二話(前編) 西条大翔


「……ポットが壊れてる」


 俺に背を向け、お湯を沸かそうとしていた政輝のぼやきを聞いて、俺も体を起こして確認する。

 確かに、ボタンを押しても動いているようには見えない。家電に詳しくはないので、電気ポット自体が壊れているのか、それともボタンだけが壊れているのかは判断がつかないが、何かしら不備があるのは確かなようだった。


「こういうのってフロントに言った方がいいんだよな」

「そうじゃないかな」


 政輝の言葉に俺はうなずいた。そこからどうして、俺たちはフロントから厨房に向かうことになったのだろう。


 厨房を覗くと、そこには誰の姿もいなかった。ここが宿であることが嘘のように、辺りは静まり返っている。別に真夜中というわけでもないのに、なんだか不気味に思えた。

 ここにやって来るまで、俺たちは誰ともすれ違わなかった。最初に来た時にフロントで会ったはずの従業員の姿も見当たらなかった。ちょうど休憩でもしていたのだろうか。


「お湯貰うだけだし、勝手にやっていいよな」

 そうききつつも、俺の返答を待つことなく、政輝は厨房にずかずかと入り込んでいく。慌てて俺も、後ろを付いて中に入っていった。


 見たところ、どこにも電気ポットは見当たらなかった。どこかの棚にしまわれているのか、そもそもどこにも無いのかは、この宿に来たばかりの俺たちには分からなかった。政輝はいつの間にか、どこかの棚から小さめの鍋を取り出して蛇口の水を注いでいた。おそらく電気ポットが見当たらないから、鍋に水を入れて沸騰させるつもりなのだろう。


 厨房には、ガスコンロが三つあった。政輝は迷うことなく真ん中のコンロの前に立ち、コンロのツマミを捻った。


 ――しかし、火は、点かなかった。


 訝しげな顔をして政輝はもう一度ツマミを捻るが、火が付く気配はない。カチカチと空回りした音が、静かな部屋にしばらく響いていた。

「……ガスが止まってるのかな」

 お湯を諦めた政輝は、厨房の扉へと踵を返して厨房を出ていく。ふと、さっきまで政輝が立っていたガスコンロを見てみると、ツマミの一つが、捻りが甘かったのか「開」の位置で止まっていた。

 俺は何でもない風を装いながら、そのツマミを「止」の位置まで捻り直して、政輝の後を追った。


 次の日、チェックアウトして近くを散策している最中に、ネットニュースで「ガス漏れ 宿」で検索をかけた。ヒットしてもここから遠い場所のことで、俺たちが泊まっていた宿の名前は出てこなかった。

 その結果を見て、俺は胸をなでおろす。少し前を歩いていた政輝が、急に立ち止まった俺を見て、訝しげな顔を向けていた。


 ――もしも、俺がコンロのツマミを「止」の位置にしていなければ。


 恐ろしい想像が頭の中を駆け巡る。

 ここに来てから、俺は色々なことを考えてしまう。

 例えば、俺にまつわるあの噂。


 死神は本当に存在するのか。

 それから、バタフライ効果の信憑性について。



 久しぶりだった。政輝から「予定はあるか」なんてきかれたのは。

 クラスに流れる噂のせいで、俺に近づく人もめっきり減っていた。遠巻きに眺めて、ひそひそと俺を気味悪がるクラスメイト。馬鹿らしいとは思う。でも、周りの気持ちも分からなくはなかった。俺も、彼らの側に立っていたなら、同じ行動をとっていたのかもしれない。そんな中でも、政輝は噂を気にしてはいながらも話しかけてくれた。それだけで十分に思えた。


 旅行の件は、二つ返事で了承した。


 二人で地下鉄に揺られながら、停留所のある駅へと向かった。少しだけ会話をした。どれも他愛のない話だったけれど、久しぶりに話ができて楽しかった。それから俺たちは、駅の近くにあった蕎麦屋で昼食をとり、バスに乗って展望台へと向かった。その展望台から見えた景色は、とても綺麗で、心が洗われるようだった。スマートフォンで写真を撮っていると、視界の端で政輝が柵の一つにもたれかかろうとしているのが見えた。止める間もなく、政輝は体を柵に預ける。

 政輝が体重をかけた柵が一度、ギッと嫌な音を立てた。心臓が跳ねる。もし、このまま政輝が落ちてしまったのなら――。


「あんまりもたれない方がいいんじゃない?」


 堪らず俺が声をかけると、政輝は納得したように柵から離れた。

「……そうだな」

 その時点で、嫌な予感は既にあった。


 展望台から離れバスを待っている間にも、俺は何か薄気味悪さを感じていた。こういう時の嫌な予感は、大抵当たるのだから救えない。


「――なあ、今そこの展望台で人が落ちたらしいぞ!」


 その声が聞こえた瞬間、俺の腕は強い力で掴まれた。さっきまでマネキンのように突っ立って、俺の言葉に上の空で返事していた政輝が、今、痛いほどの力を腕に込めながら、俺を睨みつけている。


「お前のせいだ」


 声は騒ぎの中で聞こえなかった。けれど、政輝の口の動きから、そう言われた気がした。


 どうやら、不運な事故だったらしい。さっきと落ちたと叫んだ野次馬の人たちが言っていた。彼らの話を総合すると、さっきまで俺たちがいた展望台の柵の一部が老朽化で脆くなっていたらしく、そこに体重をかけた運の悪い観光客が柵ごと落ち、救急車で運ばれたとのことだった。

