじゃ。文芸というものは、言葉での表現により読者の頭の中に世界を構築するものじゃ。『特殊文芸』も同じじゃ。コンピュータに対して物語を紡ぐことで、コンピュータにその世界を表現してもらうとも言える。その世界がブラウザだったりゲームだったりするだけの話。そう考えれば、これから色んな世界を構築してもらうコンピュータに対しての挨拶として『 Hello World! 』というのは中々粋じゃと思わんか?」
得意分野を語る嬉しさか、後輩に披瀝できる喜びか、弾む幼げな声で、でも時代がかった口調でムネ先輩は饒舌に解説し、最後はドヤ顔で僕を見る。
「思います!」
ムネ先輩の言葉に、僕は全力で同意する。
新たな世界が広がったことを実感しているから。
ムネ先輩と過ごす特殊文芸部こそが、僕の新しい世界だ。
プログラミングを教えてもらいながら、この新しい世界へ挨拶しよう。
「それで何をどうすればいいのでしょう?」
そういうわけで、素直に指導を求めれば。
「うむうむ、後輩に教えを請われるというのはいいものじゃのぉ」
嬉しそうに応じ、
「まぁ、細かいことを一々説明するより、やってみせるのがよかろうて。茅愛、一度実演して見せてやってくれんか?」
「ハァハァ……巨乳なんて話に入れてもらえなくて多分蓮人君のモノローグでもわたしの存在なんてなかったことにされてそうで……ハァハァ…………え? は、はぃ!」
なんか、戻ってくるのに時間がかかったというか微妙に人の心を読んだような言葉が気になりもしたけれど、茅愛が返事をして僕の右隣に座る。
正直、ムネ先輩に手取り足取り教えてもらいたいところだったけれど、恐らくムネ先輩にそうしてもらったら、僕はドキドキしっぱなしで学ぶどころじゃないだろう。
脂肪袋に教えてもらうぐらいが、心が乱れなくて丁度いい。
「ハァハァ……それじゃぁ、始めますね」
僕の内心のディスりを目敏く(?)感じ取って少しハァハァしながら、茅愛はキーボードとマウスを手元に引き寄せると、なにやらソフトを起動していた。
「あ、これはテキストエディタです。言葉通り、文字を入力するソフトですね。専用のツールも色々ありますが、基本的に文字さえ書ければプログラムは書けるんですよ。そこも通常の文芸と同じですね」
そんな注釈を加えて、テキストエディタ上にプログラムを打ちこみ始める。
ムネ先輩とは旧知で部活に入ったというだけあって、茅愛もプログラミングは得意なのだろう。物凄い速度でキーボードを叩いて、あっという間に呪文めいた内容が画面に描かれていた。
#include <stdio.h>
int main(int argc , char* argv[] ){
printf("Hello World!\n");
}
「 printf("Hello World!\n") というのが、『 Hello World! 』を表示して下さい、ってこと?」
呪文めいた中で、そこは何となく普通の英語っぽかったので察することができた。
「その通りじゃ。中々、筋がよいの」
正解だったようで、いつの間にか後ろに立っていたムネ先輩が褒めてくれる。
些細なことでも、褒められると嬉しいものだ。
「見たまんまじゃろ? 人からコンピュータに対してのお願いなのじゃから、人が解らねば話にならぬ。まぁ、例外もあるが、プログラミング言語というものは、どこかしら人の言葉を用いておる」
プログラムなんて全然意味不明なものだと思っていたので、ムネ先輩の言葉がすっと腑に落ちる。
「これが、特殊文芸じゃ。この文芸作品を、コンピュータが理解できる形に
「はい!」
返事をして、なにやら黒い画面(コマンドプロンプト?)を表示する。
そこに、呪文めいたものを打ちこみ始めた。
「今は、この辺りはよい。結果だけ、見ればの」
戸惑う僕に、ムネ先輩はそんなフォローをくれる。
「それじゃぁ、実行しますね」
茅愛がエンターキーを押すと、味気ない黒い画面の中に、
Hello World!
と、これまた味気なく表示された。
「おお……」
本当に味気ない結果なんだけれど、特殊文芸の在り方を説かれた後に一連の作業を横で見ていると、今、確かにコンピュータとコミュニケーションが取れたのだと感じて、ちょっとした感動があった。この、飾り気のない味気なさが、むしろそれを引き立てていた。
なるほど。
確かに、プログラミング言語で書かれた文による芸。
読者をコンピュータに限定し特化した『特殊文芸』なのだと、僕はこのとき実感した。
「さて、見よう見まねでよいからの。今の手順をなぞってみるがよい」
感慨に耽っていると、ムネ先輩から唐突に声がかかる。
急だったので、びっくりしたが。
「了解です」
理解できていない部分も多いけれど、そんなに複雑なことはしていなかったはずだ。
言われた通り、見よう見まねならなんとかなるだろう。
僕は茅愛が使っていたキーボードとマウスを手元に戻すと、テキストエディタを開き、手順を追いかける。
身構えていたけれど、茅愛に時々やり方を確認しながら意味が解らないなりに見たまんまを再現してみたところ。
Hello World!
