三話 蚊帳の外

 久我政輝の第一印象は、だいぶ前のことだから正直どんなものだったか忘れてしまった。でも、現在で感じている印象とは随分違っただろうとは思う。


 ほとんど絡んだことのない、いちクラスメイトの視点から言わせてもらうなら、今の久我の印象は「死神の友人」だった。

 咄嗟に手を伸ばして掴んだ久我の腕をそのままにして、彼の友人に関する噂を思い出す。


「西条大翔は、死神だ」


 久我の友人で、自分たちのクラスメイトでもある西条大翔の噂がクラスで広まったのは、同じく久我の友人でクラスメイトの神楽坂千紘が、学校の階段で足を滑らせて死んでから数週間後のことだった。不幸な事故として学校内では伝わっていた、しかし自分たちにとってはクラスメイトという身近な存在が死んだというショッキングな出来事でさえも、しばらくすればなかったことのようにして、いつも通り元の生活へと集約されてしまうらしい。

 神楽坂といえば西条と久我で、西条といえば神楽坂と久我といったような、仲のいい三人組だった記憶がある。



 神楽坂が居なくなって、もう随分経つ。

 それでも久我と西条は、今も尚神楽坂の影を追っているように思えた。



 職員室に進路希望調査表を提出して、教室へ戻る放課後の帰り道。廊下を歩きながら考えていたのは、先ほど職員室で見たクラスメイトのことだった。担任に何か言われて困ったような表情を浮かべていたから、大方修正しろとでも言われたのだろう。ちょうど提出しに来た自分と入れ違うように西条は出て行った。一瞬だけ合いそうになった目は、しかし西条の方から逸らされ、言葉も交わさないままに西条は通り過ぎていった。


 話すこともないから、別にいいのだけれど。

 ただ、ああやって露骨に逸らされたら逸らされたで思うところはあるのだった。


 久我と西条は教室で浮いている。神楽坂の件があってから、ずっとだ。

 久我の方は元々冷めたような性格だから、この対応に関してどう思っているのかよく分からないが、西条の方は相当堪えているのではないだろうか。だからと言って手を差し伸べるほど二人とは親しくはないし、噂の件だってある。西条が死神だという噂。噂があるからには、その噂を裏付ける何かしらの証拠があるということだ。もしも真実だった場合、関わったことで自分たちにも被害が及ぶのかもしれないのだ。そんな危険を冒してまで、彼らと関わる道理なんてなかった。

 そこまで考えてふと顔を上げると、先ほどまで考えていた噂の渦中の友人がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。


 ――久我だ。すれ違った後も何となく目で追っていったが、久我は意に介さない様子で、ゆっくりとした足取りで扉の一つに手をかけ、そのまま中に入ってしまった。

 あそこは確か空き教室だったはずだ。まさかサボりだろうか。放課後にサボりとはどういうことだとは思うけれども。

 しかし、予想に反して久我は数十秒と経たずに扉を開けて出てきた。一体何をしていたのだろう。

 そのまま階段の方に向かう久我の背中が視界に映る。いい加減見るのをやめようと踵を返そうとした瞬間、階段を降りようとしていた久我の右足が、階段からずれて、何もない空間を踏もうとしたのが見えた。


「―――――おい、久我っ」


 たまたま見ていたからとしか言いようがない。すぐさま駆け出して、咄嗟に伸ばした手で久我の腕を掴んでグイと力の限り引き寄せると、予想していたよりも簡単に久我をこちらに引き寄せることができた。久我自身は、自分が階段で足を踏み外しかけたことよりも、突然腕を掴まれたことの方が驚いたみたいな表情をして、こちらの方を見ていた。


