六話 神楽坂千紘の遺言



 蝶が羽ばたく夢を見た。自分が蝶になり、同じ蝶の仲間を追いかけていく、そんな夢。学校の階段から足を滑らせて真っ逆さまに落ちていくその時、俺の頭の中に浮かんだのは、そんないつか見た夢の情景だった。



 自分の体質に気付いたのは、いつのことだっただろう。他人には説明し辛いし理解してもらえる気もしない。でも、もし誰かに伝えるなら、俺はどんな言葉を使用すればいいのだろうか。自分が居合わせた場所で事故や事件がかなりの確率で起きてしまう、そんな体質の説明なんて。

 は未遂であったり既遂であったり様々だ。事件が起きた時には、現場保存と証言の提供のためにその場に留まるように言われる。だから今までに何度も警察と顔を合わせてきた。もしかしたら向こうも俺を覚えてしまったのかもしれない。


 探偵小説でいうなら、俺がいるのは探偵か助手のような立ち回りなのだろう。探偵がいるなら、解決されるべき事件も起こる。だから探偵の近くで事件や事故は起こり続けるのだ。でも、それ以外の人間から見れば探偵なんて迷惑以外の何ものでもない。周りの関係のない人間からしたら探偵は、不幸を引き寄せ、事件に巻き込み、周りに危害を及ばせる存在だ。でも、まだ探偵だと定義付けられるだけマシだ。俺が探偵であれば、まだよかったのだと思う。しかし俺は探偵なんて大層なものじゃない。ただの一般人だ。


 だから、今この瞬間も、俺は黙って見ていることしかできないのだ。


 入ってきた時よりも騒がしくなっている店内と、何が起こったんだとうじゃうじゃ湧く野次馬たち。どうやら店の中の誰かが毒を盛られ、嘔吐や眩暈を訴えて救急車に運ばれたらしい。廊下に設置していた監視カメラと、廊下を一望できる位置にいた受付の店員の情報から、その犯人は同じ部屋の誰かだと結論づけられたようだ。店員と話しているあのメンバーたちとは、ドリンクバーで飲み物を取りに部屋を出ていった時に顔を見た覚えがある。すれ違った時に微かに煙草の臭いがしていたし、それほど年を取っているようには見えないから、おそらくほとんど二十代前半なのだろう。


 運ばれた人は男だったらしく、一度か二度ほどトイレやら飲み物のおかわりやらで席を立っていたらしい。他のメンバーも入れ替わり立ち代わりで何度も席を立っていたため、部屋にいたメンバーなら誰にでも毒を盛れるチャンスがあったという話だそうだ。その程度の情報なら、聞き耳を立てていれば大抵どこかの野次馬が教えてくれる。頭の中で情報をまとめつつ、どうして俺はいつもこういう場所に居合わせるんだろうなと物悲しくなった。


「――そういえば誰か一回間違えて部屋に入ってきたよな……あ、あの高校生じゃないか?」


 唐突に取り調べを受けていた一人が、俺の姿を見つけて指さした。周りの目が一瞬で俺に集める。今まで何度か経験したけれど、この感覚はいまだに慣れない。

 あらかじめ政輝と別れておいて正解だった。

 俺はさも今居合わせたかのような高校生を演じ、へらへらと笑みを浮かべて尋ねた。


「――――もしかして、何かあったんですか?」



 これは少し、帰るのが遅くなりそうだなと心の中で思いながら。



 パトカーに連行されていく一人を見送って、俺は政輝から数時間遅れで帰路につく。


 ――後味の悪い話だった。聞きたくなかった、と後悔するくらいに。被害者の男が回復したのが、唯一の救いと言えるくらいだろう。


 別に俺が悪いわけじゃない。俺はあの事件に一切関係ないし、俺がいなくてもいずれ事件は起きていただろう。それでも、どうして俺が居合わせた時に限って、事件や事故が起きてしまうのだろうか。


 ――自分の体質に気付いたのは、いつのことだっただろう。自分が居合わせた場所で事故や事件がかなりの確率で起きてしまう、そんな体質。未遂であれば、まだ間に合うかもしれないと思っていた時もあった。しかし、現実は非情だった。どうやら一度に不幸に見舞われる人数は決まっているらしく、どう対処しても、これから不幸になるその誰かを救おうとすれば、代わりに別の誰かが不幸な目に遭ってしまい、どこかで必ず帳尻合わせが起こってしまうことにいつの日か気付いてしまった。俺の行動によって、その誰かが俺と近しい人物に代わってしまうかもしれない。そんな、繰り返される不幸の連鎖と何度かの事故で、俺はいつの日か運命に抗うのを止め、起こるまで傍観に徹するようになってしまった。そしてなるべく無関心を装うことにした。崩れそうな自分の精神を守るために。