果たして、画面に表示される短い文言。
「やった!」
思わず喝采を上げる。
本当、小さいことではあるけど。
茅愛の真似をしただけで、具体的に何をやっていたのかは理解し切れていないけれど。
確かに僕は、新しい世界に踏みこんだのだ。
これで一歩、ムネ先輩に近づけた実感があった。
喜びに浸っていると、ふいに僕の頭に小さく暖かい感触が触れる。
「よくやったの」
ムネ先輩が僕の頭を撫でてくれていた。
「あ、ありがとう、ございます」
頬が熱いのを感じるが、ムネ先輩も仄かに色づいた頬をしている。
うん、でも、こういうくすぐったいのもいいな。
しばらくして、ムネ先輩の手が離れたところで、
「ところで、さっきのムネ先輩の『 Hello World! 』はどういう風になってたんですか」
興味が湧いて訪ねてみる。
「うむ、あれも本質は変わらんよ。ちょっと派手にグラデーションやらの装飾をした『 Hello World! 』を表示して欲しいとお願いしたまで。他に違うことと言えば……」
そこで少しためを造って、
「パソコンではなくこの『電子魔道書』で動かした、ということかの」
思いっきり『電子魔道書』という言葉を強調して思わせ振りに、ドヤ顔で言う。
「……えっと、それ、タブレットPC、ですよね?」
ピンと来なかったので、思わず確認してしまうが、
「まぁ、そうとも言うかの」
軽く流されてしまう。
「コンピュータに言うことを聞いてもらうというのは、何か魔法のように感じたりはせんかったかの?」
「あ、それは、ちょっと感じました」
だが、続けられた言葉で、なんとなく言わんとすることが見えてきた。
理解すれば何と言うことはないのだろうけど、見よう見まねで表示させた Hello World! 。
ここまでの部活を通して実感した特殊文芸の効果は、確かに魔法染みているとも言える。
「通常の文芸も、人の心の中に物語を通じて世界を生み出すと言う点では魔法染みておろう? 特殊文芸は、それをコンピュータ上で行っておるだけじゃ。産みだされた世界が、先の『 Hello World! 』のような単純なものから、ゲームのような複雑なものまで、様々なソフトウェアに当たる。なら、ソフトウェアという形で人のお願いを聞いて様々な事象を叶えてくれるコンピュータを魔法の道具と考えても差し障りなかろう?」
僕がぼんやり感じたことを、ムネ先輩が整理してくれた。
なるほど、と思い、
「そうですね」
実感のこもった頷きを一つ返す。
「おお、解ってくれたか! ならば特別に、我が『電子魔導書』の真の力、見せてしんぜよう」
伝わったことが嬉しかったのか、テンションが上がるムネ先輩。
再び白衣の袖からタブレットPC、もとい『電子魔道書』を取り出してドヤ顔一つを挟んでから、鮮やかな手付きでタッチパネルを操作する。
それは、何やら魔法の印を結ぶような動作。
「栄光の手!」
叫ぶなり、僕に向かって画面を見せ付ける。
そこでは、何やら可愛らしい輪郭のモンスターが不規則に点滅していて……って!
「それ、不味いですから! 色々と!」
実はよく解ってないんだけど、とにかく僕の脳が反射的にそれは不味いと告げるので全力でツッコむ。
「『電子魔道書』の解り易い例として、『栄光の手』と呼ばれる人をマヒさせる効果があるといわれる魔術道具をプログラムで再現してみただけじゃぞ?」
「いえ、その、言わんとしてることは解るんですが、これは本当に不味いですって!」
僕は画面を見ないようにして、制止の声を上げる。
これは、部屋を明るくして離れてみないといけない、そんな気がした。
「ふむ、まぁ、効果を理解してもらったのならもういいじゃろうの」
言いながら『電子魔道書』を操作して閉じる。
「とは言え、これで実感してもらえたかの? 強引ではあるが、やろうと思えばプログラムを通して魔術を行使することもできるのじゃ。そして、タブレットPCは電子書籍リーダーとしての側面もあるからの。通常のパソコンやノートPCよりも手軽で、スマートフォンよりは画面が大きく読みやすい。そう考えれば最も本に近い端末と言えよう。じゃから、『電子魔道書』と称するのじゃ」
「はい、すごくよく解りました」
解ったのは『電子魔道書』という呼称にムネ先輩が並々ならぬこだわりを持っていることが、だけれど。そこは言わない方がよさそうなのでモノローグだけに留めておく。
「しかし、ここまであっさり眠ってしまうとはの。我が電子魔道書の力、よく解るじゃろ?」
ふいの言葉に何事かと思って右隣の席を見ると、
「え! ち、茅愛!」
目を回し机に突っ伏している茅愛。
痙攣などはないようだけど、これ、大丈夫かな?
「保健室にでも運んでやるがよいぞ」
「そうですね」
僕は、突っ伏した茅愛を起こして背中に負おうとする。
が、
「いや、これは駄目だ」
背負うと、肉塊が背に触れてしまう。
それは、余り愉快ではない。
「ならば……」
僕は茅愛と背中合わせになるようにして、ストレッチをするように両手を絡める。
そして、背中に乗せるようにすると……
「くはぁ、効きますぅ……」
なんだか、気持ちよさそうな声が。
「あ、あれ? わたし、どうしたんですか?」
驚いたように立ち上がって、キョロキョロと周囲を見回す。
「ああ、済まぬな。あたしの電子魔道書にやられたようじゃ」
「そっか、また『栄光の手』使ったんですね……あれ、『魔道書』という表現を示すのには確かに解りやすいですけど、もうちょっと安全なネタも考えた方がいいんじゃないですか?」
「いや、それが中々に手ごろなのはなくてのぅ……あ、錬金術なら使えるかもしれんの」
「錬金術、ですか?」
僕も会話に入ろうと、ここぞとムネ先輩に問う。
「うむ。株価の動きを予想して自動的に売買する人工知能じゃ。まぁ、時に大損する可能性もあるが、そこも魔術的かもしれんの」
「なるほど……確かに、『電子魔道書』ですね、それ」
迂闊に使うと身を滅ぼす、的な意味で。
とまぁ、こんな感じで。
『 Hello World! 』から始まってムネ先輩の『電子魔道書』の呼称へのこだわりを理解したところで、初日の部活は終了したのだった。
若干グダグダだった気もするけれど、これもまた部活の思い出と言えるだろう。
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