その2
「落とし物、ありませんでしたか」と昼頃に電話があった。
電話機越しの女声は若干の焦りを伴っていた。よっぽど大切にしていたものを失くしたのだ。
思いやりの余裕さえない声が続いた。
自分が話すことで精一杯のようで、こちらにはまともな返事さえさせてもらえなかった。
しかし、相手の事情は事情である、とこちらも理解していた。
「カメラをどこかに落としたみたいなんです」
昨日、閉店後の片づけ中にそれを見つけた。
ひとつずつ椅子の中の籠を掃除していると、籠を引っ張り出す感触に何か重い感触を覚えた。
恐る恐る取り出してみると、黒いケースに「nikon」の文字。
テープのフタを音を立てないように慎重に開けようと試みた。換気扇の掃除に励んでいるバイトの倉田には何故か見られたくなかった。
それでも中身に何が入っているかは気になった。
テープをどうにか開けると、最初に映ったのは自分の顔だった。丸く引き伸ばされても疲れ切ったと分かる深いしわとがよく反射している。顎に生やした髭だけが変わらず威厳を保っていた。
こちらを覗いていたのはカメラのレンズだった。
少し驚いてのけぞった拍子に床に手を付いてしまった。自分で掃除した直後なのに手を洗わなければ、と思った。
「それ、nikonのFM3Aじゃないですか」
「え?」
倉田はいつの間にか私の背後にいた。倉田の長身が床に座り込んだこちらを見下ろしている。この男は何気ない風を装って何か鋭い目、観察眼を持っていた。
倉田のそんなところが少し苦手で、できるだけ私は自分の近くまで入り込ませないようにしているところがあった。
「フィルムカメラですよ。中古で五、六万円はざらにする結構いいやつです。店長もカメラ好きなんですか」
「どうして」
「いやあなんとなく聞いてみただけですよ。しばらくの間、眺めていたんで」
「珍しいもの見たからな」
そういう声が少し震えそうだった。
こういう無防備な貴重物を前にしたとき、もし自分の物に出来ればと思ってしまうのは世間におけるマジョリティなのだろうか。
中学生のとき、無人のコンビニで監視カメラの位置を把握するのが癖だった。
ポップなロゴが連なるスナック菓子のコーナーで、今このお菓子をそのままカバンに入れても誰も気づかないと安堵しては、少年サンデーをカゴに放り込みレジへ持っていった。
大学生のとき、席を取るために無造作にリュックだけを机の上に置く人たちの背中を見ていた。
素知らぬ顔でそのリュックを持って学校の外まで出て行っても誰が気付くのだろう。
いずれも実行と想像の間には大きな壁があったことは確かだった。
「誰が落としていったんでしょうね」
うちの焼き鳥屋は地下にある個室風な立地とは正反対に、店内では客が自由に入り乱れるような店だ。
初めて会った同士の二人が意気投合して、集合して語り合ったりと席の移動がとても多い。
だから分からないのだ。
あの席に座っていた誰々という記号がうちにはない。
「まあ大事なものなら電話でもなんでもしてきますよね。もし全然受け取りに来ないようなら僕が代わりにもらっちゃいます」
「本気で言ってるのか」
カウンターの奥に行こうとする倉田の動きが止まった。
「やだなあ。マスター」
そう言って、首を振りながら換気扇を拭くための雑巾を再び手にした。
倉田はいい人なんだと思う。
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