第2話
「ご飯は?」
鞄を椅子に置きながら私が聞くと「まだ」と視線を星図に落としたままで
空人は私が夕飯を作る音を立てても、手伝おうとも言わず作業を続けている。耳に何も入ってないのだろう。
「出来たよ」
「あっごめん」
やっぱりか。
「机、今片付ける」
「いいよ、食べたらまたやるんでしょ」
ダイニングテーブルに広げられた空人の資料を指して、私は窓際の座卓へ夕飯を運んだ。後ろから来た空人がランチョンマットを手に急いで付いてくる。それよりコップを出して欲しい。
「ごめん何もしないで。明日の観測、新しいことやってみたくて」
私が運んできた饂飩の丼をランチョンマットに乗せ、空人は一応、申し訳なさそうに箸と取り皿を並べていく。
「明日も遅いの?」
しまった、愚問だ。
私の後悔とは裏腹に、空人は目を輝かせた。
「そう! 夜通し詰めてていいって先輩からゴーサイン出てさ。最新のスコープも入ったし」
「あっそう、いただきます」
その弾んだ声がムカついて、私は極力興味なさげにブツッとテレビの電源を入れる。さっさと座ってトースターから出たばかりの厚揚げにかぶりついた。お揚げに挟んだ葱とチーズが醤油と絡んで美味しい。最新のスコープよりこの最新のアレンジ「チーズがとろけたら食べ頃ゴーサイン厚揚げ」の方が文字通りホットで衝撃だ。あっつ、ホットすぎて火傷した。美味しいけど。
「あっ、天気予報見せて」
空人は返事も待たずチャンネルを変える。太陽と三日月のアイコンが並んだ画面が現れた。
「やった、明後日の朝まで快晴。運いいね」
くそう、運悪い。
「星歌は明日、当番?」
「ううん、明後日のレポートの方」
「じゃあ完璧なレポート、送らなきゃな」
「どうも。のびるよ」
つーん、としといてやる。私の気分はこの大根の酢漬けなんだから。七味唐辛子な気分なんだから。あくまで空人には素っ気なく見えるよう大根を咀嚼し、卵を落としたお饂飩にこれでもかと七味をぶち込む。
空人はいつもこうだ。天体のことになると夢中になって耳も目もなくなる。今の奴の頭は獅子座流星群一色。一日早く、頭の中にもう星が流れているのだ。
私が饂飩の丼を持ち上げてすすると空人もそれに倣ったが、すぐ箸を止めて声を上げた。
「あっ、月見と言えばさ」
あっ。
「天気いいと、明日の観測の前半は月明かりが問題なんだよな。邪魔にならないよう調整しないとなんだけど。プラネタリウム用の映像は月も入ってた方が臨場感ある?どう?」
何で私は月見饂飩にしてしまったんだろう。かき玉にすれば良かった。ゆめゆめ星の話に持っていくまいと思ったのに。くそう七味入れすぎた。辛過ぎる。何この「世知辛い月見饂飩」。
「空人の好きにすれば。調べ物したいからさっさと食べちゃうね。洗い物、お願いね」
割ときつく聞こえるよう言ったつもりだったが、天気予報の雨雲レーダーに見入る空人の返事は、平仮名で「おっけー」と軽かった。「ロジャー」とか気取って言われてもムカつくけど。ざわざわしながら沸かしたお湯をマグにぶち込み、二階の寝室に向かう。くそう、今の奴には何を言っても無駄かい。
空人は星に取り憑かれてしまった男なのだ。
空人は「スター・プラネット」の一つ、天文台に所属する研究員である。天体の観測データを収集し、気象台と協力してそれらを整理し、研究を行う。だから天体イベントがある日には研究員は職務として交替で観測所に寝泊まりし、記録・報告に従事する。当然、空人も一ヶ月に数回の当直を任されている。
ただし空人はただの研究員ではない。奴は地球が宇宙人に支配される前に、星に支配されてしまった。
星をこよなく溺愛する空人は、天体イベントの観測に全身全霊を捧げる。自分の当番だろうとなかろうと、興味のある天体イベント(興味がないものがほぼ無いのだが)があると数日前から寝食削って準備し、当日は観測所に張り込む––地上のイベント全てに背中を向けて。
年始に家にいるのはせいぜい元旦。酷いと正月二日には、水星最大離角を観測しに出て行ってしまう。バレンタインデーに二人で出かけようと思っていた数年前は、月の赤道通過だと言って、南半球の観測員のライブ報告を聞きに観測所に泊まりこんだ。七月の私の誕生日も、九月の自分の誕生日も、祝えるかどうかは天空の予定次第(前の九月は「月と金星と火星が並ぶ」と大喜びだ)。夏の花火大会に行ったことはない。空の星が見えなくなるから。
この調子なのだ。他の追随を許さない熱意で研究に精を出し、成果も目覚ましいものだから、観測所も非番の空人の臨席を喜んでしまう。そして本人も喜んでいる。すっかり宇宙に洗脳されてしまった。
流れ星さえなければ、空人と一緒に居られるのに。
湯気の上がるマグを手に階段を上がる。二階は寝室、そして書斎。階段はさらに上にも伸びている。この家を建てる時に特別に作った、我が家の「観測所」。
屋根裏部屋のようなものだ。二、三人が座れるくらいの小さな部屋。天窓をつけていつでも星空が眺められるようにした。見晴らしの良い丘の上に家を建てるのを決めたのは、仕事にも何にも邪魔されず、一緒に星空を眺めようと決めたからだった。
前はよく二人でワインとおつまみを持って上がったものだが、ここ数年、ほとんどこの部屋の天窓が開くことは無い。
上への階段から目を背けて、私は自室へ向かった。空人なんて名前だからいけないんだ。地上人のくせに。
******
翌日の夜、案の定、空人は観測のため家には帰らなかった。朝一天体ショー当番の私が目を覚ますと、スマートフォンの画面に空人からのメッセージが光っている。
『ショーのために月光入りの映像も撮っておいた。うちにもレオニードの写真、印刷して持って帰る』
私は同じ名前のチョコレートの方が欲しい。
画面のメッセージをスワイプで消し、スマートフォンを鞄に放り込む。
地上人の私を見てくれた空人が、星空に奪い取られてしまったのはいつからだったろう。
もう七年前。天の川の下で聞いた言葉を思い出す。
「君と百光年離れた星を一緒に見てるって、百年前から一緒にいる気がしない?」
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