その3
電話の声があの、とこちらの返事を催促していた。慌てて口を開いた。
「ありましたよ。フィルムカメラ、nikonのFM3Aですよね。失礼ながら中身の確認だけさせていただきました」
「よくご存知ですね。けどなんか嬉しいです」
電話越しの相手の調子が落ち着きとそれに伴う接しやすさに変わった。
思ったよりも素直で可愛らしい人のようだ。もう少し電話をしていたくなったが、店が徐々に慌ただしくなるのが目に見えて分かっていた。
「夕方ごろ取りに行きます」
女声は最後にそう発すると電話はそこで切られた。
切られるまでのしばしの無言の間、気が抜けたように息が吐く音がこちらにまで漏れた。
落とし物の電話にさえ、気を張ってしまう緊張しいの女性なのだと再び可愛らしく思った。
どんな顔なのかな、と昨日来ていた客の顔を思い出そうとする。
しかし、誰の顔も定かでないという現実をありありと見せつけられるだけだった。
今日もバイトは倉田だったが、なんとなく聞くことは躊躇われた。
いつから酒を飲みながら仕事を始めだしたか。ここでの夜はいつも現実と幻想の狭間にあるようだ。
「マスター。ささみのレアが二本とつくねが三本追加で」
身体を止める時間が既になくなっていた。
昼のこの時間、当たり前のように店内は客でごった返すが、酒も飲まないのによくこんな人が入ると感心する。巷ではランチ気分で焼き鳥を食べにいくというのが人気らしい。
時代も変わったものだ、と憂鬱に近い複雑な気分にも襲われる。
しかし夜は相変わらず前時代ののんべえが好き勝手騒いでいるし、売れ行きが黒字なら社会の雰囲気などどうでもよいのだ。
店として大事なのはバイトがちゃんと動けるかどうかだ。「倉田。遅い!」と檄を飛ばすと、「電話がきてて」と大声で返された。
先ほどから何度も鳴り続けていた外線の電話に倉田がやっと対応しているところだった。
数本の焼き鳥が皿に装われたまま置かれている。奥のテーブル席に出すものだ。
次の焼き鳥を焼きながらちらと何度か見て素知らぬ振りをしていたが、それでもいやに長い電話だったのでたまらず声を上げた。
「倉田、電話長いぞ」
「落とし物の電話だったんで。すいません」
「もうそれはこっちで取り合ったから。カメラを取りに夕方来るってことでもう話したから」
「ああ、言ってました。夕方、営業の打ち合わせが終わったら来るって」
「一通りやり取りはしてるから。適当に切り上げて仕事戻れ」
横に置いた皿がなくなったのを確認してようやく身体の熱が収まった。
この忙しい時間帯に長電話をする倉田には問題がある。
だが、もう一度同じ電話をかけてくる女性もどうなのだろうか。心配な気持ちは分かるが、先ほどの自分の対応ではそんなに不安だったか、と今度は可愛らしさを得られずにいた。
カメラは誰も盗らないようにカウンターの中の食器棚の上に置いていた。
これで客がむやみに触ることはできない。この努力をぜひ持ち主の女性に見てもらいたかった。
もう少しして客足が途絶えてきたら念のためにケースの中にカメラがちゃんと入っているか確認しようと思った。
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