「大丈夫か、久我」

 恐る恐る尋ねると、久我は一度階段の方を見てからこちらへと向き、申し訳なさそうに口を開いた。

「……ああ、ごめん。ぼーっとしてた」

「気をつけろよな」

 掴んでいた腕を離すと、久我は一瞬よろめきながらも、すぐに体勢を立て直した。久我が一息ついたところで、先ほど感じたことが口をついた。

「そういやお前、さっき空き教室で何してたんだ?」

「……空き教室?」

 オウム返しに久我がこちらに聞き返す。

「ほら、二階の理科室横のとこ。さっき行ってただろ?」

「……ああ、あそこか。確かにさっき行ったな。別に何もなかったと思うけど、もしかして何か用でもあったのか?」

「……いや、だから」

 僅かに会話が噛み合わない久我の答えに首をひねりつつも、特に指摘することはしなかった。

 ……しかし。何もないのに、空き教室なんかに立ち寄ることなんてあるのだろうか。だが、本人が「何もない」と言っているのだから、それ以上はどう尋ねても無駄なのだろう。


 ――西条大翔は、死神だ。


 クラスでまことしやかに語られているその噂が、ふと頭をよぎる。

 偶然にしては起こりすぎな気のする事故の数々。

 実際にこの目で見たことだってある。

 別に自分たちも、好き好んでクラスメイトを死神呼ばわりしているわけじゃない。ただ、あまりにも事故が彼らの周りで起こりすぎているのだ。中学時代にあったらしい集団食中毒のことであったり、教室のベランダに飾られていたプランターであったり、調理実習での火傷のことであったり。それに、神楽坂の事故のことだって。

 でも、今感じたこの違和感は。目の前の久我が、いつの日かの神楽坂とダブって見える。

 これじゃあ、これじゃあまるで、久我の方が――。


「……もういいか?」


 遠慮がちに発された久我の声で、我に返る。長い間引き留めてしまったことで、久我は若干不審そうにこちらを見ていた。


「ちゃんと足元に気を付けろよ」と、再度忠告して足早に教室に戻ろうとした時、わずかに後ろから「うん」とか細い久我の声が聞こえた気がした。



 ◆


 僕の方を振り返ることなく先を歩いていったクラスメイトの後を追うように教室に戻ってくると、あと数十分で最終下校時間というところまで時間が経過していて、教室にいるクラスメイトもまばらに残っているだけになっていた。見た感じ、どうやら西条はいないらしい。職員室に進路希望調査表を持って行ったんだっけか。そういえば、職員室に西条がいるかを確認しに行こうとさっき教室を出ていったはずなのに、確認することなく教室に戻ってきてしまったなと思う。まあいいか。鞄は置かれているから、しばらくすれば戻ってくるだろう。

 西条が来るのを待っていようと思い、僕は自分の席に座る。クラスメイトは僕が気になるのか、こちらの様子をチラチラ伺いながら、それぞれ帰宅する準備をしていた。周りが静かなせいで、ひそひそと交わしているつもりであろう色々な噂も耳に入ってきてしまう。うっとうしくなり、僕は目を閉じた。その暗闇の中で思い出したのは、先ほどのクラスメイトの言葉だった。


「空き教室で何してたんだ?」


 至極当然の質問だった。しかし、その質問に対して僕は上手い答えを見つけることができなかった。

 僕は一体、何をしようとして空き教室に向かったんだっけ。ぼやけた記憶を必死に辿っても、納得できる理由が出てくることはなかった。


 ――最近、こういうことが多くなってきた。


 まるで生きていた時の神楽坂みたいだ。神楽坂も、どこかへふらっと出かけてよく居なくなる奴だった。そのたびに僕と西条が探しに行き、二人して困った奴だと笑っていたのだけれど、今の僕では神楽坂のことを笑える立場にはないのだろうと思った。

 神楽坂は、向こうでも元気にしているのだろうか。学校で気を失った日、夢に出てきたのを最後に、僕は神楽坂の姿を見ていない。今思えば、あれは本当に神楽坂だったのか、それとも気絶した僕が見た都合のいい幻想だったのかは分からない。

 でも、夢の中で神楽坂に言われたあの言葉が今でも僕の心に残っている。


 ――いつか三人で旅行に行きたかった。


 その言葉があったから、僕は噂を知りながらも西条と共に旅行することを決めたのだ。本当にあの時の言葉が神楽坂の真意だったのかは分からないけれど、それが後の僕らの行動に影響を及ぼしているのは確かだろう。

 それに、神楽坂には西条のことを頼まれている。

 僕自身、お世辞にもしっかりしている性格とは言えない。でも、僕以上に西条はしっかりしていないように見えるから、神楽坂が居なくなって二人になってしまった今、僕がちゃんとしなければいけないのだ。


 ただ、と僕は抜け落ちた記憶に再び意識を戻した。

 僕が空き教室に行った理由。教室に入って、僕は一体何をおこなったのか。

 そして、指にかすかに残る古びた埃の匂い。

 それがどういう過程でついたのかも、今の僕には思い出すことができなかった。

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