 それでも精神がもたなかった時は、代わりに手首の傷を増やしてバランスをとることにした。こんなので痛みが釣り合うとは思っていないけれど、何もしないよりはマシだと自分に言い聞かせていた。中学時代は、それでどうにかやっていけた。よく俺と一緒にいた大翔は、あまり周りに関心を向けないのか、はたまた俺が隠すのが上手いのかは分からないが、二人でいて俺の不幸体質についての話題に上がることは一度もなかった。流石に合宿の時は、学校で犯人捜しが行われたから少しは話しただろうけど、あの大学生グループとも会ったというのに、大翔は全く俺に疑いをかけることはなかった。


 大翔は多分、今でも気付いていないのだろう。


 言おうと思ったことは何度かあった。ただ、言ったところでどうにかなると思っていなかったし、大翔は優しいから、心を病ませるだけになるだけだと、ずっと思いとどまっていた。


 その選択は、今でも間違えていないと思っている。



 高校に入学してからは、俺と大翔のコンビに政輝が加わり、俺たちは三人組になった。政輝には俺が最初に声をかけた。なんとなく、大翔と気が合いそうだと思ったから。最初の内、大翔は政輝に警戒心を示していたけれど、今では俺と同じくらい気を許しているみたいでよかったと思う。


 しかし、それと同じように、日々降りかかる俺たちの周りでの不幸は、確実に増えていることにも、俺は気付いていた。


 例えば、教室のベランダに飾ってあったプランターが時間差で落ちて、下にいた人に当たりそうになったことがあった。調理実習で火傷をしたクラスメイトもいた。それに、政輝と行ったカラオケ店だって。


 ――全部、俺の起こした行動で全て始まっていた。


 でも、行動した理由の一つ一つは、どれも些細なものだった。ずれていたプランターの位置を直そうと思ったから。一番近くにそのコンロがあったから。ドリンクバーから戻る道を逆方向に進んでしまったから。どれも単純明快で些細なものなのに、結果はいつも取り返しがつかないほど事態は大きくなってしまう。


 あの時だって、そうだった。中学の時にみんなで行った合宿の時だって。なんで彼らに話しかけたんだって言われても、相手を納得させるような回答なんて持ち合わせていなくて。ただ、「話しかけないといけない気がしたから」と思っただけで、それ以上でも、それ以下でもなかった。それだけのことで、運命はいともたやすく変化していくことを思い知らされるたびに、手首の傷は増えていった。運動部でもないのに身に着けていたリストバンドで隠して、ずっと平気なふりをしていた。部活なんか入れるわけがない。俺のせいで仲間がケガをして大会に出場できなくなる姿なんて見たくなかったから、本当は運動部に入りたかったけど帰宅部にしたのだ。

 でも、全員の放課後の予定が空いている時、大翔と政輝の三人でどこかに行けたのは楽しかった。二人組のペアを作るにも、四人組のグループを作るにも、何かと敬遠されがちな三人組だったけれど、俺たちは結構、うまくやれていたと思う。


 地面が近くなってきた。もう少し思い出すペースを速めよう。日付を今日まで一気に進めていく。



 ――どうやら、今日が俺の運命の日だったらしい。



 その日は夏休みだというのに模試があって、クラスメイトがブツブツ文句を言いながらも、用事がある人間以外はちゃんと登校していて、なんだかんだみんな真面目だなあと思ったのを覚えている。

 模試をいくつか消化して少し長めの休憩に入った時、政輝は自販機でジュースを買うと言って出ていき、大翔はトイレに出ていったことで、俺は一人で取り残されてしまった。しばらくは次の教科に対しての勉強をしていたものの、どうせ模試の範囲なんて予想できないと早々に諦め、俺も教室から出て散歩ついでに新鮮な空気を吸いに行こうと教室を後にした。

 しばらくまっすぐ廊下を進んで道を曲がろうとした時、奥で政輝と大翔の声が聞こえた。声をかけようとしたけれど、なぜかその時の俺は言葉にすることができなかった。まるで何かの手によって、俺の口が塞がれた、みたいに。


「――うわっ」

 慌てたような政輝の声と、そのすぐ後に聞こえた、何か軽いものが落ちた音とビシャリと跳ねた水滴の音。どうやら政輝が、持っていた紙パックのジュースを落としてしまったようだった。


「政輝はドジだなあ」

 苦笑する大翔の声が聞こえた。

「……うるさいな」

 気恥ずかしそうな政輝の声も後に続く。


 あの時、廊下の死角から俺が出られなかったのは、何か予感めいたものがあったのかもしれない。


 休み時間が終わり、次の教科の模試が始まった。最後まで問題を解き終わり、残り十数分の時間をどう過ごそうかと考えあぐねていた時、どうしてだか先ほどの大翔と政輝のことを思い出した。階段でジュースを「うっかり」こぼしてしまい、階段を拭いて笑いあう二人の姿。果たしてそれは、本当に「うっかり」なのだろうか?