 別に俺たちは、第一発見者でも目撃者でも関係者でもない。さっき立ち寄ったとはいえ、その人を見かけたかは分からないし、何か柵に細工をしたわけでもなかった。それでも、事情聴取に呼ばれなければいけない存在のように思ってしまうのは、自分の噂のせいだろうか。


 そういえば、さっき政輝が体を預けた柵は、どの部分だっただろうか。どこの柵が老朽化で脆くなっていたのかは知らない。でも、もし政輝が体を預けていた柵だったら。そして、崩れる一歩手前の一撃を加えていたのなら――。


 慌てて恐ろしい想像を頭で否定する。

 最近そんなことばかりだ。

 友達だった神楽坂千紘が死んでから、ずっと。


「まだしばらくいる」と言った政輝を浴場に残し、俺は政輝から預かった鍵を使って「菊の間」と書かれた部屋に入った。使ったタオルをタオル掛けに干し、畳に腰を落として息をつく。温泉なんて、久しぶりに入った気がする。そもそも、旅行でもない限り温泉になんて入らない。最後に旅行した記憶というと、中学三年の修学旅行だろうか。それと、旅行とは言えないかもしれないけれど、毎年の六月にあった勉強合宿は一泊二日で行われていた。クラスごとに入浴時間が割り振られていて、みんなで急いで入っていた記憶がある。あれも、旅行といえば旅行なのだろうか。


 そういえば、あの時――。

 じくり、と胸が痛んだ。なるべく思い出さないようにしていた、あの合宿の日。


 ――これ、食べられるんですかね。


 あの日、その言葉を口にしたのは、誰か。

 あの日のことを、俺は今でも鮮明に覚えている。


 しばらく待っていても、政輝は中々戻って来なかった。暇を持て余した俺は、部屋にあるテレビで何か番組を見ようとした。しかし、土曜の午後だからなのか、あまり興味のある番組は見つからなかった。とりあえずニュース番組に切り替えてみたものの、暗い話題ばかりで、すぐにチャンネルを切り替えてしまう。しばらくその動作を続けていると、ようやく政輝が戻ってきた。挨拶のつもりで右手を挙げると、珍しく政輝は右手を挙げ返してくれた。


「何か面白いものやってたか?」と政輝がきいた。

「ううん、特にないや。ニュースか再放送ばっかり」


 そう答えると、政輝はちらりとテレビの画面を見た。テレビはちょうど、再放送らしき刑事ドラマを映していた。興味のなさそうな顔で、政輝は再び俺の方へと向き直る。


「……まあ、土曜の午後ってそんなんだよな」

 向こうも特に見たい番組がなさそうだったので、テレビの電源を切り、リモコンをテーブルに置いておいた。小さく伸びをすると、体のどこかでポキポキと音がなった。どこか凝っているのだろうか。右肩を回していると、政輝は再び口を開いた。


「死神って、いると思うか?」


 ドキリとする。この旅行の目的である温泉につかってさっぱりしたはずなのに、政輝の表情は暗い。


「じゃあ逆に聞くけど、政輝は神はいると思う?」

 質問を質問で返され、政輝は驚いているようだった。そして俺は、前々から考えていた俺自身の持論を政輝に語った。


 神がいると思うなら、死神もいるということ。神がいるのに死神はいないと思うのは矛盾していること。

 俺の持論に、政輝は納得したようにうなずいた。


「……なるほど。じゃあ死神はいるのかもしれない」

「で、その死神が俺だっていうんだね?」

 嘘のつけない人だと思う。政輝は言葉に詰まり、目を泳がせていた。

「……でも、噂だろ」

「じゃあ、さっきの事故はどう説明する? さすがに偶然と片付けられないと思うけど」


 自分で言っておいて白々しかった。これじゃあ、自分のせいだと告白しているようなものだ。こんなこと言ったら余計に疑われそうなのに、俺はどちらにもとれる曖昧な返事をやめられずにここまで来た。その結果、友達からも疑われて孤立して。争いを好まない性格がここで災いするなんてなと、冷静な部分が俺自身をたしなめている。


「……本当に、西条は死神なのか?」

「そう見える?」

 再び政輝が口をつぐんでしまったので、俺がそのまま話し続けることにした。


「でもさ、政輝の可能性もあるでしょ」

 俺の言葉に、政輝がキッと睨んだ。地雷だったのかもしれない。

「……押し付けないでよ。僕が今まで生きてきた中でこんなことなかった。全部、西条と出会ってからだよ」

「正確にいうなら、同じ学校になってからだよね」

「同じようなもんだろ」

「……違うよ」


 俺の言葉を聞いたのかいないのか、途中で政輝は俺から背を向ける。テーブルに置かれた電気ポットに水を入れ、ボタンを押して湯が沸くのを待っていた。なぜかこのタイミングでお茶を飲む準備をしようと思ったらしい。自由人すぎてツッコむ気力もなかった。


 そうだ、俺と出会ってからと、同じ学校になってからというのは、同じようでいてまるで違う。俺は知っている。それは、つまり――。


 しかし俺の思考は、政輝の一言ですぐに打ち止めになった。


「――あ」

 しばらく黙りこんでいた政輝が、ポツリと言葉を漏らしたのだ。


「どうしたの?」

 俺が声をかけると、政輝は体をずらし、俺に向けて電気ポットの中身を見せてくれた。



「……ポットが壊れてる」

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