 別に行動自体を意図的だったと疑っているわけじゃない。しかし、その「うっかり」が、後々何かが引き起こるきっかけに思えてならないのだ。なぜなら、普段の俺がそういう行動を取り続けているのだから。


 それ自体は些細なこと。しかし、それが原因で後々取り返しのつかないことへと繋がっていくことに、その時やってしまった本人は気付いていない。


 ――今まで隠していたあの二人にまで、何か危害が及ぶという予兆なのではないか?


 それが頭をよぎった瞬間、ぐらり、と目の前の景色が揺れた。ぶれた視界の中で、机に突き刺したシャープペンシルの音で、なんとか我に返ることに成功する。リストバンド、正確にはその下に隠れている数多の傷を見つめながら考える。こんな精神不安定みたいな姿、アイツらには絶対見せられない。

 もう一度教室から出て新鮮な空気を吸いに行こう。もしくは、さっきの政輝と同じように飲み物でも買いに行って、喉を潤してもいいかもしれない。あいにく、登校した時に持ってきた水筒の茶は、すでに飲み干してしまっていた。さっきの休み時間に買えばよかったなと少しだけ後悔する。

 そうと決まったら、終わるまでは見直しでもして時間を潰しておこう。

 チャイムが鳴って答案が回収されたと同時に、俺は席から立ち上がり、教室を後にした。この暑さだ。自販機の飲み物が全て売切れていても不思議じゃない。売り切れていたら水道の水で我慢しよう。一階の玄関横に置かれた自販機を目指して、俺は足を進めていった。

 模試前に二人の声を聞いた階段に着き、階段を降りようと足を前に踏み出す。

 その時、確かに踏んだはずの床がフッと消失して、重心が前に傾くのが分かった。ぐわん、と視界が一回転したみたいに揺らぐ。何かで足を滑らせたのだと気付いた時には、身体は既に前のめりになっていて、頭から地面に激突しようとしていた。


 そこでようやく、ああ、あのジュースの伏線はここで生きるんだ、そして俺はここで死ぬんだなって、他人事のように思った。周りの景色が、一気にスローモーションへと変わっていく。俺に残された時間は、おそらくもうわずかしかない。


 だからこれは、最後に見える走馬灯なのだろう。


 ふいにどこかに行きたくなる。何か行動したくなる。きっと一種の病気だと判断されてもおかしくない、いつ始まったか分からない俺の無意識の行動たち。その時のことは正直あまり覚えていないけれど、俺が向かった先で起こしたことについては、後に何かで知ることになるから、俺はいつも、ああ、またやってしまったんだなと後悔してしまうのだ。


 大翔には結局、何も言えなかった。言ったところで気を遣わせてしまうだけだと思っていたから。俺の体質のことも、手首に残したいくつもの傷跡も、時々姿を消して何をしていたのかも。全部、大翔は何も知らないままだ。


 そして俺は、大翔以上に何も知らない政輝に、身勝手な言葉を遺していく。

「なあ、政輝」

 弱く脆い俺をどうか許してほしい。

「――大翔のこと、頼んだ」

 俺の代わりに、どうか大翔を支えてくれ。



 最後に二人に伝えたいことって何だろう。

 体質上遠慮してできなかったある望みが、ふと頭を横切った。



 ――楽しかった? カラオケ。

 ――まあ、ぼちぼち。

 ――いいなあ。俺も行きたかったなあ。

 ――西条、ずっと羨ましがってるよな。仕方ないだろ、部活なんだから。

 ――それはそうなんだけど。

 ――別にまた行けばいいだろ。

 ――今度は政輝が行けなかったりしてね。

 ――やめろ、現実になるかもしれないだろ。

 ――ていうか、カラオケとは言わずいつか旅とかもしてみたいよな、三人で。今は無理だから、いつかの話になるけどさ。

 ――いいね、それ。

 ――そうだな、面白そうだ。

 ――じゃあこれも約束だ。



 ――――だから、これからも三人で。



「いつか三人で旅行に行きたかった」

 望みはもう、叶えられることはないのだけれど。



 長い長い走馬灯が終わり、俺は目を閉じる。

 この言葉が、どうか二人に届きますように。

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